第82話 リリィ、ぽよぽよも飼いたい
ナスターシャ魔法学校1年1組の生徒たちを乗せた大型魔法車の車内は重苦しい雰囲気に包まれていた。この前まで常にお母さんお父さんと一緒に生活していた彼らの殆どは、まだ一度も帝都の外に出たことがない。従って魔物を見た経験が全くなかったからだ。
今、彼らの頭の中にあるのは凶悪なドラゴンや大型の獣と相対する自分の姿。生き残れる可能性は完全にゼロ。沈痛な雰囲気になるのは至極当然と言えた。実際はぴょんぴょん跳ねる小さなスライムがいるだけなのだが。
「うう……おかあさん……」
「ま、まものってあのまものよね……!」
「こわいよぉ…………」
「ぽよぽよ〜、ぽよぽよ〜」
すすり泣きの交じる車内に、軽快な歌声がひとつ。声の主であるリリィは車内の一番前の席に陣取って今か今かと到着を待っていた。まるでピクニックにでもいくかのような気軽さに周りの生徒達はざわつき始めるが、リリィの認識もそれだった。
「リリィちゃん、まものがこわくないの……?」
「あいつ、なんかすごいやつなのか……?」
「そういえば一人だけぼうしかぶってるし……」
「ふんふんふ〜ん」
うきうきのリリィは周囲の噂話に気付かない。リリィの頭の中にあるのは、自宅のリビングでくまたんと遊ぶぽよぽよの姿。どうにかぽよぽよを連れて帰りたいリリィだったが、実はくまたんことエンジェルベアはスライムを捕食しうることを彼女は知らなかった。
(魔物と闘う……どうすればいいのかしら)
レインはそんなリリィの様子を隣で眺めながら、自らの内に生まれる恐怖を押さえつけ、思考を巡らせる。例えどんなに突拍子のない授業であっても、それが授業であるのなら上手くやる。優秀であることを義務付けられたレインに選択肢はないのだった。
(流石に、いきなり魔物の前に放り出されることはないでしょうけれど……)
そう考えるレインの予想は的を射ていた。
あくまで常識の範囲内に限れば。
◆
「よーし、じゃあ各自てきとーに遊んでおいで」
エスメラルダは森に到着すると、程度の良い切り株に腰かけてそう言った。もうすっかり「生徒たちには興味なし」といった様子に、子供たちは狼狽して詰め寄る。
「せんせい! まほうは!?」
「まものとたたかうなんてむりだよ!」
泣きべそをかく子供たちに対しエスメラルダは眉一つ動かさない。
「誰も戦えなんて言ってないよ? 遊んでくればいいのさ。あの子みたいにね」
「あの子?」
エスメラルダが指で示した先では、小さいリリィの背中が森の奥に消えていくところだった。リリィは森に着くや否やスライム探しの旅に駆け出していたのだ。
「ちょっとリリィちゃん!? あぶないわよ!?」
「あいつ、マジかよ……」
「この森には危険な魔物はいないからね。安心して遊んでくるといい。それこそピクニック感覚でね」
実は、エスメラルダは最初から魔法の練習をするつもりなどなかったのだ。子供たちに魔物と触れ合う機会を与えようというそれだけの行動だった。勘違いさせるような言動を取ったのは、元々の性格というほかないが。
ピクニック感覚、という言葉に子供たちはお互い視線を合わせる。
どうする。大丈夫なのかな。行ってみようかな。一緒に行かない?
そんなやり取りを目線だけで交換する。だが、初めて帝都の高い壁の外に出た彼らはなかなか行動に移れない。そんな中、森の奥から楽し気な声がこだまする。
「ぽよぽよだ~! あそぼ~!」
その声が合図だった。子供たちは誰からともなくじりじりと足を動かすと、少しずつ森の奥に足を踏み入れていく。
…………楽し気な声がそこら中から聞こえてくるのにそう時間は掛からなかった。子供たちは色とりどりのスライムを見つけると、追いかけたり、逆に追いかけられたりしながら笑顔をこぼす。魔法がどうとか、そういったことは全く頭の中から抜け落ちていた。
(やっぱりいいもんだねえ、子供ってのは。心が真っ白で)
エスメラルダは目を細めて、ぼんやりと森の奥に視線をやった。
エスメラルダは魔物を外敵ではなく、共生する存在と考えている。子供たちには魔法を覚えるより先に、魔物という存在を近くに感じて欲しかった。そして、その上で「生きるためには魔物を殺さなければならない」ことを教えるつもりだった。魔物を一方的に敵と見なして、何の罪悪感も無しに攻撃することは正しい精神の在り方ではない。そういうことをエスメラルダは伝えたいのだ。
(…………あいつは、そういうことをちゃんと教えているのかねえ)
エスメラルダの頭の中にあるのは、最近ひょんなことから親になったとある男のことだった。自称スパルタのその男は見かけによらず娘を溺愛している為、娘は魔物を攻撃するなんてもっての外という性格に育っていることを、エスメラルダはまだ知らない。