第41話 “運び手、再び”
目の前に鏡がある。
真っ白い空間の中、守哉は一人たたずんでいた。
鏡は守哉の前にある。そこには当然の事ながら守哉が映っていたが―――細部が違っている。鏡の向こうの守哉は胸が僅かばかり膨らみ、髪も肩ほどまで伸びていた。
鏡に写る守哉は寂しそうに言った。
「百代目。頼みがある」
そうだ、こいつは神様だ―――と、守哉はぼんやりと思った。神奈備島という、少々非常識な島に封じられた神様。
神様は続ける。
「神奈備島は嘘ばかりだ。この島にある全ての真実が、同時に嘘でもある」
言っている意味がわからない。しかし、それを伝える事はできなかった。これは夢なのだろうか。
「私が乱したのだ。この島の真実を。私は何もできないが、記憶を喰らう力を持っている。まぁ、全ての記憶を喰う事はできないがな……。知っているだろう?」
知ってる―――。心の中で答えた。
「だが、神奈裸備島には真実がある。あそこにも神力は満ちているが、この島のように溢れるほどではない。だから、私に神奈裸備島の記憶は喰えんのだ」
そうなんだ、と守哉は思った。
「最初はそれを怨みもしたが……今はそうでもない。おかげでお前に真実を教える事ができるからな」
神様は不敵に笑い、言った。
「頼みというのは、その事だ。お前に、真実を見てきてほしい。理解しろとは言わない。ただ、この島について知ってほしいのだ」
何故だ。何故、俺が知る必要がある―――
「私にもわからない。お前を嫌いになれないからかもしれん。……何故だろうな、初めて見たあの時から―――ずっと、お前だけは嫌いになれなかった。他の人間は、皆、嫌いなのに」
俺もだ。俺も、他の人間は皆嫌いだ。信用できないんだ―――
「知っているよ。だからなのかもしれないけど……でも、それは違う。そういうのとは違うんだよ」
何が言いたいんだよ、お前。
「私が言いたいのは……とにかく、知ってほしいだけなんだ。私が切欠を作る。その後どうなるかは百代目、お前次第だ」
それじゃ強制されてるようなもんだ。頼みじゃなかったのかよ。
「そうだな。でも、お前に選択肢なんてなかっただろう?この島に来てから、一度も」
……みんな強引だったからな。
「だがな、もしお前が神奈裸備島に行けば―――お前には選ぶ権利が与えられる。良かったな」
どういう事だよ。
「まぁ、行けばわかるさ。頑張れ、百代目。必ず、生きて帰ってこいよ―――」
おい、待て。どういう―――
意識が急速に遠のいていく。
言葉を言い切る前に、守哉は現実に引き戻された。
☆ ☆ ☆
「……い。……おい、守哉!」
耳元で大声がする。
ゆっくり目を開けると、そこには心配そうにこちらを覗き込む忠幸と七瀬の姿があった。
「ん……なんだ?」
「神奈裸備島に着いたぞ。ずいぶんうなされてたけど、大丈夫か?」
頭を振って身体を起こす。かささぎ橋でバスに乗ってからすぐに眠ってしまったようだ。昨日はあまり寝つけなかったので、寝不足なのである。
ふと、守哉は左手を七瀬がぎゅっ、と握り締めている事に気づいた。少し気恥ずかしかったが、あえて指摘しない事にする。
「……かみや、だいじょうぶ?」
「ああ……。少し目眩がするけど、大丈夫そうだ」
「あんまり無理しない方がいいぞ。今日は休むか?」
「大丈夫だ。問題ない…」
立ち上がって背伸びをする。さすがに七瀬も手を放した。もう少し握っていてほしかったな、と思ってしまう。
忠幸は安心したようだが、七瀬はまだ不安そうに守哉を見つめている。
「……かみや、ホテルで休んでいこう?」
「ぶっ!」
思わず吹き出してしまう。きょとん、と不思議そうに七瀬は首をかしげた。
「……どうしたの?」
「い、いや……なんでもない。とにかく、大丈夫だから。早く行こうぜ」
これ以上心配をかけたくなかったので、守哉は早足でバスを降りた。
アスファルトの地面に足をつける。ここはバスの駐車場のようだった。守哉達が乗ってきたバスの他に四台ほどバスがとまっている。
「ここが神奈裸備島か」
駐車場から見える市街地へ目を向けて、感慨深げに守哉は呟いた。
神奈裸備島は神奈備島と比べてずいぶん近代的だった。島の中心―――神奈備島で言うと日諸木学園の位置―――には巨大なビルが建っており、そのビルを中心に大小様々なビルが建ち並んでいる。そのビル群を囲むように市街地が広がり、まるでお城と城下町のように見えた。
守哉が物珍しそうに島を見上げていると、先にバスから降りていた七美が近づいてきた。
「そうよ。ここが神奈裸備島。凄いでしょ?」
「ああ……。なんていうか、神奈備島とは時代が違うな。まるでタイムスリップしてきたみたいだ」
「私も最初に来た時はそう思ったわ。でも、今ではもう慣れたもんよ。ていうか、あんた島の外でこういうの散々見てるんじゃないの?」
「いや……ここまで密集してるのを見るのは初めてだ……ん?」
おかしい。言われてみて気づいたが、島の外の景色を思い出せなくなっている。自分が住んでいた場所、自分が関わった人達の顔がぼんやりとしか思い出せない。
両親の顔は思い出せるというのに―――
「どうしたのよ、急に黙っちゃって。ねぇ、守哉」
七美の声で我に返った。何かを振り払うように頭を振り、なるべく元気そうな顔を作った。
「悪い、ちょっと考え事してた」
「何よそれ。人が話してる途中に呆けないでよね、バカ」
七美はぷいっ、と顔をそむけた。守哉は苦笑しながら改めて島を見上げる。
不意に、先ほどの夢を思い出した。
―――ただ、この島について知ってほしいのだ―――
そう、神様は言った。あれがただの夢だとは思えない。もしかしたら、バスに乗った後、急激に眠気に襲われたのも神様の仕業なのかもしれない。
ただ808体の神さびを倒すだけではいけないのか。自分以外の神和ぎにも同じ事を伝えていた可能性はあるが、あの神様の口ぶりからするとその可能性は低い。だとしたら、何故自分なのだろうか。
考えを振り払うように頭を振る。今そんな事を考えても仕方ない。自分はこの島に服を買いに来たのだ。真実を知りに来たわけじゃない―――
「みんな揃ったみたいだな。行こうぜ、守哉」
ぽん、と肩を叩かれて後ろを振り返る。忠幸の目は大丈夫か?と語りかけているようだった。
「……ああ」
大丈夫だよ、という意味を込めて忠幸の手を優しく払う。
そして、守哉達は市街地へと向かって歩き出した。
☆ ☆ ☆
ここまでの経緯を整理しよう。
まず、神奈裸備島に来たのは衣服を購入するためである。神様にこの島へ行く事を勧められ、優衣子にお金をもらい、忠幸に説明してもらって神奈裸備島へ行く事を決めた。
折角なので昨日七瀬達も誘ってみたところ、七瀬は反対するトヨを説得して承諾。七美は七瀬の保護者としてついて行くと言い張ってついてきた。
そんなわけで、神奈裸備島に来たのは守哉、忠幸、七瀬、七美の四人。一応2泊3日で行くつもりなのでホテルも予約してある。
何事もなく帰れればいいけどな、と守哉は思っていたが、事態はすでに動き始めていた事を、守哉は知らなかった。
☆ ☆ ☆
神奈裸備島は大きく分けて四つの大通りがある。
島の中心部にそびえ立つ巨大なビルを基点に、東西南北に一つずつ存在するこの大通りは、それぞれ東大通り、西大通り、南大通り、北大通りと名づけられている。そのうち、かささぎ橋の目の前にある大通りが西大通りであり、守哉達が最初に訪れた大通りであった。
「すげぇな。渋谷みたいだ」
守哉は西大通りを見渡しながら感嘆の声をあげた。
西大通りは様々なお店が密集し、それ以上に多くの人が行き交っていた。通りの真ん中には右と左の通路を区別するように街路樹が並び、色鮮やかな店の看板がチカチカ光って自己主張している。確かに、古風な神奈備島で暮らしていた島民がこれを見たら、タイムスリップしたのかと思うのも無理はない。
守哉が突っ立って動こうとしないので、忠幸が先頭に立った。
「いつまで見とれてるんだよ、守哉。早く行こうぜ。時間はたくさんあるけど、こんなところで消費してたらもったいないぞ」
「わかってるよ。忠幸、適当な服屋に案内してくれ」
「わかった。任せときな!」
びしっ、と親指を突き出して笑う忠幸。
「お前に頼られたからには、バッチリいいお店を教えてやるぜ!」
ずいぶんやる気満々な忠幸は、頬を紅潮させて力強く歩き出した。その姿に守哉は頼もしく思う反面、何か言い知れない不快感を感じていた。
不意に誰かが手を握ってきた。自分の手より一回りほど小さい手の感触。見ると、七瀬が忠幸の背中を険しい顔で睨みつけていた。
「……かみや。あの人とあんまり仲良くしちゃダメ」
威圧感をかもし出しながらそう言う七瀬の背後に、怒気のような赤いオーラが見えた。
その迫力に気おされつつも、守哉は恐る恐る聞いてみた。
「な、なんで?」
「……あの人は、ダメ。ぜったいダメ。かみやに近づいちゃダメな人」
「ダメって……どこが?いいヤツじゃないか」
「……ダメなものはダメ。だって、男の子だから」
わけがわからない。守哉が首をかしげていると、七美が守哉の後頭部を小突いてきた。
「いてっ……何すんだよ」
「少しは察しなさいよ。まぁ、あんたじゃなくてもわからないでしょうけど……」
複雑そうな顔で言う七美。とりあえず守哉は、いつの間にか自分達を引き離していた事に気づいて引き返してきた忠幸に急かされ、先を急ぐ事にした。
☆ ☆ ☆
「よっし。次はこの店なんかどうだ?」
いくつか衣服を扱っている店を回った後、忠幸は大通りの片隅にある店を指差して言った。
忠幸が指差した店は、これまでに入った他の店と比べて幾分小さい。店の外にはセール中と書かれたワゴンが置いてあり、中には安っぽいシャツが入れられていた。
その店を見て、七美は胡散臭そうに忠幸を見た。
「なんか、しょぼいお店ね。暗いっていうか、どんよりしてるっていうか……。こんな店選ぶって、あんたどんな感性してんのよ」
「酷い言い様だなぁ。他の店で守哉が気に入った服がなかったんだからしょうがないだろ?」
「だからってこれはないわよ。頭の中に蚕でも飼ってんじゃないの?」
「いやぁ、それほどでも」
「褒めてないわよ。ていうか、今のどう考えても褒め言葉じゃないでしょうが」
お店を指差して言い合う二人をよそに、守哉と七瀬は店の中に入ってみる事にした。
青い鳥というこの店は、一昔前の衣服を取り扱っているらしい。男物も女物も扱っており、守哉としては悪くないデザインのものばかりだった。
物珍しそうに店の中を見る七瀬を見て、ふと守哉はある事に気づいた。
「七瀬ってさ、なんでいつも白いワンピースなんだ?」
そういえば、七美も白のワンピースである。神代家では代々白いワンピースを継承しているのだろうか。
アホな事を考えながら七瀬のワンピースをしげしげと眺める守哉。七瀬は恥ずかしそうに自分の身体を抱きしめて隠しながら呟いた。
「……白のワンピースは、七歌おねえちゃんのお下がりなの」
「!七歌の……」
神代七歌。守哉が最初に鎮めた荒霊。神和ぎになった守哉を妬み、その命を奪おうとした女の子。
守哉は言い知れない複雑な気分で七瀬のワンピースを見つめた。
「じゃあ、七美が着てるワンピースも、元々は七歌のものなのか?」
「……うん。このワンピース、七歌おねえちゃんのお気に入りだったから、同じものを二着買ってたの。わたしと七美おねえちゃんは、ずっとこのワンピースを着てみたくて……」
「それで、七歌が死んだ後にもらったってわけか……」
「……うん。今着てるワンピースは後から買った同じやつだけど……おねえちゃんからもらったワンピースも、ちゃんと大切に着てるよ」
「そっか。きっと七歌も喜んでると思うぜ」
しんみりとした空気が流れる。亡き七歌の事を想い、二人が若干沈み込んでいると、その空気を打ち破るように場違いな声が向かい側の店から聞こえた。
「何よっ!!このブ男!!手紙一つなんで届けられないのよ!!」
「ブ男とはなんだ、ブ男とは!俺は極めてイケメンだっ!仕方ないんだよ、今日の朝、急に島のファイアウォールが強まったとかで物資の輸出入が全部ストップしちまったんだからさぁ!」
「手紙くらいいいじゃない!大体、昨日はすぐ手続きをするって言ってたじゃないの!」
「急に事情が変わったんだから仕方ないだろぉが!こっちは研究所の規則違反だってわかっててこんな危ねぇ仕事してんだから、手紙の一つや二つ我慢できねぇのか!?」
「この手紙は大事な手紙なの!私の大切な妹は、せっかく出した手紙の返事が来なかったらきっと悲しむわ!それで妹が自殺したらあんたなんか八つ裂きにしてやるんだからね!」
「過保護すぎるだろぉ、お前!だからさぁ……!」
甲高い女の声としわがれたおっさんの声。大声で言い合いをする二人の声は大通りまで響き、道行く人は皆、何事かと立ち止まって声のする店の方を見つめていた。
「なんか、騒がしいな」
守哉がぼんやりと向かいの店―――この商店街には不釣合いなくたびれた魚屋―――を見つめていると、七瀬はいぶかしげに向かいの店を見つめながら呟いた。
「……この声、どこかで……。まさか……」
「もういい!あんたなんかにもう二度と頼むもんですか!」
女の声を最後に言い争いは終わったようだ。すぐに店の中から一人の女性が姿を現した。
綺麗な女性だった。薄い水色の長髪に端整な顔立ち。黒いスーツの上からもくっきりとわかる見事なスタイル。真新しい白衣を纏い、肩を怒らせて通りに躍り出るその様は、まるで高貴な女王のようだ。
不意に、その女性が守哉達の方へ目を向けた。突然、その顔は驚きに包まれる。
「七瀬……?それに、七美なの……!?」
その言葉に、七瀬と七美も唖然として呟いた。
「……七子おねえちゃん……!?」
「うそ……七子姉!?」
どうも七瀬達の知り合いらしい。もしかして一番上の姉ちゃんかな、と思いながら守哉が傍観していると、魚屋から一人の男が姿を現した。
「おい、どこに行くつもりだ!まだ話は終わってねぇだろ!」
ずいぶん汚い男だった。サイズが合っていないのか、贅肉がはみ出るお腹。ズボンをはけと突っ込みたくなるブリーフの右上に、どこかの会社のロゴが刺繍してある。
守哉はその男に見覚えがあった。何を隠そう、自分をこの島に送り届けたのは他でもないこの男なのだ。
「鯨田栄一郎……!?」
何故、この男がここにいるのか。何故、七瀬達の姉と一緒にいるのか。
守哉は、唖然として栄一郎を見つめ続けた。