第76話 “天翔る駆雀”
「……はぁっ……!あっ……う……!」
胸を押さえてうずくまり、七瀬はうめいた。
グラウンド全域を覆うように降り注ぐ謎の粉に気づいたのは、異常な胸の高鳴りを自覚し始めてからだった。優衣子が必死に風の障壁を展開してくれるおかげで今は降りかかってはこないが、既に遅い。おかしな症状が出ているのだ、間違いなくこれは神さびの毒だろう。
それにしても、おかしな毒である。強制的に発情させ、性欲を倍増させる効果を持つ毒など、戦闘では役に立たないと思っていたが―――甘かった。毒が全身に回りきった今では、戦闘持続が困難になってしまっている。神さびもよく、こんなものを考えたものだ―――
(……違う……。これは、もしかして……)
そういえば、粉が降り注いでいる事に気づいた時、何者かの思考が、感情が―――ほんのわずかに流れ込んできた。
その感情は、誰かを想う強い気持ちだった。同時に、その人に抱かれたいという想い―――一つになりたいという想いが、その想いを押し止めるために自らを慰めたいという想いが、心の中に流れ込んできた。
七瀬にはわかった。全てが理解できたわけではないけれど、七瀬は知っていた。この感情の正体を。
この感情は、まさしく愛だ。そして、神さびが愛という感情を知っているわけがない。
だとしたら。この感情の根源は……神さびの狙いは―――
「七瀬ちゃんっ!」
優衣子の声。我に返った七瀬は、何も考えずに横へ飛んだ。瞬間、獣の神さびが先ほどまでいた場所を駆け抜けていく。
危なかった。礼を言おうとして優衣子の方を見ると―――優衣子は、魔刃剣を杖代わりにして荒い息をはいていた。
「ダメよ、ぼーっとしてちゃ……!戦いに集中なさい!」
「……ごめんなさい。でも、これじゃ……こんな状態じゃ……」
「わかってる。でも、やらなきゃいけないのよっ……!」
優衣子の風が二人を包む。風は二人の身体を持ち上げ、獣の神さびから距離を取った。
優衣子の顔は赤い。はく息は荒く、時折艶かしい声を漏らして股間を押さえている。そんな状態で魔刃剣を扱えるとは、相当な精神力の持ち主だ。七瀬は素直に感心した。
だが、さすがの優衣子も逃げるのに精一杯だ。獣の神さびはじゃれるようにこちらを狙って暴れ狂っている。その攻撃から逃れながら攻撃できるほど、優衣子も慣れてはいないようだった。
「……ゆいこさん、わたしを降ろしてください。そうすれば、負担が軽くなるから―――」
「ダメよ。今のあなたを降ろしたら、次の瞬間には殺されるわ」
「……でも、このままじゃ逢う魔ヶ時が過ぎちゃいます!それまでに倒さなきゃ、みんな死んじゃうよ!」
「わかってるわよ!!でも、だからって私はあなたを見捨てたりなんかしないわ!」
「……どうして!?わたし、足手まといになんかなりたくない!」
「私だって、守哉を悲しませたくないわよっ!!!」
風に包まれ、二人の身体が何度も地面を跳ね、飛び回る。獣の神さびは唾液を撒き散らせながら二人を追い回し、暴れ回る。
疲れを見せる気配はない―――そう判断した優衣子は、無謀にも獣の神さびに急接近した。獰猛な牙が近づいて七瀬が冷や汗を垂らすが、その牙に触れる前に優衣子は真横へ逃げる。宙を噛んだ獣の神さびの口から唾液が飛び散り、獣の神さびの身体にわずかに付着した。
優衣子の意図に気づいた七瀬だが、それはすぐに無意味だと知った。何故なら、獣の神さびに付着した唾液はその身体を溶かさなかったからだ。
優衣子が大きく舌打ちする。瞬間、二人を覆っていた風の障壁が消滅した。空中に投げ出された七瀬は咄嗟に受身を取ろうとするが、身体が思うように動かない。それは優衣子も同様で、二人はグラウンドへ叩きつけられるように落下した。
「……っ!くぁ…………はぅっ!」
ビクン、と七瀬の身体が大きく跳ねた。突然、全身を快感が駆け巡ったからだ。
意識が飛びそうになったが、なんとか持ちこたえる。小刻みに痙攣する身体を必死に動かし、何とか神さびから逃げようとする。
神さびが近づく。七瀬がまともに動けない事を悟ったのか、舌なめずりしながらゆっくりと距離を詰めてくる。
「七瀬ちゃん、逃げて!!早く逃げなさいっ……!」
わかっている。だが、身体が動けない。動けば、異常な快感に襲われてしまう。
ハンドバッグに手を伸ばそうとするが、手が動かない。全身に仕掛けた呪法は精神力が足りず、助けてもらおうにも優衣子は自分と同じような状態で、トヨは上空の青龍の背にまたがってぐったりとしている。青龍も苦しげな表情で繭の神さびと必死に戦っていた。
「……う……あ……」
動かない身体を必死に動かし、七瀬は地面を這いずった。全身が性感帯になったかのように、身体が地面を擦る度に快感が奔り、七瀬の動きを大きく鈍らせる。
地面の震動を感じた。見れば、獣の神さびは既に目の前まで迫っている。
獣の神さびの口が大きく開く。唾液をこぼし、地面を溶かしながら牙が近づいてくる。
「……かみ……や……」
口から漏れるのは、愛する少年の名。
右足を失った今、決して助けには来れないであろう、少年の名前。
「……かみやぁ……!」
七瀬を喰らおうと、一際大きく獣の神さびは口を開いた。
死を覚悟して、七瀬が涙をこぼしながら唇を噛み締めたその瞬間。
一陣の風が、獣の神さびを吹き飛ばした。
☆ ☆ ☆
「―――……かみや!!!」
七瀬の声をその背に受けて、守哉は日諸木学園のグラウンドに降り立った。
道中、神様に大雑把であるが説明されたので、ある程度状況は把握している。とりあえず、繭の神さびの放つりんぷんには触れないよう、駆雀に風の障壁を周囲に展開してもらった。
右肩にわずかな重みを感じる。見ると、そこにはいつの間にか50㎝ほどの異形の鳥が乗っていた。孔雀に似た緑色身体に、紅く鋭い瞳を持つその鳥は、吹き飛ばされて起き上がろうともがく獣の神さびを見ながら守哉の心に問いかけてきた。
どうする?と。
「決まってる。倒すんだよ、二体とも」
守哉の声と心に呼応して、異形の鳥―――駆雀が羽ばたく。守哉の足元に降り立ち、巨大な風の尾羽を広げた駆雀は、突如その姿を消した。
次の瞬間、烈風が守哉の足元を覆いつくし―――その身体を宙に浮かせた。烈風はグラウンドの砂を巻き上げながら形を作り、サーフボードのような形へ変化する。
「―――飛べ、駆雀!!」
守哉が叫び、その身体が弾丸のように空中へと飛び出していく。
烈風を引き連れて空中をサーフィンするように空を舞う守哉は、立ち上がった獣の神さびへと肉薄する。
獣の神さびが吼える。咆哮と飛び散る唾液が守哉を襲うが、烈風がそれら全てを吹き飛ばす。
「―――風刃駆鎧!」
風の刃が守哉の周囲に吹き荒れる。暴れ狂う獣の神さびの牙と爪を潜り抜け、守哉は獣の神さびの周囲を踊る―――瞬間、獣の神さびを風の刃が包み込み、一瞬でその身体を切り刻んだ。
四肢を切り刻まれ、苦しみの咆哮をあげながら倒れこむ獣の神さび。守哉を乗せる駆雀は、一旦獣の神さびから離れ上空へと飛翔する。
日諸木学園の上空では、青龍が繭の神さびと戦っていた。しかし、その動きは鈍く、身体は傷だらけだ。肝心のトヨは青龍の背でぐったりとしている。
繭の神さびが青龍にとどめを刺そうと接近する。それよりも早く二体の間に割り込んだ守哉は、すれ違いざまに繭の神さびの羽を切り刻んだ。飛行能力を失った繭の神さびは、重力に引かれてグラウンドへと堕ちていく。
「駆雀、後は俺がやる!」
守哉の意思を読み取り、駆雀は落下する繭の神さびの真上まで守哉を運んだ後、唐突に姿を消した。
落下し始める身体。荒れ狂う風の中、守哉は左手を真下へ向けた。その手の平に刻まれた聖痕の前で右手を握り―――一気に引き抜く。
つばのない日本刀に、サファイアのように青く輝く刀身―――魔刃剣・氷鮫が日諸木学園の空を舞う。
今更、抜刀できた事に驚きはしない。もう、迷いは―――しない!
「凍てつけ―――破邪吹雪!!!」
魔刃剣を振るう。刀身から噴出する絶対零度の冷気が、破邪の刃となって繭の神さびを襲う。
冷気から逃れようと身体を丸める繭の神さびだが、既に冷気はその身体を捉えている。ただ身体を丸める事さえできないまま、繭の神さびは動きを止めた。
地面が近い。守哉は言魂を発動し、風を操作して動きを止めた繭の神さびに取り付いた。渾身の力を振り絞り、繭の神さびの背中を地面の方へと向ける。
「うぉらあああっ!!!!!」
繭の神さびの腹部にある緑色の球体に全力で拳を叩き込む。途端、球体に無数の亀裂が奔り―――粉々に砕け散った。
中に囚われていた七美の身体が開放される。守哉は七美を抱き上げると、魔刃剣を繭の神さびに突き刺した。
大量の冷気が繭の神さびを包み込む。瞬間、繭の神さびから巨大な氷柱が地面に向かって伸び、地面と繭の神さびをつなげると、落下の勢いを殺すように縮んでいく。
だが、それで落下の勢いは殺しきれなかった。轟音を響かせながら、繭の神さびはグラウンドへ落下した。
「っく……!」
言魂だけでは落下の衝撃は殺しきれなかった。全身を貫くように駆け巡る衝撃に、守哉は歯をくいしばって耐えた。
だが、繭の神さびはまだ死んではいない。それに、獣の神さびも。
守哉は、七美を抱きかかえたまま、一旦魔刃剣を引き抜くと―――再び、繭の神さびへと突き刺した。
「これで、終わりだ―――崩陣氷鮫!!」
凍てつく力が、繭の神さびを通じて地面へと伸び―――グラウンド全域を覆いつくしていく。
完全に地面が凍てついたその時、繭の神さびと獣の神さびの身体は一瞬で凍りついた。
「―――砕け散れ!!!」
守哉の声に呼応して、ガラスの割れるような音と共に凍てついた二体の神さびが砕け散る。
同時に、凍てついた地面も元へと戻り―――後には、呆然とする優衣子と七瀬、そして七美を抱きかかえる守哉だけが残された。