第55話 “暴力に駆られて”
気づけば。
あなたの事を想っている、自分がいる。
暖かい布団にくるまって、あなたを想っている自分がいる。目をつむれば、まぶたの裏にはいつもあなたの横顔が浮かんでいる。病的なまでに、あなたを想っている。
「……はぁ……」
艶かしいため息。
以前の自分なら、考えられないほどにいやらしい声だ。この声が聞こえると、いつも死にたくなるほど恥ずかしい思いに駆られるが、同時に仕方ない事だとも思う。これが、恋をするという事なのだから。
手が、無意識のうちにゆっくりと伸びる。肌をゆっくりと撫でながら、下へ下へと伸びていく。
やがて、手は薄い布きれの間に滑り込み―――蜜の源泉を、探り当てた。
「……あっ……ふ……」
源泉からは、既に大量の蜜が溢れ出ていた。
人差し指を、入れる。ゆっくり、ゆっくりと奥を目指して指は中へと入っていく。途中で、蜜をかき回すように指を動かすと、たまらない快感が全身を駆け巡った。
「ぁはぁっ……!」
もっと。もっと、たくさんほしい。欲望のままに、指をもう一本入れて、かき回す。
もぞもぞと布団の中で身体をよじらせ、快感に耐える。今にも飛びそうな意識を保たせて、より多く、より長く快感を得られるように、指をかき回す。
脳裏に浮かぶのは、優しげなあの人の顔。優しい笑顔を浮かべながら、あの人が私の身体を撫で回し、貪る姿を夢想する。
「んっ、んっ……あんっ!……あふぅ……っ」
しかし、長くは続かない。やがて、こらえきれないほどの快感の大波が押し寄せてくる。
まだ。まだ、足りない。もっとほしい。もっと、もっと―――
ダメ。耐えきれない―――
「はうっ……!あ、あ、あっ……」
身体が跳ねた。頭の中がスパークし、意識が危うく飛びかける。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
見ると、手は溢れ出た蜜でベトベトだった。ねっとりと指に絡みついた蜜が、指の間に糸を引いて自己主張している。
布団の中を覗き込むと、溢れ出た蜜はパジャマまで浸透していた。おかげで布団にお漏らしをしたかのようなシミが広がっている。
「……やっちゃった」
脱力してため息をつく。これから寝ようというのに、これでは気持ち悪くて寝ようにも眠れない。
着替えをするために身体を起こす。隣の部屋で寝ている妹達を起こさないよう、こっそりタンスから着替えを取り出して、忍び足で洗面所へ向かう。
手と大事なところを洗い終え、パジャマと下着を脱いだ。無造作に洗濯機の中に放り込み、替えの下着を身に着ける。
ふと、鏡に映る自分と目が合った。頬がほんのり紅潮し、目がぼんやりとしている。
「……私、ダメダメだ。こんなんじゃ、まともに顔合わせられないよ」
頭を掻きながら、七美は寝室へと戻った。
今度は、あいつの事は考えないようにしようと思いながら。
☆ ☆ ☆
聞きなれた耳障りな音で、守哉は目を覚ました。
「う……朝か」
目覚まし時計のボタンを押してアラームを消した……かと思ったら、またアラームが鳴り出した。苛立ち紛れに壁に向かって投げつけ、そこでようやく目覚まし時計は沈黙した。
どうも最近、目覚まし時計の調子が悪い。ずいぶん昔から使っているものなのでそれも仕方ないかもしれないが、いい加減買いなおす必要があるだろう。
「……神奈裸備島で買っておけばよかったな」
ぼんやりと呟き、ため息をつく。
神奈裸備島から帰ってきて、数日が過ぎた。日諸木学園のゴールデンウィークのような連休は終わり、今は普通に学校が始まっている。今日は水曜日、本日の科目は数学、現代文、体育、生物……だったか。
立ち上がり、手早く着替える。鯨田との戦闘でボロボロになってしまったパーカーは、今にも片方の袖が取れそうだ。それでもパーカーを着ると、モーニングコールが鳴る前に部屋を出た。
エレベーターは使わず、階段で1階まで下りる。食堂の扉を開くと、優衣子が料理をテーブルに並べていた。
「おはよう、優衣子さん」
「………」
「……優衣子」
「あら、おはよう。珍しいのね、モーニングコールの前に下りてくるなんて」
「たまにはな。飯、食ってもいいのか?」
「ええ。味わって食べなさい」
食卓に着き、食事開始。いつもの朝の風景である。
神奈裸備島での出来事は、全て優衣子に話してある。磐座機関、白馬と栄一郎との再会、大呪法・絶対輪廻……そして、栄一郎を殺した事。包み隠さず、島に帰ってきたその日のうちに話してしまった。
今更だが、自分は優衣子の事を心から信用しているわけではない。それでも話したのは、ボロボロになって帰ってきた守哉を見た優衣子が―――本当に珍しい事に―――取り乱して落ち着かなかったからだ。こんな事になるなら旅行なんて許可するんじゃなかった、と言って涙する優衣子を見ては、打ち明けられずにはいられなかった。
とはいえ、それで何かが変わったわけでもない。これといって普通、いつも通りだ。
自分以外は。
「ごちそうさん」
「お粗末様。美味しかった?」
「まぁ、いつも通りかな」
「意地悪ね。素直に美味しかったって言えないの?」
「じゃあ、美味しかった」
「じゃあって何よ、じゃあって」
談笑しつつ、空になった食器を台所へ持っていく。簡単に水洗いしたあと、自室に戻ってショルダーバッグを掴み、食堂で優衣子にあいさつして、磐境寮を出た。
寮を出ると、待っていた七瀬がこちらに気づき、微笑んだ。
「……おはよう、かみや」
「おはよう、七瀬」
七瀬から弁当を受け取り、並んで歩き出す。慣れない視界で少しふらついたが、七瀬が横から支えてくれた。
右目を失った影響は、思っていたよりも大きかった。慣れれば日常生活に支障は出ないが、戦闘中だと話は別だ。右側が死角になるだけで、攻撃を回避し辛くなった。右目自体がないので、身体強化の言魂を使っても効果がない。訓練でもトヨバアから足手まとい扱いされたりと、ずいぶんやり辛くなってしまった。
それに、問題はそれだけではない。魔刃剣の事もそうだ。あれ以来―――
「……どうしたの、かみや。どこか痛むの?」
七瀬が心配そうに覗き込んでくる。考え事にふけっていたためか、少々気遣いが足りなかったようだ。
「いや……ちょっと考え事をしてただけだ」
「……そう?苦しそうな顔してたから……」
「そんな事ないよ。心配してくれて、ありがとな」
尚も心配そうにする七瀬をなだめつつ、学校へと向かう。いつにも増して好奇な視線を受け流し、昇降口で七瀬と別れて自分の教室へと向かった。
扉を開けると、何人かのクラスメイトがこちらを向いたが、入ってきたのが守哉だとわかるとすぐに目をそらした。いつも通りの反応に苦笑しつつ自分の席に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。
左目だけで見る空は、いつもよりよどんで見えた。いや、よどんでいるのは自分の目の方か。
(なんだかなぁ)
どうも、最近思考が後ろ向きだ。いつもなら何も考えずに空を見上げる事ができたのに、今はどうしても何かを考えてしまう。
原因はわかっている。神奈裸備島、磐座機関本社ビルで、この手で栄一郎を殺した事―――
「おい、未鏡守哉」
不意に、誰かに話しかけられて守哉は思考を中断した。ちょうど嫌な事を考えそうなところだったので、少しほっとしている自分がいる。
誰かと思って振り向くと、そこにいたのは高槻慎吾だった。
「おい、聞いてんのか。無視してんじゃねぇよ、未鏡」
「……何か用か?」
「やっと反応したよ、こいつ。お前、目と一緒に耳まで失くしちゃったんじゃないの~?」
けらけらと笑いながら慎吾は言った。つられて周囲のクラスメイトもくすくすと笑う。
不快そうに顔をしかめつつ、守哉は答えた。
「いいから、用件を言えよ。俺はお前の顔なんていつまでも見たくないんだ」
「ほぉ?そんな事言っていいのかなぁ?神和ぎだからって調子に乗ってたら痛い目に遭うぞ?」
気持ち悪い顔を近づけて、憎たらしく慎吾は言う。
神奈備島に帰ってきてから、寮での生活に変化はないが、学校での生活には変化があった。その一つがこれで―――自分へのいじめが再開したのである。原因は、いじめっ子を抑制していた忠幸が頻繁に学校を休むようになったためである。絶対輪廻の影響で拠り代とかいう存在になった事で、島に帰ってきて以来忠幸は身体の調子が悪いらしい。トヨバアいわく、自身が生産する神力をコントロールしきれずに暴走させてしまっているためだという。神力をコントロールできるようになるまで、忠幸はトヨバアから訓練を受ける事になり、時には学校を休んでまで訓練に励んでいるというわけだ。
まぁ、いじめっ子一人くらいなら適当にあしらう事もできるのだが……
「慎吾、こいつ知らねぇんだよ。慎吾が島民会副会長の息子だって事」
「マジで?うっわ、こいつありえねぇっしょ。慎吾に睨まれたら最後、普通の生活なんてできなくなるんだぜぇ?」
いつの間にやら慎吾の隣にいた、頭の悪そうな取り巻きが言う。更には他のクラスメイト達も陰口をたたきだし、彼らの悪影響は波紋のように広がっていく。
慎吾だけならともかく、クラスメイト全員が相手では分が悪い。下手に動いては、クラスにいられなくなってしまう。
「おい、何とか言えよ。このクソ野郎」
「つかさ、こいつ何着てんの?これ、今にも袖取れそうじゃん。キモ~」
「あれじゃね?どっかのゴミ捨て場から拾ってきたんじゃね?ほら、こいつってホームレスだし?」
「アハハハハ、それもそうだなぁ。こいつ、見た目からしてホームレスだもんなぁ!」
罵倒は続く。守哉は口を引き結び、押し黙って耐えた。
「こいつ、ホントに何も言わねぇなぁ。ほら、なんか言ってみろよ。ちんことか、うんことかさぁ」
「ちんこ~、うんこ~」
「アハハ、お前バカじゃん。こいつそんな喋り方しないって。もっとバカっぽいって」
守哉は何も言わない。ただ、慎吾の着ている服の中心を見つめるだけだ。
「何も言わないって事は、何もしないって事かぁ?ほら、これでどうよ」
取り巻きの一人が、教室の隅にあった花瓶を手に取って、守哉の頭の上で逆さにした。途端に中に入っていた花と水が守哉に降り注ぎ、髪と衣服を濡らしていく。
「アハハ、ホントに何もしねぇぞ。人形みたいだな、こいつ」
今度は慎吾がはさみを取り出し、守哉の髪の毛を千切るように切った。痛みで顔をしかめるが、守哉は何も言おうとはしない。
「ほら、ほら。どうした、何か言ってみろよ」
消しゴムのかすが降り注ぐ。赤いマジックが顔を薙ぎ、赤い筋が頬に奔る。
「これ、いいストレス発散になるなぁ。アハハ、アハハハハ!」
くすくす、くすくすと、周囲のクラスメイトが嘲笑する。暗い、淀んだ空気がクラス中を満たしていく。
「これ、動きやすいように切ってやるよ。ほら、ほら!」
慎吾がパーカーの袖をはさみで切ろうとした。守哉の腕ごと。
ダメだ。それだけは、我慢できない―――
「ぐぼっ!」
瞬間、守哉の鉄拳が慎吾の顔面に命中した。鼻から血を噴出して、慎吾が後ろに倒れる。
「え?うそ?」
「な、何?今……」
突然の行動に、取り巻きの反応が遅れる。その隙に、守哉は右隣にいた男子生徒の前髪を掴み、勢いよく椅子の背もたれに叩きつけた。更に、その首筋に強烈な肘鉄を叩き込む。
「てめぇ、何しやがる!」
「こいつ、よくも!」
取り巻きが掴みかかってくる。守哉は身体強化の言魂を発動すると、回し蹴りで全員を薙ぎ倒した。倒れた身体が机と椅子にぶつかって、教室に雑音が響き渡る。
(こんなやつらに……)
倒れた一人の襟首を掴み、顔面に何度も拳を叩き込む。顔が腫れて歪むまで痛めつけたあと、最初に倒れた慎吾の上に放り投げた。
(こんなやつらに……!)
苛立ちをぶつけるように、クラスメイトを殴り、蹴り倒す。多勢に無勢のはずだが、言魂の力は偉大だった。何せ、一撃の重みが違う。
教室に血が舞い、怯えた女子がわめきだす。担任の空貴が教室に来るまで、高等部一年の教室は地獄と化した。