名前を呼んで
不意に硬直した俺を心配するようにキルベ姫が顔色を伺ってくる。
「あ、あの……ゴロディア王子?」
「いえ、なんでもありません。いただきます」
そして、俺はゆっくりとコップを口元に持っていくが、その間も頭の中でもう1人の自分が叫び声をあげていた。
おい俺ェ!!今、この土地で過ごすのもいいなぁって思ってなかったか!!さっきまでの決意はどこ行った!!帝国への帰属意識はどこに消えた!!俺は!この!オークの土地を!!帝国の為に利用するつもりでここにいるんだろうがぁ!!!
思考ばかりが駆け巡り、俺の動きをいつも以上に緩慢にしていた。
俺のあまりにも遅い仕草に、またしてもキルベ姫が心配そうな顔をした。
「ゴロニア王子……どうかしたか?『ビィバァデ』はダメか?白湯なら用意がある……言ってくれれば」
「ああ、大丈夫です。そういうんじゃありませんので。少し旅の疲れが出ただけです」
「そうか……であるか……だが、無理はない……してはいけない」
キルベ姫の言葉に俺はもう一度気を取り直す。
そうだ。食事だ。食事がまずければ俺も帰りたくなるはずだろう。
俺はもう一度コップに口を近づけ、香りを嗅ぐ。
仄かな刺激臭のある匂いだった。だが、それは不快なタイプの刺激ではない。少し香りの強い紅茶だと思えば気にならないようなものだ。
俺はコップの淵に唇をつけ、口の中に『ビィバァデ』を軽く流し込んだ。
「あ……美味しい……」
ポロリとこぼれた言葉にキルベ姫の表情が綻んだ。
それと同時に俺の胸には石の塊を飲み込んだような失望感が広がる。
いや、だって美味いんだもん!しょうがねぇじゃん!!
俺はもうもう一口『ビィバァデ』を口に含む。
多分、ハーブティの亜種だ。だが、紅茶のように完全発酵させてないお茶だろう。本来ならそれは青臭さになって、茶の香りを殺してしまう。だが、それを補うかのように茶の中に花の香りを混ぜて別の形として完成させている。加えている花がなんなのかは俺にはわからなかったが、とにかく『ビィバァデ』は俺の舌に合っているということだけは確かだった。
茶が進む俺を見て、キルベ姫は安堵したかのように吐息を吐き出した。
「こ、こっちもどうだ?帝国ではグッゲーというのだろ?」
キルベはそう言って焼き菓子の乗った皿の方も勧めてくる。
「ああ、確かにクッキーに似てますね」
「そ、そう……グッギィ」
「クッキー」
「ク、ク、クッキー」
「そうです、そうです」
彼女が正確な発音ができたのが俺も嬉しくて笑みが深くなってしまう。
そんな俺を見て、彼女もまた口元を緩めてくれた。
やっぱりいい顔で笑うよな。素の顔が傭兵のように凛々しい感じがあるから笑顔になると余計に際立つんだよ……って、俺はやっぱバカだろ!!
俺は何度目かわからない叱責を己に加えつつ机の下で腿を抓りあげた。
もう一度、顔を爽やか笑顔に引き戻し、俺は話題を変えることにした。
「そういえば、私の名前の発音は難しいですか?」
「あ……」
途端にキルベ姫は『痛いところを突かれた』という顔になり、眉尻を下げた。
「す、すまない、反省している。だ、だが!私の!!貴国の言葉を真剣に学びたいという気持ちに!嘘は!ない!」
「ああ、わかってます。わかってますって」
俺は身を乗り出しそうになってくる彼女を抑えるように両手を前に出した。
こういう態度には覚えがある。我が帝国の近隣諸国の中にみられる態度だ。帝国がその気になれば一瞬で滅ぼせるような小国の態度。彼等が俺達の機嫌を損ねないように細心の注意を払う気持ちはわかるし、俺もその態度を否定する気はない。
ただ、俺は『オーク』がそこまでしてくるとは思っていなかった。
『オーク』といえば、野蛮で粗野で馬鹿で次の飯のことしか考えてないような獣のような相手としか思ってかった。それが、俺を相手に拙いながらも『交渉』の場を保とうとしているのだ。
そのことが俺にとっては意外であり、そして嬉しくもあった。
それは俺が少なくとも『文明』のある土地に婿入りできそうだということだからだ。
「けど、名を呼ぶ時にそれでは不便でしょう……公的な場では確かにちゃんとした名前で呼んでいただければなりませんが。少なくともこうして2人でいる分には呼びやすいように呼んでいただいて構いませんよ」
「い、いや、それは失礼だ。相手の名を、せ、せい、正常に、呼ばなければ失礼になる。母上も父上もそう言っていた、だから練習し……あぁ!いや!違う!練習などしていない!!努力などしていない!!」
慌てふためくキルベ姫。失敗をカバーするために言葉を重ね、余計におかしなことを言っていた。
彼女の言わんとしていることはわかる。
『練習した』とか『努力した』といった自分の過程を誇るような言い方をこういう場でしてはならないと言われているのだろう。外交の場では確かにそれは正しい。公的な場で大事なのは『結果』でしかなく、それまでの『過程』に関して語るのは時間の無駄でしかない。
だが、これに関してはもうすでに俺の方が十分痴態を晒している。
オーク語を学ぶ『努力』を怠たり、『結果』の一つすら満足に提示できない。
キルベ姫が帝国公用語で喋り、俺がオーク語を一言も喋れないのがその証拠だ。
俺はこの時点で負けている。
だから、負けた方が譲歩するのは当然だった。
「構いませんので。好きにお呼びください」
「だ、だが……」
わずかに俯くキルベ姫。彼女の中にある葛藤が手に取るようにわかる。
ここで俺の言葉に乗っていいのか?乗ることで俺から不利益な要求をされるのではないか?『オーク』の立場を悪くしないために初志貫徹すべきなのか?
まぁ、全てはいらぬ心配だった。俺にそんな詐欺師紛いのことはできない。
そこで俺は少し考える。
今まで聞いてきたオーク語の発音。そして、彼女が呼ぶ俺の名で詰まる箇所を照らしあわせる。
「では、『ゴロ』ではどうです?」
「え?」
「『ゴロ王子』なら呼びやすくはありませんか?」
オーク語は濁音が多く、また帝国公用語の母音における『イ』の発音が特に喋りにくそうだった。
俺の名前で詰まっているのはいつもゴロニアの『ニ』の箇所であった。
「ゴロ王子」
「はい。それでいいですよ。キルベ姫」
「あ……うん」
すると、彼女はなぜかソワソワと落ち着かないように視線を彷徨わせた。
俺はそんな彼女を見て、自分がこの部屋に入って初めて彼女の名前を呼んだことに気が付いた。
キルベ姫……か……
口の中だけで何度かその名前を呼び、その音の舌触りを楽しむ。
そして、俺はそのまま皿の上の焼き菓子を口に入れた。
「うん……美味い……」
帝都で食べるクッキーと比べて淡泊な味ではあったが、決して不味いわけではないクッキー。その素朴な味わいは香りの強いお茶とマッチしており、決して悪くない組み合わせだった。
ひとまず、この場における食事は決して悪くない。
それが俺にとって良いことなのか悪いことなのかはもはや俺自身にもわからなくなっていた。