第86話 “一つの覚悟”
もう、何が何やら。
「………」
港に一人残された守哉は、ぼんやりと暗い海を見つめて突っ立っていた。
ここまでを整理すると、まず守哉は今日、学校を休んで二橋家を訪ねた。二橋文江に迎えられ、旧神奈備島古事録を見せられた。その途中、七美が帰宅して二橋家が七美の居候先である事が判明し、何だかんだで旧神奈備島古事録に関する説明は後回しに。そんで夕飯を食べた後にベランダで黄昏れてたら七美が来て……すぐどっか行って、気づいたら神様がいて港まで来るはめに。そこには何故か七乃が二人いて、そのうちの一人と戦った挙句に一人は逃げて一人は消えてしまった。
「……もうわけがわからねぇ。とりあえず帰るか……」
先ほど来た道を引き返し、二橋家へ戻る事にする。
神奈備島の夜は静かだった。天津罪の掟があるために夜外出する人間がいないから、というのもあるが、滅多に虫が鳴かないせいでもある。これは、最近気づいた事だ。
人は出歩かないが、街灯は存在する。七瀬いわく、修祓のために夜出歩く神和ぎのためにわざわざ設置されたものらしい。
まぁ、それはいいとして。
「どうして七乃がいたんだ……」
七乃と最後に会ったのは、神奈裸備島の磐座機関本社ビルで、自分が二度目の脱出を図ろうとした時だ。あの時七乃は、とてもではないが外出できる状態ではなかった……というか、外に出られるわけがなかった。
だが、今夜出会った七乃は、あの時とは違い髪の毛があったし、左手もあった。身体中に穴も開いてなかったし、普通に喋れていた。
「そういえば、七乃は神様が助けてくれたって言ってたな……。それに、島まで来れたのはいいけど、とも言っていた。という事は、島までは自力でやってきて、神様が何かしたおかげであの状態になったってわけか」
しかし、それでも疑問は残る。最大の疑問は、どうやって七乃はこの島まで来たか、だ。まさかあの水槽から抜け出してきたとも思えないし、たとえ神奈裸備島に七乃を助けようとする人間がいたとしても、七乃があの状態では水槽から外に出そうとも思うまい。
「……これ以上一人で考えても仕方ないか」
軽くため息をつく。わからない事だらけで頭がパンクしそうだった。
ただ、これだけはわかる。どこか、自分の知らないところで、何かが起こっているという事。そして、それには七乃が関わっているという事。
しかし、考えようによってはこれはチャンスかもしれない。七乃が外に出ているという事は、七乃を助けるチャンスもあるかもしれないという事だ。
話した時間は短いけれど、七乃は七瀬の家族なのだ。助けないわけにはいかない―――
「―――助けてみせるさ、絶対に。なんたって、俺は守哉お兄ちゃんなんだからな」
まずは、文江に旧神奈備島古事録について聞く。そして、七乃に関する情報を集める。
自分にできるだけの事をやろうと、守哉は密かに決意するのだった。
☆ ☆ ☆
守哉が港を離れた後。
一つの影が、港へ上陸した。
「………」
それは、先ほど守哉と戦った少女。七乃と瓜二つの少女であり、常に無表情を浮かべている少女だった。
「……どこへ、行ったんですか」
水浸しのまま、少女は歩く。
夜風は寒い―――身体が濡れていれば尚更そう感じるだろう。しかし、少女は寒さなど微塵も感じていないのか、身体を震わせる事なく歩いている。
「逃がしません。あなたは私、私はあなた……絶対に、私はあなたを連れて帰ります」
何の感情も込めず、少女はただ呟く。
ぽたぽたと水滴を落としながら、少女はこの島のどこかにいるであろう、もう一人の自分を探してさまよい始めた。
☆ ☆ ☆
「遅かったですね。どこへ行っていたんですか?」
帰ってきた守哉をそう言って出迎えたのは、ポニーテールの少女―――七緒だった。
疑うような目線をこちらへ向ける七緒は、どうやらこちらを警戒しているらしい。この島の島民なら仕方ないだろう。冷たい目で見られるのもいい加減慣れるものである。
「ちょっと、港まで。人に呼び出されてな」
守哉は正直に答えた。隠しても仕方がないし、言ったところで何も困らないからだ。
「ふ~ん……まぁいいですけど。あんまりお姉ちゃんを心配させないでくださいね」
そう言うと、七緒は廊下の奥の部屋に入っていった。
果たしてそれは、どのお姉ちゃんを指して言った言葉なのか。その答えはわからなかったが、いちいち聞く気もしなかった。というか、少し気にしすぎかもしれない。七乃の一件があるせいか、人の言葉に過剰に反応している気がした。
「そうだ、文江さん。まだ起きてるかな……」
気づけばそれなりに時間が過ぎている。老人なら就寝していてもおかしくない時間だ。
恐る恐る仏壇のあった部屋を見てみると、文江は古びた本―――旧神奈備島古事録を広げて考え事をしている最中だった。
話しかけようか迷っていると、守哉の存在に気づいたのか文江は振り返り、
「お帰り。用事はもう終わったのかい?」
「ええ、まぁ。それで、あの……」
「ああ、あんたの言いたい事はわかるよ。旧神奈備島古事録の説明をしてほしいんだろ?こっちにおいで」
中へ入り、後ろ手で障子を閉める。
適当なところに座ると、文江は説明を始めた。
「前に言ったとおり、この本は大呪法の一種さ。そして、この島で唯一天照大神に記録を喰われない歴史書でもある」
「歴史書……って事は、この本には神奈備島の歴史が記されているんですか?」
「そうさ。というか、この本―――旧神奈備島古事録は、天照大神の精神の一部を切り取り、封じたものだといわれているのさ。この本は大呪法の媒体であり、大呪法そのものでもあるんだよ」
神の精神を封じた書物―――それが旧神奈備島古事録というわけか。
だが、だとしたら―――何故、わざわざそんな事をしたのだろうか。
「腑に落ちないようだね。疑問があるなら言ってごらん」
「……何で、神様の精神を封じたりしたんでしょう?そもそも、一体どうやって封じたんです?」
「さぁねぇ。ただ、この本を作ったのは初代神和ぎだといわれてる。初代神和ぎは絶大な力を持っていたというから、たぶんその力で封じたんだろうよ」
「ふーん……。初代神和ぎが、ね……」
初代神和ぎ―――未鏡守人。強すぎる言魂の影響で、精神が擦り切れて廃人同然となった男。
そして、恐らくは未鏡家の祖先であろう人物―――
「ただ、初代神和ぎは志半ばで死んでしまったという話だからねぇ……もしかしたら、誰かに引き継いでもらいたかったんじゃないのかねぇ。自分の目的を、さ」
「初代神和ぎの目的ね……」
優衣子いわく、初代神和ぎは天照大神の力を使って独自の軍事力を作ろうとしたという。
天照大神の力―――言魂。そしてそれを使える神和ぎ。軍事力とはつまり―――兵隊。
だとしたら、初代神和ぎ―――未鏡守人の目的は―――
「まさか……初代神和ぎは、神和ぎを量産しようとしたのか……?」
神和ぎの量産。にわかには信じられない話だが、その可能性は十分にある。
絶対輪廻の影響で言魂を使えるようになった忠幸。何故、磐座機関がそんな事をしたのか―――その答えが、神和ぎの量産なのだとしたら。普通の人間に神和ぎの力をコピーし、神和ぎを量産しようとしているのだとしたら。
しかし、それでは旧神奈備島古事録が何のためにあるのかがわからない。忠幸が言魂を使えるようになっている以上、白馬は旧神奈備島古事録がなくても初代神和ぎの目的を果たせるのではないだろうか。
「まてよ……今まで旧神奈備島古事録を読んだ人間が何人ぐらいいるかわかりますか?」
「何言ってんだい、そんな事あたしにわかるわけないじゃないか。……でもまぁ、そうだねぇ……確実に、栄一郎が読んでいる事だけはわかるよ。何せ、この本の説明をしたのはあの男だからねぇ」
栄一郎は白馬の仲間だった。という事は―――白馬も旧神奈備島古事録を読んでいる可能性がある!
「なぁ、文江さん……鯨田の本名って知ってますか」
「本名も何も、鯨田栄一郎があいつの名前じゃないのかね」
文江は鯨田栄一郎という名前が縛名である事を知らない。栄一郎は死んだ事になる前も鯨田栄一郎だったと見て間違いないだろう。つまり栄一郎は、文江に旧神奈備島古事録を渡した時点で白馬の操り人形だった。
その栄一郎がどうして文江に旧神奈備島古事録を渡したのか―――いや、渡せたのかはわからないが、なんにせよ、この本を読めば、白馬のやろうとしている事がわかる可能性はある。
だとしたら。迷ってなど、いられない。
「文江さん」
「なんだい、まだ何かあるのかい?」
「お願いです。この本を読ませてください」
「……そいつはできないね。説明してなかったが、この本は普通に読もうとしてもダメなのさ。普通に読もうとしても、この本に書かれた呪言が邪魔をする。呪言が、全てのページを白紙にしちまうんだよ」
「でも、俺には呪言は読めませんでした。という事は、普通に読める可能性はあります」
「それだけじゃないよ。この本には、神和ぎが読んだ時のための罠が仕掛けてある。表紙の裏には服従の言魂を使った事のある神和ぎに対する罠が……そして、途中のページにもね」
「覚悟はあります」
「何の覚悟だい?何も知らない小僧が、知った風な口を利くんじゃないよ」
厳しい言葉。だが、その程度では怯まない。
臆してはいけない―――
「俺は、この島の事が知りたい。この島に生きる大切な人達を守るために、この島の事が知りたいんです」
真っ直ぐに、文江の瞳を見つめ。
守哉は、自らの決意を告白する。
「もう、何も知らないままなんて嫌なんです。だから、お願いです。どうか、この本を―――俺に、読ませてください。お願いします!」
勢いよく頭を下げて、守哉は懇願した。
自分でもヘンな事を言っているとは思うが、これが今の自分にできる精一杯の事なのだ。それに、以前ここを訪ねたであろう優衣子もこうしただろう。こうやって、この島の事を知ろうとしただろう。
そんな守哉の想いをどう受け取ったのか、文江は大きくため息をつくと、
「……あんたは、前に来たあの子と本当にそっくりだねぇ」
「………」
「本当は、少し説明しただけで終わろうと思っていたが……仕方ないね。あの時と同じだが、読ませてやるよ。旧神奈備島古事録をね」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、何が起きてもあたしゃ知らないよ。責任は自分でとる事だね」
「はい!」
文江は立ち上がると、旧神奈備島古事録を残して部屋を出て行った。どうやら、後は勝手に読めという事らしい。
「……よし」
目の前に置かれた旧神奈備島古事録を見つめ、守哉はごくりとつばを呑み込んだ。
本を手に取る。表紙に手をかけ―――一気に、めくる。
瞬間、本から光が溢れ出し―――守哉の視界は真っ白に染まった。