プロローグ
「……今度は、前より狭いのよね。リビングはあるけど、他は1部屋だけなら――」
狭い車内に、運転席に座る母の声が響く。
その声に、後部座席に座っていた少年――守哉は、閉じていた目をゆっくりと開いた。
(まだ、移動中……か)
小さくため息をつく。景色を眺めようとして、窓ガラスに映る自分と目が合う。守哉の顔は、いつもの浮かない顔だった。
上乃守哉、16歳。そして、他人からすれば、守哉は美少年だという。生まれてこの方、自分の容姿を磨こうと思ったことはないし、女の子に告白されたこともない。なのに、他人は守哉を綺麗だという。異性に好かれるどころか、トラブルすら巻き込む自分の顔が、守哉は嫌いだった。だから、守哉は他人の評価をあてにしない。信用しない。なにせ、女の子に間違われ、男に告白されたことすらあるのだ。髪型にも服装にも無頓着な守哉は、くせのある黒い髪を首元を隠すまで伸ばしている。それに端正な顔立ちが加われば、一見すると少女のようにも見えるだろう。痩せた体に加え、ややつりあがった瞳はどこか小悪魔のような雰囲気を醸し出している。生まれ持ったものとはいえ、女の子に間違われるには十分すぎる要素が揃っていた。
「狭くても文句は言うなよ。俺の家が用意したアパートだ、家賃がないだけありがたく思えよ」
助手席に座る父が母の声に答える。聞きなれた、しかし何度聞いても不快な声。傲慢で、他人を馬鹿にしているかのような声。
この男は、幼い頃から守哉に対して暴力をふるい続けていた。守哉の体中には、父が刻んだ虐待の痕がある。火傷、擦り傷、打撲痕……数えればきりがないほどの痕が。
「偉そうに……未鏡家が用意したものでしょ。あなたをありがたがる理由がないわ」
「俺の家だ!俺の家が用意したんだぞ!生意気なこと言いやがって、大体お前の稼ぎが悪いからわざわざ俺が――」
いつもの夫婦喧嘩が始まった。守哉が物心つく前から、両親は夫婦喧嘩を頻発している。今まで離婚しなかったのが不思議だった。
事の発端はわからない。しかし、守哉が知る限り、今もなお助手席でわめく父が何らかの職についていた事はなかった。酒や賭博で暇を潰し、仕事から帰ってきた母に文句を言って、癇に障る事があれば少年を殴り蹴り……そして、疲れたら寝る。守哉の父は、そんな男だった。
「大体お前は――」
父の癇癪は収まる気配がない。いつものように、守哉に鬱憤をぶつけるまで、父の気は収まらないのだろう。夫婦喧嘩を始めた両親を尻目に、守哉はひと眠りすることにした。昨夜は引越しの準備で徹夜だったのだから、移動中くらいは寝かせてほしいものだ。のん気に眠る自分を両親は許さないだろうが。
そして、眠るために守哉が目を閉じようとしたのと、母が赤信号を無視して交差点に車を突っ込ませたのは、ほぼ同時だった。
閉じようとした瞼の隙間から、大型トラックがこちらへ向かって突っ込んでくるのが見えて、守哉の意識は唐突に途絶えた。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと、守哉はベッドの上にいた。
「……あれ」
視界の端に、吊り下げられた自分の右足が見える。包帯に包まれたその右足は、一見すると自分の足ではないように思えた。
上半身を起こそうとすると、強い痛みが全身を襲う。痛みに顔をしかめながらも、守哉は無理に上半身を起こそうとする。しかし、突如横腹を襲った激痛に耐え切れず、すぐに身体を横たえた。
仕方なく、首を動かして見える範囲で状況把握に努めようとするが、今度は首を激痛が襲う。
自分の置かれた状況を把握しかねていると、突然部屋の扉が開いた。
「目が覚めたか」
ノックもせずに部屋に入ってきたその男は、全身を白で統一していた。
白いスーツに身を包み、白いネクタイを締め、白いサングラスをかけている。髪も真っ白に染め上げられており、ご丁寧に眉毛まで真っ白だった。見たところ、年齢は40代後半だろうか。
「身体の調子はどうだ?左足は痛まないか?ずいぶんと酷い怪我だったそうだが……」
言葉で心配していても、心配する気配は微塵も感じられなかった。感情をどこかに置き忘れてきたかのような抑揚のない声。第一印象からして違和感の多いこの男は、どうやら中身も普通の人間とは違うようだった。
「あんた、誰だ」
守哉は警戒心を隠そうともせず、答えた。
どれほどの間自分が眠っていたのかはわからないが、掠れた自分の声を聞いて、喉が乾ききっている事にようやく気づく。
だからといって、男は守哉を気遣おうとする素振りは見せなかった。
「そうか、会うのはこれが初めてだったな。私は未鏡白馬。君の父親の兄……つまり、叔父にあたる者だ。今後は、お前の身元引受人にもなる」
「ずいぶん似てないんだな」
「感想はいい。他に聞きたい事はあるかね?私は忙しい身なのでな、手短に終わらせたい」
見舞いに来た人間の言う事ではないだろう。だが、この男は事情を知っているようだ。今は気にしてはいけない。
「……ここはどこだ?」
「病院だ。お前は交通事故に遭った。お前の乗っていた車が赤信号を無視して交差点に突っ込み、結果大型トラックと衝突した。私の弟と弟の嫁は死んだが、お前はかろうじて生きていた。重傷だったがな」
白馬は、淡々と質問に答えた。自分の弟が死んだというのに、白馬はその事を悲しんでいるようには見えない。
気持ちを押し隠しているようにも見えない。つまり、そういう人間なのだろう。
「これから俺はどうなる」
「お前は未鏡家の養子になる。もう既に手続きは終わっている。そして、お前には神奈備島へ行ってもらう」
「何だ、その島は」
「それは自分の目で確かめるといい。私の口からは語らない」
守哉は文句を言おうとしたが、言えなかった。白馬の声と雰囲気には不思議な強制力があったからだ。
これ以上聞いても仕方がない。守哉はそう悟った。
「異存はないか?」
ないわけではなかったが、言ったところで白馬の言うとおり以外に事が進むとは到底思えない。ならば、うなずくしか選択肢はない。
「わかったよ。あんたに従う」
「そうか。……ここに携帯電話を置いておく。一週間後、朝6時に連絡を入れる。その時までに身支度を整えておけ」
そう言って、白馬は携帯電話をベッドの上に放り、病室を出て行った。
白馬が出て行った後、多少無理に首を動かして病室の中を見渡すと、部屋の隅に自分のショルダーバッグが置かれている事に気づいた。事故に遭う前、車のトランクに入れていたものだ。
一緒に入っていたはずの両親の荷物はなかった。他にあったのは、花のない花瓶だけだ。
一人残された病室で、少年は自身の孤独を再確認する。
友達はいない。両親の都合による、度重なる引越しのためだ。社交性のない自分にも問題はあるのだろうが、どうしても両親の責任にしてしまいがちだ。
自分は、本当の意味で一人ぼっちになってしまった―――その事実は、守哉の心をひどく安心させていた。何故かはわからない。それを考える気にもなれなかった。
「……未鏡。じゃあ、俺は未鏡守哉になるのか」
そう呟くと、守哉は静かに目を閉じた。
これが夢でありますようにと、信じてもいない神の存在に祈りながら。