12 神越ヒミコは決意した
――血の匂い。
ヒミコは一瞬で頭を切り替えた。休憩所で紫煙を燻らせた後、再び階段を下ってようやく三階まで着き、玄関階が見えてきた時のことである。
血の匂い。誰かが殺された。しかも一人二人ではない。もっと沢山。
そしてマズい。何者かが階段を駆け上がってきた。
足音の速さ、鋭さは明らかに常人のものではない。
緋ノ巫女だ。数はおそらく六……否、七人。
ヒミコは咄嗟に身を隠した。幸い三階は土産物屋を含む物販店が立ち並ぶ煩雑とした造り。隠れる場所は無数にある。さらには慰霊会の貸し切りで休業中のため、明かりもない。
暗闇に身を潜め、一方的にあちらを観察できた。
(あれは……⁉)
先日取り逃した敵と同じである。黒装束の巫女。手には結界石や炸霊石を持ち、足早に階段を駆け上る。
(チッ……そういうことか)
ヒミコは敵の思惑を一部察した。何が目的かは知らぬが、結界石は凌天閣の封鎖に使うのだろう。現に今、目だけを動かし窓の外を見た所、紫紺の色の障壁で取り囲まれていた。既に結界が一つ展開されている。これでこの塔は水平方向の如何なる干渉を受けつけない。今しがた見かけた集団は、おそらくここから上で何階かごとに新たな結界を展開するのだ。ただし今度は上下方向に。ヤツらが目指すは十中八九、慰霊会が行われている二五階。そこに辿り着くまでの障壁として、だ。炸霊石は道中の罠として設置するのだろう。徹底した防衛策だ。
幾重にも張り巡らされた強固な結界と罠に加え、おそらくは慰霊会に参加中の上級層を人質に取る……これでは外部からの解決はほぼ絶望的だ。国家巫女が動員しても厳しいかもしれない。相手もまた緋ノ巫女なのだから。
つまり今、事態解決に向けた機動性を有するのは、結界中に居つつも自由に動ける自分のみ……。
そこまでわかっていながら――ヒミコは何もできなかった。敵が上階へと進むのを見逃す他になかった。
何故か? 至極単純である。あの人数の巫女を正面から相手取っても勝機はないからだ。
統制の取れた動きである。あれは確実に半人前や退役し腕を鈍らせた巫女などではない。今なお現役で職務につく巫女だ。
あれらと渡り合うには……どう考えても敵の分断や地の利の把握、心理戦の展開や罠の設置が必須になる。
(……下に行こう)
そうするより他なかった。まずは情報を集めねばならない。それに万に一つだが、まだ息のある者がいるかもしれない(敵の手際を考えると極めて低い確率だが)。
――ヒミコは敢えて、思考の動力学から一つの展開を排除していた。
(ひでーな、こりゃ……)
二階ギリギリまで階段を下り、中の様子を覗き見る。
〝血祭り〟というより他ない光景だった。壁や床の大理石が血や臓器の海で侵されている。
(まだ誰かいる……⁉)
即座に身を隠し、相手の出方を伺った。幸いあちらはヒミコに気づいてないようだ。
随分と小さい女子である。尋常小学校に通っている、と言われても頷けるかもしれない。
だがやはりあの黒装束を纏っていた。返り血をふんだんに吸い、重さと光沢を増した、あの黒装束を。
敵だ。この惨劇に加担したに違いない。
ヒミコには知る由もなかったが、それは浮嶋姉妹の姉、コハクである。
ミヅキから直々に指示を受けた彼女は、例の硝子瓶を手に床や壁を探っていた。
(何してんだ……? それにあの瓶は……何だ?)
とその時、コハクがふと面を上げる。
気づかれたか――⁉ ヒミコは鞄に突っ込んでいた手に僅かに力を籠める。
だが違った。敵は容姿相応に幼い笑みを浮かべ、隅の一室へと入っていった。
(今だ!)
好機。ヒミコは音を消しつつ速足で進み、二階から一階まで迅速に探る。
いくつかの事柄が確かとなった。
まず、生存者はいない。徹底的な殺戮が施されている。
次に、敵は全員で一〇名。血でついた足跡から判断した。その内の二名は電動昇降機で直接二五階まで向かったようだ。
最後に、この殺戮の実行者は二名。一人は効率を重視し、そしてもう一人は――楽しんでいる。そういう輩だ。死体の損傷からそう判断できた。
「………。」
彼は後者にやられたのだろう。
彼。ほんの少し前まで休憩所で一緒に煙管を楽しんでいた……あの警備員。気のいいおっちゃん。
「………………。」
目には涙を流した跡があった。死相はやすらかとは程遠い。苦痛、恐怖、絶望……ありとあらゆる負の感情の重ね合わせが刻みついている。
「………………………。」
こと切れる寸前、何を最後に思っただろう?
会いに行くと言っていた娘か、今朝生まれたという初孫か、それとも変わりゆくと信じた今後か。
それはもう誰にもわからない。可能性の断絶、未来の封鎖、選択の終焉。死とはそういうことだ。
「………。………………。………………………。」
ヒミコは思考から湿っぽい展開を一切排除していた。
眉一つ、唇一つさえ、動かさない。
大きくも鋭く縁取られた眼は、ただ冷たく傷口に向けられ、そこから最大限敵の手の内を明かそうとするのみ。
……彼女は知っていた。
怒りを表出させても状況は好転しない。どころかそれに触発された蛮勇は己を死に追いやる。
だから怒りは胸に秘めるのだ。そうして燃やし、燃やし尽くし、己の意志を焼き入れして鋼の如く強固にする。
――神越ヒミコは決意した。




