第40話 “暗躍”
薄暗い部屋の中、無数の人工的な光が明滅している。
その光は全てコンピュータのモニターが発しているものだ。大小さまざまな無数のコンピュータが部屋をところ狭しと埋め尽くしている。そのコンピュータに囲まれる形で、一人の女が座り心地の良さそうな椅子の上であぐらをかいていた。
なかなかの美人だ。だが、ぼさぼさの髪には無数のフケが付着している。身に纏う白衣には汚れが大量に付着し、甘い臭いさえ漂っていた。
女は細い目に不釣合いな大きさの眼鏡の位置を調整しながら、興味深げに呟いた。
「ふむ」
その瞳は壁に埋め込まれた一つのモニターを見つめている。
突如、壁の一角が横開きに開き、一人の男が部屋に侵入してきた。頭から足の先まで全身白ずくめのその男は、名を未鏡白馬という。
「順調か」
「ええ、順調だったわ」
女は白馬の方を振り返らずに答えた。ぼりぼりと尻をかきつつ膝の上に置かれたタッチパネルを操作する。あまりにも品のないその動作に白馬は顔をしかめたが、どうせいつもの事なので気にしない事にした。
「過去形か。今は?」
「順調とは言えないわね」
「茶化すな。……報告しろ」
女は椅子を一回転させて白馬の方を向いた。
「エージェントE78に内蔵したアンテナが破損したわ。恐らく、戦闘時に内蔵部分を負傷したのよ。しばらくはデータの採取はできないわね」
「埋め込んだアンテナはバイオインプラントのはずだ。修復はできないのか?」
「しばらくはって言ったでしょ。結構派手に破損したみたいでね、再生に時間がかかるみたい」
「どれほどかかる?」
「一週間ってとこかしら。再生速度を上げればもっと早く直せるけど……」
「では、そうしろ」
「簡単に言うわね。言っとくけど、こちらからアンテナに信号を送るのはかなり難しいのよ?おまけにリスクもあるわ。島のファイアウォールが固い事はあなたも知ってるでしょう」
「私はしろと言った」
女は白馬を睨みつけた。しかし、白馬が聞く耳を持たない事を悟ると、盛大にため息をついてうなずく。
「わかったわよ。ただし、エージェントの身体的負担は計り知れないわよ。最悪、後遺症が残るかもしれない」
「かまわん。どうせ代えはきく」
「あのね。あんた、あの島にエージェントを送り込む苦労を知らないでしょ。いい加減、こっちの身にもなってくれないかしら?正直ウザいんだけど」
「知った事か」
恨めしそうに白馬を見つめる女。対して白馬は、女に背を向けて部屋を退出しようとした。その背に向けて女が言葉を投げかける。
「そうやって偉そーにして他人見下してると、そのうち天罰が下るかもよ」
壁が閉まる直前、白馬は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ならば、受けて立とう」
☆ ☆ ☆
帰宅後、守哉は優衣子の勧めで夕食より先に風呂に入る事にした。
汚れのついた服をぱぱっと脱ぎ捨て、タオル片手に風呂場の扉を開ける。寮生の数に対してあまりにも不相応な広さの浴場を横切って洗面器を取ると、湯船のお湯をすくって足から上へ、少しずつかけていく……が、途中で面倒くさくなって一気に身体へぶっかけた。
湯船の縁に足をかけ、湯船の中に思い切ってダイブする。派手に周囲にお湯が飛び散ったが、どうせ他に誰かいるわけではないので気にしなかった。とてつもなく右足が痛んだが。
「いってぇ……。まったく、治らねぇなあこれ……」
右足を上げてふくらはぎの裏を覗き込む。相変わらず黒く腫れあがっていたが、今度の痛みはすぐ引いた。骨折を治すために治癒の言魂を使ったのがよかったのかもしれない。腫れ自体は治らないが、痛み止めにはなるようだ。
右足を下げ、肩までお湯に浸かる。天井をぼんやりと見上げ、不意にお湯をすくって天井に向かって投げた。しかし投げたお湯は天井に着く前に重力に引かれ、湯船の中へ落ちていく。
「……ふむ」
もう一度、先ほどと同じくらいの速度でお湯をすくって投げる。先ほどと何ら変わりないように見える……が、今度は天井にぶつかった。お湯が弾け、水滴が守哉に向かって落ちてきた。
何度か同じ事を繰り返す。天井についた水滴が顔面に容赦なく降り注ぐが、気にしない。投げる度にふむふむと呟く様は、どこぞの忍者漫画に出てくる犬のようだった。少し違うか。あっちはへむへむ、こっちはふむふむ。
しばらくしていい加減のぼせそうだと思った守哉は、天井に向かって指を鳴らした。すると、天井に付着していた大量の水滴が全て湯船に向かって落ちていく。
この一連の行動は一見するとただ遊んでいただけのようだが、実はれっきとした言魂の練習であった。指を鳴らして水滴を落としたのも、予めそうなるよう言魂を発動しておいたためである。
神和ぎになって以来、守哉は暇があればこうやって言魂の練習をしていた。その甲斐あってか、最近ではイメージのタイムラグなしに言魂を発動できるようになっている。精神力と神力の消費具合などもなんとなくわかるようになり、今では自由自在に言魂を操れるようになった。
「ふい~……ありゃ、指がふやけてやがる。長く入りすぎたかな」
ぼやきながら湯船から出る。念入りに身体を洗い、再び湯船に浸かる。今度は十分に暖まったところですぐに出た。冷水を浴びてからタオルを絞り、身体を拭いて浴場から出る。
下だけ衣服を身につける。備えつけられていたドライヤーで髪をかわかしながら鏡を見た。
上半身は傷だらけだ。両親に折檻という名の暴力を受け続けた結果、治らない傷が大量に出来上がってしまった。別に痛くはないが、ここまで傷だらけだと誰かと一緒に風呂に入る気はしない。当然ながら水泳も却下だ。
ふぅ、と小さくため息をつき、残りの衣服を身につけ脱衣所を出る。自室ではなく、そのまま食堂に直行した。
食堂の扉を開けると、テーブルに食事を並べていた優衣子と目が合った。
「上がったみたいね。お湯加減はどうだった?」
「いつも通り。普通に気持ち良かったぞ」
「そう。ならいいわ。……さ、ご飯にしましょ」
「ああ」
テーブルにつき、食事開始。優衣子曰く、これから朝食と夕食はちゃんと作ってくれるらしい。どういう風の吹きまわしか知らないが、今朝といい少し不気味だった。
ふと、箸を止める。神様との会話を思い出したのだ。
「なぁ、優衣子さん」
「………」
「優衣子さん?」
守哉が呼んでいるというのに、優衣子は答える気配を見せない。怒らせるような事を何かしたかと考え、ふとある事に思いつく。まさかと思いつつ、恐る恐るもう一度呼んでみる。
「……優衣子」
「なぁに?」
不気味なほどにっこりと笑いかけられ、守哉の背筋に悪寒が奔った。
「……いや、あのさ。実は、行きたいところがあるんだけど」
「行きたいところ?行けばいいじゃないの」
「行き方を教えてほしいんだよ。どうやって行けばいいのかわからないから」
「どこに行きたいのよ。それを言ってくれなきゃわからないわ」
「神奈裸備島」
ぴく、と優衣子の眉が動いた。
「……何故、神奈裸備島に行きたいの?」
「服が買いたいんだ。見てくれよ、ほら。このパーカー、ずいぶんボロボロだろ?いい加減新しいヤツを買いたいなぁと思って……」
「お金はあるの?」
「多少は」
「言っとくけど、島の外から持ち込んだお金は使えないわよ」
「え!なんで?」
「島で使われている貨幣は島で印刷されて発行されてるヤツだからよ。特に島で流通してる紙幣は神奈裸備銀行券って言って、島の外の紙幣と違ってマイクロ文字だの特殊発光インキだの偽造防止策が導入されてないから一発で見分けがつくのよね」
ちなみにこんなヤツね、と優衣子はポケットの財布から一万円札を一枚取り出してテーブルの上に置いた。一見すると島の外の紙幣と何ら変わりないように見えるが、確かに偽造防止策が導入されていない。
「偽造防止してないって……それじゃ偽札作りまくれるじゃん」
「そうよ。でも、神奈裸備島は貧富の差がほとんどないに上にほとんどの人が経済的に潤ってるから、偽札作ろうとするヤツなんていないの。神奈備島にも言える事だけどね」
ご馳走様、と言って優衣子が立ち上がった。守哉もさっさと食べ終えて、空になった食器を優衣子と一緒にキッチンへ持っていく。
優衣子が食器を洗い始めたのを見て、何となく守哉も手伝う事にした。
「あら。手伝ってくれるの?」
「暇だからな」
黙々と洗う。二人分しかないのですぐに終わってしまった。タオルで濡れた手を洗っていると、優衣子が大きなため息をついた。
「わかったわ。神奈裸備島に行きたいなら行きなさい。お金は用意してあげるから」
「さんきゅ。でも、どうやって行けばいいんだ?」
「1日に2度、朝と夕方に神奈裸備島行きのバスが出るのよ。日諸木学園の東にかささぎ橋っていう大きな橋があるから、そこに行けば詳しい事がわかるわ。それが面倒くさいなら学校で知ってる人に聞く事ね」
「わかった。何から何まですまねぇな」
つん、と優衣子は守哉の額を小突いた。
「いてっ」
「バカね、私達は家族でしょ。このくらい当たり前なんだから、そんな事言わなくていいの」
そう言うと、優衣子は背伸びをしながら食堂から出て行った。
☆ ☆ ☆
翌日。
いつも通り学校へ行った守哉は、午前中の授業を適当に聞き流して過ごした。
ぼんやりと座っていると、いつの間にやら昼休み。午前中の授業の終わりを告げる鐘がスピーカーから学校中に響き、生徒達は思い思いに散らばり始めた。
「守哉、飯にしようぜ」
「ああ……」
目をこすりながら机を持ち上げて縦にする。同じように忠幸も机を縦にし、向かい合うようにくっつけた。
眠そうにあくびをする守哉を見て、忠幸は呆れ顔で微笑んだ。
「なんだ、眠そうだな。学校の授業はそんなにつまらないのか?」
「つまんね。眠気我慢するだけで一苦労だ」
「おいおい、来週は期末試験があるんだぞ。今のうちに授業はしっかり聞いておいた方がいいぜ?」
「そんな事言われても、今日の授業も先週の授業も内容はほとんど変わらないじゃねぇか。いい加減聞き飽きるっつーの」
「まぁそう言うなよ。わからないヤツがいるんだから仕方ないだろ」
ちなみにそのわからないヤツというのは高槻慎吾である。慎吾は毎回毎回わからないからと言って似たような質問を繰り返すので、どんどん授業が遅れていくのだ。物分りが悪い島民の中でも一際物分りが悪いらしい。
「まぁいいさ。それより、早く食べようぜ。腹減ったよ」
机の横にぶら下げたショルダーバッグから弁当を取り出しながら守哉は言った。もちろん七瀬が作った弁当である。忠幸も鞄の中から弁当を取り出し、机に広げる。
弁当の蓋を開けたところで、守哉は神奈裸備島について今のうちに聞いておこうと考えた。
「なぁ、忠幸。今日で今週の授業は終わりなんだよな?」
「ああ。明日から休みだ。なんだ、遊びの約束か?」
「それもいいけど、ちょっと聞きたい事があってさ。神奈裸備島の事なんだけど」
言いながら、箸でブロッコリーを摘む。一口サイズのブロッコリーにはマヨネーズがかけられていた。弁当の蓋の裏に少しマヨネーズが付着している。
「神奈裸備島がどうかしたのか?」
「行きたいんだよ。どうやって行けばいい?」
「どうも何も、バスに乗るだけだぞ。なんだ、買い物に行くのか?」
「ああ。服を買いにな」
「服か……そういえば、お前のパーカーずいぶんボロボロだものな」
忠幸は守哉のパーカーを見ながら言った。あちこち破れていて、ずいぶん色も落ちてしまっている。正直、もう捨てた方がいいレベルだった。
「まぁな。個人的にはこのパーカー、まだ着ていたいんだけど」
「でもそれ、いい加減買い換えないと皆からバカにされる一方だぞ。お前、ただでさえ中傷されてるんだからな」
「わかってるよ。だから新しい上着が欲しくなったんじゃねぇか」
タコさんウインナーを箸で串刺しにする。よく見たら顔が描かれている。ずいぶんと美形なタコさんウインナーだった。……まさか、自分を模倣してるんじゃないだろうか。だとしたら、これは共食いなのだろうか。少し躊躇ったが、結局は食べる事にした。
忠幸はあごに手を当てながらしばらく思案すると、から揚げを摘み上げて口に運んだ。
「もぐもぐ……。……それもそうだな。じゃあ、明日にでも行くか。どうだ?」
「一緒に行ってくれるのか?」
「もちろんだ。お前一人じゃ心細いだろ?俺なら何度も神奈裸備島に行った事があるから、道案内してやるよ」
「それはありがたいな」
わざわざついてきて面倒を見てくれるなんて、忠幸は本当にいいヤツだと守哉は感動した。
「バスは朝8時に島を出るから、それまでに準備をしておけよ。一応、泊まる準備もな」
「泊まるって……別に日帰りでもいいんだけど」
「何言ってんだ、お前は初めて神奈裸備島に行くんだろ?だったら色々見て回らないと損じゃないか。保護者の許可も取っておけよ」
「わかってるよ」
「明日は7時30分にかささぎ橋に集合な。かささぎ橋の場所はわかるか?学校の東にあるんだけど」
「今日中に調べておくよ。大きい橋って聞いたから、すぐに見つかるだろ」
「じゃあ、見つからなかったら電話しろよ。これ、俺の家の電話番号な」
電話番号を記入した紙を受け取り、ショルダーバッグにしまう。ふと時計を見ると、いつの間にか昼休みの終わりが近づいていた。
「やべ、早く食べないと」
守哉に言われて忠幸も気づき、二人は慌てて弁当を食べ始めた。
二人が弁当を食べ終えたのと、午後の授業の開始を告げる鐘が鳴ったのはほぼ同時だった。