降誕祭
時系列は本編開始前、何かの作戦で出張中のオイレとシュピネのお話。
紺碧とも灰青ともつかぬどんよりとした曇り空の下、街は煌めいていた。降り積もる雪が光を反射しているのだ。淡いはずの光は妙に目に眩しく、街の輪郭を見せつけるようで、赤毛の男は居心地が悪そうに肩を竦める。仕事ゆえに来ることを拒みはしなかったものの、雪景色すらも厭わしく思える程度には、彼はこの街が嫌いだった。
彼の記憶はこの街から始まる。あれは降誕祭の日だった。荒っぽい声と艶っぽい声の交じり合う安宿で、見たことのないようなご馳走の匂いが鼻を擽る。たまらず一口つまもうとすると、お前のためのものではないと窘められたが、殴られはしなかった。驚きにあたりを見回すと、大人たちは酒の入った赤ら顔で、口々に祝いの言葉を述べている。今日が良い日なのだということは聞かずともわかった。喜んで踊りだすと、見知らぬ女たちが拍手をしてくれる。大きな街で過ごす幸せな日。夜が来てそれが去ってしまわないことを、幼い日の男は願った。ご馳走は結局つまんだ。
しかし夜は来る。不潔なベッドで寝息を立てていると、怒号に叩き起こされた。駆け付けた先には大勢の男たちがいて、何かを取り囲んでいる。犬でもいるのかと近づくとそれは叫び声を上げた。人だ、それもよく知る顔の。当時の彼は目の前で起きていたことの意味を理解していなかったが、嬲り殺されようとしている人物が自分にとって大切な存在であることは理解していた。血塗れの顔が叫んでいたのは、きっと自分の名前だったのだろう。それを見て助けようと駆け寄ったか、見殺しにして逃げたのか……それすらも朧げだが、最も古いこの記憶が暴力を肯定したことは確かだ。あんな優しかった人でさえ殺されたのだから、誰がどんな人間を害そうとも神は許す。それがこの経験から得た結論だった。
その奇妙な神への信頼が、寄る辺なき幼子を生かしたと言える。真っ当な倫理観など持っていては、裏町を渡り歩くことなどできない。その点で、男はこの記憶に感謝もしていたのだが、嫌悪感は別の話で、わざわざこの街に寄ることはなかった。
眩しそうに目を細めたまま、両腕で己を抱く。自分の名前など捨てて久しい。普通の人間ならとうに所帯を持っているような年齢になって、もうこの日にこの街を訪ねても幼い頃の記憶に悩まされることなどさすがにないと思っていた。しかし、仕事と割り切った上で尚、この雪景色はあの絶望的な叫び声を耳に蘇らせる。
「どうしたのよ、思い出にでも浸ってるわけ?」
隣を歩く女が問いかけた。いかにも心配そうに顰められた柳眉と裏腹に、青く澄んだ瞳は獲物を捕らえる蜘蛛の獰猛な集中力を湛えている。赤毛の男は苦笑して腕組みを解いた。作られた表情の奥にあるものに気づけるのは男が素人ではないからだが、それは女の方も同様だ。その獰猛さに気づいたとて……滑らかで熱っぽい白肌や赤い果実を思わせる唇、それらを柔らかく覆う剥き出しの金髪を前に、抗える男はそういないだろう。思わず縋りつきたくなるのを堪えて、男は苦し紛れに道端の雪を踏む。
「うん、思わず浸ってたぁ。ほら、小さい頃よくこうやって遊ばなかった? 踏み固めた道で誰かが滑るのを待ってさぁ」
さくさくと雪を踏みながらとびきりの笑顔を向けるも、返ってきたのは小馬鹿にするような冷たい視線だった。
「……相変わらず誤魔化すの下手ね。それでも本職なのかしら」
「僕の本職は歯抜きだよ?」
「はいはい、そうだったわね」
女はわざとらしく溜息ひとつ。
「あんたが何を本職と考えようと勝手だけど、こっちの仕事に私情をもちこまないでよね」
「大丈夫だよぉ。一応僕、今まで一度も失敗したことないんだから」
「はいはい、あんたの経歴くらい知ってるわよ」
もうひとつ溜息を漏らして歩き始める女の背中に、一段低い声が突き刺さった。
「ふぅん……僕の経歴、ねぇ」
寒気を感じるような声。彼女は足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「どこまで知ってるの?」
そこには先ほどまでと同じ間が抜けたような笑顔があるだけだった。軽く両手を上げて首を傾げる姿は、冗談を言い終えた道化のようでもある。しかし、朗らかな笑顔の奥にどす黒く濁った何かの気配を嗅ぎつけるだけの才覚が女にはあった。立ち止まり見つめあう二人。間を駆け抜ける無数の雪だけが時の経過を表している。
「……仲間になってからのことしか知らないわ。その前のことなんて興味ないわよ」
そして紡ぎだされた言葉に男は満足げに頷き、小走りで追いつくと隣に並んだ。
並んで歩く二人は夫婦でも家族でもない。同じ主に仕える隠密である。こうして親密に肩を並べながらも、互いについての知識にはいっそ潔いほど大きな偏りがあった。
「隠密」としての情報はすべて把握している。例えば行動範囲や技能、だいたいの居所、得意な戦術などは。しかし一方で「個人」としての情報は何も知らないに等しい。趣味や年齢、名前さえもだ。男は梟、女は蜘蛛……主から与えられた、罵るような名前で平然と呼び合っている。
「だいたいね、もしあたしがあんたのこと調べるって段になったら、こんなところで下手な失言するわけないでしょ」
「ごめんごめん」
へらへらと謝って見せるオイレの肩を、シュピネは小突く。それは茶々を入れるような気軽なものではなく、怒りを込めた本気の一撃だった。だがオイレはよろけさえしない。
「あ、そうか……わぁーやられたぁー」
攻撃が本気だったことを察し、わざとらしい演技で肩を押さえるオイレを見て、シュピネは舌打ちして下を向いた。
「馬鹿にしてるの?」
「いやぁ、全く?」
「嘘よ。絶対馬鹿にしてるんだわ」
「してないよぉ」
「ふざけないで」
ふいに、シュピネの声が震える。半分泣いているような声に、オイレは目を見開いて首を傾げた。隠密として諜報を担当する彼女が強い感情を露にすることは稀だ。無論、色仕掛けで他人を操ることが仕事である彼女は、涙を流したり激昂して見せることも多い。しかしそれらはあくまで演技であって、彼女自身の感情ではない。仲間内では小言を言うことも多かったが、じゃれるようなもので、私的な場での涙をオイレは見たことがなかった。
だからこそ、オイレは二重に戸惑った。シュピネの涙声だけでなく、彼女をそこまで揺さぶったものが何かわからなかったのだ。
「ねぇ、ごめんって。馬鹿にしたつもりは本当になかったん……」
二発目の拳が飛んできた。シュピネが問題視しているのはそこではなかったようだ。この拳を避ければさらに事態が悪化することを予見して、オイレは顔の真ん中で受けながら考える。
「……あぁ、そういうこと」
衝撃と共にオイレは答えを得たものの、今度は掛けるべき言葉を見失う。シュピネは多少脅された程度で怖がるような女ではない。オイレが陽気な道化の仮面を脱いで見せたところで、警戒はしてもなくことはない。シュピネが怒り、そして悲しんだのは、オイレから自分のことを調べているのではないかと疑われたためだ。
隠密が隠密を調べる時……それは裏切った隠密を主の命令で葬り去る時に他ならない。悲しんだのは仲間から刺客と疑われたことか。それとも、裏切りを疑われるような覚えがあると表明するような言葉を聞いたからには、それを主に報告しなくてはいけないことか。いずれにしても、たかが仕事仲間に対して心の距離が近すぎる。
「君って本当に優しいよねぇ。この仕事、向いてないんじゃない?」
言うべきことを考える前に、オイレの口から冷え切った声が放たれた。シュピネは顔を伏せたまま答えない。ひゅうひゅうと吹雪く音が先を促すように響く。
「僕はいつでもできてるよ。仲間を殺す覚悟も、仲間に殺される覚悟も」
冷酷ともいえる言葉を突き付けながら、オイレは自分の言葉が自分の心臓に突き刺さるのを感じていた。
「隠密であれば、主の駒に徹する。他の駒を切り捨てることに躊躇すべきではない……そんな初歩的なこと、わからないわけないよねぇ。僕より先輩の君ならさぁ」
ひとつ前の台詞は、半分が嘘だった。頭ではあるべき姿を理解していても、いざ命令が下ったら、目の前の女の喉を切り裂く自信がオイレにはない。これは隠密として多くの仕事をこなしてきた彼にとって初めての過ちと言えた。シュピネに近づきすぎたのだ。家族などいたことはなく、友人も碌に持たず、恋人も常にとっかえひっかえのオイレには、自分がシュピネに向ける感情が何なのかよくわかってはいない。それでも、単なる仕事仲間に向けるべき以上の情が自分の中にあることは疑いようがなかった。それはとても穏やかで、いつの間にかじわじわと広がっていき、気づいたときには致命的なものになっていた。
情が自分の中にだけあるものならば、まだなんとか抑え込めたかもしれないが、シュピネの中にも自分に向けられる情が育っているのを、オイレは知っていた。
だからこそ、ここで自分は悪役になろう。そうオイレは思った。幸いシュピネは賢い。自分との関係が悪くなった程度のこと、仕事ぶりに影響はしない。今嫌われておけば、思い入れによる失敗など未然に防げる。決意をこめて口を開けたその時だった。
「はーい、減点! というかもう失格よ失格!」
シュピネが顔を上げていた。彫像のような美貌には不釣り合いなほど派手な悪い笑みが浮かんでいる。
「へ?」
想定していなかった反応に、オイレは情けない声を漏らす。シュピネはけたけたと声を上げて笑った。その目元に涙の跡はない。呆けた顔のオイレをひとしきり笑ったのち、顔を引き締めると、今度は詰め寄って耳元で囁く。
「あんたね、周りに誰もいなかったからよかったものの、街中で白昼堂々『隠密』なんて単語出してるんじゃないわよ」
彼女の言うとおりだった。仕事内容を悟られないために暗号名で呼び合っているというのに、隠密などという単語を口にしてしまっては台無しである。普段では考えられない失態に、オイレは思いのほか自分が熱くなっていたことを知った。恥ずかしまぎれに髪を?きむしっていると、シュピネはふいに笑顔に戻り、細い指先でオイレの鼻の下を拭う。
「まったく、鼻血まで垂らして。あたしに仕事論語るなんて百年早いわよ、後輩くん」
鼻血の原因は他ならぬシュピネにあるのだが、彼女にとってそんなことは些末な問題であるらしい。指についた血を当たり前のようにオイレの服に擦り付けると、ううん、と大袈裟に腕を伸ばす。
「そういえば今日は降誕祭ね。久しぶりに思いっきり飲みたい気分!」
煌めく二つの蒼玉がオイレに「察しろ」と訴えている。オイレは唇を噛み締め、頭の中で酒代を計算した。
「うん……僕も綺麗なお姉さんに奢りたい気分……」
「お姉さん?」
「あ、いや、年下! 年下の美女!」
「そうよね! よかったわね、こんな側に年下の美女がいて」
「はい……その通りです……」
「歯切れが悪いわね。酒代だけであたしと飲める機会なんて滅多にないのよ?」
「そうですね……」
やりこめられた上に集られながら、オイレはこのやり取りを心地よく思った。
「なぁに、にやにやして」
「別に?」
シュピネが唇を開く度、忌まわしい記憶が少しずつぼやけていく。気遣うことも、憐れむこともない辛辣な言葉が、どんな優しい聖句よりも魂に寄り添うのを感じる。
「降誕祭、好きになれそうな気がするなぁ」
独り言のように呟くオイレを見て、シュピネの頬がふわりと緩む。そしてそのまま、顔に呼吸を感じるほどの距離まで近づいてきた。
「……やっぱり、あんたはその馬鹿面が一番似合うわ」
唇に触れることなく、長い爪はオイレの口角をつついた。きっとこの先も、二人は思いを告げることはなく、互いの名前を知ることすらないのだろう。
……というわけで、あえて脇役二人による1本目。この短編集の性質をご理解いただけたのではないでしょうか。
実はこちらは昨年12月にTwitterで投稿していたエピソードです。コミカライズ連載開始をきっかけに初めて「塔メイの番外編を書いてみようか」と思ったせいか、変に力が入って少々長めになりました。
私としては本編でも彼らの愛情を示していたつもりだったのですが、あまり焦点をあてなかったためか、あるいは想いを明言することがなかったためか(特にオイレ側)、気付かなかったという方もいらしたようですね。
こんな感じで気が向いた時に投稿しますので、よろしければお付き合いいただけましたら幸いです。