第94話 “蘇る記憶”
七乃の器が携帯電話を紛失した事に気づいたのは、壊流移法で転移した直後だった。
「……失態です」
周囲を見渡せば、そこは木々の溢れる森の中。与えられた知識によれば、ここは鎮守の森のはず。
なるほど、中々良い場所に逃げ込んだな―――そう思う程度には、器は心を評価できた。自分に起きている事を理解しているにも関わらず、逃亡などという愚かな行為に走った心に対し、器は嫌悪感を抱いていたのだ。
いっそ、感情さえ捨ててしまえれば楽になる。何故、こんなものを与えられなければならなかったのか、理解に苦しむ。
「余計な事を考えている暇はありませんね……」
そう呟く間にも、呪法で強化された器の知覚は心の居場所を探っている。この周囲にいるのはわかるが、どうも気配が希薄だ。似たような気配ならば既に察知したのだが―――
と、そこまで考えて、器はある可能性を思いついた。恐らくその可能性は高い。いや、最早それ以外に考えられないだろう。
「……ずいぶんと幽霊じみた真似をするものです。ですが、その程度で惑わされるほど私の知覚は鈍くはありませんよ」
手が動く。白いワンピースの後ろ―――自らの背中にへばりついていた、一匹の虫。てんとう虫のようなその虫は、器が掴むと生気が宿ったかのように足を蠢かせた。
呪法、天道追遂。敵は一人と思っていたら大間違いだ―――
「さあ、行きなさい。我が半身、我が下僕。我が面前にあれを連れてくるのです」
歌うように言葉を紡ぐ。言葉は神力を介して力と成し、天道追遂は羽をはばたかせると、素早く木々の合間へ消えていく。
ほんの数分の後、森の奥からひゃわっ!?という声が聞こえた。どうやら捕縛したようだ。
「本当に愚かな私です。この程度の呪法に捕らわれるなんて……ああ、でも人をたらしこむのは上手なようですね」
近づいてくる三つの気配を察知して、器は振り向いた。
「……見つけたぜ」
そこにいたのは、昨晩遭遇した少年―――未鏡守哉。そして、自分の姉である存在、神代七瀬と……もう一人は、役立たずで有名なエージェントか。
「お前、七乃の器だな?」
「誰から聞いたのです?」
「七瀬からだ。ま、最初はただの推測だったんだけどな。だけど今の答えで確信したよ」
不敵に笑う守哉に、器は嫌悪感を抱いた。カマをかけたつもりか?
器は無表情のまま、守哉と対面した。
「私、どうやらあなたの事が嫌いなようです」
「そうかい。だが、話し合う事くらいはできるだろ?昨日とさっきは戦闘になっちまったけど、過去の事は水に流して話し合おうぜ」
「悠長な人は嫌いです。死ね」
神力波に殺気を込め、放つ。守哉達がひるんだ隙に、器は拳を固めて突貫した。
☆ ☆ ☆
「くっ……!」
突然放たれた神力波にひるんだ守哉。咄嗟に眼前で腕を交差させると、次の瞬間凄まじい衝撃が両腕に奔った。
「守哉!」
優衣子がそれに反応する。声は言魂と化し、烈風が器の身体を吹き飛ばす。器は難なく地面に着地したが、それは予想通り。下手にダメージは与えられないのだ。
それを察してか、器は不敵に笑った。そして、器の掌が光る。
「―――烈行地山!」
器の足元が割れ、無数の岩が飛び出してくる。守哉がそれに反応する前に、七瀬が反応していた。
「……螺旋護法!」
割れた地面の周囲を囲むように壁が出現する。飛び出した岩は壁に阻まれ地に落ちた。
同時に、巨大な壁は器の視界も奪っている。守哉と優衣子は同時に構え、叫んだ。
『―――風よ!!』
二人の声が重なる。壁に囲まれた器の周囲から酸素が消滅し、それは器の肺にも達する。
だが、器の反応は早かった。完全に酸素がなくなる前に壁を駆け上る。壁で器の状況がわからないため、酸素を奪う風は器を追従しきれない。
壁を蹴り、器の身体が解放される。空中に躍り出た器に対し、守哉と優衣子は再び言魂を発動する。
「―――風よ!」「―――砂よ!」
今度は先ほどとは違う。守哉は再び酸素を奪う風を、優衣子は地面の砂を操る言魂を発動した。
地面から鞭のように伸びた砂が器の足に絡みつき、空中に身体を固定する。同時に、器の周囲から酸素が消えていく。
これで終わりだ―――と、思った瞬間。
「―――愚者崩落!」
器が叫び、その掌が光る。守哉達の立つ地面が一瞬にして崩れ落ちていく。
それに反応したのはまたもや七瀬。守哉と優衣子の腕を掴み、その場から飛び退く。間一髪で三人は地面の崩落に巻き込まれずに済んだ。
「あ、あぶねぇ……さんきゅ、七瀬」
「……ううん。当然のこと」
「油断しないで、来るわよ!」
優衣子の声に、三人はその場から飛び退いた。次の瞬間、先ほど立っていた場所に無数の岩が降り注ぐ。
先ほどの言魂は守哉と優衣子の集中が一瞬途切れた事により解除されていた。器は守哉達から距離を取ると、
「……さすがに三対一は厳しいですね」
「だったら諦めたらどうだ」
「諦めたらそこで試合終了なのですよ。―――烈行地山!」
またそれか―――と守哉が思った瞬間、ふと優衣子の言葉を思い出した。
相手の放った言魂をイメージで上書きする事により無効化する高等技術―――言魂キャンセル。言魂以外にも通用するのだろうか?
襲い掛かってくる岩を避け、体勢を立て直す。更に岩が噴出してくるのを見計らい、守哉はイメージして叫んだ。
「―――散れっ!」
しかし、岩は消えない。変わらず襲い掛かってくる岩に対しては、七瀬が螺旋護法で防いでくれた。
効かなかった―――いや、先ほどのものよりも勢いがなかった。多少ながら呪法にも通用するようだ。
(普通にするだけじゃ効かない。なら―――)
再び器の地面が割れる。守哉はそこから起こるであろう現象をイメージすると、更にイメージを上書きした。
「―――霧消天啓!」
今度は縛名として発動する。今度は通用したのか、地面から飛び出た岩は守哉達の目前で全て消滅してしまった。
感心したように優衣子は言った。
「凄いわね。いつの間に言魂キャンセルを縛名にしてたの?」
「今作った。これで一回見た呪法なら大体打ち消せると思う」
「………。なんていうか、凄すぎて言葉が出ないわよ……」
実際、できると思ってやったわけではない。先ほどの戦闘時に言魂が使えなかった事と優衣子の言葉から何となく思いついたのだ。咄嗟の思いつきの割には大成功のようだが。
しかし、先ほどは言魂が発動できなかったのに対して、今回は言魂が発動している。という事は、さっきはただ単に発動に失敗しただけだったのだろうか。
守哉が思案していると、器は驚いたように目を開き、
「これは……何故、あなたが神域侵食を……!?」
「?なんだそりゃ」
「与えられた情報によれば、あなたは普通の神和ぎのはず。固有神力を用いる神域侵食は神さびか依り代にしか使えない……もしや、絶対輪廻を?いや、それらしき道具は見当たらない……ならば、一体……?」
「なんか混乱してるみたいだけど、好都合だしいっか」
ぶつぶつ呟く器に対し、守哉は言魂を発動しようとする。また対象の周囲から酸素を奪う言魂だ。……先にこっちを縛名にするべきだっただろうか?
守哉が油断した瞬間、器はその場から飛んだ。
「ちっ……まだやるってのか!?」
「呪法が使える……?どうやら私の危惧は思い過ごしだったようですね。なんにせよ、あなたはここで始末しなければいけないようです」
「だったら何度でも打ち消してやるまでだ!」
「あなたのそれが言魂なら、もうそれは無意味です」
「何!?」
「これで終わりです」
器の手が再び光る。守哉たちが身構えた―――その瞬間。
周囲の空気が、変わった気がした。
(なんだ……?)
辺りを見回すが、特に変化は見られない。優衣子も気づいているのか、必要以上に周囲を警戒している。どうやら気のせいという事はないようだ。
まずいような気がした。明らかにおかしい、何かが変わっている。器以外の異質な気配も感じないし、特に周囲の景色にも変化はない。だが、確実に先ほどとは何かが違っている―――それも、今自分達が戦っているこの場所だけが。
そんな感覚も、気づけばなくなっている。本当に変化を感じたのは一瞬だけだった。だからこそ、違和感を拭えないのかもしれないが―――
「…………あ」
ふと、後ろから声が聞こえた。七瀬の声だ。
どうした、と守哉が声をかけようとした瞬間。
「……あぁあああぁぁぁぁぁぁああぁぁああああああぁっっっっっ!!!!!!!」
突如、七瀬は泣き叫んだ。
「お、おい、どうしたんだよ!?」
思わず七瀬に近寄る。七瀬は泣き叫ぶばかりで、明らかに質問に答えられるような状況ではない。
その顔は、言い知れない恐怖に彩られている―――
「優衣子!」
「わかってるわ!」
その場に泣き崩れた七瀬を抱きかかえる守哉。それを援護するため、優衣子は言魂を発動しようとして―――
「……っ!?」
「どうしたんだよ!?」
「言魂が……発動しないわ」
優衣子は驚いたように自分の手を見つめている。何度も発動しようとしているようだが、一向に発動する気配はない。守哉も自分で試してみるが、やはり発動しない。それどころか、身体強化の言魂の効力も切れている。
戸惑う守哉達を見て、器は不敵に笑った。
「所詮、神和ぎという事です。言魂さえなければ、あなた達は何もできない」
「お前……俺達に何をした!?」
「神域侵食ですよ。あなた達に使えなくとも、依り代である私には使えるのです」
「依り代!?」
「神和ぎより力を複製され、固有神力を持つようになった存在……即ち、神に匹敵する存在の事です。せいぜい島の王様止まりの神和ぎでは……勝てる見込みなどないのですよ!」
器が動く。まず動けなくなった七瀬から始末する気なのか、七瀬に向かって飛んでいる。咄嗟に反応しようとするが、身体強化の言魂の効力が切れたために反応が鈍い。優衣子もだ―――
「七瀬っ!!!」
目を見開いて放心する七瀬を突き飛ばす。次の瞬間、器の手刀が守哉の腹を貫いた。
☆ ☆ ☆
そのとき、わたしの目には。
お父さんとお母さんの死体しか、映っていませんでした。