恋人が読解不可能な恋文らしきものを送ってくる件について
「お届け物でーす」
からん、と郵便受けから軽快な音が掛け声と共に鳴る。
それを聞いたジュリー・ロンナは、郵便受けを確認しようとお皿拭きをしていた手を止め、玄関へと向かった。
何だろう、ここ最近手紙が届くようなことはなかったはずだけど。
ジュリーは郵便受けをちらりと覗き込んだ。そこには、淡いピンク色の封筒が入っている。
「……え? 何これ」
ぽつりと呟くが、答えてくれる人はいない。ジュリーは一人暮らしなのだ。
封筒を裏返すと、赤色のハート型のシールで封がしてあった。
これはまさに。これは……
「ラブレター?」
自分でもあり得ないとよくわかっている答えを、ジュリーははっきりと口にしていた。それだけはないはずとわかっているけれど。
もう一度裏返して、宛先を眺める。綺麗な字で、『ジュリー・ロンナ様』と書かれている。
この町にジュリー・ロンナはジュリーしかいない。つまり、ジュリーだ。
「ん?」
もう自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
とりあえず、このラブレターらしきものはジュリー宛でいいらしい。本当にいいのかは知らないが、書いてあるので仕方ない。認めるしかない。
ひとまず、もう一度裏返す。差出人は……
「マシュー・ブラントン?」
驚いて、ジュリーにしては珍しく大きな声が出た。ありえない名前だ、だって彼は今。
「戦争に行ってるはずなのに……」
ぽつり、と呟く。
脳裏には、笑顔の緑色の髪に、キラキラ光る黄色の瞳を持った男性を浮かべていた。
マシュー・ブラントンはジュリーの恋人と呼べる存在の男性だ。歳は十九、顔立ちは精悍なもので、背も高く、黙っていればかなりモテる。
ところが、彼の性格はひょうきんそのもので、常に人を笑わせる天才だ。
なぜジュリーがそんな人の恋人なのだろうとたまに思わなくもないが、彼のことは以前から好きだったので、告白された時は舞い上がってしまったのを覚えている。
しかし彼は、ニ年前に勃発した隣国との戦争に駆り出されてしまった。ガタイがよく、力もある若者は全て戦争のために、と兵士になることが義務付けられ、マシューも例外なく戦争が始まって二ヶ月後に戦地に出向いてしまった。
ジュリーには何も言わずに。
急にマシューの友人がジュリーの家に飛び込んできて、マシューが行っちまったけどちゃんと挨拶したよな!? と叫ばれたのはいまだに耳に残っている。
その時の絶望と言ったら、なかった。
持っていた花瓶は驚きと衝撃のあまり、落として割ってしまったし、マシューの友人の焦り切った顔があまりにも残酷な真実をありのまま叫んでいると理解してしまった。
けれど、ジュリーは泣けなかった。
あり得ないと思い、暴れ回りたくなるような絶望に襲われても、ジュリーは叫べなかったのだ。
もうその絶望と悲しみと衝動は二度と味わいたくない。そう思ったジュリーの心はあまり物事を感じれなくなった。
そうしてやっと人並みの生活を送れるようになったと思ったところだった。
だというのに。
「なんで、今頃……」
ひとまず、ジュリーは手紙を持って家の中に戻った。読んでみないと始まらない。
『愛しのジュリーへ』
それだけ書かれていた。ん? と思い、もう一度じっくりと見つめるが、それ以上の文字は出てこなかった。
便箋は普通の大きさ、そう結構なスペースがあるというのに、左上にその八文字が書かれているだけで、その下は空白になっていた。
「そんなことある……?」
ジュリーはくしゃっと紙を握りつぶしてしまいそうになるのをどうにかして耐えた。
この手紙は一体、何を意味しているのか。さっぱり分からない。
どうすれば良いのか分からず、ジュリーは途方に暮れるも、とりあえず放置することにした。
♢♢♢
「お届け物でーす」
からん。
豆のスープをつくっていたジュリーは、はっとして濡れた手を拭いつつ、急いでキッチンから玄関へと走った。
昨日と同じ流れだ。これはもしや。
そんな期待が胸をよぎる。
けれど、名前しか書かれていないラブレターらしきものを見たって、一体どうするの? ともう一人の冷静な自分が胸の内で呟く。
(そうよね、その通りよ。けど、たとえ名前だけだったとしても。マシューが生きているって知る手段にはなるわ)
そんなことをいってまでも期待している自分が嫌になる。だが、そんなこともいっていられないほど、自分はマシューにまた会えることを、
愛されることを期待してしまっているのだ。
「あったわ」
郵便受けを覗くと、昨日と同じ色の封筒が見えた。はぁっ、はあっと乱れた息を整える。他の郵便物が無いかを確認し、ジュリーは封筒を胸に抱いて家の中まで走って戻った。
かさり、と封筒を開く。
『愛しのジュリーへ』
ぐっ、と指先に力がこもった。また、昨日と同じだ。昨日と同じで、愛しのジュリーへ以外は何も書かれていない。ただ、空白地帯が広がっているだけだった。
「馬鹿みたい……」
期待していた自分が馬鹿みたいだ。
マシューは自分にすら、戦争に行くと教えてくれなかった男なのよ。もう私のことなんて愛しているわけないわよ。
そう思って、落胆していた心に気づかない振りをする。
「もうやめよう」
♢♢♢
しかし、ラブレターらしきものはそれからも続いた。一週間、二週間、三週間、ついには一ヶ月になった。
ラブレターらしきものは、まだ捨てられずにいる。机の引き出しの奥に閉まってあるが、常に心の一番目立つところにそれはあった。
今日も今日とて、「お届け物でーす」という声にかたん、という音。それを聞きながら、ジュリーはいつも何かしらをつくる。それはマシューが好きな料理ばかりだということは、気づかない振りのままだった。
♢♢♢
ある日、またジュリーは豆のスープをつくっていた。ふんわりと漂う美味しそうな豆の香り。それ以外にもたっぷりと野菜を入れてあるから、ヘルシーなものになっている。
ジュリーはちらりと時計を見た。そろそろ、第一の郵便物が届けられる頃だ。またあの音を聞くのだろう。そして、また自分は玄関へと走っていくのだ。
そんなことを未だに思っている自分にそろそろ嫌気がさしてくる。だが、諦めきれないので仕方ない。たとえマシューがジュリーのことを忘れてしまったとしても、ジュリーは忘れられないのだから、仕方ない。もう受け入れるのみだ。
そんなことを考えながら、たっぷり塩胡椒をスープに振りかけようとしたときだった。
ガチャン。
信じられない音が聞こえた。思わず塩胡椒を手から落としてしまう。瓶が割れて、散らばった塩胡椒も気にせずに、ジュリーは、恐る恐る振り返った。
そこには、
「やぁ、ジュリー。ただいま」
そこには、
「あれ、覚えてない? うーん、参ったな。そうなると俺は出て行かなきゃならないわけか」
そこには、
「おーい、ジュリー? 何かたまってるんだよ?」
そこには、
信じられない人がいた。ずっと見たかった緑色の髪の毛。こちらをまっすぐに見つめてくる黄色の瞳。
「マシュー……」
「よぉ、覚えていてくれたんだ?」
「マシュー……!」
「何だ、どうしたんだ」
マシュー、と叫びながら、ジュリーは男の胸に飛び込んでいた。おぉ、と苦笑した気配の男が何の苦労も無く、ジュリーを受け止める。
「何で、ここに」
思ったことがポロリと口から零れ落ちる。ジュリーの呟きを正確に聞き取ったらしい男が苦笑しつつ、律儀に答えてくれた。
「戦争が終わったんだよ。新聞にも載っただろ?」
新聞。
ジュリーはその言葉を随分久しぶりに聞いた。男が何も告げずに行ってしまった次の日には、新聞を止めていたからだ。戦争についての悲惨な情報を受け取れるだけの余裕は、ジュリーには無かった。
「……もう新聞はとってないの」
「そうなの? ……ところで、俺のことは覚えてるんだよな?」
なんで、忘れることが出来ると思っているんだろう、この男は。
(馬鹿じゃないの)
そう思ったジュリーは、顔を上げてマシューの顔をみてどきっとした。思いっきり新緑の瞳を見開く。
マシューがとても寂しそうな表情だったからだ。
「……忘れるわけ無いッ、どれだけ私が……!」
その先は叫べなかった。マシューにぎゅっと抱きしめられてしまったからだ。
やがて、どれくらいそうしていたのか分からないほどの時間の後、マシューはジュリーのハシバミ色の髪の毛を撫でた。ゆっくりと、宝物を慈しむように。
(彼が帰ってきたら、どれだけ責めようかとか考えていたのに……)
もうそんなこと、どうでも良かった。今はただ、ずっとマシューと一緒に過ごしていたい。
「ジュリー……」
「……なぁに?」
この二年間、一度も出なかったような優しい声が、ジュリーの口をついて出た。柔らかさを伴ったジュリーは、それでも泣いていなかった。
彼に告げられずに出て行かれてから二年。いちども泣けなかったのだから。
「……俺、なんも言わずに出てってごめん。ジュリーのこと、蔑ろにしていたわけじゃなくて。いや、これも俺の身勝手な言い訳だよな。ごめん」
マシューがそっとジュリーの肩を押して離れようとするのを、ジュリーは縋って引き止めた。彼の胸元にそっと頭をうずめる。
「聞かせて。……お願い、聞かせてほしい。言い訳でも良いから。どんな酷い言い訳でも聞いてあげるから」
お願い、聞かせて。———貴方の言葉で。
はっ、と息をのんだのが、ジュリーの耳にも届いた。それから、耳になじむ心地よい声で、ぽつりぽつりと彼は思いを語り始めた。
「俺、本当は戦争なんかいきたくなかったんだ。ジュリーと平穏な暮らしをしていれば、もうそれだけで幸せだった。———けど、招集がかかっちゃって。俺の意思関係なく連れ去られるって分かってたし、招集を無視してジュリーに迷惑かけたくなかったから、仕方なくいくことにした。ジュリーのこと、心配だったけど、きっと誰かが守ってくれるって町の皆のこと信じてたから」
ぽつりぽつり。
雨が降っているけれど、それは決して寂しい雨ではない。柔らかさを伴った、温かな雨のような静けさを含んだ語りだった。
「本当は、ジュリーにもさよならを言って出てくつもりだったんだ。けど……俺はきっと、ジュリーに話したらっもう駄目だって分かってた。ジュリーのことは世界一大事だから、迷惑はかけたくないけど、俺の決心を鈍らせるにはっ……」
充分すぎるから。
ぽつん、と落とされた本音。ジュリーはそっと頷いてやった。マシューの腕はジュリーをぎゅっと今もなお抱きしめていて、きついほどだった。けれど、決して不快ではなかった。
「それで、戦争から生きて帰れても、もしジュリーが他の奴と結婚してたら……俺はきっと一生立ち直れない。この国を恨んで、結婚したそいつを恨んで、敵国を恨んで……。でも、ジュリーの幸せは一生願ってるって俺は分かってたから、俺のことは忘れてもらおうって思った」
マシューの声音は、最初はこわばっており、緊張した様子だった。けれど次第に、緩んでいき、迷った子どものようになっていく。少し、涙ぐんでもいた。ぐすっと鼻をすする音が耳元に響く。
「ごめん、ジュリー。また来ちゃった……。決心が鈍るって本当だったな、あの頃の俺は本当に良い決断をしたよ」
慌てて涙を隠すように明るい声でそういう彼。ジュリーは思わず、呟いた。
「馬鹿ね」
「……え?」
「マシューってば、本当に馬鹿。私の気持ちは……どうなるの? マシューのことが好きって言う気持ちは———っ!」
耐えきれずに、ジュリーはぐりぐりと頭を押し付けた。彼の身体に。彼を確かめるように。
「っ、ごめん! ジュリー、泣かないで!」
「泣いてないわよ!」
「ごめん、ジュリー。———これだけは言わせてほしい。愛してるよ、ジュリー」
はっとジュリーが顔を上げると、マシューがもの哀しげに微笑んでいた。けれど、その言葉を聞いて、いつの間にか出来ていた胸にあったこわばった硬い硬いものが、ゆっくりとほぐれていくのを感じた。
そして、それと同時にジュリーは泣いていた。ぽろり、ぽろりと温かいものが頬を伝っていく。
「ジュリー……」
「マシュー、私ねっ……! 私、マシューがいなくなって泣けなくなったの。ろくに笑えなくなったし、出来るだけ感情は揺り動かさないようにしていた。それが自分なりの防衛反応だったんだと思う。最初は本当に辛くて……マシューは何でなにもいわずに出て行ったんだろうってすごくすごく哀しかったけど、泣けなかったの。それ以上に辛くて信じられなかったから。———でも、今貴方が帰ってきてくれて、愛してるって言ってくれた。それだけで、私は幸せだよ、マシュー。———私も、愛してる」
ジュリーはようやく伝えられたと泣き笑いの表情で、マシューを見上げた。彼は信じられないと言うような表情で固まっていたが、それも解けると、彼も泣き始めた。つうっと伝っていく涙が彼の頬を濡らしていく。
二人の間の溝が、全て埋められていくのが分かった。
♢♢♢
「そういえば、豆のスープをつくったの。マシュー、これ好きだったでしょ?」
キッチンに向かおうとしていたジュリーは泣き腫らした目で、しかし嬉しそうな表情で恋人を振り返った。マシューも穏やかな微笑みを浮かべている。
「ああ、そうだったな。……ジュリーの豆のスープが食べられなくて寂しかったよ」
「そうなの? 良かった、つくっといて。待ってね、今胡椒をかけるわ」
「あ……」
ジュリーの言葉に、マシューが何かを思い出したような表情をする。
「? どうかしたの?」
「いや……ジュリー、君さっきさ……塩胡椒を全部ぶちまけてなかった?」
マシューの言葉に、きょとんとしていたジュリーはさああっと青ざめていった。
「忘れてた……。どうしよう、掃除をしなくちゃ」
「俺がやるよ。ジュリーは他のものを用意しといてよ」
「ああ、ごめんなさい。そういえば、マシューの好きなチーズパンも作っておいたんだった、冷蔵庫から取り出して温めるわね」
「ありがとう」
二人は互いに微笑み合って、それぞれの仕事をこなした。
「ふう、塩胡椒はこんなもんかな」
「ごめんなさい、マシュー。私ったら……」
「いや、元々は急に出て行って急に帰ってきた俺が悪いから」
「まあ、否定はしないわ」
そんなぁ、と苦笑するマシューは、戦地であまり良い食事をしていなかったのか、少し痩せていた。それでも、精悍な顔立ちは変わらなかった。
(さぞかし苦労したんでしょうね……)
急に黙り込んだジュリーを、マシューが訝しげに覗き込む。
「どうしたんだ? 早く食べよう」
「あ、ええ。たくさん食べてね」
「ありがとう! いやー、正直腹ぺこだったから嬉しいよ」
豆のスープは、一人で食べるときよりも何倍も美味しく感じられた。チーズパンも。
「うん、ウマい。何でこんなにウマいんだろうな」
「二人で食べるからよ」
「そうだな。うん、———俺は幸せだ」
最高に幸せだよ。
何度も何度もそう呟くマシューに、ふとジュリーは尋ねた。
「ねえ、そういえば。あの手紙なんだったの?」
「え? ああ、届いていたのか、良かった……! いやぁ、他の男と結婚してるかもしれないのに送っちゃったんだよな。ごめん。でもほんと、届いていて良かった!」
「いや、届いたけど……」
「何だよ? ラブレター、読んだんだろ?」
マシューが当たり前のことを尋ねるように聞くので、ジュリーは腹が立って口をとんがらせた。
「何言ってるのよ、あんなの読めるわけないじゃない。愛しのジュリーへ、しか書いていないラブレターなんて聞いたこと無いわよ」
「は!? そっちこそ何言ってるんだよ、あれは柚子の汁で書いたものだよ!? キャンドルの火とかであぶれば文字でてくる奴! いわゆるあぶり出しだよ、小さい頃やったろ!? 途中で人に見られたくないと思ってわざわざ柚子の汁で書いたんだけど!?」
マシューが信じられないというようにまくしたてる。ジュリーはええ!? と叫んだ。昔遊んでいたあぶり出しのことならば、覚えている。
「う、嘘! あれ、あぶり出しだったの!?」
「気づかなかったの!?」
「な……!」
ジュリーは急いで立ち上がると、手紙をしまってある机のもとまで走る。そして、がたごとと慌ただしく手紙を取り出すと、急いでキャンドルも引っ掴んでリビングへ戻った。
キャンドルに火を点け、そっと手紙をかざす。
真剣な表情でそれらの作業を行うジュリーを、マシューは無言で見守っていた。二人とも、豆のスープは放置している。
「嘘……!」
信じられないことに、手紙には全てあぶり出しが出来るようになっていた。
一番最初の手紙を読み、そっと涙が溢れた。マシューへ視線を向ける。彼は仕方無さそうに、けれどどこか愛しい宝物を見つめているかのような笑みでこちらを見ていた。
「伝わった? ジュリー」
「うん……! うん……!!」
「良かった。ははっ、ジュリー泣けなかったって言ってたけど、一気に堰を切ったみたいに……」
マシューが手紙を抱きしめて泣いているジュリーを、眩しいものを見るように見つめて。
やがて立ち上がり、近づいてきたと思ったら、力強い腕に引き寄せられて抱きしめられた。
「愛してるよ、ジュリー」
「私もよ、マシュー」
二人の姿がそっと重なる。
それはこれからの二人の平穏で幸福な人生を、示しているかのようだった。
♢♢♢
『愛しのジュリーへ
急に出て行ってごめん。
ようやく手紙を送れる戦況になったので、今書いています。
もう一年以上たつけど、そっちはどう? 俺は元気にしてるよ。町のみんなも元気?
これからも、ジュリーのことだけ愛してる。愛してるよ、ジュリー。
また会える日まで 』




