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1-うわさが仕立てた殺人鬼

企画のために執筆しました。

完結予定です。

 20戸62人が暮らす、山間の小さな村──水口(みなぐち)村。

 1972年8月2日、この村に住む小学六年生の少年、東野陽一(ひがしのよういち)が死体を見付けた。



 ◆◆◆



 僕は朝ご飯を食べてから自室の机に向かい、夏休みの宿題に取り掛かった。その日も夏日だったが、すだれ越しに部屋に入り込むそよ風と風鈴、母が早朝に玄関先に撒いた打ち水のおかげでいくらか涼しかった。

 十時が過ぎ、暑さで集中できなくなってきたので宿題を切り上げ、僕は釣道具一式を担いで家を出た。袖なしの白いシャツに短パン、麦わら帽子にサンダルという、お決まりの恰好で。行先は北の山だ。その山奥の沢には僕だけが知る秘密の釣スポットがあり、アユやヤマメ、アマゴがよく釣れた。釣った魚はその日の食卓にのる。

 一緒に釣りに行く友達はいない。僕が社会的に孤立しているという意味ではなく、単純に同世代の子供がいないのだ。村には小中一貫の小さな学校があり、小学一年生が三人、小学二年生が一人、小学五年生が一人、そして僕が通っている。低学年四人はその中で友達関係が完結しているし、年が遠いのも相まって、あまり一緒には遊ばない。小学五年生の子は女子なので、共通の遊びがない。去年までは気が合う中学三年生の男子がいて、よく一緒に虫取りをしたり川遊びをしていたが、中学卒業後は遠くの町へ出稼ぎに行ってしまった。それ以来、一度も会ってない。

 未舗装の道を駆け、田んぼの間を通るあぜ道を駆け、林業のために開かれた山道に入り、目印となる大きな杉の木の脇の茂みへ分け入る。しばらくは方向感覚を頼りに真っ直ぐ進み、途中からはかすかに聞こえてくる水のせせらぎを頼りに沢を目指す。道と言える道はないが、森の中の景色は何度も見て覚えているので迷うことはない。森の中特有の、肌にまとわりつくような湿気、木漏れ日、歩くたびに肌をひっかく茂みの小枝……。

 もう少しで森が開け、沢に出るという所で、僕は死体を見付けた。最初は落ち葉だらけの地面に横たわる肌色の塊を見て、それが何かわからずぎょっとした。次に、それが裸の若い女性の体であるとわかった。こんな所で裸で寝ている? 母以外では初めて見る、女性の裸。双丘は母のより大きく、先端は桜色。身長からして十代くらいに見えたが、下はボーボーなので大人だろう。いや、女の人ってどれくらいから生え揃うんだろう? 僕はまだ一本も生えていない。

 初めてのものを見て、ドキドキした。お腹の下の方がムズムズした。しかし、それは一瞬だけだった。首から上の、潰された顔を見てしまったから。顔面の陥没……。頭蓋骨を器にするようにして、どす黒い血と肉が盛りつけられているような……。そして腐臭が鼻を突いた瞬間、僕は嘔吐した。朝食べたそうめんが足元に飛び散った。



 ◆



 死体から逃げるようにして家に帰った。釣道具なんて、山道の途中で投げ捨てた。家に着くやいなや、昼食の準備をしていた母に事情を話す。父は不在だった。


「沢に……! 沢に行く途中の森で、女の人が……! はあ、はあ……! 死体で!」


 息も絶え絶え、頭は混乱状態で、上手く説明ができない。母は僕の言うことを半信半疑で聞き、昼食の準備の方を優先しようとした。しかし必死に訴えかけ、最後は手を引いて母を森に連れて行った。母はかっぽう着姿のまま茂みに入るのを嫌がっていた。


「あんた、嘘をついてイタズラしようとしてるんなら許さないからね!」


 そんなことを言われてしまうなんて、僕の日ごろの行いが悪いせいだろうか? 僕が悪戯っ子だったのは小学三年生までだ。母の手を引き、森の中へ連れて行く。そして死体が横たわる現場へ……。


「う……」


 僕は再び吐きそうになったが、今度は堪えられた。

 死体を見た母は言葉を失い、その場に立ち尽くしたが、すぐに立ち直って大人の対応をしてくれた。事情を話して回って村人を集め、村長宅の電話(村で電話があるのは村長宅と戸川屋敷だけだった)を使って通報した。水口村には駐在所はない。自転車で片道一時間くらいの、麓の町に近い村に駐在所があり、何かあった時はそこの駐在さんを頼っていた。その駐在さんは僕も知る人物だ。小さい頃、自転車で麓の町に行こうとして道に迷った時、お世話になった記憶がある。壮年で眼鏡、白髪交じりの優しそうな人だ。駐在さんにお世話になった後、人に迷惑をかけるなと両親からこっぴどく怒られたことも覚えている。それ以後も、何度か関わることがあった。

 駐在さんと、麓の町から来た応援の若い警官二人、そして何人かの村の大人たちが死体遺棄現場を訪れた。道案内として、僕もその場にいた。


「こりゃあ、まあ……」

「酷いこった。どこの娘さんだ? まさか……」


 不安を口にする村人たち。現場保全のため、駐在さんに連れられて僕含め村人たちは山道へ移動させられた。


「間違いねえ、あの子は中原さんちの香帆ちゃんだ!」

「だろうなあ。中原の奴、娘が昨日から家に帰らねえって言ってたし……」

「んじゃ、犯人は時太だ! 時太で間違いねえ! あいつ、香帆ちゃんによくちょっかいかけてたしな!」

「しかも時太は、麓の町で幅を利かせてるヤクザともつるんでるってうわさだ……。そんな奴ならやりかねねえ。駐在さん、今すぐ時太を捕まえてくれ! 時太はもう二十歳だ! 未成年のアレがどうとか……、そういうの無しに逮捕できんだろ?」


 香帆と時太という名前には聞き覚えがある。こんな小さな村だから、うわさはすぐに広まる。

 時太さんというのは数年前に両親を亡くし、今は村外れで一人暮らしをしている青年だ。今は亡き祖父は先々代の村長だったらしい。彼は両親が亡くなってからは素行が悪くなり、村八分とまではいかないが村の鼻つまみ者になっている。田畑は人に貸し、本人は麓の町で不良連中とつるんでカツアゲや窃盗をして稼いでるってうわさだ。しかも最近では、ヤクザに入ったとも聞く。しかも香帆さんという同い年の女性に惚れていて、よくちょっかいをかけているとか。僕もよく両親からは、「時太は危ないから近寄るな」と言われていた。ちなみに、彼の苗字を僕は知らない。


「駐在さん、時太を捕まえてくだせえ! あいつの悪いうわさ、あんただって耳にしてるでしょう!」

「先々代の村長の孫だからって大目に見てたが、もう……!」


 村人たちは時太を捕まえてくれと、駐在さんに詰め寄った。


「いえ、被害者の身元がわからんことには何も……。とにかく、今は鑑識さんに任せましょう」


 そう言って村人たちを宥める駐在さん。


「とりあえず、皆さんは家に帰ってください。それと、まだ犯人が村に居るかもしれないので、不要な外出は控えてくださいね」

「っち……」


 駐在さんに従い、村人たちは山を下りた。しかし、彼らは家には帰らず、その足で真っ直ぐ川沿いの道を下った。何をする気かと不安に思い、僕も後を付いて行く。辿り着いたのは村外れにある時太さんの家だった。家は大きいが庭は草だらけ。昔は鯉を飼っていたであろう池は干上がっていた。


 どんどん!


「おい、時太! 出てこい! 話がある!」


 家に着くなり、一人の男が玄関の戸を勢いよく叩いた。話があるとは言っているが、頭に血が上っていてとても話ができるような状態には見えない。


「くそ、居留守か!?」

「うわさじゃあ、一週間くらい前から村には戻ってねえとか……」

「それを先に言えよ!」

「車庫に車がねえ。麓の町に下りてるんだろうな」


 時太さんは家に居ない。日が暮れ始めてきたこともあり、村人たちは三々五々に散って各家に帰った。僕も家に帰り、夕飯を食べて風呂に入り、九時になる前に寝た。その夜は熊に食い殺されるという、最悪な悪夢を見た。



 ◆



 翌日、駐在さんが家に来た。僕と母に事情聴取をしたいらしい。駐在さんが客間にあげられる。母が三人分の麦茶を用意し、事情聴取が始まった。なんだか家庭訪問で家に先生が来た時みたいだ。


「それじゃあ陽一君、死体を見た時の状況を聞かせてくれるかな? そもそも、どうして君はあの森に?」

「それは──」


 秘密の釣り場に行こうと森に入ったこと、その途中で女性の死体を見付けたこと、そして家に帰って母に事情を伝えたことを話した。


「ああ、やっぱり現場にあった吐しゃ物は君の……」


 死体を見て、ゲロを吐いたことも話した。あれも鑑識の人に調べられたのかと思うと、何故か恥ずかしかった。

 次に駐在さんは母にも話を聞く。


「ええ、うちの子は昔は手のかかる子で……。ほら、何年か前も道に迷って、駐在さんに迷惑をかけてしまいましたし……」

「ああ、あの時ですね。自転車に乗れるようになったばかりの陽一君が、麓の町に行こうとして迷子になって……。いいんですよ、子供のやんちゃですし」


 そんな大昔の話を昨日のことのように……。こういう話をされるのは、僕は嫌いだ。


「そんな子なので、森で死体を見付けたと言った時も半信半疑で……。また私を困らせようとしてるんだと……」

「それで、行ってみたら本当に死体があったと」


 事情聴取は滞りなく進んだ。話をメモし終えた駐在さんは、最後に思い出したかのようにこんな話をした。


「あ、そうだ。昨日、被害者は村の香帆って娘さんじゃないかって話がありましてね。一昨日から家に帰ってなくて、もしやと……」


 香帆さん……。僕から見ても美人なお姉さんだ。両親との三人暮らしで、今は家事手伝いをしているとうわさで聞いている。


「香帆さん、見付かったそうですよ。もちろん、生きた状態で」


 え、生きていた? それじゃあ、どうして一昨日は家に帰らなかったんだろう。


「どうも彼女、山に山菜を採りに行った時に貧血で倒れてしまって、ずっと気を失ってたみたいなんですよ。それで今朝、目を覚まして家に帰ったそうです。いやあ、気絶してる時に熊に食べられなくてよかったですよ」


 被害者は香帆さんじゃなかった。家に帰らなかったのは、完全に偶然。それじゃあ、あの死体はいったい誰の……。


「駐在さん、それじゃあ死体の女性は誰だったんですか?」


 質問したのは母だった。


「顔が潰されてて、遺留品も無し。未だに身元は不明ですね。……あ、今のは内緒にしといてくださいね。一応、捜査の情報なので」


 駐在さんは人差し指を立てて口に当て、壮年ながら茶目っ気のある笑みを見せた。



 ◆



 香帆さんが見付かった。死体の身元は依然として不明のまま。うわさはその日の内に村中に広まった。

 翌日、話し合いのため、村長の号令で公民館に各家の代表たちが集められた。村長の言うことは仕事より優先される。公民館は村に金がある時期に建てられたものらしく、無駄に大きい。村に金があったなんて、過疎化が進んでいる今の状態からじゃあ想像はつかない。

 畳敷きの大部屋に、僕含めて十八人の男衆が集まる。僕の家からは父が代表として呼び出されたが、第一発見者と言うことで僕も連れて来られた。開け放たれた窓、すだれ、風鈴。風通しはいいが、男ばかりの室内は物理的にも雰囲気的にも暑苦しい。早く家に帰って麦茶が飲みたい。

 集まった男たち全員が顔見知りだ。集まらなかったのは親の介護で手が離せない田中さんと、村八分にされてる戸川さん、そして行方知れずの時太さんか。


「被害者かと思ってた香帆ちゃんが見付かったそうじゃねえか」

「よかったなあ、中原さん。娘さんが戻って来て」

「ええ……。昨日、村で死体が見つかったと聞いた時はまさかと思いましたよ……。心臓に悪い……」


 香帆さんの父親は気が弱そうで、周囲の威勢のいい男たちに押され気味だ。


「これで時太が犯人だって線は消えたな」

「いや、どうだろう。香帆ちゃんを手にかけたって訳じゃねえが、町でひっかけた女を……。ってことはないだろうか」

「ここ一週間、村で時太を見たって奴はいねえんだろ? ずっと麓の町にいるんじゃねえか?」

「時太の家に車は無かった。村で奴の車が走ってたら、誰かしら見てるだろうし……」

「谷山さん、あんたの意見を聞きたい」


 村を出入りするためには、崖沿いの一本道を通らないといけない。そしてその道沿いの一軒家に住んでいるのが、谷山さんだ。彼は高齢で、退職してからは庭の畑を耕しつつ年金生活を送っている。基本的に一日中家に居るので、村に出入りする車があったら彼の目に留まる。


「時太の車かい? 見とらんなあ」

「本当かい? 家の中に居る時に通り過ぎたってことは?」

「時太の車は改造でもしとるのか、エンジンの音がうるさい。家の前を通ったら、昼寝をしてても起こされるほどじゃ」


 谷山さんの言う通り、時太さんの車はうるさい。町ではああいう車が流行ってるらしいけど、普通に暮らしている人からしたらいい迷惑だ。


「一昨日から今日までで家の前の道を通ったのは、バスと警察の車くらいだなあ。まあ、儂が夜寝ている時に車が通ってたらわからんが」


 時太さんが村に帰ってきてたって線は薄そうか……。彼が車を使わずに、バスで死体を持ち込んだなんてのも考えられない。人一人が入るような大荷物を抱えていたら、絶対にバスの運転手に詰問されるはずだ。


「やっぱりなあ。時太はやんちゃだが、一線を越えるような奴じゃないとは思ってたよ」

「腐っても、先々代の村長の孫だからな」

「時太の父親も立派な人だった。猟師をやってて、村を熊から守るために命を賭して……」

「ああ、大熊が村の中まで入ってきたあの事件な。嫌な事件だった……。時太の母親もその時にな……」


 時太さんが犯人である線が薄まると、一部の男衆は手の平を返して彼の肩を持った。その中には昨日、駐在さんに詰め寄っていた人もいた。彼のちぐはぐな言動を、素直に気持ち悪いと思った。

 時太さんのやんちゃが半ば野放しにされてるのは、祖父と両親の功績のおかげだろう。それがなかったら、彼はとっくに村から追放されていたと思う。


「それじゃあ被害者は誰で、犯人は誰なんだ?」

「それを今から話し合うんじゃねえか」


 「被害者は誰で、犯人は誰なのかを話し合う」まるで真相を突き止めるのではなく、被害者と犯人を話し合いで誰にするのか決めるかのような言い方だ。


「戸川だろう。戸川に決まっておる」


 上座に座り、それまで黙って話を聞いていた村長が口を開いた。彼は髪も髭も真っ白で、何年か前にベイジュを迎えたという老人だ。ベイジュが何なのかは知らない。


「戸川がやったんじゃ。奴はよそ者じゃ。戸川が犯人じゃ。それに、村に五百万の負債を払っておらん」


 普段は温厚で優しい声の村長が、今は厳しい口調でそう断定している。

 戸川というのは、何年か前に東京から村に引っ越してきた小説家だ。白髪交じりのボサボサ髪が特徴的な人だが、まだ四十代らしい。相当な売れっ子のようで、村の一角に豪邸を建て、日夜執筆活動に励んでいる。高い塀に囲まれ、庭の池では錦鯉が泳ぎ、家は半地下三階の大御殿。「こんな村にあんな豪邸を建ておって。嫌がらせか?」と、村人たちはひがみ、皮肉を込めて戸川さんの家を「戸川屋敷」と呼んでいる。ちなみに去年、上流から農薬を流されて錦鯉が全滅したらしい。


「確かに、戸川ならやりかねんな……」

「脱税とか、東京で婦女暴行をしたから村に逃げてきたとか、よくないうわさも聞くし……」



 ◇



 戸川さんは村人から嫌われていた。いや、村八分にされていた。

 まず、木造藁ぶき屋根がほとんどのこの村で、さも金持ちだと主張せんばかりの豪邸を建てたことで嫌われた。そして小説家という職業でも嫌われた。村人は汗水流し、田畑を耕して働いているのに、戸川さんは一日中家に籠って小説を書いている。汗をかいていない、苦労している様子を見たことがない。それは村人たちにとって、働いていないのと同義ととらえられていた。僕はまったく、そんなことは思わないけどなあ。

 うわさでは村人が戸川さんに、「一日中家に居るんだったら、少しは草刈でもしたらどうだ?」と迫ったことがあったらしい。もちろん戸川さんは田畑なんて持っていないので、草刈というのはその村人の土地の草刈だ。戸川さんは「仕事があるので」と言って断ったらしい。当然だ。自分の家ならともかく、僕だってお小遣いが貰えなければ他の家の畑仕事なんて手伝わない。しかしそれから、戸川さんは「助け合いの精神の無い無情な男だ」といううわさが村に広まった。

 村では共同作業として草刈が年四回、掘り掃除が年二回、ゴミ拾いが年三回、冬を除いて消防団の訓練が毎月、夏には祭の準備と後片付けが行われる。戸川さんは体が弱いらしく、それらの行事に参加してもすぐにばてて見学していた。だから村人に嫌われた。

 そして三年前の夏、戸川さんと村とのたもとを分かつ事件が起きた。その日は村の草刈の日で、戸川さんは川辺の草むらを担当していた。僕も同じ場所に割り振られ、どうしてこんな所の草を刈る必要があるんだろうと思いつつも、鎌を片手に草刈りに勤しんだ。八月の炎天下、戸川さんは汗を流してフラフラになりながらも、慣れない手つきで背の丈ほどもある草を刈っていた。戸川さん、今回は頑張ってるなあ。草むらの陰から戸川さんを見守りながらそんなことを思っていた時、村長が彼の腕を鎌で切った。切られたのは左腕の二の腕部分。村長が振り抜いた鎌には鮮血がこびりつき、地面にも血しぶきが飛んで草がそれを吸った。

 戸川さんはすぐに自宅に駆け込み、救急車を呼んだ。うわさによると、縫うほどの傷ではなかったそうだが傷跡は残ったそうだ。当然、駐在さん含め警察が村に来て事情聴取が行われた。加害者である村長の言い分はこうだ。「視界が悪い草むらで鎌を振るっていたら、刃先が偶然当たってしまった」。他の村人たちも口々に、「それなら仕方ない」「事故みたいなもんだ。草で視界が悪かったしな」「そんな所に居た戸川が悪い」「首に鎌が当たらなくてよかったな」と言った。結局、事件はうやむやになり村長はお咎め無しになった。しかし、僕は見ていた。村長が鎌を振りかぶり、明らかに狙って戸川さんを切りつけたところを。あの瞬間に見せた村長の鬼の形相は、今でも忘れられない。もしも草むらから飛び出していたら、僕まで切りつけられていたかも……。あの時の村長は、それほどの殺意を纏っていた。勇気を振り絞り、駐在さんにそのことを話したが、「あの優しい村長が、そんなことをするはずないじゃないか。戸川さん、あの程度の怪我で大げさなんだよねえ。事件にするほどじゃないよ」と言われた。それ以来、僕は駐在さんが嫌いになった。以前から戸川さんに嫌がらせをしていた村長のことは、もっと嫌いになった。戸川さんはそれ以来、行事や集まりに顔を出さなくなった。



 ◇



「俺も戸川は、いつかやらかすと思ってたんだよ!」

「村長の言う通りだ。アイツが怪しい。こういう村の集まりにだって、あの男は顔を出さねえし」


 戸川さんがこういう場に顔を出さないのは、鎌で切られた事件があったからだと思う。というか、集まりがあること自体、誰も連絡していないだろうに。


「それじゃあ、被害者の女は……?」

「戸川の交際相手だろうな。アイツは金にものを言わせて、女をとっかえひっかえってうわさがある」


 そのうわさは初めて聞いた。


「戸川が犯人で間違いねえ! 村長、どうしますか? 今からでも戸川屋敷に乗り込んで、あいつを警察の前に……!」

「落ち着くのじゃ。証拠がなければ、警察連中は動かんじゃろうて。まずは様子を見るのじゃ。必ずあの悪党は尻尾を出す」


 村長の中では、すでに戸川さんが犯人で確定しているようだ。証拠はない。根拠は、戸川さんが悪い奴だといううわさだけ。この村は子供の僕の目からしても、異常に見えた。

 その後の話し合いは、戸川さんがいかに悪いことをしているかという、根も葉もないような悪口で終始した。第一発見者としてここに連れて来られたが、僕に事情聴取をする者は一人もいなかった。



 ◆



 話し合いが終わったのは夕暮れだった。家に帰ると同時に雨が降り始め、夜には盆を覆したような土砂降りになっていた。父は「田んぼの様子を見てくる」と言って家を出て、しばらくして帰ってきた。田んぼは無事だったらしい。翌朝には、雨は上がった。

 村に居ると、否が応にもうわさが耳に入ってくる。それは両親からだったり、道を歩いていると声をかけてくるご近所さんだったり。うわさによると、昨晩の大雨の影響で村と外界を繋ぐ唯一の道が崖崩れを起こし、通行不可能になったらしい。うわさによると、遺棄されていた死体は麓の町の警察署に運ばれ、検視をされるも身元はまだ不明らしい。うわさによると、時太さんはまだ村に帰っていないらしい。などなど……。そして皆一様に、戸川さんが死体を作った犯人だとうわさしていた。このままでは戸川さんが危ないかもしれない。この村の連中は、何をしでかすかわからない。鎌の事件の前例もあるし。

 僕は戸川さんが好きだった。



 ◆



 戸川さんが村に引っ越してきた年の、初夏の出来事だ。僕は自転車に乗り、村の中を走っていた。行くあてはない。釣も、虫取りも、川遊びも、家の手伝いも飽きたから、ただ自転車に乗っていたのだ。そして、盛大に転んだ。舗装されていないガタガタの道を自転車で乗り回していたんだから、当然と言えば当然だ。膝をすりむき、血が出た。痛くて痛くて、天を仰いで泣いた。どうして僕がこんな不幸な目に遭わなくちゃならないんだと。今思えば、大した怪我じゃなかったのに大げさだったな。

 大声で泣いていると、陽炎の向こうから一人の大人が駆け寄ってくるのが見えた。


「君、怪我を……。大丈夫かい? 立てる? 家に救急箱があるんだ。早く手当てをしないと……」


 村では見ない顔だ。白髪交じりのボサボサな髪、丸メガネ、華奢な体格。この村でその特徴に一致する人物に心当たりはない。消去法で、彼が最近村に引っ越してきた戸川という男だとわかった。

 戸川さんは右手で僕の手を引き、左手で自転車を押しながら自宅へ招いてくれた。これが戸川屋敷……。当然、門をくぐるのは初めてだ。学校でのうわさによると、戸川屋敷に入った者は生きたまま肉を削がれ、池の錦鯉の餌にされるとか……。もちろん、僕はそんな怪談を信じてはいなかったが、低学年の連中は震えあがっていた。


「痛いと思うけど、我慢してね」


 戸川さんは玄関横の水道から水を流し、膝の傷を洗ってくれた。


「よし、よく我慢できたね。えらいよ」


 血は出ていたが浅い傷だったので、水で洗われても全く痛くなかったのを覚えている。足を振って水けを払うと、炎天下だったのですぐに乾いた。

 戸川さんはそのまま僕を客間にあげて、救急箱を持って来て応急処置をしてくれた。消毒液を傷口に付けられても痛がらなかったことを褒められた。そのまま絆創膏を張られ、応急処置は完了。


「涼しい……」


 清涼を運ぶクーラー、革張りのソファ、ピカピカに磨かれたテーブル、大きな窓、そして壁には走る牛を描いた絵画が飾られていた。生れてはじめて体験する、お金持ちの一室……。水口村にありながら、この空間だけ別世界なんじゃないかと思った。


「えーっと、後は何をすればいいのかなあ……? とりあえず安静に? いや、子供がじっとしててくれるか?」


 大人なのに部屋の中を右往左往して、落ち着きがない戸川さんが可笑しかった。まるで診療所の待合室で暇を持て余している、多動な子供みたいだ。


「あ、そうだ! 君、お菓子好きかい?」

「え、あ。だ、大好きです……」


 僕の返事を聞くや否や、戸川さんは部屋の外へ出ていき、ボウルに山盛りのグミと水の入ったコップを持って来てくれた。


「それと、これを」


 お菓子とコップをテーブルに置くと、戸川さんは一冊の小説を僕に差し出した。


「それは?」

「俺が書いた小説だよ。暇つぶしになればいいけど……」


 今までの人生で、僕は小説というものを読んだことはなかった。読んだ活字の本と言ったら、国語の教科書くらいだ。少しも挿絵がない本なんて、すぐに飽きてしまうだろう。だけど怪我の手当てをしてもらった手前、無下にすることもできない。僕はそんな可愛げのない子供ではないのだ。

 小説を手に取り、一ページ目だけでも読んでみる。たった一ページに百の情報量。次の展開が気になり、二ページ目にも目を通す。すると三ページ目も自然にめくっていた。まだ習っていない漢字の単語がいくつかあったが、前後の文から意味を推察した。次のページ、次のページ……。めくるたびに引き込まれる。目が勝手に文章を追い、頭の中に情報を流し込んでくる。こんな長文を読んだのは、生まれて初めてだ。気付くと、もうめくるページが無くなっていた。窓から差し込む日差しが赤くなっていた。


「い、いつの間に!」


 小説を読むのに集中して、時間が過ぎるのを忘れていた。目の前に置かれたお菓子と水に手を付けないまま……。


「その小説、気に入ってくれたかい? それならあげるよ。持って帰るといい」


 失念していた。目の前のソファには戸川さんが座っていたのだ。座って、僕が小説を食い入るように読んでいるのを見ていた。


「面白かったかい?」

「はい、とっても! ……あ、お菓子」


 おっと、出された物に一切手を付けてなかったな。せっかく出してくれたのに、口を付けないのは失礼になるかも? 水だけでも飲んでおこう。


 こく……。


「あまっ!?」


 水かと思って飲んだら、独特の甘さが舌を撫でた。砂糖水? いや、そういう甘さじゃない……。


「ソーダなんだけど、時間が経って炭酸が抜けちゃったね」

「ソーダ? たんさん?」


 ソーダというものを飲んだのはそれが初めてだった。普段飲んでいる麦茶なんかとは比較にならない美味しさだ。「たんさん」がぬける? たんさんが何かはわからないけど、それが入っていたらもっと美味しかったんだろうか。


「戸川さんはどうして、こんな村に?」


 戸川さんみたいな良い人が、どうしてこんな村に引っ越してきたんだろう。そんな自分が暮らす村を低く見積もったような疑問が頭に浮かんだ。


「俺は生まれてから今までの四十年間、東京で排ガスとドブ川の腐臭にまみれて暮らしてきたからねえ。お金が貯まったら水と空気がきれいな田舎に引っ越して、余生を過ごそうと思ってたんだ。それで、実現させた」

「小説家って、儲かるんですか?」


 失礼な質問だけど、こちらは無邪気に聞いているんだから許されるだろう。


「まちまちだねえ。大当たりすることもあれば、そうじゃない時もある。まあ今後、俺の書き物が鳴かず飛ばずでも、何不自由なく暮らしていける分だけの貯えはあるよ。逆に言えば、この家にお金を使いすぎて、もう他所に移住する余裕がないんだけどね。はは……。調子に乗って地下を作ったのが痛かったなあ」


 嘲笑的な笑みを浮かべながら、白髪交じりの頭をかく戸川さん。


「だからこの村の人たちとは、仲良くやっていきたいんだ。そして君が、その第一村人さ」


 今回は流されるままに戸川屋敷に足を踏み入れてしまった。こんなところを村人に見られていたら、よからぬうわさが立つだろう。当然、これから戸川さんと仲良くすることはできない。僕が村で生きていく上で、仕方ないことだ。戸川さんと話したのはそれっきりで、以後は道ですれ違った時も他の村人同様、彼を無視した。心に申し訳なさと自己嫌悪を抱えながら。



 ◆



 戸川さんから貰った小説は僕の宝物になった。しかし、村人から嫌われている男が書いた小説なんて持っていたら、僕まで嫌われてしまうだろう。小説は四つ上の兄貴分から貰ったビニ本よりも厳重に仕舞い、親の目から隠した。それからはお小遣いが貯まるたびに自転車で片道三時間かかる麓の町へ行き、戸川著の小説を買った。バスは通っていたが、小説購入のために節約した。苦労はするが、そのたびに宝物が増えた。

 面白いものは人にも勧めたくなる。そこはかとなく、戸川著の小説を読んでみてはと、父に勧めたことがあった。返答は、「あんな奴の書いた小説を読んだら、頭がバカになる」だった。まるで子供のような屁理屈を言う我が父に失望した。

東野陽一──小学六年生の男の子。戸川さんのファン。

駐在さん──壮年。水口村より一つ下の村に勤務。

中原香帆──二十歳。美人。両親と三人暮らし。

時太  ──二十歳。村の鼻つまみ者。中原香帆にちょっかいをかけている。

戸川  ──四十代。村八分にされている小説家。よそ者。

村長  ──米寿を迎えた老人。村長。


 登場人物は多いですが、小さい村なので陽一少年が皆の名前を知っているというだけで、上記の者以外はモブと変わりません。


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