第65話 “嫉妬”
東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りさせていただきます。
優衣子の足元に出現した一匹のミドリガメを見て、守哉は呟いた。
「……なんだこれ」
どう見てもミドリガメである。手の平に乗せたらちょうどいいくらいの大きさだ。ミドリガメは優衣子を見上げると、重々しい口調で言った。
「……優衣子、久しいな。元気そうで何よりである」
「いいから自己紹介しなさい」
「ふむ、自己紹介なら以前済ませたはずだが……?」
「私じゃなくて守哉に!わかるでしょ普通!」
苛立ち始めた優衣子に怯みもせず、ミドリガメは緩慢な動きで守哉を見上げると、
「ふむ……これはまた、お美しいお嬢さんである」
「いや、俺は女じゃないんだけど」
「おや……女では、ない?ならば……ナメクジのようなものであるな」
「ちげぇよ!普通に考えればわかるだろ!?」
「普通に……?では、カタツムリのような……」
「さっきと同じじゃねぇか!俺は女じゃない、男だっての!」
「つまり……自分は男の娘だと、言いたいのかな?」
守哉がげんなりとした様子で優衣子を見ると、優衣子は大きなため息をついた。
「……だから呼びたくなかったのよ。改めて説明するけど、これが私の精霊術。名前は玄武よ」
「ありきたりな名前だな」
「でも妥当な名前ではあるでしょう?」
妥当……か?ミドリガメに玄武……合わない……。
守哉がどうでもいい事を考えていると、優衣子はどう見ても普通のミドリガメ―――玄武の上に足を乗せながら続けた。
「精霊術には二つの能力があってね。その一つが、大きさの変化。精霊術は状況に応じて大きさを変えられるって事なんだけど……今日はまた、ずいぶんとちっこいわね」
「……重い。優衣子、重いのである。愛のムチはやめたまえ」
「そしてもう一つの能力は個人によって異なるんだけど……これの場合、炎を操る能力を持っているわ。実演してあげてもいいけど、さすがにこんな大きさじゃわかりにくいわよね。ちなみに精霊術の持つこの能力を、属性と呼んでいるわ。これの場合は炎だから、炎の属性ってわけ」
「ふ~ん……じゃあババアは?」
「ババアの場合は土よ。地面なんかを操ったりしてなかった?」
そういえば、最初に青龍を見た時は、地面から槍を出現させていた。あの槍は岩石っぽかったような気がする。
「魔刃剣の能力とは全然違うんだな」
「まぁね。精霊術も、元々は魔刃剣と同じく言魂なんだけど、別に同じようなものにする必要はないでしょう?それに、精霊術は足りないものを補う術。魔刃剣と似たような能力になるはずがないわ」
「ふ~ん……それで、どうすれば使えるようになるんだ?」
そう言うと、優衣子はしかめっ面で答えた。
「……実は、私にもよくわからないのよ。私の場合は、天照大神に教えてもらったから」
「神様に直接聞いたのか?」
「いえ、直接ではないわ。以前、神さびとの戦いで死に掛けた時にいきなり目の前に現れてね。今のお前ならばいいだろう、とか言われて……気づいたら使えるようになってたのよ」
最初に自分が魔刃剣を抜いた時と同じだ、と守哉は思った。あの時は神様に言われるがままに魔刃剣に意識を集中させたら、いつの間にか魔刃剣を抜けるようになっていた。
「という事は、今の俺にはどうあがいても使えないって事か……」
「そうなるわね。……ごめんなさい、力になれなくて」
「いや、別にいいよ。俺はただ、精霊術について教えてほしかっただけだし。そのうち使えるようになるだろ」
守哉の態度に何かを察したのか、優衣子は目を細めた。
「……ずいぶん前向きなのね」
「そうしないと気が滅入りそうだからな。さて、残りの時間は模擬戦闘でもしないか?本気の優衣子と戦ってみたいんだ」
にひっと気持ち悪い笑顔を浮かべながら守哉が言うと、優衣子はため息をつきながら玄武を消し、守哉から距離を取った。
戦うために意識を集中させる一方で、守哉の胸中には何ともいえない複雑な気持ちが渦巻いていた。
☆ ☆ ☆
翌日。
いつも通り朝起きた守哉は、いつも通り優衣子の作った朝飯を食べ、いつも通り寮の前で待っていた七瀬から弁当を受け取り、いつも通り七瀬と一緒に登校した。
しかし、一ついつも通りではない事があった。
「いてて……」
守哉は日諸木学園のフェンスに身体を預けて座り込み、右足を押さえつつうめいた。
昨日の指導は逢う魔ヶ時が終わるまで続き、その間ずっと優衣子と模擬戦闘をしていたのだが、どうも身体を動かしすぎたのか筋肉痛になってしまったようなのである。治癒の言魂でほとんどは治したのだが、右足だけは残ってしまったのだ。
「……かみや、だいじょうぶ?」
心配そうに七瀬が顔を覗き込んでくる。筋肉痛は呪法でもどうしようもないのか、おろおろとあちこちに手をさ迷わせている。
七瀬を安心させるように微笑んだ守哉は、
「大丈夫だ、ただの筋肉痛だから。七瀬は先に行ってていいぜ」
「……こんなかみやを置いて行くなんて、ぜったいにイヤ」
「でも、ここにいてもやる事なんてないだろ?」
そう言われておろおろとあちこちを見回した七瀬は、ふと名案を思いついたのか、ぽんと手の平を叩いて守哉の前に背中を向けてしゃがんだ。
……何となく、言いたい事はわかるのだが……。
「ええっと……一応聞くけど、何する気だ?」
「……おんぶ。かみやのクラスまで、わたしが連れて行ってあげる」
ヘイ、カモーン!……と言いたげにひょいひょいと手を動かす七瀬に、守哉は若干和みつつも丁重にお断りする事にした。
「そこまでしてくれなくてもいいって。さすがに恥ずかしいよ」
「……でも、治癒の言魂でも治らないんでしょう?いつまでもここにいるわけにはいかないよ」
「大丈夫だ、片足でなら何とかいけそうだから」
フェンスから背中を離した守哉は、左手でフェンスに手をつきながら左足で立ち上がった。
それを見た七瀬は、優しく守哉の右手を取って自分の肩に回した。
「……これなら、恥ずかしくないでしょ?」
「まぁ、そうだな……。てか、最初からこうしてればよかったな」
「……そうだね」
クスっ、と微笑みつつ答える七瀬。守哉の身体を支えるために右手を繋いでいるためか、その頬は若干朱に染まっている。守哉も、七瀬と密着しているためか少し落ち着かない気分になった。
「は、早く行こうか。このままじゃ遅刻しちまう」
「……そ、そうだね」
守哉達がいつも朝早く登校するためか、周囲に人気はあまりない。遅刻の心配はあまり必要ないのだが、守哉は何となく早く教室へ行きたいと思ってしまった。
仲良く身体を支えあって登校する二人。そんな二人を、物陰から一人の少年が見つめていた。
☆ ☆ ☆
声をかけそこなってしまった。
忠幸は、七瀬に支えられながら校舎へ行く守哉を複雑な気持ちで見つめていた。
今日も学校へは行けない。神代家へ行って、トヨの訓練を受けなければならない。いや、正確には強くなるための方法を教えてもらいにいかなければならないのだ。
ただ一つわかっているのは、強くなるためには神奈裸備島へ行かなければならないという事。もしかしたら、今日中に神奈裸備島へ行く事になるかもしれない。だからこそ、今日この時間に守哉と会えたのは幸運だったと思う。急な話ではあるにせよ、しばしの別れを告げる事ができる。
だというのに。
「……あの女」
七瀬の背中を睨みつけ、忠幸は憎悪と嫉妬を込めて呟いた。
神代七瀬。神代家の四女であり、トヨの孫。大人しい性格で、自分が知る限り友達は少ない。そして、守哉に好意を抱いている少女。
七瀬は時折倒れそうになる守哉の身体を支えつつ、とても幸せそうな顔をしていた。大好きな人に奉仕する事が楽しくて仕方がないと言いたげな、そんな表情を。
そして、守哉も満更でもないといった様子だった。身体が揺れて七瀬と密着するたび、少しにやけている。とても―――信頼しきった表情を、見せている。
(何で……あの女なんだ)
七瀬と守哉は歳が離れているし、校舎も違う。なので、二人が知り合ったのは神代家なのだろうが……それにしたって、仲が良い。
七瀬も守哉も、あまり人付き合いの良い性格ではない。昔の七瀬は今と正反対で、いつも集団の中心にいるようなガキ大将だったのだが、今の七瀬は何をするにも消極的な暗い性格で、昔の友達も七瀬の別人のような変わりように離れていったのか、最近は誰かと遊んでいる光景など見た事もない。そして、守哉は言うまでもなく友達は少ない。というか、自分の知る限り守哉の友達は三人だけだ。自分と、七瀬と、七美。
だからこそ、思ってしまう。どうして今、守哉の隣にいるのが七瀬なのかと。どうして、自分ではないのかと。
「何で、あの女なんだよ……守哉」
七瀬は呪法の達人で、その体術はトヨいわく島民中一番らしい。正確に言うと七瀬の体術は全て呪法によるものなのだが、全ての人間が七瀬のようにできるかと言えば、そうではない。自分の筋力の限界を超えた運動を行うには、高度な呪法をいくつも重ねがけし、複雑な手順を経て自らの周囲に展開させる必要があるのだ。当然ながら、七瀬のように複雑な動きを可能にするには大量の神力がいる。つまり、呪法を使って激しい近接戦闘を行えるのは、生まれつき大量の神力を保有し、かつ呪法の知識が豊富な七瀬だけなのである。
「あの女が強いからなのか……?あの女が強いから、お前は好きになったのか?」
強く拳を握り締め、忠幸は呟く。
自分が強ければ。自分が強ければ、守哉の隣に立って戦う事ができる。守哉の隣に、いられる。
だとしたら、強くならなければならないではないか。
「守哉……俺は行く。そして、必ず強くなる。強くなって……お前の愛を、手に入れてやるよ」
決意を込めてそう宣言する。
たとえその言葉が届かなくとも、忠幸の心に芽生えた強い想いは、その身体を突き動かすように膨れ上がっていった。