第98話 カヤ、金欠の理由
「うっ…………うぅ…………いってらっしゃい…………」
「いい子にしててな、お土産買ってきてやるから」
名残惜しそうに俺の服を掴むリリィの手をそっと外す。リリィはほっぺたを餅のように膨らませて下を向いてしまった。本当にすまん…………。
「ちょっと、私にもだからね!」
部屋を片付けていたカヤが首をぐるんとこちらに向けて唾を飛ばす。
…………どうやら前にやった十万ゼニーは露天でたまたま見かけた『お金が湧き出る壺』とやらの購入資金にそっくり消えたようで(どう考えても騙されている)、金欠状態だったカヤは喜んでリリィの子守を引き受けてくれた。今のところ壺からお金が湧き出てきた実績はないらしいが、最近は出そうな雰囲気があるらしい。出てくれればいいなと思う。
「分かってる。それよりリリィのこと頼んだぞ。あと、壺はもう二度と買うな」
「ヴァイスの話では今日中に帰ってこられるらしい。…………本当に帰ってこられるんだよな?」
「任せとけ。五百キロ程度ものの数秒だ」
「また訳の分からないことを…………別に私は急がなくても…………」
「世間話はこの辺にして、出発しようぜ。リリィ、行ってくるな」
「いってらっしゃい…………はやくかえってきてね」
「ああ、行ってくる」
集合住宅らしい何とも薄いドアを閉め、俺たちはカヤの家を後にした。カヤの家があるこの辺りは高級住宅街ほど治安がいい訳ではないが、事件が当たり前というレベルでもない。リリィを預けても問題はないだろう。そもそもゼニスはここの何倍も危険だった訳だしな。
「ジークリンデ。護衛は問題ないんだよな?」
「心配するな。腕利きを二人配備してある」
「…………それなら大丈夫か」
心配し過ぎだろうか…………リリィと離れるとどうにも心がざわつく。たまらずカヤの家の方を振り返ると、リリィが窓に張り付いてこちらを見下ろしていた。手をあげて応えると、リリィも小さく手を振り返してくれる。
「ふっ、人は変わるものだな」
「あ? 何がだ」
視線を戻すと、ジークリンデは口の端を上げただけの雑な笑顔で俺を見ていた。相変わらず笑顔が下手な奴だ。そんなだから未だにリリィに懐かれてないんだぞ。
「学生時代あんなに尖っていたお前が、親になった途端子供にデレデレとはな」
「別に尖っちゃいなかっただろ。俺といえば愛嬌のある奴だと評判だったはずだがな」
「それはない。お前のことを怖いと言っていた女子生徒は多かったと記憶しているぞ。まあ私が直接言われた訳ではないが…………」
「お前、俺くらいしか話す奴いなかったもんなあ」
「…………必要としていなかっただけだ。私だって社会に出ればそれなりに上手くやっている」
「そうかあ? そうは見えなかったけどな」
コイツの仕事ぶりを見かける機会はちょくちょくあったが、職場の人間関係が上手くいっているようには見えなかった。毎晩仕事が終わるとすぐにうちに来ているし。俺はまともに働いたことがある訳じゃないからこれは想像だが、普通は職場の奴と飲みに行ったりするもんじゃないのか。
「俺が変わったんじゃなくてお前が変わらなさ過ぎなんだよ。あと俺は別にリリィにデレてないからな」
この誤解は確実に解いておかねばならない。俺はリリィが一人でも生きていけるように、厳しく育てると決めているからな。
ジークリンデは話は終わりだとばかりに俺の言葉を一笑に付すと、ところで、と話を変えた。どうして笑ったんだよ、おい。
「移動はどうするつもりなんだ。一瞬で着くなどと訳の分からないことを言っていたが」
「ああ、実はお前に面白い体験をさせてやろうと思ってな。いいからついてこいよ」
「面白い体験? そんなものはいらないんだがな…………分かっているのか、これは仕事────」
「いいから。ほれ、早く行くぞ」
「お、おい…………っ」
俺はジークリンデの手を引っ掴んで引き寄せる。ジークリンデは別に早くつかなくても、やら、旅というのは移動時間を楽しむものだ、などと訳の分からないことを呟いていたが、観念したのかすぐに静かになった。これは旅じゃなく仕事のはずなんだが、意外と魔法省長官補佐というのは緩い役職らしい。
◆
俺たちは商業通りを進み、エスメラルダ先生の店にやってきた。帝都で一番の賑わいを見せるこの通りも休日の朝一はまだ眠りの中にいるようで、まばらに人が歩いているだけ。店もカフェの類しか開いておらず、勿論先生の店にも閉店中の札がかかっていた。
「ここは…………ローブ屋、か……? 閉まっているようだが」
「そうだ。少々いわくつきの店でな、リリィのローブもここで仕立てて貰ったんだ」
「いわくつき…………?」
ジークリンデは訝しげな視線を看板に向ける。長年帝都に住んでいても、流石に全ての店を把握している訳じゃないか。
「まあ、今日は店のことはいいんだ。ちょっと待ってろ」
俺はジークリンデを置いて店の裏側に回る。約束ではここにあるはずなんだが────。
「お、あったあった。忘れられてたらどうしようかと思ったぜ」
店の裏に停められていたそれを押して戻ると、ジークリンデは目を丸くした。学生時代にもジークリンデへの借金を返す為に似たようなのを乗り回していたからな、懐かしさに襲われているのかもしれない。
「懐かしいだろ。だが安心してくれ、速さはあの時とは段違いだ。二時間で目的地まで届けてやる」
改造二輪車をジークリンデの前に停める。てっきり喜んでくれると思っていたんだが、何故かジークリンデは笑っていなかった。