第2話 “抜刀、魔刃剣”
そこは、学校の教室だった。
夕日の差し込む教室に、守哉は一人佇んでいる。他に人の姿は見えなかった。
これは夢だ―――不思議と、守哉はそう思う事ができた。
(この教室……昔、通ってた小学校の教室に似てるな)
周囲を見渡せば、何故か机が自分を取り囲むように配置されている。
まるで、法廷に立たされているかのように。
唐突に、教壇に先生が現れた。
「守哉君。ちゃんと反省していますか?」
何の事だ、と守哉が言おうとすると、突如一番近くにあった机に女の子が一人現れた。
「先生、守哉君は悪い子です。お母さんが言ってました、この子とは仲良くしちゃダメよって」
女の子がそう言うと、他の机に女の子達が現れた。
「先生!昨日クラスの給食費を盗んだのは守哉君です。守哉君のお母さんは泥棒だから、守哉君も泥棒だってお父さんが言ってました」
「先生!私、昨日の授業中に守哉君に消しゴムのカスを投げられました。たくさん、たくさん投げられて、授業が終わる頃には私の頭は消しカスだらけでした。私は何度もやめてって言ったけど、守哉君はやめてくれませんでした」
「先生!私の筆箱を盗んだのは守哉君です。守哉君の机の中に私の筆箱が入ってました」
全部嘘だった。給食費は集めていた子が先生に渡し忘れていただけだったし、消しカスを投げていたのは他の男の子だ。筆箱は、他の男の子が女の子から盗み出して守哉の机にこっそり入れ、それをあたかも守哉が盗んだかのように周囲に言いふらしただけだ。
今度は男の子達が守哉の周囲を取り囲むように出現する。
「こいつ、テストのときカンニングしてたぜ。俺、見たもん。いっけないんだ~」
「こいつ、こ~んな古臭い筆箱使ってら。ダッセ~!俺が壊してやろうか?」
「こいつの体、傷だらけだ!気持ちわり~!」
頭の悪い誹謗中傷が守哉を襲う。皆、守哉を悲しませようと面白がってやっていたのだろう。
子供は純粋だ。純粋で―――とても、残酷な生き物だ。
「悲しいか?」
その声は、悪口の飛び交う教室の中でも、不思議と守哉にはよく聞こえた。
守哉が声の主の方へ振り向くと、そこには一人の子供が立っていた。
その子供は―――守哉に、瓜二つだった。
「これだけ大勢の人間に否定され、蔑まれ、痛めつけられて―――悲しいだろう?」
子供は、不敵な笑みを浮かべ、守哉を誘うようにそう言った。
「お前は孤独だ。周囲の人々だけでなく、両親にさえ否定された……覚えているだろう?」
「……ああ」
「学校で苛められて、泣きべそかきながら帰ってきたお前を、母親は汚いものを見るような目で見つめた。その後は―――確か、父親に何度も殴られたよな?何で殴られたか、覚えてるか?」
「もう、忘れちまったよ」
「嘘つくなよ。目障りだから、だろう?父親は、お前が目障りで仕方なかった。母親もさ。……だけど、お前は料理ができた。家事ができた。だから、父親も母親も、お前を見捨てなかった」
「……黙れよ」
「自分を見て欲しくて、自分を愛して欲しくて―――料理を、家事を、死に物狂いで覚えたのに、お前の両親はお前を家政婦のようにしか扱わなかった。一度も、自分の子供として見る事はなかった」
「……うるせぇ……」
「悲しくて、何度も泣いたよなぁ……。誰かの前で泣けば怒られるから、布団の中で泣いたよなぁ?」
「……黙れよ……」
「お前は、いつも一人だ。誰もお前を助けてくれない……周りの人は、お前を蔑むだけだ。……惨めだな。ダサいにもほどがある。
本当、さっさと死ねばよかったんだよ、お前なんて」
「黙れ!!!」
いつの間にか、教室にいた子供達や、先生はいなくなっていた。
「なのになんで―――一度も、死のうと考えなかった?」
子供は、とても悲しそうな顔で、そう言った。
守哉の事を、誰よりも理解しているのに―――どうしても、それだけが理解できない、と言っているかのようだった。
「どうして、死のうと思わなかった?皆がお前の存在を否定して、お前自身も自分の存在を否定していたはずなのに―――何故、死のうとしなかった?苦しみから、逃れようとしなかったんだ?」
「……死んだら負けだ。俺の存在が、皆を苦しめているのなら……最後まで、苦しめてやろうと思った。……ただ、それだけの話だ」
「嘘だな」
「……本当だよ。本当に、それだけだ」
「そんな苦し紛れの言い訳を信じると思うのか?」
「信じる、信じないはお前の勝手だ。……大体、他人の夢に土足で入ってくるヤツに、本当の事を言う義理はねぇな」
「!……気づいていたのか」
「なんとなくな。お前、何者だ?」
守哉の声に、子供は肩を震わせるだけで、何も答えない。
「お、おい……どうした?」
「……………ククク、アハハハハハハハハ!!!!」
子供が突然笑い出すと、同時に周囲の景色が真っ白になった。
影一つない、何もない空間に、二人はいた。
「!……今度は何をしたんだ?」
「別に何も?……いやぁ、君は面白いな!君みたいな人間は初めてだよ。実に面白い―――興味深い!―――いいよ。君には、力を得る権利を与えよう!いや、今すぐ君に力を授けようじゃないか!」
両手を掲げ、笑いながら子供は言う。
その笑みは、とても不気味なものに見えた。人ではない、別の何かに。
「私は君が気に入ったよ!君の生への飽くなき執着心!素晴らしい、美しい!そして―――とても醜い!そんな君に、私ができるのは力を与える事だけだ!受け取るかどうかは君次第だが―――なぁに、君には選択肢など与えない!君もそれが一番慣れてるみたいだしな!」
次の瞬間、二人の足場が崩れた。
轟音と共に床が崩れ落ち、抗う術のない二人は白い闇の中へと落ちていく。
「お前、誰なんだ!?力ってなんだ!俺に何をした!」
「そのうちわかるさ!記念すべき百人目だ、君には君に最も相応しい力を授けてあげるよ!」
「詳しく説明しろ!」
「そのうちわかると言っただろう?気長に待ちたまえよ!」
「いちいち待ってられるかよ!せめて、お前の名前ぐらい教えろ!」
守哉の言葉に、子供は不敵な笑みを浮かべ、答えた。
「私は、神様だよ。この島に封印された、神様だ。……せっかく教えてやったんだ、覚えておけよ?」
守哉がその言葉を聞き取った瞬間、守哉の意識は途絶えた。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと、そこは磐境寮の自室―――607号室だった。
「……夢、か」
壁にかけられた時計を見る。ちょうど6時を過ぎた頃だった。
「イヤな夢見たなぁ……。夕飯まで時間もあることだし……何かする事あったかな」
起き上がってショルダーバッグを漁る。しかし、これといって暇を潰せそうなものはなかった。諦めて二度寝でもしようかと、再び寝転がろうとした時―――不意に、誰かの視線を感じた。
嫌な予感を感じつつも、恐る恐る視線の主へ目を向けると、
部屋の入り口に、夢に出てきた子供―――自称神様が立っていた。
「お前……何で……ここにいる?」
驚きを隠せない守哉。神様は、着いて来いと言っているかのように手招きをすると、廊下へ出て行った。
「待てよ!」
守哉は一瞬、追いかけるべきかどうか迷ったが、特にやる事もなかったので結局追いかける事にした。
守哉が廊下に出ると、神様はエレベーターに乗り一階へ降りていった。
「神様がエレベーターなんか使うなよ……!」
磐境寮にはエレベーターが一つしかない。なので、エレベーターが往復して来るのを待つか、階段を使うかの二択になる。結局守哉はエレベーターを待ちきれず、階段を使おうと駆け出そうとする。しかし、突如右足に激痛が奔り、痛みに顔を歪め立ち止まってしまった。事故の後遺症だ。
「クソッ!走れないってのはきついな……。長時間我慢できるレベルの痛みじぇねぇし……まいったね」
仕方なく、エレベーターが来るのを待つ守哉。しばらくして、チーンという音と共にエレベーターの扉が開いた。エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。
少ししてエレベーターが一階に着くと、ロビーに出た。周囲を見回して神様を探すと、神様は玄関口にいた。相変わらず不敵な笑みで手招きをしている。
「どこに連れて行くつもりだ……?」
外へ出て行く神様を早歩きで追いかける。神様は、夕日でオレンジ色に照らされた緩やかな坂道を下りていく。神様は歩いて下りていたがその速度は速く、すさまじい速度で坂道を下り切り、坂道を下りた先の交差点の真ん中で守哉を待っていた。
「……どんだけ歩くの速いんだよ……!」
若干気持ち悪がりながら、早歩きで神様を追う守哉。神様は、守哉が近づいてくるのを見計らうと、すいすい進んでいく。
向かう先には、日諸木学園が見えた。
「よりにもよって学校に連れて行くのか……」
守哉はあまり気が進まなかった。昔から引越しと転校を繰り返していた守哉だが、不思議とどの転校先の学校でも友達ができなかった。それどころか、必ずいじめに遭っていたのだ。守哉が協調性のない性格をしていた事も原因の一つかもしれないが、それにしても守哉は周囲の人間に恵まれなかった。そんなわけで、守哉は学校というものが大嫌いだった。
しかし、嫌いだからといって神様を追うのをやめても暇になるだけである。それに、好奇心もある。
「……くそっ!」
結局、守哉は神様を追って日諸木学園へ向かう事にした。
フェンスで取り囲まれた日諸木学園は、正門が一つしかないようだった。校門を抜けると、そこには広大なグラウンドが広がっている。陸上競技の為に引かれた白いラインが二つ平行に描かれている事を考えると、かなりの広さがある事がわかる。
グラウンドを横切っていく神様を追うと、神様は正面玄関への中へ消えていった。
「なんか、嫌な予感がする……」
とはいっても、嫌な事には慣れている守哉は、躊躇する事なく正面玄関へ入った。
どうやらそこは、生徒達の昇降口になっているらしく、靴箱が所狭しと並んでいた。靴箱には大きく小等部、中等部、高等部と書かれていた。ネームプレートに名前がある靴箱は少ないようで、全体の半分ほどしかない。どうやら、小等部、中等部、高等部の生徒をあわせても生徒数はかなり少ないようだった。
守哉が昇降口を抜けて廊下へ出ると、神様の姿は見当たらなかった。完全に見失ってしまったらしい。
「どこにもいない……飽きたのかな」
誰もいない廊下に守哉の呟きが響く。
廊下はかなり広かった。横幅だけでも5m近くあり、高さは6mくらいあった。廊下の高さに比例して窓も大きくなっている。ただ、廊下自体はそこまで長いわけではなく、守哉のいる廊下の中心を挟むように教室が三つ並んでいた。教室の扉と窓だけは普通のサイズだった。
様々な学校を転々としてきた守哉でも、ここまで大きな学校は初めてだった。つい、物珍しそうに周囲を見渡してしまう。
「ずいぶん広い廊下だな。これなら、昼休みに混雑する事なんてないんじゃ……っ!?」
突如、守哉は凄まじい悪寒を感じた。左側の廊下の奥で、何かが落ちる音がしたのだ。静まり返った廊下に響いたその微かな音を守哉は聞き逃さなかった。
廊下に静寂が訪れる。しかし、すぐに音のした方からガラスを引っ掻く耳障りな音がした。そしてその音は、次第に守哉の方へ近づいてくる。
そう―――何かが、近づいている。
「な、なんだ……」
守哉は逃げた方がいい、と感じていた。しかし、恐怖で身体が動かない。
音はだんだん大きくなっていく。音に紛れて何かが蠢く音がしていた。
「なんなんだよ……」
さらに音が大きくなる。何もない空間から突然液体が飛び散った。守哉は、それが何故か―――獲物を前に、猛獣の口から飛び散るよだれのように見えた。
喰われる―――のか?
「なんだってんだよ………!!」
「避けぬか、たわけっ!!!!」
突如、誰かの叫び声が聞こえた。声のした方―――正面の螺旋階段へ顔を向けた瞬間、何かに突き飛ばされて昇降口に吹っ飛ばされた。運悪く靴箱で後頭部を強打し、頭の中に火花が奔る。一瞬意識が飛びそうになったものの、何とか意識を保つ事ができた。
痛む高等部をさすりながら顔を上げると、
「っ……いってぇ……。な、何が……?」
一瞬前、守哉がいた場所に、まるで爪で引っ掻かれたような、巨大な傷痕ができあがっていた。
「な、なんだよ、これ……。な、なんで……」
突然の事で混乱する守哉。何かが蠢く音と、獣の唸り声が聞こえていたが、混乱する守哉は身動きがとれなかった。
守哉に向かって、何かが飛び掛かるが、それを何かが受け止める。
実際は、守哉の目の前で死闘が繰り広げられていたのだが、守哉にはそれが見えなかった。何かが擦りあっている音は聞こえるが、気配を感じる事ができない。
目の前に何かがいるはずなのに、そこに何かがいると感じる事ができない―――
「何故ここにいる!?早く逃げぬか!!」
先ほどの声が目の前から聞こえる。声からして、声の主はあまり若くはないようだ。
逃げようとしてよろよろと立ち上がる守哉だったが、どこへ逃げればいいのかわからない。咄嗟に校舎から出ようと振り向いたが、いつの間にか扉が閉まっていた。
閉じ込められた―――言い知れぬ恐怖が守哉の頭を侵食する。身がすくんで動けない。
「向こうへ走れぃ!死にたいのか!」
何もない空間から再び発せられる声が守哉を叱咤する。その声で我に返った守哉は、目の前の何もない空間―――いや、見えないだけで何かがいる空間を避けて、廊下へと躍り出た。勢いよく右足を動かしたので、凄まじい激痛が右足を襲ったが、守哉はそれを無視した。
今、足の痛みに負けて立ち止まれば、見えない何かに殺される。
「くそっ……!」
守哉は、何かがいる空間を迂回するようにあえて螺旋階段の方へ走った。階段の横には渡り廊下があり、その先は別の校舎へ繋がっているようだった。右足の激痛に耐え、時折右足を引きずりながら渡り廊下を走る。見えない何かが追ってくる音はしなかった。気配を感じない以上、音で判断するしかない。守哉は耳を澄ませながら、長すぎる渡り廊下を抜け、別の校舎へ辿りついた。
別の校舎に着くと、近くにあった扉を閉めて鍵をかける。意味があるかはわからなかったが、それで守哉は落ち着きを取り戻した。
「何が……起こってる……」
息を整え、先ほど閉めた扉についているガラスからさっきまでいた校舎を見る。昇降口の様子が丸わかりだったが、そこにはやはり誰もいなかった。
「何かいる……何かいるはずなんだ。見えない、気配さえない何かが……」
「知りたいか?」
突然後ろから聞こえた声に、守哉は驚いて振り返った。そこには、先ほど見失った神様が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「神さび―――それが奴らの名だ。今のお前では神さびを見る事はできない。気配さえ感じないはずだ」
神さび。見えない何か―――恐らく、蠢く音の正体なのだろう。
「……どうすれば見る事ができるんだ?」
「見てどうする?逃げるのか?」
「……悪いかよ」
「いや、悪くない。死の危険を感じて逃げるのは、生き物として当たり前の事だからな」
「じゃあ、どうすれば見れるようになる?このままじゃ逃げ切れたかどうかもわからない」
「教えてやってもいいが……それをすると、神さびと戦わなければならなくなってしまうのだ」
「何でだよ!」
「そういうルールなのさ。仕方なかろう?」
「戦うって……意味わかんねぇよ!相手はどんなヤツかもわからないし……第一、俺には戦う力なんてないんだぞ!?」
「違う。見れるから戦わなければならないんじゃない。戦う力があるから戦わなければならないんだ」
「どういう事だよ」
「どっちみち、お前に選択肢はない。お前をここに連れて来たのは、お前を戦わせる為だったからな」
「ふ……ふざけんな!わけわかんねぇんだよ、いい加減詳しく事情を説明しやがれ!」
「その暇もない。早速だが、力を授けよう。言っておくが、逃げようと思うなよ?―――今逃げれば、私がお前を殺す」
「な……!お、お前……受け取るかどうかは俺次第だって、言ったじゃねぇか」
「ついて来ようとしなければ、学校に入る前に引き返していれば、こんな目に遭う事はなかった。選択肢はあったのさ、学校に入るまではね。つまり、選んだのは君自身だ。私は強制していない」
「お、お前……!」
「さぁ、最後の選択肢だ。力を受け取り戦うか、ここで私に殺されるか。選べ」
いつの間にか、神様はいつもの不敵な笑みを消していた。変わりに、氷のように冷たい無表情で、守哉を真っ直ぐに見つめていた。
身体が震えているのがわかる。死にたくない―――ただ、その思いだけが心の中を埋め尽くしている。
しかし、神様は非情だった。
「さぁ」
「……お、俺は……」
「さぁ……!」
「俺は、まだ、死にたく、ない……」
「ならば、力を受け取るか?」
「え、得体の知れないヤツとも戦いたくない……!」
「ならば、死ね」
「死にたくねぇんだよ……!」
「なら、受け取れ。……早く選べ。死にたいのか!?」
「わ、わかったよ!受け取ればいいんだろ!受け取れば!」
守哉はやけになって叫んだ。正直、言って後悔したが、ここで受け取るのを拒んでも、どっちみちこいつに殺されるだけなのだ。ならば、生き残れる可能性のある方へ賭けたほうがいい。
「よかろう」
守哉の答えに満足したのか、神様は盛大に笑顔を浮かべた。
かなり、不気味な笑顔を。
「ククク、さっさとそう言っていれば手早く済んだのさ。……さて、神さびがこちらに気づいたようだ。九十九代目は役に立たんようだし、急がなければならないな。こっちへ来い」
神様は螺旋階段の下にある階段を下りていった。守哉もそれを追う。
しばらくすると、複雑な装飾が施された扉に辿りついた。高さ2m、横幅1.5m程度で、扉の上には地下用具倉庫と書かれたプレートがあった。
正直、かなり不釣合いな代物だ。
「この扉に触れ」
「触るって……こ、こうか?」
恐る恐る、守哉が右手で扉を触れる。
次の瞬間、守哉の目の前が真っ白になった。
「なっ……!?」
驚く暇もなく、元の視界が戻ってくる。目の前には変わらず不釣合いな扉があった。
「さぁ、これで終わりだ。存分に戦うといい」
「は……?いや、何が何だかわからねぇんだけど」
「すぐにわかるさ」
「何が……ぐぅっ!?」
突如、守哉の左手に焼けるような激痛が奔った。痛みはほとんど一瞬だったが、驚いて左手の手の平を見ると、そこには歪な星型をした火傷の痕があった。
「な、何が……」
「聖痕だ。手の平の前で、棒を掴む感じでこぶしを作ってみろ」
こんな風に、と神様がジェスチャーする。守哉も見よう見まねで、左手を目前に出し、歪な星型の火傷の前で右手を棒を掴むようように動かす。
すると、左手の歪な星型の火傷―――聖痕の中心から、剣の柄のようなものが飛び出した。
「こ、これは……!?」
「魔刃剣だ。そのまま引き抜いてみろ」
右手で柄を掴み、勢いよく引き抜くと、柄の先から刃が飛び出した。
つばのない日本刀の形をしたその剣は、刀身がサファイアのように青く光り輝いている。
「な、なんだこりゃ……」
「氷鮫―――凍てつく氷の魔刃剣さ。ほら、それで戦え」
「ど、どうやって?」
「ふむ、そうだな……とりあえず、敵の姿を確認するか。ついて来い」
言うが速いか、神様は階段を駆け上がると、先ほどの渡り廊下への入り口へ躍り出る。慌てて守哉もそれを追う。
「あれが、神さびだ」
神様が指差した先には、見た事もない生物がいた。
それは猫のようだった。4m近くある巨大な胴体に、6本の巨大な蜘蛛の足がついている。胴体に比べて顔は小さく、猫に似た顔が胴体に埋め込まれていた。その顔には口が無く、口は鼻から随分と離れた位置にあり、胴体と同じくらい大きかった。口から見える巨大な犬歯には誰のものなのか、血がこびり付いている。大量のよだれを撒き散らしながら、ゆっくりと渡り廊下を通ってこちらへ近づいていた。
生まれて初めて目にした神さびに、守哉は震えた。
「な、なんだよ、あれ……」
「神さびだ。どうやら、開闢門から下った際に猫と蜘蛛の輪廻に捕らわれたようだな。……ふむ、思っていたよりも弱っている……今のお前なら、神力を全て使い果たせば一撃で倒せそうだぞ」
「む、無理だろ!あれは!こんなちっぽけな剣で倒せそうには見えないぞ!?」
「見た目はちっぽけでも、その剣が秘めている力は強大だ。それに、何もその剣でヤツと切り結べというわけではないさ。その剣の特性……絶対零度の力を活かせば、なあに、簡単に倒せるはずだ。今ならな」
「だ、だけどさ……」
怖いものは怖いのだ。今にも逃げ出しそうだというのに、いきなり、倒せるはずだ~……とか言われても困る。
守哉が戸惑っているのを見かねた神様は、
「やれやれ……世話が焼けるな。今回だけだぞ?―――いいか、精神を集中しろ。剣をしっかり握れよ?」
言われた通り、守哉は精神を集中した。とはいっても、具体的にはどうすればいいのかわからなかったので、頭をからっぽにし、目を瞑って剣を両手で握り眼前に構えただけだったが。
すると、守哉の握る剣―――魔刃剣から、鼓動が聞こえるような気がした。心臓の鼓動にも似た、一定間隔で刻まれるリズム。
「捉えたな―――いいぞ。お前は飲み込みが早い。そのまま、剣に精神を委ねろ―――」
神様の声が遠のいていく。神様が守哉から離れたのではない―――守哉の意識が、自分の内側へと向けられた事により、守哉の五感が閉じ始めただけだ。
無意識のうちに、守哉は剣を振り上げていた。両手で握ったまま、剣を頭上で掲げる。ゆっくりとした動作で―――剣は、守哉の真上に移動する。
五感が閉じられていく中、守哉は神さびが近づく速度を速めている事に気づいた。守哉を見て何かを感じ取ったのか、その動きには焦りが見えた。獣のような咆哮を上げながら守哉へ接近する。
しかし、守哉はそれに一切動じなかった。いつの間にか恐怖は消え去っていた―――いや、守哉の中から、感情そのものが消えていく。
ゆっくりと目を開ける。その目には、一切の感情も浮かんでいない。凍てついた氷のような目で迫り来る神さびを睨む。
そして、守哉は頭上に掲げていた魔刃剣を―――一気に、地面へ突き刺した。
「終わったな」
神様が呟く。瞬間、魔刃剣の刃が突き刺さった部分を中心に、地面が凍りついていき―――迫りくる神さびの足元を凍てつかせた。途端に神さびの動きが止まる。足の先が完全に凍りつき、地面と一体化していた。
さらに、突き刺さった魔刃剣の目前の地面から、鮫の背びれのような氷の刃が出現する。突如出現したそれは、一直線に神さび目掛けて突き進み―――そのまま、神さびを真っ二つに切り裂いた。
☆ ☆ ☆
守哉が我に返ると、目の前には真っ二つになって凍りついた神さびの姿があった。
「なんだこれ……。お、俺がやったのか?」
呆然と神さびの死体を見つめる。すると、それは突然凄まじい音を立てて砕け散ってしまった。
「!な、何がどうなってんだ……」
「後始末さ。よくやったな、無事神さびを倒す事ができたようだ」
「え……もう、終わりなのか?」
「そうだよ。あっけないだろう?まぁ、今回に限った事だろうがな。次は今回ほどうまくいくまいて」
「次があるのかよ」
「当然だ。一体だけとは言っていないだろう?」
「そんなバカな……」
脱力して、守哉は膝をついた。安心したのと、また戦わなければならないという事が守哉のやる気を一気に削いでしまった。ぐったりと頭を下げると、手に握っていた魔刃剣が皿が割れたような音を立てて砕け散る。
「……壊れちまった」
「神さびを倒して役目を終えたからな。なぁに、別に失われたわけではないから安心したまえ」
脱力しきった目で神様を見上げる。神様は満足そうに頷き、とても良い笑みを浮かべていた。
「嬉しそうだな」
「まぁな。このような気分になったのは久しぶりだ。感謝するぞ……えぇっと、誰だっけ」
ガクッと守哉は頭を下げた。神様のくせに、抜けているヤツである。
案外、神様って何でも知ってるわけじゃないんだな、と守哉はぼんやり思った。
「守哉だ。未鏡守哉。ちゃんと覚えとけよな」
「もちろんだとも。さて、ずいぶん脱力しているようだが、もう自力では歩けまい?人を呼んできてやろう」
いいよ、自分で歩ける、と言おうとしたが、何故かうまく喋れない。それどころか、次第に意識が遠のいていく。
「……な……なんで……」
「精神力を使い果たしたみたいだな。まぁ、ゆっくり眠るといい。詳しい事情は別の者に話してくれるよう頼んでおいた。安心して眠りたまえ。なぁに、寝床までは私が連れて行ってやるさ」
神様の声が遠のいていく。今度はただ単に眠いだけだ。何とか眠気に抗おうとするが、すぐに抗いきれずに守哉は意識を失った。
薄れゆく意識の隅で、今夜は夢を見ずにすみそうだと、守哉は思った。