酒場の蠅
おそらく読了済みの方でも覚えている方は少ないだろうフリーゲ(198話『縫い留めること』ほかに登場)。そんな脇役中の脇役にも光を当ててみたくなりました。彼が隠密になったときのお話です。
夜半、城郭を後にした男の足取りは重い。生活の保障は約束された。じきに市民としての権利も得られるかもしれない。そんな大きな期待よりも尚、疑念と屈辱の方が勝っていたのである。
「よりにもよって蠅かよ……」
蠅、それは男の新たな名だった。蝗よりも忌み嫌われる虫。汚物や死体に群がり、誰もが片手で振り払う存在。幼いころからそれなりに親しんだマティアスという名の代替にしては、あまりにひどい名だった。
話は一週間前に遡る。金も身分も学もなく、腕っぷしと勘という動物的本能だけで裏町を渡り歩いてきたマティアスは、妙な男と酒を酌み交わした。賽子で大負けして暴れそうになっていたマティアスに男が声をかけてきたのである。度胸ある賭け方を男は大層楽しんだといい、掛け金を肩代わりしてくれた。それをきっかけに二人で飲みなおしたのだが、既にだいぶ酔っていたため話の内容はほとんど覚えていない。名前は聞く度に違う名前が返ってきたような気がするし、顔も見おぼえがあるようなないような把握しづらい男だった。とはいえ計算を感じさせぬ屈託のない笑顔や、相手を持ち上げつつもあからさまにへつらことのない会話は暇つぶしには十二分だった。
しかし三杯目の麦酒を飲み干す頃、話の巧い男は旨い話も持ってきた。喧嘩が強く、度胸もあって頭も回る。ならば、貴族様の御用聞きとして仕事をしてみないかと。御用聞きに何故喧嘩の強さや度胸が必要なのか、とマティアスが問うと、男は笑ってマティアスの肩をたたき、そういうお前だから貴族様がご所望なのさ、と答えた。
その答えにマティアスは不思議と心惹かれた。褒められて悦に入ったわけではない。御用聞きとは方便に過ぎず、実際には隠密の仕事だと即座に察していた。危険な橋を渡ることになるだろうが、その男が朗らかな態度の裏で「悪役」を演じていると理解した瞬間、マティアスはある種の安堵感を覚えたのだった。
翌日、未だ名前も定かではないその男に連れられて、マティアスは領主たる方伯の居城へ入った。雇い主は方伯の次男だという。担当する使用人に呼ばれるものと思っていたマティアスはとんでもない大物貴族と直接顔を合わせると知って最初面食らったものの、連れてこられた古い塔を見上げて納得した。幽閉中、つまり実の息子でありながら方伯に良いように使われる立場ということだ。
ヨハンと名乗った方伯の息子は想像以上にいけ好かない男だった。見るからに虚弱な体躯に女のような顔。マティアスと組み合えば一瞬で首を圧し折られることは明白だというのに、上等な木の卓に肘をつき、細い足を気だるげに組んだまま、跪き恭順を誓うマティアスを嘲笑するように見下ろしている。それは絶対的な権力を当然のものとして生きてきた人間の振る舞いである。ヨハンは苛立ちに顔を伏せたマティアスを一瞥するなり、名は何が良いかと問うてきた。困惑から答えに窮したマティアスが口ごもると、歯を見せて笑った。
「そういえば最近は虫がいなかったな。蠅なんてどうだ」
顔がかっと熱を持つのを感じたマティアスだったが、口答えする前に隣の男が言った。
「良き名かと存じます」
……そうして、マティアスは蠅になった。
帰り道、ぶつぶつと文句を垂れながら酒屋へ向かい、ほとんど怒鳴るような声で麦酒を注文した。
「畜生……やっぱり殴っておけばよかったか」
殴ればその場で殺されただろうが、蠅として生きるよりはましだったかもしれない……そんな考えが何度も頭をよぎる。いや、俺なら殺される前に隣の男も撒けたはずだ。まずヨハンを殴って昏倒させる。次にこちらに切りかかってくるだろう隠密の男の足を払って倒し、腕を折って刃物を奪う。奪った刃物で隠密の喉を割いた後、周囲に自体がばれる前にヨハンにはもう数発お見舞いしてやろう。
「へい、お待ちどう」
脳内で十発ほどヨハンを殴りつけた時、目の前に黄金の液体が置かれた。反射的にごくり、と喉が鳴った。酒屋の喧騒が遠のき、ぱちぱちと泡の弾ける音が鼓膜を擽る。
目を瞑って器に口を近づけ、そっと泡を吸い上げる。歯の隙間を洗うように通っていく刺激と、上あごから鼻へ抜けていく麦とヒソップの香り。そのあとをふわりと追いかける酒精の高揚。はて、ここの麦酒はこんなにも旨かったか。
「……なんだ、結局喜んでんのか、俺は」
鮮烈なまでの麦酒の味に、フリーゲは怒りで覆い隠していた己の心情に気づく。生きている限り屈辱と縁が切れることはない。だが、どんな形であれ他者に個としての己の価値が評価されたことに対する喜びが確かにあった。
「蠅で結構。羽があるならせいぜい羽ばたいてやるよ」
フリーゲは独り言ち、息もせず麦酒を飲み干した。