第77話 “好きな人のために”
翌日。
神代家の客間で、七美は目を覚ました。
「……気がついたんだね、おねえちゃん。よかった……」
心の底からほっとしたような、七瀬の声。見ると、涙ぐんだ七瀬が傍にいた。
見慣れた天井を見て、ここが神代家である事はすぐにわかった。どうして自分が寝かされているかも、わかってしまった。
ぼんやりとした頭で、先日の出来事を思い出す。油断して、神さびに取り込まれて……利用された事を。
繭の神さびが自分を取り込んだのは、人間の持つ感情の一部を増幅し、それを他者に植え付けるためだった。七瀬達が苦しめられたあの毒は、元々は七美が抱いていた感情だったのだ。その感情は、増幅された結果、心だけでなく身体にも強い影響を及ぼし、七瀬達の戦闘を大きく阻害したのである。繭の神さびが倒された事により毒は消滅し、植え付けられた感情も消えたのは幸いだった。少なくとも、解毒の手間は省けたのだから。
自分が情けなくて、涙が溢れそうだった。何もできず、ただ守哉達の足を引っ張っただけの自分が、殺してしまいたいほど憎たらしい。
「……私って、馬鹿よね」
「……お姉ちゃん?」
「調子に乗って戦場に出てみたら、油断して敵に捕まって……。おまけに、神さびなんかに利用されて」
歯を食いしばり、溢れ出そうになった涙を堪える。
でも、無理だった。堪えきれなかった涙は、目の端から溢れ出て頬を伝っていく。
「ホント、私って……情けないヤツよね」
口に出してみると、それは大きな重みとなって七美の心にのしかかった。
ぽろぽろと涙がこぼれる。悔しい、情けない―――死んでしまいたい。その方が、皆のためだと思ってしまう。
これ以上、自分が生きていても、皆の足を引っ張って迷惑をかけるだけじゃないか―――
「……お姉ちゃんは、情けなくなんてないよ」
不意に、重たい静寂を破って七瀬が言った。
「……情けなくなんてない。絶対ない。だって、初陣で初めて神さびを見ても、お姉ちゃんは勇気を出して立ち向かっていったじゃない」
「それは、皆がいたからよ……。大体、そのせいで私は捕まって……」
「……捕まったお姉ちゃんを責める人なんていないよ。むしろ、みんな心配してくれてるよ。おばあちゃんも、ゆいこさんも……それに、かみやも」
「守哉か……。ふふふ、きっと笑ったでしょうね。あれだけ意気込んでおいて、敵に捕まったんだもの。笑われて当然だわ」
「……かみやは笑ってなんかいなかったよ。おねえちゃんが捕まって、ずっと心配してたもの」
「……そっか。あいつ、心配してくれてたんだ……」
それは、少しだけ嬉しい事であり―――それ以上に、情けない事だと思った。
守哉の力になりたいと思い、戦場に出る事を決意してみれば、この有様だ。今思えば、未熟者の分際で神和ぎを助けたいなどと、恐れ多いにもほどがある。
いや、違う。守哉の力になりたいと思ったのは本当だ。でも、戦場に出る事を決めた本当の理由は別にある。
七瀬が。その卓越した呪法の技術を駆使して守哉と共に戦う七瀬が、羨しくて仕方がなかったのだ―――
「ねぇ、七瀬……」
「……なに?おねえちゃん」
「七瀬は、守哉の事、好き?」
「……好きだよ。大好き」
「だったら七瀬は、守哉の事が好きだから戦うの?守哉と一緒に、神さびと」
「……それはたぶん、違うよ」
「じゃあ、何で?」
「……わたしは、この島を守りたいの。この島と、この島に生きる大切な人たちを。おばあちゃんに言われたからっていうのもあるけれど、それ以上にわたし自身がこの島を守りたいって、そう思ってるんだよ」
恥ずかしそうに、七瀬はそう答えた。
七美は少し意外に思えた。七瀬は、守哉のために戦っているのだと思っていた。七瀬が神さびとの戦いに付いていくようになったのは守哉がこの島に来る以前からだけれど、今の七瀬が神さびと戦う理由は守哉がいるからなんだと、ずっとそう思っていた。
「七瀬は偉いね。私なんかとは大違い……」
「……どうしてそんなこと言うの」
「……私はね、七瀬が羨ましい。守哉と一緒に戦える七瀬が。守哉の傍で、守哉の力になれる七瀬が」
そして、守哉に想われている七瀬が。
羨ましくて、仕方がなかった。
「……おねえちゃん」
「私もね、守哉の事、好きだよ。いつの間にか、好きになっちゃったの」
「………」
「好きで好きでたまらないんだ。気づいたら、あいつの事考えてる。あいつの傍にいて、あいつに愛してもらいたいって、そう想ってる」
「……好きな人が出来たら、誰だってそうだよ」
「でも、私はそのせいで皆の足を引っ張った。私が守哉を好きだったせいで皆を苦しめた」
「……そんなことないよ」
「だってそうじゃない。私が守哉を好きじゃなければ、あんな事にはならなかったもの。そもそも戦場に出ようなんて思わなかったもの」
「……そんなこと、ない」
「私なんかが……守哉の事を、好きになっちゃいけなかったんだ」
「……そんなことない!!!」
七美は驚いて七瀬を見た。
七瀬が大声を出すなんて、滅多にない事だったからだ。
「……人を好きになるのは当たり前だよ。それの何がいけないっていうの」
「それで人に迷惑をかけるなら、それはいけない事なのよ……」
「……ばか!そんなの、目を背けてるだけじゃない!誰だって、嫌われるより好かれた方がいいに決まってるよ!なのに、人を好きになることのどこがいけないことなの!?」
「だって!私は皆の足を引っ張ったじゃない!最初から最後まで、ずっと役立たずのままだったじゃない!守哉の力にだってなれなかったじゃない!!」
「……おねえちゃんは役立たずなんかじゃない!だって、おねえちゃんは、一人で戦ってたわたしのために、かみやを呼んできてくれたよ!わたしを助けてくれたよ!」
「あの時七瀬を助けたのは私じゃない、守哉よ!守哉が、ボロボロになってまで、あんたを……!」
「……でも!おねえちゃんがかみやを呼んで来てくれなきゃ、わたしは死んでたよ!おねえちゃんだって、わたしを助けてくれたんだよ!それは―――」
七瀬は七美の手を取り、ぎゅっと握り締め、言った。
「……それは、おねえちゃんがかみやの力になった証拠だよ!おねえちゃんは、かみやの力になってわたしを助けてくれたんだよ!おねえちゃんは―――誰かの力になれるんだよ!」
誰かの力に、なれる。
自分は役立たずじゃ、ない―――?
「わ、私は……」
「……だから、一度つまづいただけで諦めないで。がんばって、もう一度かみやの力になろうよ」
気づけば。
涙は、止まっていた。
「私、なれるかな……守哉の、力に」
「……なれるよ、おねえちゃんなら。だって、わたしたちはかみやのことが大好きなんだから」
にっこりと、七瀬は微笑んで答える。
その瞳の奥には、強い意志の光を感じた。想い人の力になり、支えになりたいという、強い願望と決意の光を。
そう―――好きな人を助けたいと想うのは当たり前の事なのだ。今回は、その想いが空回りしてつまづいてしまっただけ。
諦めなければ、その想いはきっと叶うのだ。七瀬を見ていればわかる。好きな人の力になって、好きな人を助けている七瀬を見ていれば、いつか自分も七瀬のようにもなれるはずだ。こんな事で諦めていては、恋敵に申し訳ないじゃないか。
「……そうよね」
ぎゅっと、七瀬の手を握り返す。七瀬と同じ、好きな人の力になりたいという想いを込めて。
「じゃあ、一緒に頑張ろっか。守哉のために」
「……うん。がんばろ、かみやのために」
きっと、自分は追いつける。だって、自分も七瀬と同じくらい、守哉の事が好きだから。
七瀬のように、ではなく、自分なりのやり方で守哉の力になろうと、そう七美は決意するのだった。
☆ ☆ ☆
放課後。守哉は、神代家に寄り道する事にした。
あれから、右足も右目も絶好調だった。右足は走っても痛まないし、右目は前よりもよく見えるようになったくらいだ。
本当に、栄一郎と藤丸に感謝しなければならない。あの二人は、自分のために命を捨てて力になってくれたのだから―――
「……どうしたの、かみや?」
その声で守哉は我に返った。少々物思いにふけりすぎたらしい。
ここは既に神代家。そして、七美が寝かされている客間なのだ。
「悪い、ちょっと考え事してた。それで、何だ?」
「……あのね、前に、全部終わったら言うって、いったじゃない?」
そういえば、以前いつも世話になっている七瀬にお礼をしたいと言った事を、守哉は思い出した。
「ああ、お返しの事か。考えてくれたのか?」
「……うん。それでね、いろいろ考えたんだけど……やっぱり、これが欲しいかなって」
そう言って七瀬が差し出してきたのは、守哉がいつも着ているボロボロの青いパーカーだった。
昨日帰った時に七瀬が持って帰ってしまったと聞いて不思議に思っていたが、まさか欲しがっていたとは。さすがに驚かざるを得ない。
「別にいいけど、何でそんなもんが欲しいんだ?凄くボロボロなのに」
「……だって、かみやはこれが大切なんでしょ?」
「まぁ、ずっと愛用してきたからな……。それなりに思い入れはあるけど……」
「……だったら、わたしにとってこれ以上欲しいものはないよ。かみやにとって大切なら、わたしにとっても大切だもの」
はにかみながら七瀬は言った。そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。
それに、それだけ自分の事を慕ってくれているというのなら、尚更だ。パーカーも七瀬がもらってくれるのなら満足だろう。
「……だから、もらってもいい?」
「ああ、いいよ。むしろ、そんなんでいいのかって思うくらいだ」
「……あ、あとね。もらってばかりじゃ悪いから、これ……あげる」
今度は脇に置いていた紙袋を差し出して、七瀬は言った。
何かと思い丁寧に開けてみると、中から出てきたのは新品の青いパーカーだった。前まで着ていた青いパーカーと違い、背中に何故か温泉マークが描かれている。さらに、そのマークを囲むように不可思議な紋様が縫い付けられていた。
「これって……」
「……神奈裸備島に行ったときに買ったの。呪法を仕込むのに時間がかかったから遅くなっちゃったけど……」
「でもこれ、高いんじゃねぇのか?結構良い生地使ってるみてぇだし」
「……かみやのために買ったんだから、遠慮せずにもらってほしいな。その方がわたしも嬉しい」
「……そっか。なら、遠慮せずにもらうよ。さんきゅ、七瀬」
早速、パーカーを着てみる事にする。サイズは少し大きかったが、自分としてはちょうど良いくらいだった。
「……似合ってるよ、かみや」
「そうか?でも、これもらったんじゃ、またお返ししなきゃいけないな」
「……そんなのいいよ。このパーカーと交換したと思えば……」
「それじゃ俺の気が治まらねぇよ。なんか他にないか?欲しいものとか、してほしい事とか」
「……してほしいこと……。じゃ、じゃあ……一つだけ」
「なんだ?何でもいいんだぜ」
七瀬は頬を赤く染め、身を乗り出して言った。
「……今度、お、お泊まりに来て欲しいの」
「お泊りって……ここにか?」
「……う、うん。……ダメ?」
瞳を潤ませ、上目遣いで七瀬が覗き込んでくる。
お泊り。神代家で―――女の子の家で宿泊。
断るわけがない!
「わかった。じゃあ、今度泊まりに来るよ」
「……ホント?」
「ああ。優衣子さんも誘っていいか?こういう機会は滅多にないしな」
「……え……う、うん。いいよ。おばあちゃんはわたしが説得するから、安心してね」
七瀬は何故か少し残念そうにしていたが、守哉は気にしない事にした。
今回は色々あった。中でも、空貴が磐座機関の人間だったという事は、知った時こそ冷静だったものの、少なからず衝撃的な事実だった。
もしかしたら、磐座機関に関係する人間はまだこの島にいるかもしれない。それも、自分の身近な場所に。
右足のアンテナがなくなった今、磐座機関は神和ぎのデータを取る事ができない。だとしたら、磐座機関は何らかの形で動き始めるだろう。下手をすれば、自分の大切な人達にも危険が及ぶ可能性もある。
この島に生きる大切な人達を守るために、自分にできる事をやらなければならないと、守哉は思った。