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灯り

 わざわざ窓の外を見るまでもなく、ヨハンは雨雲の来訪を知った。右目の奥、脈動するような強い痛み。文字を追うのが困難になっていく。休んだとことでたまった仕事を片付けるのも明日の自分であることを考えると休むに休めない。頭痛から気をそらそうと手足に意識を向ければ、今度はじんじんとした浮腫みと冷えを感じる。苦し紛れに手足を曲げ伸ばすも、刻一刻と身体の上げる悲鳴は喧しさを増していくばかりだった。虚弱であることは自覚している。もとより幼少期から録に肉が付いた試しのないこの身体は、塔に閉じこもってから一層無粋になった。幸いよく回る頭のお陰で、周囲から物理的な強さを期待されることはなかったにもかかわらず、些細なことで休息を要求してくるのだ。


 ち、と舌打ちをして天井を仰ぎ、ヨハンは目を閉じた。眠ってしまえば楽なのだろうが、断続的な痛みは眠気を遠ざける。それでも瞼の作り出す仮初の闇は多少痛みを間引くことができるようで、無為に過ぎていく時間を惜しみながらも暫く獣脂蝋燭の灯りから逃げることにした。

 

 目からの情報を遮断しても、ヨハンの脳は考えることをやめてはくれなかった。しかも整理されていたはずの思考はどろり、と形を変える。


 思えば、闇にばかり馴染んでいる……ふと、そんな言葉が浮かんだ。塔に閉じこもると決めたときも、感じたのは孤独よりも安堵だった。『黄金』などと呼ばれる兄は眩しすぎて、己の内の影ばかりを色濃く映し出す。それを認めるのは容易いことではなかった。己の影の濃さを誤魔化すためには、より濃い闇の中に紛れるほかない。だからこそ、灯りに照らされた道は外れた。謀略に身を沈め、血と臓物に塗れながら走り続けた。いつしか人を陥れることも死へと導くことも何とも思わなくなった。塔に閉じこもり解剖に耽るヨハンを人々は『悪魔』と噂した。その話が耳に入ったときも、特に何を思うこともなかった。闇は闇を受け入れる。認めがたかった己の影を、火の光から逃げた先で初めて認められたのである。


 すると奇妙なことが起きた。配下の隠密たちがヨハンを見る瞳が輝き始めたのだ。隠密は皆尋常な人生を歩んできた者たちではない。出会った時は皆、絶望と諦念に瞳を暗く濁らせていた。任務が下されれば喜色を浮かべる者もあったが、それはいわば一瞬の狂気。秘めたる衝動を発散させる許可を得たことに対する刹那的な悦びに過ぎない。そんな、人として最低限の感情すら持っているのか怪しい者たちが、ヨハンと接するうちに顔つきを変えるようになっていったのである。


 ある時、ヨハンは古参の部下に問うた。なぜそんな目で俺を見るのかと。すると溝鼠の名を持つ男は、目尻に皺を寄せて答えた。



「貴方は我々を肯定してくださるのです。生きていて良いのだ、生きる意味があるのだと思わせてくださるのです」



 その答えに困惑し、さらに問うた。お前たちは俺の駒だ。貴重な駒を減らさぬよう尽力するのは当たり前ではないかと。しかし溝鼠は首を横に振る。



「我々は日陰者、世間には存在しない者。いつでも切って捨てられる駒を大切に扱ってくださることももちろんですが、それだけでは敬うに値しません。我々は命を長らえることに大した価値を見出しておりませんから」



 ますます困惑を深めるヨハンに、溝鼠は言い募った。



「生きることに希望を持たぬ者が生き続けるには、強い理由が必要なのです。貴方には正義がある。それは我々の道を照らす灯りです。ですのでどうか御身を大切に」

 


 その問答の数日後、彼は一人の男を連れてきた。隠密として働くだけでなく、医学の手伝いができるという。他の者と同じく、否それ以上に暗い瞳をした慇懃無礼な男は、ヨハンに多くの疑問を投げかけた。ヨハンはその総てに真摯に答えた。夜が明ける頃には男の瞳は輝きに満ちていて、ヨハンは皆が己に見出していた「正義」が謀略ではなく医学の方にあったのだと悟った。


 あれから何年たっただろう。頻繁に悲鳴を上げる身体を鞭打って、謀略と医学を両立させているが、未だどちらも成すことはなく、先は見えない。終わることのない闇の中で藻掻く自らを灯りであるとは到底思えなかった。

 

 ……ふいに足音を聞いて、ヨハンは瞼を持ち上げる。

 


「ヨハン様、失礼いたします」



 暗く湿った塔の中に響く細く高い声に、隠密たち以上に酔狂な「魔女」が傍にいたことを思い出し、自然と唇の端が吊り上がる。


 雛鳥のように無垢な魂。いつかヨハンの成す医学が人を救うと正面から信じて疑わない姿は、魔女という名に似つかわしくない。しかし無知ゆえの無垢ではなく、自らも絶えることなく学び、淡い恐怖すら感じるような速度で成長を続ける。この「魔女」の存在は自然とヨハンを奮い立たせる。


  

「入れ」



  短く応えながら、ヨハンは灯りの価値を理解した。屡々頭痛の種にもなるそれは、尚あまりにも離れがたい。

 

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