第75話 ジークリンデ、駆け出す
私は焦っていた。
折角ヴァイスに誘って貰えたというのに、気の利いたことを全く出来ていない。どうして私は恋愛事になると、こうも不器用になってしまうんだ。これではヴァイスと恋人になるなど夢のまた夢ではないか。
それに…………ヴァイスもヴァイスだ。
私とヴァイスが…………ふ、夫婦……だなどと。訳の分からないことを言って私をかき乱してくる。夫婦の意味を分かって言ってるのか、アイツは。
確かに私は入学式にてリリィの母親役を務めることに成功した。傍から見れば私とヴァイスは夫婦ということになるんだろう。しかし現実は悲しいくらいに異なっていて、私はただあの日限定の仮初の母親に過ぎなかった。リリィだって私のことを母親だなどとは全く思っていないだろう。何度も顔を合わせているというのに、依然として私とリリィの間には、家族と呼ぶには程遠い遠慮が横たわっている。
そもそもだ。
夫婦というのは…………あ、愛し合っているものだ。街を巡回している時によく目にする、手を繋いで歩いている男女。ああいうのが本当の夫婦というものだろう。
残念ながら私達の手のひらは一切交わる気配がない。私とヴァイスが真に夫婦でないことは明らかだった。
「…………」
ヴァイスは私のことをどう思っているんだろうか。
私がヴァイスを想っているように、ヴァイスも私のことを想ってくれているんだろうか。
…………嫌われてはいないはずだ。ヴァイスとはもう十年以上の付き合いになる。流石に嫌いな相手とそう長い間、関係は持たないだろう。母親役を頼むことも、成り行きとはいえ夫婦と紹介することもないはずだ。そこは安心していい気がする。
だが…………好きかといわれると。
正直な所、そんな雰囲気は一切感じられないのだった。今だって、私ばかりドキドキするだけで、ヴァイスは涼しい顔をしている。恐らくデートという言葉にも深い意味などないのだろう。コイツは昔からそういう奴なんだ。いつも思わせぶりな態度で私を惑わしてくる。
何も言わず十年間も姿を消したことだってそうだ。私のことが好きだというのなら一言くらいあってもいいだろう。ついてこいと言われたら、ついていったというのに。今でこそ冷静に振り返られるが……あの時の絶望と言ったらなかったぞ。
こうして改めて考えると、考えれば考えるほど……ヴァイスが私を好きだという未来はなさそうなのだ。
だが…………
『…………絶対可愛いよなあ』
あの書店で言われた言葉。ヴァイスは覚えてなどいないだろうが、私はずっと覚えている。
ヴァイスは昔から私のことを可愛いと言ってくれた。他の誰にもそんなことを言われたことはない。
ヴァイスだけだ、そんな奴は。
無論、半分以上は冗談だと思っていたが、それでも好きな人にそう言われるのは嬉しかった。今でも思い出すと胸が高鳴るほどだ。
「…………はあ」
結局────ヴァイスは私のことをどう思っているんだろうか。
誰か教えてくれないか。
◆
「きゃあああああああ!!!」
────治安の良い商業通りには余りにも異質な、悲痛な叫び声が響いた。
「何だ!?」
叫び声に反応して、ジークリンデが声の方へ駆け出す。
「────ッ、ジークリンデ!」
数瞬遅れて俺はジークリンデの後を追った。一歩目の差は、帝都を思う心の差か。ジークリンデは既に大通りから折れて、叫び声の元と思しき小さな路地に入っていく所だった。路地の入り口付近には既に野次馬が集まりだしていて、俺とジークリンデの間を塞ぐ。
「頼む、どいてくれ!」
平和ボケした帝都の住人にとっては、近くで聞こえた叫び声も自分とは関係ない物語の中の出来事だ。群衆たちは薄暗い路地の奥に興味津々で、誰も俺の声など耳に入っていない。どうしてわざわざ自分から危険に近付くような行動を取るのか、全く理解が出来ない。
「────ッ!」
俺は魔法で身体能力を強化し、力の限り跳躍する。
『身体能力強化』は秘匿すべきとある属性の魔法だが、人目を気にしている場合じゃない。そのまま路地を形成する建物の屋根に着地し、上からジークリンデを探すことにした。
が、野次馬に足止めされていた間にジークリンデの背中は見えなくなっていた。
…………どこまで行ったんだよアイツは!
「頼むから一人で突っ走るなよ……!」
アイツの実技の成績を考えれば、どれだけ心配しても心配しすぎということはない。
俺は屋根を蹴り殺す勢いでジークリンデの後を追った。