第64話 “つい、癖で”
夕方。
今日も七美は、神代家に来ていた。別に来てはいけないわけではないのだが、一度はこの家を出た身としては、やはり入る時に抵抗感を感じるものである。しかしそれ以上に、ここに来る事であの少年に毎日会う事ができるというのは、七美にとって非常に魅力的なものであった。
神代家に入る直前、思わず自分の身体を何度も見回した。ワンピースのすそを何度も気にしつつ、手の匂いを嗅いでみたりする。
(大丈夫、おかしなところなんてない。匂いも……ない、はず)
意を決して、玄関の扉を開ける。手早く靴を脱ぎ捨て、客間へと向かう。その音を聞きつけたのか、ぱたぱたという足音と共に七瀬が姿を現した。
「……お帰り、七美おねえちゃん」
「ただいま。……ねぇ、やっぱおかしいわよ、お帰りは。私はもうこの家を出たんだから……」
「……わたしは、いつかみんながこの家に帰ってきてくれるって信じてるから。だから、これであってるの」
「まぁ、七瀬がその方がいいっていうなら別にいいけど……」
七瀬はお茶を持ってくる、と言って台所へ向かった。一人残された七美は、テーブルの上に置きっぱなしになっていた分厚い本―――神奈備島古事録を手に取り、無造作に広げる。
適当にぱらぱらとページをめくってみるが、どうも興味がわかない。この本に書いてある事のほとんどが嘘だとわかったからか、それともただ単に勉強する気が失せただけなのか。どちらにせよ、もうこの本は必要ないというのに、七瀬はずっと大事に残している。嘘だとわかっていても、大事にしている。
「あ~あ、つまんないの」
ページをめくるのに飽きた七美は、畳の上に寝転がった。大の字になって天井を見上げる。
「……ホント、つまんないなぁ」
言葉にすると、余計空しく感じてしまう。それでも口に出してしまうのは、少しでも暇を紛らわしたいから。
壁にかけられた時計を見る。時刻は5時37分、逢う魔ヶ時まであと23分だ。
23分前……いつも守哉が来るのは逢う魔ヶ時の5分前くらいだ。もう少し早く来ればいいのにと思う。どうせ寮に帰ってもやる事なんてないくせに、どうして守哉は早く来ようとしないのだろうか。守哉が早く来てくれるのなら、自分も早く来るようにするのに―――
「守哉……」
思わず言葉が漏れた。しかし、別に気にはしない。どうせ、今この部屋にいるのは自分だけだ。七瀬はさっきから戻ってくる気配がないし、守哉が来るのはあと15分後くらいだろう。
―――だったら、してもいいんじゃないかな。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
ぼんやりしていた七美は、知らず知らずのうちに右手を動かしていた。右手はゆっくりと下半身へと伸びていき……ワンピースを、半分ほどめくり上げる。
白いショーツの中心部。くぼみになっているそこへ、人差し指と中指を這わせる。
そっと、優しく。
「……んっ」
ピクッ、と身体が痙攣した。思わず艶かしい声が漏れてしまう。
ああ、するなら早く終わらせなきゃ。早くしないと七瀬が来てしまう。守哉もだ。
……早く気持ち良くしてよ。守哉―――
なんて、想像していると。
不意に、インターホンが鳴った。
「っ!!」
驚いて跳ね起きる七美。ワンピースを必死に伸ばして大事なところを隠しつつ、座ったままの前傾姿勢で固まる。
それと同時に、客間の障子が開いた。
「今日も早いんだな、七美」
あくびを噛み殺しながら守哉はそう言った。見ると、目が若干とろんとしている。昼寝でもしていたのだろうか。
「……重役出勤もいいところじゃない、守哉」
「そう言うなよ。逢う魔ヶ時には間に合ったんだからさ」
守哉は七美の近くに腰を下ろすと、守哉を出迎えたのであろう七瀬からお茶を受け取り、音を立てながらすすった。七美も同じように受け取ろうと右手を差し出そうとして―――ある事に気づいて引っ込めた。
「……どうしたの、お姉ちゃん?お茶だよ」
不思議そうにこちらを覗き込んでくる七瀬。七美は顔を逸らしながら左手でお茶を受け取った。
「ありがと……」
「……遅れてごめんね。ちょっとおばあちゃんに捕まっちゃって」
「そんな事だろうと思ってたわよ。ほら、呪法の準備しなきゃいけないんでしょ?早く行ってきなさいよ」
七瀬はこくりとうなずくと、守哉に一言断ってから客間を後にした。
横目で見ると、守哉はぼんやりとテーブルに肘をついていた。よほど眠いのか、目が半開きだ。
誰も見ていない事を確認しつつ、七美は自分の右手を広げた。正確には、人差し指と中指を。
(……いくらなんでも、やりすぎよね……)
指の間に引かれた糸を見ながら、七身は大きなため息をついた。
☆ ☆ ☆
今日も神さびは来なかった。
神代家を後にした守哉は、昨日と同じく訓練を受けずに磐境寮へと帰った。帰り際に七瀬がもの凄く寂しそうな顔をしていたが、トヨがうるさいので仕方がない。それに、前回聞きそびれた精霊術について、早く優衣子に聞いておきたかったのである。
そんなわけで早々と寮に到着した守哉は、何故か昨日と同じく自動ドアをぞうきんで拭いていた優衣子に連れられて、食堂の屋根の上へと移動した。
「さて、本日の指導を始めるとしようかしら。何か聞きたい事はある?」
「そりゃ、たくさんあるけど……なんか決められた指導メニューとかないの?」
「あるわけないでしょ。というか、正直私が教えられる事って少ないのよね。言魂なんて使ってればそのうち巧くなるもんだし。というわけで、聞きたい事がなければ適当に模擬戦闘して終わりね」
身体を伸ばしながら言う優衣子は、昨日よりも多少やる気があるようだ。今日は最後まで付き合ってくれるかもしれない。
「なぁ、優衣子さ……じゃない、優衣子。一つ聞きたい事があるんだけど」
「何?スリーサイズなら教えられないわよ。最近計ってないから」
「いや、それはいい……ていうか、計ってたら教えてくれるの?」
「そんなんで興奮できるんならね」
言われてみれば、スリーサイズなんか知ったところであまり嬉しくない……いや、相手にもよるけど。女の子同士は気にするかもしれないが、男からすればそんなものはただの数字である。そういうのは、直に触ってみなければわからないのである。
だからって本当に触っちゃダメだぞ。
「スリーサイズは教えなくていいよ。代わりに、精霊術について教えてくれ」
その言葉に、優衣子は露骨に嫌そうな顔をした。
「……一応、理由を聞いておこうかしら」
「気になったから、じゃダメか?」
「ダメ。もっとしっかりとした理由を教えなさい」
左手の掌に刻まれた、歪な星型の火傷―――聖痕を見つつ、守哉は答えた。
「……最初は、単に気になってただけだった。でも、今の俺は魔刃剣を抜けない。どうすれば抜けるようになるのかもよくわからない……。だから、代わりの力が必要だと思ったんだ」
「それで思いついたのが、精霊術?」
「そう。今週の神さびはまだ来ていない。って事は、明日か明後日に来るって事だ。それまでに、何としてでも精霊術を使えるようになりたいんだ」
真顔で優衣子を見つめつつ、守哉は率直な思いを告げる。
守哉の言葉に何かを感じ取ったのか、優衣子は大きなため息をついた後、答えた。
「……そういう理由なら、仕方ないわね。戦おうとしてるだけまだマシなわけだし」
「?どういう意味だよ」
「別に。ただ、幸穂に言われた事を思い出しただけよ。気にしないで」
そう言われると気になってしまうのだが、追求したところで答えてくれる優衣子ではないだろう。
「まぁいいや、とにかく教えてくれよ。精霊術について」
「はいはい、精霊術ね……」
優衣子は腕を組み、何かを思い出そうとするように目をつむった。
しばらくそのまま唸っていたかと思うと、唐突に目を開け、
「精霊術は、一言で言うと自分の分身を作り出す力よ」
「分身?」
「そう。分身とは言っても、自分のそっくりさんじゃないけどね。その形状は、自分に足りないものを補うための最適な形に決まるから」
足りないものを補う……トヨの場合は龍だったが、あれは何が足りないのだろうか?
「よくわかんねぇよ」
「でしょうね。ちなみに、精霊術自体は見た事ある?」
「ああ。ババアが以前、青龍ってヤツを呼び出してた」
優衣子も青龍と会った事があるのか、しかめっ面で答えた。
「ああ、あのスケベね。あれは見ればわかると思うけど、ババアと正反対の性格でしょう?」
「確かに、そうだったけど……」
「そして、ババアと違って空を飛べる。つまり、そういう事よ」
「そういう事って言われても……」
つまり、トヨは真面目で頑固だから、青龍はチャラいヤツになってしまった。そして、トヨは空を飛べないから、青龍は空を飛べるようになった……という事か。
「なんか、本当によくわかんねぇな」
「でしょうね。実は、私にもよくわからないのよ。ただ、神さびが空を飛んでいた時、神和ぎはものすごく不利になるでしょう?それを補うために、自然と精霊術は空を飛べるようになるのよね」
「ふ~ん……。状況に応じて形変えたりとかできるのか?」
「それは無理よ。一度形状の決まった精霊術は、ずっとそのまま。……というか、どうも最初から決まってるみたいなのよね。たぶん、精霊術の形状は天照大神が決めてるんじゃないかしら」
「また神様かよ」
昼間会った神様の事を思い出し、守哉は複雑な気分になった。あんなのが勝手に決めていると思うと、自分の精霊術がどんな形になるのか少し不安になってしまう。
「なんか嫌だなぁ」
「そうでしょ~。私も嫌なのよね」
うんうんとうなずく優衣子。ふと、守哉はある事に気づいた。
「そういえば、優衣子の精霊術ってどんなのなんだ?ちょっと見せてくれよ」
すると、優衣子は全力でそっぽを向いた。
「嫌よ」
「何でだよ」
「嫌なものは嫌。ていうか、あなたは以前見た事あるわよ、私の精霊術」
見た事あったっけ、と守哉は自分の記憶を探る。そういえば、以前馬鹿でかい亀に乗せられた事があったが……
「まさか、あの亀か?」
優衣子は答えなかった。どうも図星らしい。
「何が嫌なんだよ。友達だって言ってたじゃないか」
「……まぁ、そうよ」
「だったらいいじゃないか。優衣子の友達に会ってみたいよ、俺。頼む」
両手を顔の前で合わせ、頭を下げる守哉。さすがに頭まで下げられては断りきれないのか、優衣子は少しの間逡巡した後、結局折れた。
「仕方ないわね。今日だけよ」
そう言うと、優衣子は右肩に手を当てた。瞬間、優衣子の右肩に刻まれた聖痕がうすく光り輝き、優衣子の足元に不可思議な紋様が現れる。
「―――おいで、玄武」
優衣子の呟きに呼応して、地面に描かれた紋様の光が強くなる。
光は守哉の視界を一瞬で白く染め上げ―――次の瞬間、光は形を形成した。
「これは……」
紋様の中心、そこに現れた一つの絶対的な存在。異質な気配を辺りに振りまき、否が応でも注視せざるを得ない存在感を持つそれは。
大きさ5cmほどの、小さなミドリガメだった。