その宿題、やらなかったら…?
昼休みの喧騒が満ちる大学の学生食堂。その窓際の一角は、午後の柔らかな光が差し込む、二人にとっての定位置だった。
「ねえねえ、彩美! お疲れ様!」
パステルイエローのカーディガンが目を引く、バドミントン部の陽乃花が、トレーに乗せたオムライスドリアをテーブルに置きながら、弾けるような笑顔で言った。
「陽乃花、お疲れ様。今日も元気だね」
対する彩美は、バスケットボール部らしい凛とした姿勢で、ヘルシーな和定食にゆっくりと箸をつけていた。その口調はいつも通り穏やかで優しい。
「それより、聞いてよ、昨日サークルの先輩がさ…あ、いや、それより大事なこと! 彩美の、あの家庭教師のバイト! どうなったの、最近? あの、かわいくて、甘えるのが上手っていう、あざと男子くん!」
陽乃花はスプーンを片手に、目をキラキラさせて前のめりになった。彼女にとって、彩美が語る家庭教師の話は、どんな恋愛ドラマよりも刺激的なエンターテイメントだった。
彩美は、ほうれん草のおひたしをゆっくりと咀嚼し、困ったように眉を下げた。
「ああ、陽乃花…。それがね、全然ダメなのよ。昨日もまた、宿題をやってきてくれなくて…」
「ええー! また!? あれだけ彩美が優しく教えてるのに!? 信じらんない!」
「優しく…してるつもりなんだけど、それが逆効果なのかなあ。あの子、本当に人懐っこくて、わからないことがあると『先生、ここ、わかんなーい』って子犬みたいな目で見上げてくるのよ。そうすると、私もつい『しょうがないなあ』って、ヒントを出しすぎちゃったり…」
「うわー、あざとい! さすが彩美、年下のかわいい系に弱いんだから! でもさ、宿題は別問題でしょ? いつもみたいにビシッと言わないと!」
「言ってるのよ、もちろん。でも、叱っても『ごめんなさーい』って素直に謝るから、それ以上強く言えなくなっちゃって。どうしたら本気でやってくれるのか、本当に悩んでたんだけど…」
彩美はそこで言葉を区切り、お茶を一口飲んだ。その仕草に、何か大きな変化があったことを陽乃花は察知した。
「…だけど? なに? 何かあったの!?」
彩美はふぅ、と小さなため息をつくと、少し声を潜めて続けた。
「それがね、先週のことなんだけど。授業が終わった時に、彼のお母さんが出ていらして。『彩美先生、いつも本当にありがとうございます。先生が来てくださるようになってから、あの子、すごく楽しそうで。もしよろしければ、今日は夕食を食べていきませんか?』って、すごく上品に誘ってくださったの」
「ひゃー! 生徒さんのお家でディナー! なにそれ、緊張しすぎない!?」
「緊張したよ! お母さん、すごく綺麗な方で、彼がかわいいのも納得っていうか…。それで、ありがたくご馳走になることにして、食卓を囲んだんだけどね」
「うんうん!」陽乃花はドリアを食べるのも忘れ、完全に聞き入っている。
「食事が一段落した時に、お母さんが真剣な顔で私に『先生、あの子の勉強態度、どうですか?』って。だから、私も思い切って相談したの。『授業は本当に熱心なんですけど、どうしても宿題だけが…』って。そしたら、彼、隣でビクッて肩を震わせてて」
「うわ、公開処刑だ!」
「そしたらね、お母さん、にっこり笑ったまま、とんでもないことをおっしゃったのよ」
彩美は、当時の状況を思い出すように、少し真面目なトーンで続けた。
「『まあ、彩美先生。あの子ったら、やっぱり。先生は優しすぎますわ。あの子には厳しくしないとダメなんです。そういう時は、どうぞ、お尻ペンペンしてやってください』って、言われたの!」
「……は!? ぷっ、あはは! え、マジで!? お尻ペンペン!?」
陽乃花は吹き出しそうになるのを必死で堪え、肩を震わせた。学食の喧騒が、一瞬遠のいたように感じられるほどの衝撃だった。
「しーっ! 陽乃花、声が大きい! 私も耳を疑ったわよ。彼なんて、顔を真っ赤にして俯いちゃって。でも、お母さんは本気でね、『昔は私も、あの子が悪いことや約束を破ったら、よくそうやって叱っていたんですよ。最近は反抗期でなかなか聞きませんけど、彼が懐いている彩美先生からなら、きっと効き目があるはずですわ』って、もう一度念を押されて…」
「お母さん、強すぎ! で、で、彩美はどうしたの? 『じゃあ、今ここで!』とか言っちゃったりして!」
「するわけないでしょ、ご飯中なのに!」彩美は思わず強くツッコミを入れた。「その場は、『あの子のやる気を信じますから』って、なんとかお茶を濁したの。でも、彼が席を立った時に、お母さんにこっそり『先生、本気でお願いしますね。あの子のためですから』って、もう一度釘を刺されちゃって…」
「うわー、お母さん、本気と書いてマジだ」
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「うん…。だからね、その日の授業の最後に、彼と二人きりになった時、真剣に言ったの」
彩美は、学食の騒がしさとは不釣り合いなほど静かで、しかし有無を言わさぬような、優しいけれど芯のある声色を作った。
「『ねえ。今日、お母さんがおっしゃってたこと、聞いたよね。私は、あなたが自分で気づいて、ちゃんとやってくれるのが一番だと思ってる。でも、もしも次も宿題をやってこなかったら…本当に大変なことになっちゃうね』って」
「ひゃーーーっ!」陽乃花は小さな悲鳴を上げた。「『大変なこと』! 彩美、言うねー! かっこいい! で、彼の反応は!?」
「すごく焦った顔して、『次こそは! 絶対にやってきます!』って、必死に約束してくれたの。だから、私も今度こそ大丈夫かなって、心の底から信じてたんだけど…」
「…だけど?」陽乃花はゴクリと唾を飲んだ。次の展開が読めているくせに、その期待で顔が輝いている。
彩美は、この上なく残念そうに、そして少しだけ面白そうに、ふっと息を漏らした。
「…そして、昨日、また宿題をやってこなかったのよ」
「―――キターーーッ! 待ってました!」
陽乃花のテンションが最高潮に達し、スプーンがカチャンと小気味よい音を立てた。
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「もう、陽乃花ったら…。私は本当に困ってたんだから。どうしようって」
「えー、だって、それはもう『やる』しかない流れじゃん! で、どうしたの!? やったの!? 例の『大変なこと』!」
陽乃花が興奮して詰め寄る。彩美は、昨日の出来事を一つ一つ確かめるように、ゆっくりと話し始めた。
「うん…。昨日、彼がいつものように『あ、宿題…部活が忙しくて…』って、真っ白なノートを出した時、私も覚悟を決めたの。まず、笑顔を消して、静かに立ち上がって、彼に言ったわ」
「うんうん!」
「『そっか。残念だな。…じゃあ、先生、お母さんに聞いてくるね。ホントにお尻ペンペンしていいですかって』って」
「ぎゃーー! 鬼! 彩美、小悪魔の顔になってるよ!」
「彼は『えっ、ちょ、待って! 先生!』って、本気で慌ててたけど、私はそのまま部屋を出て、リビングのドアをノックしたの。彼は階段の上から絶望的な顔でこっちを見てたわね」
「うわー、想像つく! で、お母さんは!?」
「私が『お母さん、やはり宿題を…この前のお話、実行してもよろしいでしょうか』って聞いたら、お母さん、ソファから勢いよく立ち上がって、『もちろんです、先生! 遠慮なさらず、バシバシお願いします! ああ、スッキリした!』って、なぜかすごく晴れやかな顔で!」
「お母さんノリノリ!(笑)」
「もう、こっちが圧倒されちゃった。それで、階段の上で固まってる彼に『…だそうよ』って言って、部屋に戻ったの」
彩美はそこで、温くなったお茶を一口飲んだ。陽乃花は、息を詰めて次の言葉を待っている。
「部屋に戻って、私は彼の机の前に立ったわ。彼はもう観念したみたいに、俯いてて。だから、私も精一杯、優しく、でも真剣な声で言ったの」
「…なんて?」
「『ねえ。お母さんの許可、出ちゃったね。先生も、本当はこんなこと、絶対にしたくないよ。でも、あなたが自分で自分をコントロールできないなら、先生が手伝ってあげるしかないのかな』って」
「うわ…優しさが逆に怖い…」
「『あなたが本気で反省してるなら、先生が本気で叱るのも、ちゃんと受け入れられるはずだよね? だからさ、反省してるなら、素直に机に手をついて、お仕置き受けれるよね?**』って、静かに聞いたの」
「…彼は?」
「しばらく黙ってたけど、やがて、こくん、って小さく頷いて…。それから、泣きそうな顔して、ゆっくりと、本当にゆっくりと、自分の勉強机に向かって、両手をついたわ。制服のズボンのお尻が、こっちに向けられて…」
「うわあああ…! ドキドキする!」
「私も心臓バクバクだったよ! でも、ここで私が怯んだらダメだと思って、彼の隣に立って、言ったの。『じゃあ、今日は10回だよ。ちゃんと、自分で数えてね』って」
「10回!」
「うん。そして、私も心を鬼にして、私の手のひらで、パン!って」
彩美は自分の右手を見つめた。
「彼は『いっ…!』て声を詰まらせて、肩が大きく跳ねてた。『…いち』って、か細い声で数えて。そこからは、もう無心で。パン!『…に』、パン!『…さん』って。部屋に、乾いた音だけが響いて…」
「……」
「私も、自分の手がだんだんジンジンしてきて、すごく心が痛かった。でも、彼のためだって、必死に。…10回終わった時、彼は机に突っ伏しそうになるのを必死で耐えてたわ。『…じゅっかい、です…』って、声が震えてて」
「うわー…可哀想に…」陽乃花は、口ではそう言いつつも、その目は好奇心で爛々と輝いていた。
「すぐに、その震えてる背中をさすってあげたの。『よく耐えたね。痛かった?』って聞いたら、『…大丈夫、です』って。顔を上げさせたら、目が真っ赤に潤んでて。甘え上手なあの子が、悔しさと恥ずかしさで必死に涙を堪えてる顔、初めて見たわ」
「うう…なんか、イイ…!」
「もう、陽乃花は…。それで、最後に、その潤んだ目をまっすぐ見て、ちゃんと言い渡したの。優しく、でも絶対に逃がさないって感じでね」
「…なんて?」
「『先生は、本気だってわかった? だから、もし…もしも、また宿題やってこなかったら、次は回数を2倍にするからね。20回だからよ。わかった?』って。彼は、こくこくこく!って、首が取れそうなくらい頷いてたわ」
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「―――っていうのが、昨日の全貌」
彩美が話し終えると、陽乃花は「はぁーーーっ!」と大きなため息をつき、テーブルに突っ伏した。
「最高…! 彩美、最高すぎるよ! 真面目で優しい彩美が、淡々と、でも本気で『お仕置き』するとか! 年下のかわいい男子が、美人なお姉さん先生に叱られて、涙目とか! あー、可哀想! でも、超見たい! 動画撮ってないの!?」
「撮るわけないでしょ! 私は真剣に指導してるんだからね!」
彩美は本気で呆れた顔をしたが、陽乃花のおかげで少し気が楽になったのも事実だった。
「でもさー、次もやってこなかったらどうするの?マジで20回いく?」陽乃花がニヤニヤしながら顔を上げた。
「うーん…次こそは、絶対にやってきてくれると信じてるけど…。もし、もしもやらなかったら…約束は約束だから、ね」彩美は少し言葉を濁した。
「きゃー! やる気だ! 次のお仕置きは、お母さんの目の前でやるとかどう?リビングで! お母さんに回数数えてもらったりして!」
「陽乃花! さすがにそれは彼のプライドが…!」
「じゃあ回数をドーンと増やして! 『百叩き』にしちゃうとか!『先生、もう許してください!』って泣くまで!」
「もう、遊ばないでよ。そんなことしたらただの虐待じゃない」彩美は苦笑いした。「でもね、陽乃花。これは遊びじゃなくて、私、本当に真剣なの」
「うん、知ってるよ。彩美が真面目なのは」
「あの子ね、私に言ったの。『先生と同じ大学に行きたいです』って。だから、きちんと勉強してもらわないと困るんだよな。だって、来年からは私たちと同じ大学に通いたいんだからさ」
「え…! マジで!? うちの大学!?」陽乃花は、それまでのおふざけモードから一転、素で驚いた。「あのかわいい子が、後輩になるの!?」
「今はまだ、学力的に少し足りない。でも、基礎能力はすごく高いのよ。だから、あの子が本気でやれば、絶対に間に合うはずなの。…だからこそ、今のうちに宿題をやらないっていう『甘え』を、私が断ち切ってあげないとって思うのよ」
彩美の真剣な眼差しに、陽乃花も深く頷いた。「そっか…彩美、そこまで考えてたんだ。深い、深イイ話だ…」
「うん。だから、昨日のお仕置きも、本当に必要だと思ってやったことだし…」
「…ねえ、彩美」
陽乃花が、何かを思いついたように、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「だとしたらさ、逆じゃない?」
「逆?」
「それなら、ご褒美にお尻ペンペンのほうがいいんじゃない?『宿題ちゃんとやったら、ご褒美に先生がお尻を10回ペンしてあげます』みたいな! そっちの方がやる気出たりして!」
彩美は、今度こそ本気でジトッとした目で陽乃花を見た。
「そんなわけないでしょ!何よそれ、意味がわからない! さすがに、私に叱られたいから、わざと宿題をやってこないわけじゃないよ。あんなに痛そうにしてたし、恥ずかしそうに涙目になってたのに」
「えー、わかんないよー、男子なんて」陽乃花は、楽しそうにドリアの最後の一口を頬張った。「彩美みたいに真面目で優しくて、しかもすっごい美人なお姉さん先生に、自分のためだけに本気で叱ってもらえるんだよ? しかもお尻ペンペン付きとか、一部の男子にとってはご褒美以外の何物でもなくない?」
「…陽乃花、あなたねぇ…」
「だってさ!」陽乃花は止まらない。「もしかしたら、本当はちゃんと宿題やってるけど、わざと白紙のノートを見せてるだけかもしれないし! 家でこっそりコピー取って、そっちに答え書いてたりして!」
その、いつもの突拍子もない陽乃花の言葉に、彩美は「まさか」と笑い飛ばそうとして、…ふと、動きを止めた。
「……ん?」
「どうしたの、彩美? 固まっちゃって」
彩美は、陽乃花の顔をじっと見つめた。そして、自分の記憶を必死に手繰り寄せた。
「……陽乃花。あなたの言う通りかも…しれない」
「え、マジで!? 私のテキトーな推測が!?」
「うん…。確かに、勉強自体はしてるみたいなんだよね。毎週やってる英単語の小テストは、宿題範囲からも出してるのに、ほぼ満点なの。宿題やってないのに、おかしいなって思ってたのよ」
「ほら!」
「それに…。お尻ペンペンの後に、すぐ宿題終わらせちゃうのよ。昨日も、あれだけ落ち込んでたのに、私が『じゃあ、気持ち切り替えて。今から宿題ね』って言ったら、いつもなら30分近くかかるかなって思ってたら、5分もかからずに全部終わらせたの。ものすごい集中力で」
「…それってさ」陽乃花が、真剣な顔で言った。「宿題を『やってない』んじゃなくて、『やってないフリ』をしてたから、答えを書き写すだけ、もしくはもう一度解くだけで早かったってことじゃ…」
彩美の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。優しかった瞳の奥に、バスケットボール部のコート上で見せる、鋭い光が宿り始めた。
「……明日、ちょっと確認だな」
彩美は、低い声で呟いた。明日は、次の授業日だ。
「もし…もし、そうだったらどうするの? わざとだったら。彩美に叱られたくて、お尻ペンペンされたくて、わざとやってなかったら」
陽乃花の問いかけに、彩美は少しの間、黙り込んだ。そして、ふっと息を吐くと、いつものこの上なく優しい、聖母のような笑みを浮かべた。
…ただし、その目だけは、まったく笑っていなかった。
「お仕置きは中止かな」
「えー! なんでよ! むしろやるべきじゃん! 騙してたんだよ!」
「ダメだよ、陽乃花。お尻ペンペンされたい人にお尻ペンペンしても、お仕置きにならないし。それはただの『ご褒美』になっちゃうでしょ?」
「あ…そっか。確かに」
「うん。だから、その罰はナシ。その代わりに…」
彩美は、食べ終わった食器をトレーに乗せ、優雅に立ち上がった。
「その代わりに、先生をからかったら、どういう『本当に怖いこと』になるか、しっかりと教えてあげないとダメかな。物理的な痛みよりも、もっとね」
「ひゃー! そっちが聞きたい! 何するの!? 教えてよ!」
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、タイミングよく鳴り響いた。
「ふふ、それは秘密。さ、行こっか、陽乃花。午後の講義、遅れちゃう」
「えー! 気になる! 絶対、絶対に来週報告してよね!」
「はいはい」
二人はトレーを返却口に戻し、賑やかな学食を後にした。彩美は午後の講義の内容を考えながらも、頭の片隅では、あのかわいい生徒に先生をからかったらどうなるか、年上の女性の怖さをどう教えてやるか、道徳の新しい指導案を練り始めているのだった。
あとがき
お尻ペンペンって道徳の授業だったんですね(笑)
→2.に続きます




