17 神越ヒミコは兄と鈴文する
暗闇の中、ヒミコは慌ただしく動かしていた手を止めた。
(うし、と……ま、これでやるだけのこたぁやれたな)
既に彼女は一五階に張られた結界を確認している。天井全体を緑色の障壁が覆っていた。
そう、緑色。最初に凌天閣の外に現れた紫ではない。これは結界展開者の違いを意味する。巫術発動時の瞳や巫ノ気の色は各々で異なり、結界もその影響を受けるのだ。
(残るは九人のはずだけど……はてさて、敵さんいったい何人でくるかねぇ?)
結界は展開者と一緒でなければ出入りできない。なので、これから戦う敵の中には一五階の展開者が混じっているはずだ。その者を討つないしはその者の持つ結界石を破壊すれば結界は解け、次の階に行ける。
(アタシなら……出し惜しみはしねぇ。出せる限りの戦力をぶつける)
敵が少数である以上、いたずらに戦力を分散できない。それが妥当と思われた。
(ま、ここが最初の正念場だな……ここを切り抜けりゃあ、かなりこっちが有利になる)
ヒミコはそう結論づけ、一旦思考を切り上げる。
おそらくまだ時間はあるはずだ。彼女は手提鞄の口を開け、中から懐中鈴を取り出す。既に受信音と振動は停止に設定済みだ。そのため、鈴文が来てるかどうかの確認を定期的にせねばならない。
(お……⁉)
――とうとう現れた。待ちに待ち望んだ矢文の図像が。
(あのクソ兄、やっぱ無事だったか!)
ノリトからの鈴文だ。文面はやはり『アア、僕ノ可愛イ妹ヨ!』から始まるアレなものだったが、今回ばかりは許そう。
ノリトはこの数年、伊達や酔狂でヒミコの補佐をしていない。それなりの修羅場を経験している。だからヒミコは、兄が敵の目を掻い潜った可能性に期待していた。
そして事実、ノリトは逃げ切ったらしい。といっても鈴文を読む限り、会場から消えたヒミコにいち早く気づき、その行方を探していたら難を逃れたというのが真相らしいが……しかしまあ今は互いの無事を喜ぼう。気持ち悪いのにも、目を瞑ろう。ともかくこれで、多角的に情報を探れる。
ちなみにノリトの方は、
『アノ〝首チョンパ〟デ、ミコチャンノ無事ヲ確信シタヨ!』
とのことらしい。人体破壊で無事を確信される妹……字面だけ見るとどうにも酷いが、哀しいことに否定材料は欠片もなかった。
――そこから二人は鈴文でやりとりする。
まず、結界は二〇階にも張られていて、一五階から上に行けぬヒミコとは対照にノリトは二〇階から下へ降りられぬとのことだ。合流は当分難しかろう。
次に一番重要なこと。ミドリはやはり囚われの身になってしまったらしい。
(ミドリ……)
ヒミコの眉根が歪む。
彼女は聖人ではない。故にこういう時、明確に優先順位を定める。その最上位は疑いようなくミドリとノリト、つまり身近な人の命だ。申し訳ないが、おっちゃんの敵討ちや残る人質の解放は軒並み次点に回さざるを得ない。
〝二兎を追う者は一兎をも得ず〟という言葉の意味を、彼女は身をもって知っていた。
『ミドリチャンハ今ノトコロ無事ダヨ。頭ノイイ子ダカラネ。騒ギモセズ、ジット耐エテイル。……デモ、敵ハ人質ヲ殺スノニ躊躇イガナイ。既ニ一人殺サレテイル。ダカラ、ノンビリトハ出来ナイト思ウ』
(【しっと】……もう一人殺してるだと? アバズレの【あすほっ】どもめ!)
ヒミコの胸に黒い火が灯る。彼女は意識してその鎮火に務めた。火に思考という酸素を与えず、封じ込める。後に残るは行き場のない熱さだけだ。
……これでいい。こうすることで、己の意志はさらに強固となる。
『最後ニ敵ノ情報ダケレド――』
続くノリトの鈴文によると、やはり敵は全員国家巫女らしい。しかもあの夜代ミヅキまで控えているとか。現在彼女らは襲撃の準備をしており、こちらへは六人で攻めてくるようだ。
(六人か……ちっとばかしきちいが……でも、やるしかねぇな)
ヒミコがそこまで読み終えたところで、ノリトから新たにもう一通届いた。
『デモ、ミコチャン。僕ニハマダヨク分カラナイヨ。敵ハドウシテ、ミコチャンヲ狙ッテルンダイ?』
どうやらノリトは自分が持つ眼球のことをまだ知らぬらしい。
ヒミコは返しの鈴文でそのことに触れた。理由は知らぬが敵にとって重要そうだ、とも。
送ってからすぐに返信が来た。いくら打ち込みが得意なノリトにしても早すぎる。
そこには手短にこう書かれていた。
『マサカソノ目ハ、緋色ニ光ッテヤシナイダロウネ?』