嘘
本編33話「人のかたち」にてヘカテーとケーター会話中、ケーターが思っていたことです。ちょっと短め。
「仮にそうだとしても関係ありません。これは私がこの人に敬意を払いたくてやっていることです」
魔女の名を貰った少女の返答に、男は息を呑む。解剖に使用した死体の傷を縫いたいと言い出した彼女は、せっかく縫ったところで身元を隠すために再び顔を潰されると告げても、その意志を曲げはしなかった。目的は死体の修復でも、縫合の練習でもない。無駄になると知った上でも尚、縫うこと自体に意味を見出している。成し遂げたところで得るものなどない。解剖された死体が起き上がって礼を言うことはないし、合理主義の権化のような主が褒めるとも思えない。愚かと言うほかない。しかし、真正面から男を見つめる黒玉髄の瞳には虚勢も狂信もなく、代わりにあるのは何かを確信しているような熱だ。
返す言葉が見当たらないまま、男は唸る。その熱には見覚えがあった。自分が全てを捧げてもついていこうとした師と同じものを、師から全てを奪った存在がその瞳に宿している。肌が粟立つ。指先が凍り付く。胸の内に渦巻くものが何なのか判別はつかないが、とにかく何か行動を起こさずにはいられないような……衝動めいたものが男を襲っていた。
全てが必然であった。戦場で死者のために祈る騎士の姿を見て、半ば無理矢理に弟子入りしたことが男の人生に意味を与えた。故にひたすら師を追ってきた。師が不義の子を連れて旅立ってから……望めたはずの騎士の地位を捨て、傭兵に戻り、更には隠密にまで身を落とし、名を奪われ、駄犬と呼ばれながら暴力に惑溺したのは、ただひたすらに師の足跡を追った結果である。そうまでして十年ぶりに会った師を逃がし、裏切り者として塔に捕らわれたのも、師の犠牲の上に生きる意志などなかった証である。したがって、男が師の唯一の汚点である少女とここで対峙しているのは天の采配などではなく、積み上げた事実がもたらした必然にほかならない。
だが、男には眼前の少女が奇跡の賜物のように見えた。
……否、より正確には、奇跡の予兆だ。自らの血についてさえ何も知らされず、凡百の町民として守られて生きてきたはずの少女に、男は運命を切り開き何かを起こす予兆を見たのである。
己の粟立つ肌を宥めるように撫でながら、目を閉じて逡巡する。ヘカテー、お前はそんな名で呼ばれるような存在ではない。お前の父親は闘い天使と見紛うほどの騎士だった。不義の子であろうとその愛は本物だ。世俗の愛ではない、基督が説きたもうた無償の愛がお前を生んだのだ。遜るな、誇れ。
すぐにでもそう告げてしまいそうな唇をなんとか律して、男は再び目を開く。黒玉髄の瞳の熱が消えていないことを確認し、腹を括った。だからこそ失ってはならぬのだ。受け継ぐに相応しいものだったからこそ、血を絶やしてはならぬのだ。
嘘を告げよう。顔を背け、隣に佇む赤毛の仕事仲間を見やる。察した彼が部屋を出るのを見届けてから、男はようやく言葉を返した。
「お前はやはり……父親にそっくりなんだな」
最終的にケーターはヘカテーにとって第二の父親のような存在だったでしょう。でも彼女がそう認識するのは、彼の行動の真実を知ってから。そして彼がヘカテーに対し娘に対するような情を抱くようになったのは、更にその後なんじゃないかと思っていたりします。
あまり掘り下げるのは野暮というものですが……ケーターがヘカテーにアーデルハイトではなくヤタロウの面影のみを見出したことはかなり大きいと思うんですよね。多分彼、この段階では「誰かのために死ぬ」ことはできても「誰かのために生きる」ことができるような人ではなかったと思うので……
なんて、これはあくまで私のヘッドカノンに過ぎません。違う解釈も大歓迎です!




