第36話 “憩いの朝”
とあるマンションの一室。
一人の女が机に向かい、一通の手紙を手に取っていた。
久しぶりに届いた家族からの手紙。愛おしげにその手紙を眺めたあと、女はゆっくりと手紙の封を切り、中身を取り出した。長方形に折りたたまれた紙を開き、文面を覗く。
おねえちゃんへ
おねえちゃん、お元気ですか。私はこの手紙を書いてる時点では元気です。
先月の手紙の返事は無事に届きました。元気そうだったのでとてもほっとしました。でも、もうずいぶん長い間会っていないので、本当に元気なのかちょっぴり不安です。おねえちゃん、一人でなんでも抱え込んじゃうから。お願いだから、無理はしないでね。
こちらの近況を報告します。トヨおばあちゃんはとっても元気です。毎日むっつり顔で島中を徘徊しています。もうちょっと笑えばいいのにね。
七美おねえちゃんも元気です。七美おねえちゃんは、最近たまに家に戻ってきてくれるようになりました。おばあちゃんはまだ少し嫌がってるけど、私はとっても嬉しいです。
妹達には最近会ってないけど、七美おねえちゃんは元気にやってるって言ってました。家に連れてくればいいのに、七美おねえちゃんは連れてきてくれません。ちょっぴり寂しいです。
そういえば、先月に新しい人が島にやってきました。とっても綺麗で、優しいけどちょっぴり人間不信な男の子です。私、その人とお友達になったんだよ。その人のおかげで、毎日がとっても楽しいです。いつか、おねえちゃんにも紹介したいな。
でも、家族がみんな集まれる日が来るのはまだ遠いのかな。おねえちゃんが神奈裸備島に行ってから3年も経ったけど、一度くらい神奈備島に帰ってこれませんか?もうおばあちゃんのこと、許してあげてほしいです。
わがまま言ってごめんね。でも、私はみんなと会いたい。いつか、家族全員が家に戻ってきてくれる事を祈ってます。
それじゃあ、また。来月も書くからね。
神代七瀬
「そっか。お友達、できたんだね」
読み終えた手紙を折りたたみながら呟く。先月までの手紙とは違い、本当に元気そうで安心したのだ。 3年前、両親の死を間近で見て精神が崩壊しかけた妹が、最近になってようやく立ち直り始めている。もう2度と以前の七瀬には戻れないけれど、それでも嬉しい事に違いはなかった。
女が妹である七瀬と手紙のやり取りを始めたのは、女が神奈備島を出てからすぐであった。島を出たといっても、神奈備島と隣接した島である神奈裸備島へ移り住んだだけなのだが。
もう一度手紙を読み直す。やはり、先月までの手紙と違って今回の手紙は心がこもっているのを感じる。以前、トヨの言魂の影響で心を病み、虚ろな表情を浮かべるようになった七瀬を見た時は悲しみで胸が張り裂けそうになったものだが……一体、七瀬はどんな表情を浮かべてこの手紙を書いたのだろうか。急激に七瀬に会いたい気持ちが膨れ上がったが、女は頭を振ってそれを押さえ込んだ。
「……いけない。ダメよ、私。もう、島には帰らないって誓ったじゃないの」
すぐに返事を書こうとしてレターセットを取り出す。真新しい用紙を広げ、ペンを手に取る。
そこでふと、手紙の内容の一部を思い出した。
―――家族全員が家に戻ってきてくれる事を―――
「……ごめんね、七瀬。それはもう、無理なのよ……」
悲しげにそう呟き、女は手紙を書き始めた。
☆ ☆ ☆
甲高い音が部屋中に鳴り響く。
「………」
ここは磐境寮の607号室、守哉の自室である。自室と言っても守哉の私物は少なく、見た目は寮の他の部屋とまったく変わりはなかった。守哉がここで暮らしているために多少生活臭がする程度である。
のっそりと布団から這い出た守哉は、霞む目をごしごしとこすりながら枕元に右手を伸ばした。小さな目覚まし時計を探り当て、ボタンを押す。
しかし音は鳴り止まない。壊れているのだろうか。
「………」
しかめっ面で何度か目覚まし時計のボタンを押す。それでも音は鳴り止まない。
「………」
目覚まし時計のボタンを連打する。60連打ほどコンボを決めたところでようやく目覚まし時計は鳴り止んだ。
「……あー……しんど」
呟き、立ち上がる。思いっきり背伸びをしたところで、今度は電話が鳴り出した。
「………」
どさっと座り込んで受話器を取る。電話の相手はわかりきっている。優衣子だ。
『おはよう、守哉。気分はいかが?』
「……最悪だ」
『そう。それはよかったわね。朝ごはんできてるから早く降りてきなさい』
「へーい」
電話を切り、しばらくぼんやりと電話を見つめる。ボタン式の電話である。守哉からすればかなり古い電話機だが、この島では最新式のものらしい。
のっそりと立ち上がり、寝巻きを脱いで服を着る。愛用の青いパーカーを着ようと手に取ったところで、しかめっ面になった。
「……うへぇ、破れてやがる」
青いパーカーは傷だらけであった。あちこち破れていて少しみっともない。
はぁ、と悲しげにため息をつく。このパーカーはお気に入りだったのである。
「やれやれ……。いくらなんでも、こんなの着て学校言ったら笑われちまうよな」
しかし、そうは言っても上着はこれ一枚しか持っていないので、これを着ていくしかない。別に着なくてもいいのだが、守哉としては着て行きたいのである。青いパーカーは自分の身体の一部だと思うほどこの青いパーカーには想い入れがあるのだ。
「まぁいっか。笑われるのはいつもの事だ」
自嘲気味に呟きパーカーを羽織る。パーカーからわずかに木が焼け焦げたような臭いがしたが、それは無視する事にした。
靴を履いて部屋の外に出る。廊下を歩き、不意に階段の前で立ち止まった。使われている形跡のないエレベーターの扉を見つめる。
毎度毎度自分を乗せようとしないエレベーター。嫌われているのかと思ってしまうが、そもそもエレベーターに好き嫌いもクソもないだろう。機械なのだから。
しかし何故か、今日は乗せてくれるような気がした。根拠はないが、そう思った。
「……挑戦してみるかな」
エレベーターの前に立つ。ゆっくりとエレベーターの扉が開き、守哉を迎え入れようとする。
すぐには入らない。以前、こいつは自分を挟み殺そうとしたからだ。何度か右足を入れたり抜いたりしてみてすぐに閉まらない事を確認し、素早くエレベーターに乗り込んだ。
「……何も起こらない……今回はいけそうか?」
本当に何も起こらない。起こりそうな気配もない。ドアも普通に閉まったし、ようやくエレベーターが自分を認めてくれたという事だろうか。ほっ、と安堵の息をつき、1階のボタンを押してエレベーターが動き出すのを待つ。
「………」
待つ。
「……?」
いくら待っても動き出す気配がしない。普通はボタンを押せばすぐに動き出すはずである。
守哉は冷や汗を垂らしながら呟いた。
「もしかして、閉じ込められたのか?」
答える声はない。当たり前だが。
仕方なく、守哉はエレベーターのドアをこじ開ける事にした。言魂でエレベーターのドアの隙間にある空気を膨張させ、ドアを無理やりこじ開ける。開いたドアの隙間から素早く外へ出て、言魂を解除する。瞬間、ドアが勢いよく閉まり、廊下に轟音が響いた。
「……なんだかなぁ」
はぁ、と大きなため息をつく。相変わらずエレベーターには嫌われているようである。というか、本当にこのエレベーターには意思があるような気がしてきた。もしかして、これは荒霊なのではないだろうか。
さすがにそれはないだろうと考え、階段を使って1階へ降りる。食堂に入ると、テーブルの一つに二人分の料理が並べてあった。
そう、料理である。料理が置いてあるのだ。料理といっても、ご飯に味噌汁、そして小皿にのったたくあんだけだが、それでも料理に違いはない。まさかこの寮の食堂に料理が並んでいるところを見る日がくるとは、と守哉は驚愕した。
守哉が呆然とテーブルに置かれた料理を眺めていると、食堂のキッチンから長身の美女が湯のみと急須がのったトレイを持って現れた。この寮の管理人、藤原優衣子である。
「ようやく来たわね。まったく、早く降りてきなさいって言ったのに」
優衣子は少し呆れたようにそう言った。守哉はテーブルに置かれている料理を指差して震える声で言った。
「こ、これって……誰が作ったんだ?」
「誰って、私に決まってるじゃない。変な子ね」
信じられない。守哉は心底驚いた顔をして優衣子を見つめた。
「な、なんで急に作る気になったんだ?」
「そうねぇ……理由は特にないんだけど、しいて言うなら昨日ようやく食材が届いたから、かしらね。いつもインスタントラーメンばっかり頼んでたからいつもより届くのが遅れちゃったみたい。これからはこまめに送ってもらわなきゃいけないわね~」
言いながら優衣子はトレイをテーブルに置き、椅子に座った。いつまでも立ったままの守哉を見て、優衣子は向かい側の席を指差しながら言った。
「ほら、守哉も早く座りなさいよ。せっかく作ったのに冷めちゃうじゃないの」
「あ、ああ……」
驚きが抜けきれないまま席についた守哉は、自分の目の前に置かれた料理を見つめた。いただきます、と呟いて箸を取り、味噌汁に手を伸ばす。見た感じ特に変わりはない。ゆっくりとおわんを口元に持っていき、一気に口へ流し込む。
「……普通に美味い」
守哉の言葉に、優衣子はくすっと笑った。
「そう。それはよかったわ」
黙々と食べる。朝飯なので量は少なく、すぐに食べ終わった。ご馳走様、と呟いて箸を置く。
ふう、と一息ついた守哉は、食べ終えた食器をキッチンへ持っていこうとして立ち上がった。
「あら。置いといてくれれば後で片付けるのに」
「食器持ってくぐらい自分でできるよ。優衣子さんもその方が少しは楽だろ?」
「それはいいけど、いい加減、さんなんてつけないで優衣子って呼んでよ。その方が嬉しいわ」
「年上を呼び捨てにする習慣がなかったもんでね。別にいいだろこれくらい」
優衣子はむすっと頬を膨らませながら言った。
「え~。じゃあ呼び捨てにする習慣を身につければいいじゃないの」
「そのうちな。今はこれで勘弁してくれよ」
「しょうがないわねー。今だけよ~?」
守哉は苦笑しながら食器を流し台へ置いた。
前回の荒霊の件以来、優衣子は前と比べてずいぶん明るくなった。以前までの怠惰な態度が減り、最近は寮の掃除をしている姿をよく見かけるほどだ。
守哉はそれをとても嬉しく思っていた。優衣子と本当の家族になれたような気がしたからだ。以前は互いに距離を置いているような雰囲気があったが、今ではそれもなくなっている。優衣子だけでなく、自分も変わり始めているのだろう。
しかし、だからといって自分の人間不信がなくなったわけではない。今でも守哉は優衣子を信用しきれていなかった。これまで世話になっておいて信用しきれていないなど恩知らずにもほどがあると思ったが、優衣子はきっとそういうところをきちんと理解しているはずなので、守哉は気にしない事にした。
自室に戻って手早く準備を済ませ、寮を出る前に優衣子に挨拶すべく食堂の扉を開いた。優衣子は食べ終えてもすぐに片付けをせず、のんびりとお茶を飲んでいる。
「学校に行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけて行きなさいよ~」
行ってきます、と言いかけて思い止まる。そういえば、今後朝飯を作ってくれるというのなら、弁当も作ってくれるのではないだろうか。
「なぁ、優衣子さん。一つ聞いていいか?」
「優衣子って呼びなさいよ。な~に?」
「朝飯作ってくれるならさ、弁当も作ってくれるのか?」
「んー……別に作ってもいいけど、あなた七瀬ちゃんに作ってもらってるじゃないの」
「ずっと七瀬に作ってもらうのは悪い気がしてさ。迷惑かけたくないし……」
「なに言ってんの。むこうは迷惑だなんてちっとも思ってないわよ?」
「いや、それでも悪い気がするんだよなぁ」
ぽりぽりと頬をかきながら守哉は言った。優衣子は頬杖をつきながら呆れ顔で答える。
「じゃあ、七瀬ちゃんのお弁当、断るの?」
「今日の分はもらうけどな。明日からは遠慮しようかなー、と……」
「でも、たぶん断ったら傷つくわよ、あの子」
「なんでだよ」
「わからないの?あの子は好きであなたの世話焼いてるんだから、焼かせてあげなさいよ。断ったら嫌われたと思っちゃうでしょ」
「でもなぁ」
「あなた、あの子の気持ち知ってるんでしょ?だったらいいじゃないの」
「気持ち知ってるから、余計に気にしちまうんだよ。俺、返事してないから」
守哉のその言葉に、優衣子は驚いて目を丸くした。
「うそ。まだしてなかったの?」
「あ、ああ……」
「なんで?もう告白されてから結構経つでしょ」
ちなみに、優衣子には七瀬に告白された事は話している。あまりにもしつこく聞いてきたからだが。
「そうなんだけどさ。なんか、どう答えればいいのかわからなくって……。それに、別に付き合ってとか言われたわけでもないし……」
「催促とか……いや、あの子に限ってそれはないわね。七瀬ちゃん、ピュアだから……」
「まぁ、そういう事だ」
「それなら、ますます断れないじゃない、お弁当」
「そうなんだけどさ……」
なんとも煮えきれない態度をとる守哉に焦れたのか、優衣子は立ち上がって食器をトレイにのせながら言った。
「だったら、一度言ってみたら?お弁当作らないでいいよって。それで七瀬ちゃんがどんな態度をとるかで決めればいいじゃない」
「それもそうだな」
守哉は納得すると、肩にさげたショルダーバッグを担ぎなおして言った。
「んじゃ、改めて行って来ます」
「ん。行ってらっしゃい」
優衣子の笑顔に見送られ、守哉は食堂の扉を閉めた。