第89話 “等価交換”
朝、突然電話が鳴った。
何時頃だったかはよく覚えていない。それほど早い時間だったのだ。4時頃だったか、それとも5時頃だったか……どちらにせよ、常識のある人ならこんな時間に電話などしない。だからこそ、七瀬は目を覚ましてしまった。
そのすぐ後、ガラガラという扉が開く音が聞こえた。神代家に住んでいる人間は二人しかおらず、自分でないとすれば、出て行ったのはトヨだろう。
嫌な予感がした。同時に、異質な気配も感じていた。修祓かとも思ったが、それにしては様子がおかしい。一瞬のためらいの後、七瀬は結局トヨの後を追う事にした。
そして、見てしまった。声をかける暇もなく、トヨを負った先―――墓所で。
「……おばあちゃん?何があったの―――」
驚き、こちらを振り向くトヨ。その先に倒れこんだ、一人の少女。
3年前、死んだはずの妹―――七乃が、生前と変わらぬ姿でそこにいる。
「……なな、の?おばあちゃん、七乃がどうしてここに……!?」
「―――やむを得んか……!」
驚きで、七瀬は咄嗟に動く事ができなかった。
目の前に迫るトヨの掌に気付いた時には、七瀬の意識は深淵へと落ちていた。
☆ ☆ ☆
朝食を急いで腹に詰め込み、守哉はバッグを引っ掴んで外に出た。
「七瀬、もう来てたのか」
寮の前で待っていたであろう七瀬に、守哉は話しかける。
「………」
が、七瀬は反応しない。聞こえなかったのかと思い、もう一度話しかけてみる。
「おーい、七瀬」
「………」
「聞こえてないのか?七瀬、俺だよ」
「………」
返事がない。ただの屍のようだ。
……冗談はともかく、少々七瀬の様子がおかしかった。目の焦点が合っていないというか、どこかに心を置き忘れてきたかのようにぼーっとしている。
仕方なく、守哉は七瀬に思いっきり顔を近づけて言った。
「七瀬、キスしていいか」
「……っ!」
びくっ、と七瀬の身体が跳ねた。目だけをキョロキョロと動かして周囲を確認すると、そーっと目を閉じていく。
どうやら我に返ったらしい。安心して、守哉は七瀬の額にデコピンした。
「……ふにゃっ」
「おはよう、七瀬。随分ぼーっとしてたみたいだけど、大丈夫か?」
「……うん。えっと……おはよう、かみや」
額をさすりながら七瀬ははにかんで頬を赤らめた。
「……かみや、キスしないの?」
その仕草に、少しだけ誘惑に負けそうになる。冗談のつもりだったんだけど七瀬がいいならしてもいいかなーでも別に付き合ってるわけでもないのにそういう事するのはどうだろうなーあーでも七瀬ちょっぴりしてほしそうだししてもいいんじゃね?……と思ったところで、昨夜七美とキスした事を思い出し、さすがに踏み止まる事にする。
「しねぇよ。ていうか、ホントに大丈夫か?何度も話しかけたのに全然反応しなかったぞ」
「……え……わ、わたし、そんなにぼーっとしてたかな?」
「ああ。なんか、心をどこかに置き忘れてきました、みたいな感じだった」
七瀬はしばらく考え込むと、ふと顔を上げて言った。
「……かみや、わたしっていつここに来たんだっけ」
「さぁ……覚えてないのか?」
「……そうみたい」
本当に珍しい。七瀬は相当ぼんやりしていたようである―――不自然なほどに。
だが、だからといってここで話し込んでいても仕方がない。学校のチャイムは待ってくれないのである。
「まぁいいや。とりあえず、学校に行こうぜ。俺も話したい事があるし、放課後に神代家で会おう」
「……うん。あ、そうだ、お弁当……」
ごそごそと鞄の中を探す七瀬。しかし、目当ての物は見つからなかったらしく、しょぼーんと肩を落とした。
「どうしたんだよ」
「……お弁当、忘れてきちゃった……」
「なんだ、それくらい。だったら今日は別にいいよ」
「……ううん、よくない。すぐに取ってくるから」
「だったら俺も一緒に行くよ。その方が早い」
「……ありがと。ごめんね、かみや……」
「いいって。気にする事ねぇよ」
神代家は日諸木学園のすぐ隣である。多少寄り道したところで、遅刻する事はまずないだろう。
落ち込む七瀬を励ましながら、守哉は歩き始めた。
☆ ☆ ☆
守哉に寄り添いながら歩き出した七瀬を見つめ、木の陰に隠れていたトヨは安堵の息を漏らした。
「どうなる事かと思ったが……なんとかなったようじゃのう」
無事、七瀬は今朝の事を忘れているようだった。これで七瀬に余計な事を知られずに済む。
七瀬の様子を確認し終えたトヨは、その場を去ろうと木から離れた―――瞬間。
「やってしまったね、九十九代目」
後ろから声が聞こえた。
聞き慣れた声だ―――振り向かなくてもわかる。第一、ここまで神出鬼没な存在は、この島ではただ一人しか存在しない。
「天照大神か……何の用じゃ」
「何の用とはよく言えたものだね。私の用など最初からわかっているくせに」
にやり、と不敵に笑う神様。憎たらしいその顔に、トヨは嫌悪感を抱いた。
「ふん。確認のために聞いたまでじゃ」
「ならば、教えてやろう。答えは簡単、契約の代償を受け取りに来た」
契約。今までも幾度となく交わした、輪廻を歪ませる等価交換。
その一つ―――今朝使ってしまった服従の言魂の代償を払う時がきたのだ。
「覚えているだろう?かつてお前が私と交わした契約により、お前は神和ぎもどきでありながら神和ぎになる事ができ、神和ぎもどきでありながら服従の言魂を使う事が可能になった。対象は身内に限定されるがな」
いちいち説明されなくてもわかっている。しかし、トヨは何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった。
これは、契約内容の確認なのだ。今まで何度も繰り返してきた、いわば儀式のようなもの。
「その代償として、お前は自らの存在の一部と、神和ぎの力の一部を差し出した。そして今回お前が払う代償は―――」
「わかっておる。さっさと持ってゆけ」
両手を前方に交差させ、告げる。合わさった薬指の裏には、歪な星型の火傷―――聖痕がある。
「潔いのはいい事だ。では、さっさと済ませてやるとしよう」
神様の手が、無造作にトヨの両手の薬指を掴む。
「死にはせんだろうから、安心するがいいさ」
そう神様が言った瞬間、凄まじい激痛が両手に奔った。
「……っぐう……!」
薬指を引き千切られた事に気づいたのは、血まみれになった両手を見た時だった。
急いで治癒の言魂を発動し、止血する。傷はすぐに塞がるだろう―――失われた指はどうしようもないが。
痛みでうずくまったトヨを見下ろして、神様は言った。
「痛いかい?まぁ、痛いだろうね。今回はそういう方法を選ばせてもらったんだから」
「くっ……!嫌がらせのつもりか……!」
「まぁね。身体の一部を失った気分はどうだい?指が二本無くなった程度じゃなんとも思えないかな?だけど、百代目はもっと痛い想いをしたんだよ、お前を助けるために」
「何の話じゃ!」
「おいおい、とぼけるなよ。お前は一度、百代目に命を救われてるじゃないか。神さびに押し潰されそうになった時にね」
そんな事があったか―――そう思い、記憶を探る。しばらくして、ようやく思い出した。そういえば、一度神さびに押し潰されそうになったところを、守哉に突き飛ばされて助けられた事があった。確かあの後、守哉の右足が押し潰されて、その右足を自分が切断したのだったが……
「あの時は、ヤツに助けてもらえんでもなんとかなったわい。余計なお世話というわけじゃ」
「呆れたね、そこまで言い切れるとは。百代目ならともかく、あの状況でお前が神さびを避けるのには無理があるよ。受け止める事もできない以上、あの時百代目がお前を助けなければお前は死んでいたね」
「そんな事はないわい!わしは百戦錬磨の神和ぎじゃぞ!あの程度どうにでもなったわ!」
「そこまでして百代目に借りを作りたくないか……。強情なヤツだとは思っていたが、まさかこれほどまでとはね。まぁ、そう思っているなら好きにすればいいさ。もう、百代目もお前を救おうとは思うまいよ」
「小僧の事なぞ知るか。用が済んだのならとっとと消え失せろ!」
「はいはい。私としても、お前の気持ち悪い顔は長く見ていたくないからね。さっさと退散させてもらいますか」
肩をすくめてそう言うと、神様は姿を消した。
一人残されたトヨは、改めて自らの両手を見た。血まみれになった両手には、左右どちらの手からも薬指がなくなっている。血は止まり、傷は少しずつ塞がりつつあるが、痛みは中々収まらなかった。
「ちっ……。これでもう、魔刃剣は抜けんか」
そう、これで失ったものは薬指だけではない―――いや、そもそも神様が薬指を引き千切ったのは、トヨの薬指に刻まれた聖痕を奪うためなのだ。
聖痕はいわば、魔刃剣の鞘のようなもの。鞘がなければ、魔刃剣は抜刀できない。
そして、同じく聖痕を用いる精霊術も使えなくなってしまった。
失ったものは大きい。しかし、この程度は予想の範囲内でもある。
「……要は、心の輪廻さえあればよいのじゃ。存在さえ消えてしまわなければ、わしの計画は遂行できる」
それに、今回の契約は遅かれ早かれいつかしなければならなかっただろう。3年前に七瀬にかけた服従の言魂は解けかけていたのだから。
魔刃剣を失った事を後悔はしていない。第一、守哉の戦闘能力を考えると、もう自分の助けは必要ないだろう。今の守哉ならば、問題なくノルマを達成できるはずだ。
そう、ノルマだ。守哉があと三体神さびを倒せば、継承の儀を行える。既に布石を打ってある以上、そうすれば後はこちらのものだ。
「よもや、七瀬の頼みならば、百代目も断ろうとはしまいて……」
不敵に笑い、トヨはそう呟く。
老婆の陰謀に気づいている者は、未だ誰一人としていなかった。