番外編その3 “七瀬の某日”
神代家の台所、その隣が七瀬に与えられた部屋だった。
六畳一間という、個人で使うには少々広めのその部屋は、七瀬にとっては一日の大半を過ごす場所である。というのも、七瀬がこの島では珍しいインドア派の人間だからだ。外で遊ぶ事は滅多になく、外に出る時は買い物か、訓練か、学校に行く時くらいだ。
では、部屋にこもって何をしているのかというと、大抵は呪法の道具を作ったり、神奈備島や呪法に関する書物を読みふけったり、呪法の練習をしたりしている。いくらトヨの教育方針とはいえ、年頃の少女にしては非常に暗い趣味であった。
しかし、今日に限っては少々趣が違うようだ。
☆ ☆ ☆
目の前には、数学のプリントがある。
「………」
呪法のエキスパートとして守哉達の戦闘のサポートを行っている七瀬だが、本来はごく普通の中学生である。だから、恋もするし勉強もする。そして、今日は勉強をしているのである。黙々と。
「……わかんない」
かりかりと進んでいた鉛筆を止め、七瀬は呟いた。
ぶっちゃけ、七瀬は勉強が苦手である。特に数学は苦手だ。数字がたくさん並んでいるのを見ると頭が痛くなる……ほどではないが、少なくとも数学の成績はよくない。
「……む~」
鉛筆の先端で消しゴムを転がす。愛用している円柱形の消しゴムは、ころころと小さな音を立てて机の上を前後に転がっている。七瀬自身は気づいていないが、これは七瀬の癖であった。
「……すうがく、キライ。数字ばっかでわけわかんなくなる……」
ぐったりと机に突っ伏す。ひんやりと冷たい机の上は、この上なく気持ちよかった。
大体、先生が悪いのだ。いくら小テストの点数が悪かったからって、何も宿題にこんなプリントを出さなくてもいいではないか。意地悪だ。
「……そうだ、きょうかしょ……」
ゆっくりと起き上がり、机の横に置いていた数学の教科書を取り出して、目次を開く。プリントに書かれた問題から出題範囲を割り出し、それらしい事が書いてあるページを開いた。
数字の羅列に、小難しい文字が並ぶ教科書。自然と情けなく顔をふやけさせながら、七瀬は必死に問題を解く……もとい、解こうとする。
が、うまくいかない。
「……わかんないよぅ……」
このままではいけない。白紙で出せば、数学の先生はきっと怒るだろう。怒って、放課後に補習を受けさせられるに違いない。それは嫌だ。ただでさえ苦手なのに、放課後まで数学の勉強だなんて、真っ平ごめんである。
だが、それを理由に焦っても仕方がない。数学だからといって回転しようとしない頭を必死で回し、鉛筆を動かす。
が、うまくいかない。
「……はぅ……」
握った鉛筆を放り出し、ぽてっ、と再び机に突っ伏す。どう考えても間違いである答えを消しゴムで消し、再び鉛筆を握る。
と、そこで気づいた。答えと一緒に名前まで消してしまった事に。
「……うーん……重症かも」
考えすぎて知恵熱でも出たのか、何だか頭が回らない。いや、それはさっきからそうなんだけど、でも今はさっきよりも回転数が落ちている気がする。
気を取り直して名前を書こうとし―――ふと、ある事を思いつく。
「……ちょっとだけ……」
かりかりと、丁寧に名前を書く。悪戯心を込めて、書く。
気づいたら、名前の欄には未鏡七瀬、と書かれていた。
未鏡七瀬。えへ。
「……っ!!!」
顔をトマトのように真っ赤にしつつ、ごしごしごしと名前を消す。
えへじゃない何やってんだろうわたし、いやでも将来的にはそうなったらいいなぁとは思っているけれどもそれはやっぱりかみやの意思を尊重するべきであってわたしのことはどうでもいいし別にかみやが他の女の子と結婚しても別に構わないのだけれどもやはり奥さんの座は譲れないかなーなんて思ってたりしてないしてないヘンなこと考えちゃダメーっ!!!
「……あぅあぅあぅ……」
ぶんぶんと頭を振りつつ余計な考えを振り払おうとする。しかし、一度始まった妄想は中々止まらないものである。ましてや、七瀬は中学2年生。青春真っ盛りな年齢である。勉強はするが、それ以上に恋もするのである。
だから、守哉とデートしたいなーとか、守哉とちゅーしたいなーとか、思っちゃっても仕方ないのである。
(………ヘンなこと考えちゃダメ、ヘンなこと考えちゃダメ………!)
一度でいいから、あなた☆とか呼んでみたいなー。
「……あぅぅ……」
一度でいいから、背中を洗ってあげたいなー。
「……あぅあぅ……」
一度でいいから、一緒のおふとんで寝たいなー。
「……あぅあぅあぅ~……」
一度でいいから、ピーしてピーしてピーして―――
「……って、そんなことまで思ってない!」
「ひゃぁっ!?」
がばっ、と頭を上げて振り向くと、そこには七美がいた。
「……七美おねえちゃん。邪魔しないでって言ったのに……!」
「あ、あははははー。いやね、勉強はかどってるかなーって思ってさ」
「……おねえちゃんのせいではかどらなくなった」
「ごめんごめん。せっかく遊びに来たのに、七瀬ったら構ってくれないんだもん。おかげで暇なのよね」
はぁ、とため息をつく。この姉は、守哉が来ないといつも構って構ってとうるさいのである。七瀬は世話好きなので別に嫌とは思わないのだが、こういう時はさすがに自重してほしいものだ。
「……もう……あと少しで終わるから、それまで待っててよ」
「えー。そうは言うけど、全然終わってないじゃん。ていうか白紙じゃん。名前まで書いてないし」
「……そ、それは……後で書くもん」
「ふふん。何て書くの?神代七瀬?それとも……」
未鏡七瀬?
「……っ!!!」
耳元で囁かれ、七瀬の顔が真っ赤に染まる。
思わずぽかぽかと七美の頭を叩きつつ、
「……も~!!いつから見てたの~!!」
「あはは、あんたがちょっとだけ……とか呟いたあたりから……って、痛い。痛いよ七瀬。ちょ、ちょっとそれ呪法発動してるからしてるから痛い痛いあいてててててっ!!」
言われて気づいた。いつの間にか呪法が発動している。あわてて呪法をカットした。
「……ご、ごめんねおねえちゃん。だいじょうぶ?怪我してない?」
「だ、大丈夫よ。もう、気をつけてよねー。これ以上馬鹿になったらどうしてくれんのよ」
そういえば、七美も自分と同じで勉強はあまり得意ではないのだった。
「ていうかさ、何でそんな急いでやってんの?別に後でもいいじゃん」
「……もうすぐかみやが来るから、それまでに宿題終わらせたいの」
「え、守哉来るの?いつ?何時?」
七美の表情がほころびる。何というか、とても嬉しそうに見えた。
「……嬉しそうだね、おねえちゃん」
「なっ、ばっ!馬鹿!嬉しくないわよ別に!守哉が来るからって、そんな喜ぶわけないじゃない!」
今度は七美が顔を真っ赤にする。腕を組んでそっぽを向く七美は、普段よりもずっと可愛らしく見えた。
「……隠さなくてもわかるよ。おねえちゃん、すごく嬉しそうだもん」
「う、嬉しくないって言ってるでしょ!?ていうか、なんであんたまで嬉しそうにしてんのよ!」
「……あんたまで?」
「!!あ、ちょ、今のなし!今のなしだから!忘れなさいよ!」
この前は素直だったくせに、何て思ってしまう自分は意地悪だろうか。でも、いつもは七美の方が意地悪なのだ。このくらい、神様も許してくれるだろう。
そうだな。でも、お前はもっと嬉しそうじゃないか。そんなに百代目に会えるのが楽しみなのかい?
「……?」
「どうしたのよ?」
「……今、誰かの声が聞こえたような気がして……」
「誰か?誰かって、誰よ?」
「……誰って、えっと……」
聞き覚えのあるような、ないような―――よくわからない声。かろうじて女の子の声だという事はわかったけれど、それ以外はまったくわからない。
そういえば、誰かの声に似ている気がした。普段からよく聞いている声で、耳に強く残っている声。
大好きなあの人に似た、あの声は―――
でも、残念だったね。しばらく百代目は来ないよ。
「……!」
「今度はどうしたのよ」
「……また、聞こえた……」
「またって、さっき聞こえたっていう誰かの声?」
「……うん」
七美にジェスチャーで静かにするよう伝え、耳を澄ませてみる。
すると、また声が聞こえてきた。どこか、遠くから―――島のどこかから。
百代目は今、私と楽しくお喋り中だ。百代目は時間も忘れてお喋りに夢中なようなので、もしかしたら今日はもうお前のところには行かないかもしれないね。
「………」
「な、何て言ってるの?ねぇ、七瀬ったら」
ふふふ、百代目の笑顔を見るのはとても楽しいよ。それを私が独り占めしていると思うと、尚更気分もいいってものさ。
「……むぅ~……ずるい」
「え?え?何?ずるいって、私が?え、何が?」
悔しいかい?悔しいだろう。でも、百代目は譲らないよ。普段はお前の方が百代目と一緒にいるんだから、たまには私に貸してくれたっていいだろう?
「……かみやは貸したりするものじゃないもん!」
「な、何言ってるのよ……七瀬、もしかして勉強のしすぎで頭おかしくなったの?」
ま、返してあげないけどね。やーいやーい。
「………」
「ちょ、ちょっとどこ行くのよ?もうすぐ守哉が来るんじゃないの?」
「……迎えに行くもん」
「え?宿題は?」
「……それどころじゃないもん!」
そうだ、今ならおねだりしたらちゅーくらいしてくれるかなー。百代目は優しいからなー、してくれるだろうなー。よし、そうしよう!
「……!!!」
「ちょ、ちょっと、何怒ってんの?え、ちょっと!七瀬ー!」
気づいたら、全速力で駆け出していた。靴を履くのも忘れて神代家を飛び出して、向かうは守哉の住む磐境寮。
そんなこんなで後先考えずに飛び出した七瀬だったが、結局守哉にけげんな顔をされるだけで終わってしまうのであった。
ちなみに宿題は守哉に教えてもらい、なんとか提出する事ができましたとさ。