【連載版に移行しました】時空消失のりこさん 7 『我が家の電気代が跳ね上がった理由、身長十センチの雷神でした。』
お立ち寄りいただきありがとうございます。
のりこさんとヒロシさんの日常に、ちょっと不思議な雷神さまが迷い込んできたお話です。
気軽に読める短編ですので、隙間時間の息抜きにお楽しみいただければ幸いです。
【お知らせ】『時空消失のりこさん』シリーズは連載版へ移行しました!他のエピソードや最新話はこちらからまとめてお読みいただけます。
【日常崩壊コメディ1話完結】時空消失のりこさん~家電怪異から異世界転生まで、全部主婦の知恵でねじ伏せます〜
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乾電池の雷神ちゃん
一、プラスとマイナスの火花
「ヒロシさん、この乾電池のゴミってどう処分するんだっけ……」
初夏の気配が漂い始めた五月のある土曜日、のりこさんはリビングのテーブル越しに夫へ声をかけた。手には、リモコンの反応が鈍くなったために抜き取った単四乾電池が二本、握られている。
新聞のクロスワードパズルに視線を落としていたヒロシさんは、ボールペンを指先で回しながら顔を上げた。
「ん? 乾電池? 第一と第三の金曜日が資源ごみの日だから、勝手口の外に置いてあるストッカーの中の小箱に入れといてくれよ。まとめて出せばいいからさ」
「ああ、そうだったわね。最近物忘れが多くていけないわ」
のりこさんはくすりと笑いながら立ち上がり、台所を抜けて勝手口の扉を開けた。初夏の爽やかな風が、少し蒸し暑くなった台所に流れ込んでくる。コンクリートのたたきにサンダルを突っ掛け、軒下に置かれた雨風よけのプラスチック製ごみストッカーに歩み寄った。
パチンと留め具を外し、大きな蓋を持ち上げる。中には新聞紙の束やペットボトルのキャップと一緒に、手頃なクッキーの空き缶を利用した「乾電池専用の小箱」が収まっていた。
蓋を開けると、すでに十本ほどの単一から単四までの使い古された電池が、カチャカチャと鈍い音を立てて転がっている。
「はいはい、お疲れ様でした、と」
のりこさんが指先に挟んだ二本の単四電池を、無造作に缶の中へと落とした、その瞬間だった。
缶の中で、電池の頭と底――プラス極とマイナス極が、偶然にも勢いよくぶつかり合った。
――パチッ!
青白い、鋭いスパークが小さく爆ぜた。
「あらっ」とのりこさんが身を引いた刹那、缶の中から立ち上ったのは、焦げ臭い煙ではなく、どこか清涼な、夕立の直前のようなオゾンの香りだった。そして、その淡い紫色の火花の中心から、もくもくと綿菓子のような小さな白い雲が湧き出してきたのである。
「え……? なになに、ショートしちゃったの……?」
目を白黒させているのりこさんの前で、白い煙がすうっと晴れていく。
そこに現れたのは――手のひらにすっぽり乗ってしまいそうな、身長十センチばかりの小さな生き物だった。
生き物、というよりは、まるでおとぎ話の絵本から飛び出してきたような子どもだった。
頭には小さなふたつの可愛らしい角が生えており、ちんまりとした身体には黄色と黒のトラ縞の毛皮のパンツ。背中には、極小のデンデン太鼓のような丸い太鼓が幾重にも輪を描いて浮かび、プカプカと宙に漂っている。
「……まぁ、かわいい」
驚きよりも先に、愛らしさが勝ってしまった。のりこさんは思わず目を細め、腰を屈めて缶の中を覗き込んだ。その小さな男の子のような子は、くりくりとした漆黒の瞳をパチクリと瞬かせ、不思議そうにのりこさんを見上げている。
「ねえ、あなた、どこから来たの?」
のりこさんが優しく語りかけると、その子はこてんと首を傾げた。
「……わからない」
風鈴がそよ風に揺れるような、澄んだ高い声だった。
「お名前は?」
「……わからない」
「困ったわねぇ。でも、角があって、トラの毛皮のパンツで、背中には太鼓がたくさん……。うーん、じゃ、とりあえず『雷神ちゃん』と呼ぶわね」
雷神ちゃんと呼ばれたその子は、嬉しそうに小さな両手をパチパチと打ち合わせた。背中の太鼓が、ポコポコと可愛らしい音を立てる。
「ヒロシさーん! ちょっと来て、大変!」
のりこさんの切迫した、それでいてどこか浮かれた呼び声に、ヒロシさんがサンダルを引きずりながら勝手口に現れた。
「なんだい、大声出して。ムカデでも出た……って、うわっ! なんだそれ!?」
缶の縁にちょこんと腰掛け、小さな足をぶらぶらさせている雷神ちゃんを見て、ヒロシさんは文字通り飛び上がった。
「おもちゃ……じゃないよな? 動いてるぞ!?」
「乾電池を捨てたらね、パチッて火花が飛んで、そこからぽんって生まれたのよ。名前がないっていうから、雷神ちゃんって名付けたの」
「名付けたの、じゃないよ! 警察か? それとも役所か!? いや、こんなの連れて行ったら俺たちが頭おかしいと思われるぞ……」
「いいじゃないの、こんなに小さくて可愛いんだから。ねえ、雷神ちゃん?」
のりこさんがそっと人差し指を差し出すと、雷神ちゃんはその指に両腕でぎゅっと抱きついた。ほんのりと温かく、微かに静電気が走るような、ピリリとした心地よい刺激が指先から伝わってくる。
こうして、のりこさんとヒロシさんの家に、不思議な同居人がひとり加わることになったのである。
二、家電のそばの演奏会
雷神ちゃんとの暮らしが始まって最初に驚いたのは、彼が人間の食べるものを一切口にしないことだった。
初日の夕方、のりこさんは小さなお皿にリンゴのすりおろしや牛乳をスプーン一杯垂らし、雷神ちゃんの前に差し出してみた。しかし雷神ちゃんは不思議そうに匂いを嗅ぐだけで、口をつけようとはしなかった。
「お腹、空かないのかしらねぇ」
のりこさんが心配そうに眉を八の字にしていると、雷神ちゃんはトコトコと短い足でリビングを歩き出した。そして、部屋の隅にある大型液晶テレビの裏側へと潜り込んだのだ。
「あっ、こら、埃っぽいからダメよ」
追いかけようとしたのりこさんを、ヒロシさんが手で制した。
「待てよ、のりこ。何かしてるぞ」
テレビの裏の配線が密集している場所、電源コードの付け根あたりに、雷神ちゃんはちょこんと正座していた。
目を細め、実に気持ちよさそうに深呼吸をしている。
すると、背中に浮かぶ小さな太鼓が、自動的にバチを持たないままポコ、ポコポコと軽快なリズムを刻み始めた。その太鼓の音に合わせて、小さな角の先からパチパチと青い火花が小さく散っている。
「……もしかして、電気を吸ってるのか?」
ヒロシさんが目を丸くした。
「電気を食べてるのね! 雷神さまだものねぇ」
納得したようにのりこさんが手を打つ。
観察してみると、雷神ちゃんの定位置は決まっていた。
普段、日中は常時通電している大型冷蔵庫の天板の上か、リビングのテレビの裏。そこで丸くなってうとうとと昼寝をしていた。彼が満ち足りた気分で電気を味わっているときは、決まって背中の太鼓が「トコトン、トコトン」と微かな、心地よい重低音を響かせるのだ。
それがまた、時計の針の音のようにリズミカルで、のりこさんにとっては妙に落ち着く子守唄のようでもあった。
雷神ちゃんはおとなしく、特に悪さをすることもなかった。それどころか、信じられないほど気の利くお手伝いさんでもあった。
のりこさんが洗濯物を畳んでいると、短い手足を目一杯動かして、靴下をくるりと丸めてくれた。
ヒロシさんが書斎で仕事の書類を整理していると、机の端からクリップをひとつずつ運んで手渡してくれた。
特に威力を発揮したのは、台所仕事だった。
夕方、のりこさんが夕食の支度を始めると、雷神ちゃんは決まってトコトコとやってきて、調理台の隅に陣取る。
「雷神ちゃん、今日はお肉を解凍したいのよ」
のりこさんがカチコチの冷凍ひき肉を電子レンジに入れ、タイマーを回す。
すると、雷神ちゃんの目がパチッと輝いた。
電子レンジのマグネトロンが唸りを上げると同時に、雷神ちゃんの背中の太鼓が、普段の何倍もの音量で激しく鳴り響くのだ。
――ドコドン! ドコドン! ドコドコドコドン!
「まあまあ、大張り切りねぇ」
のりこさんが笑うと、雷神ちゃんは得意げに胸を張り、小さな両手を突き出してレンジに向けて念を送るようなポーズをとる。
すると不思議なことに、いつもなら加熱ムラができて端っこだけ煮えてしまうひき肉が、完璧な温度で均一に解凍されるのだ。
「すごいわ、雷神ちゃん! 職人技ね!」
褒められると、雷神ちゃんは角を赤く染めて照れ笑いを浮かべ、レンジの取っ手をフキンでキュッキュと磨いてみせるのだった。
夜になると、雷神ちゃんはのりこさんが古タオルで作ってくれた専用の小さなベッド――ティッシュの空き箱にフェイスタオルを敷き詰めたもの――に入り、静かに息を立てて眠った。
寝息に合わせて、背中の太鼓が「コソ……コソ……」と小さく鳴る。
「可愛いわねぇ、ヒロシさん」
寝室のサイドテーブルに置かれたその小さな寝床を見つめ、のりこさんは目を細めた。
「ああ。最初は化け物かと思ったが……情が移っちまうな」
ヒロシさんも穏やかな顔で、小さな雷神の頭を指先で撫でた。雷神ちゃんは眠ったまま、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
三、急激な成長と恐怖の請求書
しかし、そんな平穏で愛らしい日々は、ある異変によって少しずつ揺らぎ始めた。
異変の兆候は、雷神ちゃんが家にやってきて二週間ほど経った頃から現れた。
「……ねえ、ヒロシさん。雷神ちゃんのベッド、ちょっと小さくなってないかしら」
朝、朝食の味噌汁を作りながらのりこさんが言った。
ヒロシさんがサイドテーブルのティッシュ箱を見ると、確かに雷神ちゃんの足が箱の端から少しだけ飛び出していた。
「そうか? 最初からこんなもんじゃなかったか?」
「いいえ、絶対に伸びてるわ。ほら、トラのパンツだって、前は胸のあたりまであったのに、今はすっかり腰履きになってるもの」
のりこさんの直感は正しかった。
それからの雷神ちゃんの成長スピードは、目を見張るどころの話ではなかった。一日ごとに、目に見えて身体が大きくなっていくのだ。
三週間が過ぎる頃には、身長は五十センチほどになり、人間の赤ん坊くらいの大きさになった。ティッシュ箱のベッドなど到底入るはずもなく、座布団を二枚重ねたものが新しい寝床になった。
そして、ちょうど一か月が経過した頃――。
「おはよう、のりこさん……って、うわああっ!!」
朝、リビングに下りてきたヒロシさんは、ソファに見知らぬ「小学生」が堂々と座っているのを見て絶叫した。
そこにいたのは、身長一メートルほどにまで巨大化した雷神ちゃんだった。
顔つきはまだ幼く、丸っこい愛嬌を保っているものの、がっしりとした手足、太くなった二本の角、そして背中に浮かぶ太鼓も、本物の祭り太鼓のように迫力のある大きさに変化していた。
「ドコドン」
雷神ちゃんが挨拶代わりに背中の太鼓を鳴らすと、リビングの窓ガラスがビリビリと共鳴した。
「な、なんだこれは! のりこ、どうなってるんだ!」
「どうなってるんだって言われても……。昨日の夜までは幼稚園児くらいだったのに、夜の間にまたぐんと伸びちゃったみたいで……」
お玉を持ったのりこさんも、困惑と苦笑いが入り混じった顔をしていた。
一メートルともなると、もはや「手のひらサイズのマスコット」ではない。立派なひとりの子どもである。
お手伝いのスケールも大きくなった。
のりこさんが掃除機をかけようとすると、雷神ちゃんが「ぼくがやる」とばかりに掃除機を奪い取り、自らの角からバチバチと放電しながら、猛烈な吸引力で部屋中をピカピカにしてしまう。
ヒロシさんの肩叩きをすれば、背中の太鼓の重低音が骨の髄まで響き渡り、頑固な肩こりが一瞬で吹き飛ぶ代わりに、ヒロシさんは全身の筋肉がビリビリと痺れてしばらく立ち上がれなくなった。
だが、問題は彼のサイズ感だけではなかった。
数日後の昼下がり、郵便受けを覗いたのりこさんは、電力会社から届いた一通の封筒を開封し、その場で凍りついた。
「ひ、ヒロシさぁぁぁん!!!」
悲鳴のような叫び声に、二階からヒロシさんが階段を駆け下りてきた。
「どうした! 何があった!」
「これ! これ見て!!」
突き出された電気料金の請求書を、ヒロシさんは老眼鏡を押し当てて凝視した。
『ご請求金額:四万八千二百円』
「よ、四万八千円……!? なんでだ! うち、先月は一万二千円だったぞ! 四倍近く跳ね上がってるじゃないか! 漏電か!? どこかで漏電してるのか!?」
「漏電っていうか……」
のりこさんの視線が、リビングの隅へと向けられた。
そこでは、巨大化した雷神ちゃんが、エアコンの室外機の真横に座り込み、両手を当てて「ン〜ッ」と恍惚の表情を浮かべていた。背中の祭り太鼓が、ドロドロドロ……と地鳴りのような音を立てて、力強く回転している。
「……あの子だ」
ヒロシさんはがっくりと肩を落とした。
「あの子、大きくなるにつれて、食べる電気の量も増えてるんだ……。常時フル稼働のエアコン並みに電力を食ってるんだよ……!」
育ち盛りの子どもの食欲が旺盛なのは喜ばしいことだが、その主食が「家庭用電源のアンペア」となると話は別だ。このまま彼が成長し続ければ、来月の請求額はどうなってしまうのか。十万か、二十万か。ブレーカーが落ちるだけで済めば御の字である。
四、交番か、施設か
その夜、雷神ちゃんがリビングのカーペットの上で大きな身体を丸めて寝息を立て始めた後、のりこさんとヒロシさんはダイニングテーブルで深刻な家族会議を開いていた。
卓上には、冷めた麦茶と、あの四万八千円の請求書。
「ヒロシさん、あの子どんどん大きくなるし……このままいつまでも家で育てるわけにもいかないわよね」
のりこさんは眉を寄せ、憂いを帯びた瞳で眠る雷神ちゃんを見つめた。
情は、嫌というほど湧いていた。
洗濯物を手伝ってくれるときの得意げな顔、電子レンジの前で太鼓を叩く愛らしい姿、ヒロシさんに撫でられて角を赤く染めていた純真さ。どれをとっても愛おしく、まるで遅くにできた我が子のようでもあった。
しかし、現実は厳しい。
「ああ……。電気代もそうだが、それ以前の問題だ」
ヒロシさんが腕を組み、重い口調で言った。
「いま一メートルだろ? 来月には二メートル、再来月には三メートルになるかもしれない。天井につかえちまう。それに、近所の目もある。『あのお宅、トラのパンツを履いた角のある大男を飼ってる』なんて噂になったらどうするんだ」
「そうよねぇ……。でも、どうすればいいの? 迷子として交番に連れていく?」
ヒロシさんは天井を仰いでため息をついた。
「交番のお巡りさん、なんて言うと思う? 『雷神を拾いました』って届け出たら、まず俺たちが精神科に案内されるぞ。それに、もし警察が信じて保護したとして、そのあとどうなる? 施設に預けるか? それともどこかの研究所に送られて、解剖でもされたらどうするんだ」
「そんなの絶対に嫌!」
のりこさんは強い語気で首を振った。
「あんなに優しい子を、モルモットみたいにされるなんて耐えられないわ!」
「俺だって嫌だよ! だから困ってるんじゃないか……どこに連れて行ったって、相手が困惑するか、あの子が可哀想な目に遭うかのどちらかだ……」
ふたりは押し黙り、重苦しい沈黙がダイニングを支配した。
カチ、コチ、と壁掛け時計の秒針の音だけが響く。
その時、ふとリビングの方を見ると、寝ていたはずの雷神ちゃんが、静かに身を起こしていた。
背中の太鼓は音を立てていない。
雷神ちゃんは、のりこさんとヒロシさんの方をじっと見つめていた。その大きな瞳には、大人のようにすべてを理解したような、深い哀愁と優しさが湛えられていた。
「雷神ちゃん……起きてたの?」
のりこさんが息を呑む。
雷神ちゃんは何も言わず、ただふたりに向かって、深々と、人間のように丁寧なお辞儀をした。
そして、自分の大きな両の手のひらをじっと見つめ、小さく首を横に振ったのだった。
五、暗雲と大太鼓
翌日の夕方、その時は突然訪れた。
朝から異常なほど蒸し暑く、湿った空気が肌にまとわりつくような不気味な天気だった。
午後四時を回った頃、西の空から急速に濃藍色の不吉な雲が湧き上がってきた。
それは見る見るうちに空全体を覆い尽くし、真昼の明るさを奪い去っていった。まるで夜が急激に降ってきたかのように、辺りは真っ暗になった。
ビューッ、と冷たい突風が吹き荒れ、庭のハナミズキの木が激しく揺れる。
「ヒロシさん、雨戸閉めた方がいいかしら! すごい嵐になりそうよ!」
台所で夕飯の支度をしていたのりこさんが叫んだ。
二階の窓を閉めに走っていたヒロシさんが、階段をドタドタと駆け下りてくる。
「夕立どころじゃないぞ、これ! 猛烈な雷雲だ!」
ゴロゴロゴロ……と、地鳴りのような音が遠くで響いた。
いや、それはただの雷鳴ではなかった。
ドォン……ドォン……ドォン……。
低く、腹の底を揺さぶるような、厳かな大太鼓の音。
普段、雷神ちゃんが鳴らしている軽やかな音とは比べ物にならない、天を統べる者が打ち鳴らすような、圧倒的な重低音だった。
「……呼んでる」
ぽつりと、掠れた声が響いた。
のりこさんとヒロシさんが振り返ると、リビングの中央に立っていた雷神ちゃんが、真っ暗な窓の外をじっと見上げていた。その身体から、バチバチと今までにないほど強い青白い電光が火花となって飛び散っている。
「雷神ちゃん……?」
のりこさんが呼びかけた瞬間、雷神ちゃんは何を思ったのか、脱兎の勢いで勝手口へと駆け出した。
重い体躯とは思えない敏捷さで扉を押し開け、土砂降りの雨が降り始めた庭へと飛び出していく。
「危ない! 雷神ちゃん、戻りなさい!」
ヒロシさんが叫び、のりこさんとふたりで勝手口の庇の下へ飛び出した。
雷神ちゃんは、庭の中央、背の高いハナミズキの木の前に仁王立ちになっていた。
雨に打たれながら、空を見上げ、両手を天高く掲げている。背中の祭り太鼓が、狂ったように高速で回転し、激しい音を立てていた。
その瞬間だった。
――カッッッ!!!!
世界が純白に染まった。
遅れて、鼓膜を破らんばかりの凄まじい大音響が轟く。
――ドゴォォォォォンッ!!!!
「きゃああっ!!」
「うわあっ!!」
のりこさんとヒロシさんは思わず耳を塞ぎ、その場にへたり込んだ。
落雷だった。
庭のハナミズキの木に、天から巨大な紫電の柱が直撃したのだ。火花が雨の中で激しく四散し、凄まじい衝撃波が勝手口のガラスを震わせる。
もうもうと立ち込める白煙と水蒸気。
「雷神ちゃん! 雷神ちゃんは!?」
のりこさんが涙声で煙の向こうを凝視した。
煙が風に流され、徐々にその輪郭が露わになる。
ハナミズキの木は黒く焦げることもなく、ただ静かに佇んでいた。
そして、その木の前に立っていたのは――。
「あ……」
ヒロシさんが息を呑んだ。
そこにいたのは、一メートルの子どもではなかった。
見上げるほどの巨躯。
身長は三メートルを遥かに超え、たくましい筋肉に覆われた赤銅色の肉体。
頭からは立派な二本の金色の角が天を突き、背中には大寺院の鐘ほどもある巨大な雷神太鼓が、金色の光を放ちながら威厳たっぷりに浮かんでいた。
トラの毛皮を堂々と纏い、その姿はまさに、古の絵巻物に描かれた本物の「雷神」そのものだった。
落雷の莫大なエネルギーを一瞬にして取り込み、完全に本来の神の姿へと戻ったのだ。
巨大な雷神は、ゆっくりと振り返った。
その顔立ちには、あの小さな雷神ちゃんの面影が確かに残っていた。
彼は勝手口でへたり込むのりこさんとヒロシさんを見下ろすと、怖がらせないように、ふわりと優しく目を細めた。
そして、巨体をかがめると、勝手口の脇にあるプラスチック製のごみストッカーへと手を伸ばした。
大きな指先で器用にストッカーの蓋を開け、中からあの「クッキーの空き缶」――彼が生まれた、使い古しの乾電池の小箱を取り出したのだ。
雷神は、小箱の蓋を開け、手のひらの上に中の乾電池をごろごろと転がした。
単一、単二、単三、単四。全部で十数本の、錆びかけたり放電しきったりした古びた電池たち。
雷神がそっと息を吹きかけると、その掌から黄金色の柔らかな光が溢れ出し、電池たちを包み込んだ。
一瞬、パチパチと心地よい火花が散り、光が収まる。
彼は巨大な膝をつき、雨のかからない勝手口のたたき――玄関先のタイルの上に、その十数本の乾電池を、まるでおもちゃの兵隊を並べる子どものように、綺麗に等間隔で一本ずつ立てて並べた。
すべてを並び終えると、雷神は立ち上がった。
頭上の真っ暗な空から、もくもくと黒い雨雲がひとかたまり、エレベーターのように庭先まで降りてきた。迎えの雲だった。
雷神はその雲の背へと、軽やかに飛び乗った。
雲がすうっと浮き上がり、屋根の高さを超えていく。
「雷神ちゃん……!」
のりこさんは我を忘れて雨の中へ駆け出し、天を仰いで叫んだ。
ヒロシさんもその後を追い、びしょ濡れになりながら空を見上げた。
雲の上から、雷神が見下ろしていた。
彼は背中の巨大な太鼓を、ドン、と一度だけ、温かい音で打ち鳴らした。
そして、胸に手を当て、深く頭を下げた。
『優しいのりこさん、ヒロシさん、さようなら』
声は口から発せられたのではなく、ふたりの心の中に直接、澄み渡る鐘の音のように響いた。
それは、あのティッシュ箱で眠っていた頃と同じ、甘えるような、けれど深い感謝に満ちた声だった。
『お世話になりました。温かいお家を、ありがとう』
黒い雲は雷神を乗せ、凄まじいスピードで上空の暗雲の中へと溶け込んでいった。
直後、空を覆い尽くしていた分厚い雷雲が、まるで魔法が解けたかのように急速に割れ、西の空から黄金色の夕日が一気に差し込んできた。
さっきまでの豪雨が嘘のように引いていく。
濡れた庭の木々が夕日を浴びてキラキラと輝き、東の空には、見事な二重の虹が架かっていた。
庭には、ただ静かな初夏の夕暮れが広がっていた。
六、満たされたエネルギー
「行っちゃったわね……」
のりこさんは、まだ濡れているエプロンを握りしめ、ぽつりと言った。
隣でヒロシさんも、夕空を見上げたまま動けずにいた。
「ああ……。神様だったんだな、やっぱり」
「最初から、わかってたじゃない。あんなに可愛かったけれど」
「そうだな。……でも、少し寂しくなるな」
「ええ……本当にね」
ふたりは寂しさを噛みしめながら、のろのろと勝手口へと戻った。
たたきに目を落とすと、そこには雷神が最後に並べていった乾電池たちが、行儀よく整列していた。
夕日を浴びて、金属のボディがピカピカと輝いている。
ヒロシさんがしゃがみ込み、そのうちの単三電池を一本手に取った。
「そういえば、あの子、最後にこれに何かしてたよな」
「不思議そうに息を吹きかけてたわね。ちょっと待ってて、あれ持ってくるから」
のりこさんはリビングへ戻り、引き出しから「それ」を持ってきた。
以前、ヒロシさんが百円ショップで面白半分に買ってきた、液晶に針で残量が表示される簡易型の『乾電池チェッカー』だ。使い古しの電池を捨てる前に、本当に空っぽかどうかを調べるために使っていたものだった。
「ヒロシさん、測ってみて」
「おう」
ヒロシさんはチェッカーのスライド部分を引き出し、手にした単三電池を挟み込んだ。
通常、新品の電池なら針が右端の緑色(良好)のエリアまで勢いよく振れる。使い古しなら赤(交換)のエリアでピクリとも動かない。
カチッ。
「……うわっ!?」
ヒロシさんが声を上げた。
針が、緑色のエリアを突き抜けて、目盛りの一番右端のストッパーに「カツン!」と音を立てて激突していたのだ。チェッカーの小さな赤いランプが、壊れんばかりの眩い光を放っている。
「な、なんだこれ!? 針が振り切れてるぞ!」
「嘘でしょう? こっちの単一も測ってみて!」
のりこさんが手渡した太い単一電池を挟む。
やはり結果は同じだった。カツン、と針が限界を超えて右に張り付き、チェッカー自体がほんのりと温かくなるほどのエネルギーを示していた。
「新品……どころじゃないぞ」
ヒロシさんは呆然と呟いた。
「神様の雷のエネルギーが、パンパンに充電されてるんだ……。新品以上の超・強力電池に生まれ変わってる」
ふたりは顔を見合わせ、それからどちらからともなく、くすくすと笑い出した。
「あの子ったら、恩返しのつもりだったのね」
「ああ。『電気代をたくさん食っちゃってごめんなさい』ってことか。律儀な雷神さまだよ、まったく」
のりこさんは愛おしそうに、並んだ電池たちをひとつずつ拾い上げ、クッキーの空き缶へと大切に戻した。
指先から、あの小さな雷神ちゃんを抱き上げたときのような、懐かしい温もりが伝わってくるようだった。
七、神様が遺したもの
それから、季節は巡り、本格的な夏がやってきた。
雷神ちゃんが天へ帰ってから数か月、のりこさんとヒロシさんの家には、ちょっとした「奇跡」が続いていた。
まず第一に、電気代だった。
あの四万八千円の請求書が届いた翌月、ポストに投函された検針票を見て、のりこさんは思わず二度見した。
『ご請求金額:九百八十円』
「ヒロシさん! 大変、今度は安すぎるわ!」
「はあ!? 千円切ってる!? なんでだ、今月は毎日エアコンをつけっぱなしにしてたぞ!」
慌てて電力メーターを見に行くと、円盤が信じられないほどゆっくりと、まるでサボっているかのようにしか回っていなかった。
どうやら、あの落雷の瞬間、あるいは雷神ちゃんが家に宿していた余剰電力が、家庭内の配線や蓄電系統にたっぷりと残留し、家全体が「自家発電状態」になっていたらしい。
その異様な安さは、秋風が吹き始めるまでの数か月間ずっと続いた。
毎月、数千円から一万円以上浮いた計算になり、あの時雷神ちゃんが消費した電気代など、とっくに元が取れてさらにお釣りが来るほどだった。
そして第二に、あの「乾電池」たちである。
のりこさんは、テレビのリモコンや掛け時計、懐中電灯、果てはヒロシさんの電気シェーバーに至るまで、家中の電池をあの空き缶の電池に入れ替えた。
すると、テレビのチャンネルの切り替わりは目にも留まらぬ速さになり、壁掛け時計の針は寸分の狂いもなく正確に時を刻み、懐中電灯に至っては車のヘッドライトかと思うほどの強烈なビームを放つようになった。
何より驚いたのは、その持ちの良さだった。
何ヶ月使い続けても、電池チェッカーの針は相変わらず緑の限界を指したままで、一向に減る気配がなかったのだ。
「これ、もしかして一生使えるんじゃないか?」
風呂上がり、やけにハイパワーで髭を剃り終えたヒロシさんが、鏡を見ながら笑った。
「本当にねぇ。ありがたいけれど、なんだか使うのが勿体無い気もしてきちゃうわ」
のりこさんはリビングの窓辺に立ち、夜空を見上げた。
満天の星空の向こう、遠くの山並みの上あたりで、音もなく紫色の稲妻がピカッと光った。
雷鳴は聞こえない。けれど、のりこさんの耳には、確かに聞こえたような気がした。
――トコトン、トコトン。
軽やかで、どこか誇らしげな、あの小さな太鼓の音が。
「元気でやってるかしらね、雷神ちゃん」
「ああ。きっと今頃、雲の上で親分たちの太鼓に合わせて、得意げにドコドンやってるさ」
ヒロシさんが隣に来て、のりこさんの肩をそっと抱いた。
ふたりの家の勝手口には、今もピカピカに磨かれたクッキーの空き缶が置かれている。
いつかまた、プラスとマイナスがぶつかり合って、小さな火花がパチッと爆ぜるその日を、ふたりはほんの少しだけ心待ちにしながら、穏やかな夜を過ごすのだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
乾電池を捨てるときに「ショートしたら危ないな」と思ったところから生まれたお話でした。もし少しでも「ほっこりした」「雷神ちゃん可愛かった」「電気代こわい」と思っていただけましたら、下部の【ブックマーク】や【評価(★★★★★)】をいただけると、執筆の大きな励みになります!
最後までお読みいただきありがとうございました!
のりこさんのシュールな日常は、新設した「連載版」にてオムニバス形式で続々更新中です。ぜひ続きもこちらからお楽しみください!
【日常崩壊コメディ1話完結】時空消失のりこさん~家電怪異から異世界転生まで、全部主婦の知恵でねじ伏せます〜
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