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白家の燕 維新示現 前日譚 (その面は笑っていた。 姉が泣けなくなった夜にも。)

作者: blackburn
掲載日:2026/10/27

白家の娘・燕華が、“血の燕”として立つまでの物語。

(漫画用のコマ割りは別に存在しますので、この文は読みやすいように、小説形式に寄せています)

※九節鞭(きゅうせつべん):主に九本の金属製の節を連結した、中国武術の鞭状武器。

挿絵(By みてみん)





挿絵(By みてみん)

1. 白沙村


清朝末期、浙江沿岸

白い砂浜に面した小さいが豊かな漁村、白沙村。

その村では、古くから白家が人々のよりどころだった。


白家の門前には、朝から村人が集まっていた。

漁で網を破った男。

熱を出した子を抱える母親。

阿片に手を出した息子を連れ戻したい老人。

門の内側から、白家の長女・燕華が姿を現した。

病に伏せる父に代わり、今は彼女が村人たちの相談を引き受けている。


燕華「お待たせしました」

燕華「順に、お話を聞きます」

漁師が破れた網を広げる。

漁師「岩に引っかけてしまって……」

燕華は傷みを確かめる。

燕華「まだ使えます。縄を足して、先に繕ってください」

家人たちがすぐに動く。

次に、燕華は熱を出した子供の額へ手を当てる。

燕華「熱がありますね。奥で休ませてください。薬草を用意します」

老人が、小さな阿片の包みを差し出す。

燕華「見つけた阿片は、白家へ持ってきてください」

燕華「隠す方が、村を壊します」

家人たちが縄や薬草、水を用意し、阿片の包みを預かっていく。

弟の小羽は、燕華の袖を握ったまま、その様子を見上げていた。

相談を終えた村人たちが、燕華へ頭を下げる。

老人「旦那様が伏せってからも、白家は白家だな」

母親「ありがとうございました」

燕華は少し困ったように笑う。

その横で、小羽が燕華の袖を引く。

小羽「姉上は、えらいのか?」

燕華「えらくありません。忙しいだけです」


村人たちが帰り、家人たちが後片づけを始める。

小羽だけが燕華のそばに残っていた。

小羽「姉上、もう終わった?」

まとわりつくように、燕華の袖をつかむ。

燕華「もう少し用事です」

燕華「おやつを食べて待っていてね」

小羽は少し名残惜しそうに、屋敷の奥へ向かう。

村人も、小羽も去ったあと。

燕華は門柱の陰へわずかに身を寄せ、肩の力を抜いた。

燕華「ふう……」


残っていた用事を片づけると、燕華は白い拳法着へ着替え、裏庭の稽古場へ向かった。

その後ろを、おやつを食べ終えた小羽がついてくる。

小羽「姉上」

小羽「稽古が終わったら、遊んでくれる?」

燕華「はいはい」

小羽が燕華の袖を軽くつかんだまま見上げる。

小羽「いつ終わるの?」

燕華「終わったらです」

小羽「まだ?」

燕華「まだ始めてもいません」

小羽は少し不満そう。

燕華の口元が、ごくわずかに緩む。


小羽の手には、細い紐をくくりつけた虫。

燕華がそれに気づく。

燕華「小羽、それは放してあげましょう」

小羽「せっかく捕まえたのに」

燕華「かわいそうでしょう」

小羽「……はーい」

小羽がしぶしぶ紐をほどき、虫を放す。

虫がふっと飛んでいく。

燕華がそれを見て、小さくうなずく。


燕華は小さなころから、陳氏太極拳の修行を続けてきた。

太極拳では武具を“器械”と呼ぶ。

その中で、自ら選んだのは九節鞭だった。

古い煉瓦壁には、細い穴や傷が無数に残っていた。

普段の稽古では、練習用の穂先を使う。

壁に残る深い穴は、実戦用の鋭い穂先を使った修練の跡だった。

壁際には、交換用の実戦用穂先が置かれている。


燕華が腰を沈め、足元から力を送り、二条の九節鞭をわずかな時間差で放つ。

シュッ!キンッ!

金属の節がしなり、練習用の穂先が弧を描く。

バキッ!ドンッ!

穂先が古い煉瓦壁を打つ。

表面が欠け、土埃が散る。

その周囲には、実戦用の穂先が残した細く深い穴が無数に刻まれている。

九節鞭が燕華の手元へ戻る。

その一本が軌道を乱し、肩口へ鈍く当たった。

ドッ。

小羽「姉上!」

燕華がすぐに姿勢を立て直し、小羽の方を少しだけ見る。

燕華「大丈夫です」

そのまま再び構える。


ナレーション「九節鞭は、扱う者にも牙を向く」


稽古を終えた燕華が、仮面を外して小羽のもとへ戻る。

小羽「終わった?」

燕華「はい」

小羽「遊べる?」

燕華「さあ行きましょう」

小羽が嬉しそうに燕華の手を取る。

二人は並んで屋敷の方へ歩いていく。



2. 密告


清朝正規軍・浙江方面司令部

高い塀と重い正門。

兵たちが整列し、槍と軍旗が並ぶ。

石畳に、重い軍靴が踏み込む。

ズン……。

周囲の兵が自然に道を空ける。

その間を、ひときわ大きな武人が進んでくる。

名は公孫炎。

鎧の上からでも分かる厚い体躯。

背には、巨大な斬馬大矛。

威圧感のある風貌だが、その目は冷静だった。


軍幹部室。

公孫炎は軍幹部たちの前に立つ。

公孫炎「無沙汰をしております」

地方軍司令・呉世昌「公孫将軍、早速だが任務だ」

公孫炎「はっ」

呉司令「白沙村へ行き、調べてもらいたい」

公孫炎がわずかに目を上げる。

呉司令「白家が阿片を横流ししているとの密告があった」

公孫炎「……白家が、ですか」

別の軍幹部が続ける。

副司令・趙文貴「加えて、村では野盗の被害も続いている」

趙副司令「このまま看過はできん。まずは密告の真偽を確かめろ」

呉司令「白家が売っているなら、阿片を押さえよ」

公孫炎「それは民も困っておりましょう」

少し間を置く。

公孫炎「では、小隊を一つお預かりします」

呉司令「それで十分だ」

公孫炎「承知しました」

公孫炎は一礼し、幹部室を出る。

重い扉が閉じる。

ギィ……バタン。

短い沈黙。


呉司令「行ったぞ」

部屋の奥、衝立の陰から一人の男が姿を現す。

野盗・黒虎団の幹部だった。

黒虎団幹部「公孫将軍を使うとはな」

趙副司令「疑われぬためには、あれほど都合のよい男もおらん」

黒虎団幹部「白家の倉だな」

呉司令「阿片を焼かれる前に回収しろ」

趙副司令「奴には、密告の確認だけさせておけばよい」

黒虎団幹部「白家が逆らえば?」

呉司令「脅せ」

短い間。

趙副司令「それでも駄目なら、村ごと黙らせろ」



3. 白家


数日後。

清朝正規軍の小隊を率いた公孫炎が、白沙村へ入る。

村人たちは仕事の手を止め、制服姿の兵たちを見送った。

軍の姿に緊張はしている。

だが、白家を気にして息を潜めるような空気はない。

その時、海風に混じって、かすかに甘く濁った匂いが流れてくる。

公孫炎「……阿片の匂いだ」

部下も風上へ目を向ける。

匂いは白家からではなく、村の家々のどこか、路地の奥から漂っていた。

公孫炎の視線の先では、破れた網を繕う漁師がいる。

別の場所では、家人たちが薬草と水を病人の家へ運んでいる。

部下「阿片は確かに、この村に……」

部下「ですが、密告とは随分様子が違います」

公孫炎「だからこそ、確かめる」

公孫炎たちは白家の門へ向かう。


白家の門前には、村人が数人集まっていた。

その中心に燕華がいる。

弟の小羽は、燕華の袖を握っていた。

小隊が近づくと、村人たちは静かに道を空ける。

公孫炎は馬を降り、燕華の前へ進んだ。

燕華は武器を持たず、その場に立っている。

公孫炎「白家当主に会いたい」

燕華「父は伏せています」

燕華「お話は私が伺います」

公孫炎「お前が?」

燕華は一歩も退かず、公孫炎を見上げる。

公孫炎「お前が、白家の代わりか」

燕華「代わりではありません」

短い間。

燕華「今は――」

燕華「白家として立っているだけです」

公孫炎はしばらく燕華を見下ろす。

小柄な少女、しかし目は退かない。

公孫炎「白家が阿片を横流ししているとの密告がある」

公孫炎「倉を改めさせてもらう」

村人たちがざわめく。

燕華の表情が一瞬だけ硬くなる。

小羽の手を、そっと押さえる。

燕華「横流しではありません」

燕華「ですが、阿片はあります」

部下たちがわずかに身構える。

公孫炎が手で制する。

公孫炎「……あるのか」

燕華は門を開く。

燕華「見てください」


白家の倉。

扉が開く。

中には、押収された阿片の包みが積まれている。

だが、売るために整えられたものではない。

包みは縄で固く縛られ、箱に封じられている。

隅には、阿片の煙で弱った村人のための薬草や水桶も置かれていた。

燕華「ここにあるものが、すべてです」

公孫炎は黙って倉の中を見る。

部下「将軍……」

公孫炎は手を上げ、言葉を止める。

小羽が、燕華の袖を小さく握る。

燕華「父が倒れてからは――」

燕華「私が」

公孫炎「重い荷だ」

燕華「白家の荷です」

短い沈黙。

公孫炎「これだけの量を、村から集めたのか」

燕華「父が始めました」

燕華「村へ持ち込ませず、見つければ白家で預かると」

公孫炎「白家の当主は、昔――」

公孫炎「民を食わせるために倉を開いた男だった」

燕華が少し驚いて顔を上げる。

燕華「父を……ご存じなのですか」

公孫炎「一度だけな」

公孫炎は、縄で封じられた阿片を見る。

公孫炎「米の次は――」

公孫炎「毒か」

燕華「毒だから、村に置いておけません」


公孫炎は密告書と倉の中を見比べる。

部下「将軍?」

公孫炎「……話が合わん」

部下「白家の話が、ですか」

公孫炎「違う」

公孫炎「この密告の方だ」

その日の調査を終えると、小隊は白沙村の外れに天幕を張った。



4. 稽古場


翌日の夜。

公孫炎は一人、白家の周囲を静かに歩いていた。

密告と、実際に見た白家の姿。

その食い違いを、もう少し自分の目で確かめるためだった。

裏庭の方から、金属音が聞こえる。

シュッ――。

キン……キン……。

公孫炎が足を止める。

塀の向こうでは、燕華が稽古をしていた。

白い拳法着に稽古用の面。

両手には九節鞭。

シュッ!

燕華が九節鞭を放つ。

鞭を戻した、その時だった。

ザッ……。

後ろ足が、わずかに外へ流れる。


暗がりから、公孫炎の声がした。

公孫炎「足が逃げている」

燕華が振り返る。

燕華「……逃げてはいません」

公孫炎「そうか」

短い間。

公孫炎「なら、もう一度」

燕華は公孫炎から視線を外し、構え直す。

先ほどより意識して腰を落とし、両手の九節鞭を放つ。

シュッ!

戻す。

ザッ……。

また、後ろ足が外へ滑った。

踵が浮き、上半身がわずかに前へ流れる。

公孫炎「今だ」

燕華の視線が、自分の足元へ落ちる。

公孫炎が裏庭へ入る。

公孫炎「九節鞭は知らん」

公孫炎は自分の足を静かに置き、巨体を低く沈めた。

ズ……。

鎧姿の身体が、地面へ根を張ったように動かない。

公孫炎「だが、踏み込みは分かる」

燕華は黙って、その足元を見る。

公孫炎「武器を振る前に、地を踏め」

短い沈黙。

公孫炎「沈め」

燕華が自分の足を置き直す。

ゆっくりと腰を沈めた。

燕華「……もう一度」

公孫炎が、わずかにうなずく。

燕華は先ほどより深く腰を落とす。

後ろ足で地面を押し、二条の九節鞭を放った。

シュッ――!

今度は、足が流れない。

公孫炎「足で送れ」

練習用の穂先が煉瓦壁を打つ。

ドッ!

土埃が散る。

燕華は腕だけで鞭を引かず、腰を返す。

公孫炎「腰で戻せ」

キン、キン……。

両手の九節鞭が、燕華の身体の外側を滑らかに巡る。

シュッ――。

一連の動きを終えても、足は崩れていなかった。

燕華が足元を確かめる。

短い間。


公孫炎「……形になってきた」

燕華は九節鞭を下ろし、稽古用の面を外す。

額には薄く汗が浮かんでいる。

燕華「……お礼は言いません」

公孫炎は気を悪くする様子もない。

公孫炎「なら、それもよし」

それ以上は何も言わず、背を向ける。

燕華はその背中を少しだけ見送った。


それから幾夜か。

燕華は裏庭で九節鞭を振るった。

以前より軌道は安定し、足元も崩れない。

シュッ――。

キン、キン……。

少し離れた場所には公孫炎がいる。

もう声はかけない。

燕華も、公孫炎が見ていることを気にしなくなっていた。


ある日の稽古の後。

燕華は面を外し、九節鞭を片づける。

燕華「公孫様」

公孫炎「何だ」

燕華「清軍の方は――」

燕華「白家を疑っているのでしょう」

公孫炎は燕華を正面から見る。

公孫炎「疑うのも務めだ」

短い間。

公孫炎「だが、治安を守るのも務めだ」

燕華「私も……」

燕華「この村を守るために戦います」

公孫炎「ならば、前へ出すぎるな」

燕華「清軍の方に命じられる覚えはありません」

公孫炎「命じてはおらん」

短い沈黙。

公孫炎「儂と並んで立つなら――」

公孫炎「互いの間合いを殺すな」

少し間を置く。

公孫炎「……互いを斬らぬようにな」

燕華が、わずかに目を見開く。



5. 笑い面


翌朝。

燕華は朝の稽古を終え、休息のために面を外した。

外した稽古用の面は、白い無地。

目に二本、口元に一本、細い横の切れ込みがあるだけだった。

小羽がその面を手に取る。

小羽「姉上」

小羽は面をじっと見る。

小羽「これ、怒ってる」

燕華「面ですから」


小羽は炭の欠片を拾う。

燕華「小羽、何をしているの?」

小羽は、目の切れ込みを包むように二つの弧を描く。

さらに、口元にも大きく弧を引いた。

もとの細い切れ込みは、炭の線の中へ紛れていく。

小羽が描き終えた面を、燕華へ向ける。

笑う目。

笑う口。

少し不揃いな、子供の描いた笑い顔だった。

小羽「笑ってる」

小羽「怒ってるより、笑ってる方が強そうだ」

燕華は面を受け取る。

炭の線を指で消そうとして――手を止める。

燕華「……変な顔」

小羽「強そうだろ?」

燕華の口元が、ごくわずかに緩む。

けれど、無邪気な弟が描いたその線を消すことはできなかった。

その笑い顔は、そのまま面に残った。

挿絵(By みてみん)

その日の昼前。白沙村の空気が重くなる。

白家の門前を、黒虎団の野盗たちが取り囲む。

刀、槍、棍棒。

一人が門を激しく叩く。

ドン!

野盗「白家のお嬢様よォ!」

野盗「阿片を返せ!」

別の野盗が、油壺を掲げる。

野盗「村を守るだと?」

野盗「笑わせるな!」

野盗「次は倉ごと燃やすぞ!」

ドン! ドン!


門の内側。

家人たちや、避難してきた村人たちが不安げに門を見る。

燕華が前へ出ようとする。

使用人が止める。

使用人「お嬢様、危のうございます」

燕華「白家の者が出なければ――」

燕華は使用人の手を静かに外す。

燕華「村人が前に出されます」

その時、小羽が走ってくる。

胸には、先ほど描いた笑い面を抱えている。

小羽「姉上……」

燕華が振り返る。

小羽は笑い面を両手で差し出す。

小羽「怖かったら――」

小羽「これ被ればいい」

燕華は差し出された面を見る。

小羽「強そうだろ?」

燕華は膝を折り、小羽と目線を合わせる。

面を受け取る。

燕華「ありがとう」

燕華「でも、今は大丈夫」

小羽「本当?」

燕華は小さくうなずく。

立ち上がると、笑い面を門内の柱の脇へ丁寧に置く。

小羽の頭へ手を置く。

燕華「奥へ行っていなさい」

小羽「姉上も、すぐ来る?」

燕華は一瞬だけ答えに詰まる。

ドン!

燕華「……ええ」

その時だった。

黒虎団の一撃で、片側の門扉が内側へ激しく開く。

バン!

砕けた木片と土埃の向こうから、棍棒を持った野盗が踏み込んでくる。

その衝撃で、柱の脇に置かれていた笑い面が滑った。

カタッ……。

落ちる。

小羽が反射的に手を伸ばす。

笑い面を胸元で受け止めた。

その一歩で、小羽は侵入した野盗の正面へ出てしまう。

野盗は小羽を見下ろす。

棍棒は、すでに肩の上へ上がっていた。

野盗「どけ、小僧」

小羽は笑い面を胸に抱いたまま、身体を強張らせる。

燕華が手を伸ばす。

燕華「小羽!」

振り下ろされる棍棒の影が走る。

ドッ。

短い間。

カラン……。

石畳に、笑い面が落ちる。

笑った目。

笑った口。

面は、変わらず笑っている。

そのそばに、小羽の力を失った手。

燕華が駆け寄る。

燕華「小羽……?」

返事はない。

挿絵(By みてみん)

燕華は膝をつき、小羽を両腕で抱き上げる。

身体から力が抜けている。

片手が、燕華の腕から垂れる。

燕華の白い衣へ、小羽の血が少しずつ移っていく。

燕華「小羽」

短い間。

燕華「目を開けて」

小羽の手のすぐそばで、笑い面だけが上を向いている。

燕華「小羽……」

燕華は泣こうとする。だが、声が出ない。

ただ喉だけが震える。

野盗の怒鳴り声も、村人の悲鳴も、遠くなった。

燕華には、小羽の息だけが聞こえていた。

その息が、浅く、細く、震える。

もう一つ。

それから、途切れた。

燕華の胸に、小羽の頬が触れる。

まだ温かい。

燕華は、より強く小羽を抱きしめた。


遠くから、複数の馬蹄と装備の音が近づいてくる。

ドドドド……。

黒虎団の野盗たちが、一斉に外を振り返る。

野盗「軍だ!」

公孫炎を先頭に、清朝正規軍の小隊が白家門前へ現れる。

破られた門。

散らばった武器。

黒虎団の野盗たちが逃げ出す。

野盗「退け!」

野盗「散れ!」

部下「追います!」

公孫炎は馬を降りながら、短く命じる。

公孫炎「逃がすな」

兵たちが黒虎団を追う。


公孫炎自身は、その場に残った。

破られた白家の門。

石畳に残る血。

その奥で、燕華が小羽を両腕に抱いている。

白い衣には、小羽の血が移っていた。

すぐそばには、石畳へ落ちた笑い面。

公孫炎は数歩手前で足を止める。

燕華は小羽だけを見つめている。

公孫炎にも、周囲にも気づかない。

短い沈黙。

公孫炎「民を守る務めにありながら――」

少し間を置く。

公孫炎「間に合わなんだ」

さらに短い間。

公孫炎「すまぬ」

燕華は答えない。

小羽の力を失った手を、燕華が両手で包む。

その指だけが、わずかに震えている。

誰も燕華へ近づけない。

公孫炎も、その距離の外に立っている。

公孫炎が詫びる中、燕華は小羽を抱いたまま動かなかった。


昼過ぎ。

白家の門の内側には、小羽の落とした小さな靴が片方残っていた。



6. 清朝正規軍・浙江方面司令部


夕方。野盗たちが逃げ帰る。

黒虎団と結託した正規軍幹部は、子供の死に顔をしかめた。

呉司令「公孫炎に嗅ぎつけられた」

趙副司令「子供まで殺す必要はなかった」

短い間。

呉司令「もう待てん、今夜回収しろ、倉に阿片があったという事実だけでよい」

趙副司令「売るためか、焼くためかなど、後でどうとでも書ける」

呉司令「白家が隠し持っていた。それを黒虎団と奪い合った。そう報告すれば済む」



7. 無音


白家・奥の間

部屋の入口で、かすかな物音。

燕華が反射的に振り返る。

燕華「おやつにしましょうか、小羽――」

無音


……誰もいない。

燕華が、はっとする。

言葉が止まる。

その刹那――

燕華を、笑い面が見ていた。


燕華は、弟の落書きが残った仮面を静かに見つめる。

笑った目。

笑った口。

その線を描いた、小さな指。

『笑ってる』

小羽の声が、まだ耳の奥に残っている。

けれど、もう返事は返ってこない。

燕華は仮面の口元を指でなぞる。

怖かったでしょう。

痛かったでしょう。

さっきまでおやつを食べながら笑っていたテーブル。

そこには、空の小さな皿が残っている。

小さな椅子には、もう誰もいない。

部屋の隅には、もう片方の小さな靴が置かれている。

もう履く者はいない。

「小羽……」

名前を呼ぼうとして、喉が潰れる。

嗚咽が止まらない。

とめどなく涙が溢れ、枯れることはない。

あの子が何をしたの?

何かいけないことをしたの?

繰り返し、繰り返し、問いかけた。

答えはなかった。

……

……

燕華「……天は、何も見ていない……何も、」

……

燕華「ならば、もう――イ(・)ノ(・)ラ(・)ナ(・)イ(・)」

……

……

挿絵(By みてみん)

燕華は、笑い面を両手で持ち上げる。

涙に濡れた顔へ、ゆっくりと重ねる。

カチッ。

一拍の無音。

ヒィィー……シュゥー……

仮面の奥から、異質な呼吸が漏れる。

それは、もう泣き声には聞こえなかった。

燕華の肩の震えが止まる。

嗚咽も、消えている。

ヒィィー……シュゥー……

部屋の戸が、静かに閉じる。

ヒィィー……シュゥー……


白家の裏庭。

月明かりの下、古い煉瓦壁の前に、白い笑い面が立っている。

シュッ――。

鋭い実戦用の穂先が飛び込む。

ピシィーン!

煉瓦の一角が深く割れ、破片が散る。

少し離れた場所へ、もう一本。

ピシィーン!

別の場所にも、大きな穴が穿たれる。

キン……。

闇の中で、白い袖口がわずかに動く。

手首が返る。

ピシィーン!

また一つ、煉瓦壁が崩れる。

一撃ごとに狙いは正確だった。

やがて、古い煉瓦壁にはいくつもの大穴が開いていた。

ヒィィー……シュゥー……

闇の中に、呼吸だけが残る。



8. 血の燕


深夜。

白家の門前を、再び黒虎団が取り囲んでいた。

昼よりも数が多い。


少し離れた暗がり。

公孫炎と小隊が待機している。

遠くでは、黒虎団の松明が揺れている。

公孫炎は白家の門を見つめたまま動かない。

斬馬大矛の柄に、太い指が食い込んでいる。

闇の中から、部下が駆け戻る。

部下「伝令!」

公孫炎が振り返る。

部下「上より、命です」

公孫炎は命令書を受け取る。

兵たちに見えたのは、断片だけだった。

「白家」

「阿片」

「命令外」

公孫炎の目が険しくなる。

公孫炎(心声)「白家の倉には阿片があった」

公孫炎(心声)「このまま捨て置けば、白家は阿片を隠し持つ家にされる」

公孫炎(心声)「しかし、ここで命令外に兵を動かせば――」

背後で命令を待つ兵たちに視線を送る。

公孫炎(心声)「兵にまで累が及ぶ」

命令書が、公孫炎の手の中でくしゃりと歪む。

公孫炎は白家を見る。

斬馬大矛の石突が地面を打つ。

ズン!

公孫炎「……同じ過ちを、繰り返すのか」

部下たちは黙って待っている。

公孫炎は振り返らず、低く言う。

公孫炎「命は受けた」

公孫炎「だが、義まで預けた覚えはない」

そう言うと公孫炎は白家の門を鋭く見据えた。


野盗「早く阿片を出せ!」

野盗「村ごと皆殺しにするぞ!」

野盗「聞こえてるのか!」

一瞬、怒鳴り声が途切れる。

短い静寂。

門の内側から――

ヒィィー……シュゥー……

野盗たちの顔から、笑いが消える。

野盗「……なんだ?」

ヒィィー……シュゥー……

野盗「なんだ、この音は」

無音


シュッ! シュッ!

次の瞬間、閉ざされた両開きの門を、二条の九節鞭が同時に突き破る。

バキッ! バキッ!

左右にいた野盗を、それぞれの穂先が打ち抜く。

野盗「グッ……!」

野盗「ゲ……ッ」

二本の穂先が、すぐに門の内側へ引き戻される。

シュルルルルッ……。

野盗二人が崩れ落ちる。

閉じた門には、二つの穴だけが残った。

短い静止。

誰も動かない。

やがて、門がゆっくりと開く。

ギィィ……。

闇の中から、まず白い笑い面だけが現れる。

松明の光が、その口元を照らす。

笑う目。

笑う口。

野盗「……笑ってる」

挿絵(By みてみん)

部下「将軍……あれは」

公孫炎「……あの娘か。まさか」

ヒィィー……シュゥー……

白い笑い面が、闇の中から進み出る。

白い衣。

襟と肩に、小さな赤い燕の刺繍。

両手には、九節鞭。

月明かりが、金属の節を鈍く拾う。

血の燕は構えない。

ただ、そこに立っている。

ヒィィー……シュゥー……

呼吸音だけがする。


誰も動けない。

九節鞭が鳴る。

キンキンキン……ピシィーン。

最初の一撃で返り血が仮面にかかる。

血が仮面の上を走り、燕が飛んだように見える。

松明に照らされてさらに口角が上がったように見える。

野盗が怯える。「……笑ってる……?」

ヒィィー……シュゥー……


野盗が叫びながら斬りかかる。

野盗「小娘が……くらえ」

燕華の右手が横薙ぎに走る。

シュッ

九節鞭が弧を描く。

野盗「なめるなァッ!」

野盗は刀でそれを弾こうとする。

ギンッ!

だが次の瞬間、節の連なった鞭が蛇のように刀身へ絡みつく。

野盗「!?」

螺旋状に巻き付いたまま最後に穂先が跳ね上がる。

ピシィッ。

野盗の胸を貫く。

男は目を見開いたまま崩れ落ちる。

白い衣に、細かな血の飛沫が散る。

ヒィィー……シュゥー……


部下「加勢を!」

公孫炎「待て」

部下「しかし――」

公孫炎「よく見ろ。あれは、味方の間合いではない」

九節鞭が左右に走る。

近づいた野盗も、逃げた野盗も、同じように倒れた。

公孫炎「……下がれ。今入れば死ぬ」

部下「……確かに」


前から二人、野盗が切りかかる。

シュッ、シュッ

両腕を前に振り出し、九節鞭が伸びる。

次の瞬間、石畳に鋭角に弾かれた穂先が斜め下から野盗の腹部を貫く。

「ググ……」「ヴ……」

悶絶し、その場に崩れる二人。

血の飛沫。

ヒィィー……シュゥー……


背後から斬りかかった野盗がいた。

燕華は振り返らない。

シュッ

手首だけを後ろに振る。

九節鞭が放物線を描き背後へ流れ、穂先が胸を貫く。

野盗「グッ後ろに……目が……」

血の飛沫。

振り向く燕華。

ヒィィー……シュゥー……


攻撃の間合いが全くつかめず、野盗たちは燕華を遠巻きにする。

やけになった一人が正面から突っ込む。

シュッ

次の瞬間、左手の九節鞭が走った。

穂先は、野盗の顔を外れたように見えた。

野盗「外した――」

言い終わる前に、燕華が手首を返す。

キンキンキン……ピシィーン。

伸び切っていた穂先の軌道が変わり、さらに加速されて戻る。

戻るはずのない角度から、野盗の背を打ち抜いた。

白い衣の燕刺繍に返り血が重なり、赤い燕がまた一羽。

ヒィィー……シュゥー……


九節鞭の黒い穂先が燕華の周りを鋭く不均等な軌跡で旋回する。

二羽の燕が舞うように。

その穂先が舞うごとに、細かな血飛沫が白い衣に散り、誰かが倒れる。

呼吸音、九節鞭の金属音、悶絶する声、そして血飛沫。

その順番が、機械的に繰り返される。

それがいつ終わるのかもわからない。

ヒィィー……シュゥー……


慄然とする公孫炎。

公孫炎「……なんということだ」

部下「あんなものを一体……どう?」

部下「将軍……」

公孫炎は答えない。

兵たちは怯えていた。

斬馬大矛の柄を握る手に、力だけが増していく。

公孫炎は悟る。

あれは、止まれぬ者の動きだ。


白い衣に、赤い飛沫が散っている。

襟にまた一羽。

肩にまた一羽。

袖にまた一羽。

まるで、血で描かれた燕が増えていくように見えた。

部下「……血の、燕……」

挿絵(By みてみん)

水を打ったような静寂。

その場に居合わせた者すべての視線が、笑い面を被った何かに釘付けになる。

誰も動けない。


野盗「ヒッ……来るな!」

恐怖に耐え切れなくなった野盗が、やみくもに刀を振るう。

刃が、白い袖を裂いた。

細い赤が、腕を伝う。

血の燕は、傷を見ない。

痛みにも、振り返らない。

ただ、穂先だけが次の標的へ動いた。


野盗「化け物!」

野盗「もう嫌だ!」

野盗たちは完全に戦意をなくした。

後ろの野盗たちが逃げ始めた。

一人が民家の塀の陰に逃げ込む。

キンキンキン……ピシィーン。

九節鞭が塀を打つ。

古い煉瓦がガラガラと崩れ、土煙の向こうから白い笑い面がこちらを向いていた。

野盗「や、やめろ……!」

野盗「助けてくれ!」

野盗「聞こえねえのか」

血の燕は答えない。

ただ、白い笑い面がゆっくりと首を傾げた。

(聞こえた?)

一瞬、安堵する野盗。

次の瞬間――

シュッ

九節鞭の穂先が、正面から標的の胸を貫く。

男は声を詰まらせたまま崩れ落ちる。

返り血が、仮面の口元へ細く走る。

赤い筋が、笑い面の唇から垂れたように見えた。

闇の中に仮面だけが浮かびあがる。

ヒィィー……シュゥー……


少し離れた位置で、別の野盗が地面へ手をついたまま、塀の前に立つ血の燕の背中を見上げている。

怯えた野盗が目を見開く。

その瞳の中で仲間の体が跳ねる。

息を呑む。

両手から垂れた九節鞭の揺れが止まる。

短い間。

血の燕は身体をほとんど動かさない。

白い笑い面だけが、ゆっくりと野盗の方へ向く。

ヒィィー……

笑う顔。

血に汚れても、その表情だけは変わらない。

野盗は動けない。

シュゥー……

笑う口。

その線をなぞるように、細い血が垂れている。

笑みが、さらに深くなったように見える。

そして――

笑う目。

細い切れ込みの下から、頬へ赤い筋が続いている。

返り血なのか。

それとも――

それは笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

野盗「……人じゃねえ」

野盗「息しか……してねえ……」

ヒィィー……シュゥー……


野盗たちはもう戦えない。

武器を落とす者。

背を向けて逃げる者。

腰を抜かして地面を這う者。

野盗「息の音が追ってくる!」

野盗「もう降参だ!見ろ、武器は捨てた!」

野盗「頼む、見逃してくれ!」

松明の明かりに、血の筋が走った笑い面が浮かぶ。

野盗「まだ……笑ってる」

ヒィィー……シュゥー……


九節鞭が庇の古い支柱に巻きつく。

古い支柱が砕け、庇が崩れ落ちる。

ガラガラ ズズーン

逃げようとした野盗の行く手が塞がる。

一陣の風。

転がった松明の炎が、ふっと大きくなる。

白い笑い面が、そちらを向く。

次の瞬間、九節鞭の穂先が火を打つ。

火の粉が散る。

白い衣には、もう赤い燕が群れている。

仮面の目元には赤い筋。

口元にも、血。

その火に照らされ、白い笑い面が赤く浮かび上がる。

ヒィィー……シュゥー……


公孫炎「……もう、見えておらん」

公孫炎は斬馬大矛の柄を握り締めた。

一瞬、天を仰ぐ。

公孫炎が低く命じる。

公孫炎「黒虎団を逃がすな。縛れ。生かして捕らえろ」

部下たちが一斉に動く。

壊走する野盗たちを取り押さえる。

血の燕が、まだ一歩前へ出ようとする。

公孫炎に、もう迷いはなかった。

このままでは、この娘も失われる。

もはや、これしかない。


ガラン。


公孫炎が斬馬大矛を捨てる。

その足元で、くしゃりと歪んだ命令書が風にあおられた。

紙の文字は読めない。

ただ、白い紙片だけが石畳を滑る。

血の燕の九節鞭が、外側へ大きく伸びる。

その瞬間――

公孫炎が駆け出した。


部下「将軍!」


ズン!

九節鞭の描く大きな円の内側へ、公孫炎が踏み込む。

白い笑い面が、公孫炎へ向く。

手首が返る。

キンキンキン……。

戻ってきた鎖が、公孫炎の肩当てを打つ。

ギンッ!

それでも、公孫炎は止まらない。

受けの構えも取らず、両腕を開いたまま血の燕の懐へ入る。

ドッ……。

巨大な両腕が、燕華の肩と上腕ごと包み込む。

九節鞭を振るう余地が消える。

白い笑い面が、公孫炎の胸元へぶつかった。

公孫炎は、そのまま血の燕を強く抱き止めた。


公孫炎「……もうよい」

公孫炎「……もうよいのだ」

血の燕は答えない。

ヒィィー……シュゥー……


公孫炎は、白い笑い面を見下ろす。

目元には、乾いた赤い筋。

その上を、新しい透明な雫がゆっくりと伝った。

小羽が描いた目と口は、まだ笑っている。

ヒィィー……

……シュ……

公孫炎「……泣いていたのだな、燕華」

公孫炎「その面の奥で、ずっと」


自分の名前を呼ばれて血の燕の呼吸が急に乱れる。

ヒィィー……

……シュ……シゥー……

九節鞭が手から滑り落ちる。

ガチャガチャ……

ガラガラ……

血の燕の膝から力が抜ける。

公孫炎は、その身体を支えた。

震える指が、仮面にかかる。

白い笑い面が外れる。

その下にあったのは、泣き崩れた燕華の顔だった。

燕華は、公孫炎の胸元へ顔を伏せる。

もう、あの呼吸音はしない。

落ちた仮面。

地面に横たわる二本の九節鞭。

その間で、燕華はただ声を上げて泣いていた。


夜明け前。

血の匂いの中で、公孫炎は、あの日稽古場で見た少女を見つけた。


落ちた白い笑い面が、その二人を静かに見ていた。

挿絵(By みてみん)


9. 墓前


その日の昼。

小羽の墓前。

燕華は墓の前にしゃがみ、白い笑い面を抱えている。

昨夜、刀に裂かれた腕には白い包帯が巻かれていた。

仮面の血は拭われている。

それでも、目元と口元には、落としきれなかった薄い赤が残っていた。

公孫炎は、少し後ろに立っている。

二人は向かい合わず、同じ墓を見ている。


燕華「軍は、また助けてくれるのですか」

公孫炎は少し黙る。

公孫炎「軍が来るかは知らん」

燕華が顔を上げる。

公孫炎「だが、儂は来る」


公孫炎「お前を、止めに」


公孫炎は背を向け、ゆっくりと歩き出す。

燕華は、墓前に残されたまま、腕の中の仮面を見下ろした。

小羽が描いた笑い口。

落としきれなかった赤い筋。

風が吹いた。

燕華の髪と、墓前の草が揺れる。

その風が、腕の中の笑い面を抜けた。

ヒュゥー……

かすかな音。

燕華が仮面を見る。

燕華「……小羽?」

返事はない。

弟の描いた仮面は笑っている。

燕華は仮面を胸に抱きしめた。

それから、小羽の墓前に深く頭を下げる。


また祈れたのか――

それは、燕華にしかわからない。

挿絵(By みてみん)


終わり




作者より 読んで頂き本当にありがとうございます。

初読で何か違和感を感じられ,もしよろしければそれを基に再読して頂くと、おそらく何か発見があるかと思います。

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