04 ある夜の巫術研究所
巫術研究所。
時を遡ること三八年、華歴九〇二年にて緋ノ国が第一次異海大戦に敗北し、異ノ国々の統治下となった年に設立された研究所である。
組織図上は巫術管理省の付属機関だが、実態は宗主国である異ノ国々の意向にのみ従う組織であり、緋ノ国内では極めて強い独立性と発言権を有する。
その目的は一重に巫術現象の解析・解明であり、裏を返せば異ノ国々が如何に緋ノ巫女を――否、かつて彼女らを束ねた君主〝緋ノ君〟を、その異能を、畏怖しているかの証に他ならない。
敗戦、すなわち緋ノ君の処刑から既に三八年の時が経ったにもかかわらず、だ。
まったく異なる文明・技術背景を持つ異ノ国々にとって、緋ノ君とは今なおそれほどの脅威を意味する。
そして万に一つ、あのような悪魔が再び世に現れた時に備え――あるいは逆にあの絶大な力を我が物とせんがために、巫術研究所ではありとあらゆる非人道的な研究が許されていた。
無論、最高水準の機密事項である。実情を知るのは国や研究所の上層部と、実際に研究を実施する担当者のみだ。その者たちには、秘密裏に繰り返し行われる政治思想の安全確認や機密保持の信頼性検証に加え、異ノ国々出身者ないしはその血を引くなどの血統的保証が求められる。
南実験棟、地下六階、第二試料室。
幾重にも張られた認証の末に入れるこの場所は、まさしくそのような極秘の研究に用いられる試料の保管部屋であった。
――奇妙な光景である。
部屋の中央に男が立っていた。手には……拳銃を握っている。漂う硝煙の匂いからするに、既に何発か発砲したらしい。銃口は今、床に向けられ、力なくぶらぶらと揺れている。
男の目……明らかに正気を失っていた。まさに心ここにあらずの状態である。
その空虚な瞳が移すもの。それこそが第二の人物。
黒装束に身を包んだ女である。
女は棚や引き出し、冷蔵庫や冷凍庫を次々に開け、一心不乱に何かを探している。男のことなどまるで気に留めない。
「あった、華歴九〇二年……!」
ふと女は目を見開く。震えた手でそれを取った。
ちょっとした茶筒のような硝子瓶。中は液体で満たされ、ふわふわと〝何か〟が漂っている。
「見つかったかしら、ヨウコ?」
そこへ一人、別の女がやってきた。こちらも黒装束に身を包み、さらにのっぺりとした白い仮面を被っている。
ヨウコと呼ばれた浅黒い肌の短髪女が、仮面の女に瓶を手渡す。
「ああ、これだろうミヅキ?」
「……ええ。間違いないわ。ご苦労様」
「じゃあ早いところ立ち去るとしよう」
ヨウコは黒装束を少し上げ、先ほどから微動だにしない男を軽く一瞥する。
途端、男は発条を巻かれたように動き出し、銃身を迷いなく己の口に入れ、そして親指で引き金を――乾いた破裂音。再び硝煙の匂いが広がり、男の立っていた後方に血や肉、小さな骨や脳漿がぶちまけられる。
だがミヅキはそれに目もくれない。まるで事象が彼女の横を素通りしたかのようだ。
ミヅキは早々に踵を返そうとするヨウコの肩を掴み、耳元で優しく囁く。
「まだ時間はあるわ……あなたの個人的な用事を済ませなさい」
「け、けど――」
「大丈夫。先週のあなたの働きで十分な数の結界石と炸霊石が揃ったわ。他の子たちも、来週に向けて動いてる。慌てることはないわ。あなたの用を済ませる冗長性は優にあるのよ」
「ミヅキ………………ありがとう」
言ってヨウコはもう一度、引き出しやら棚を漁り出す。やがてミヅキに渡したのと同様の瓶を見つけ、何事か囁いた後、大事そうに懐に仕舞う。
ミヅキはその間、ただうっとりと、手中に収めた硝子瓶を宙に掲げ眺めていた。
中からは薄い緋色の光が漏れている。
ミヅキは夢見心地で呟いた。
「そう……来週……解放記念日の夜の、凌天閣。月が満ちるその夜、その場所こそが……世界が生まれ変わるその〝刻〟よ……」




