第56話 ヴァイス、容赦しない
「ふざけるなッ…………! 『人間』なんかに…………私の魔法が防がれてたまるかッ!!」
一つ、二つ、三つ…………そこからは数えるのを止めた。まるで主を守るように、或いは主が自らを隠すように、大小さまざまな魔法陣がラヴィメリアの周りに現れる。王族である事を示す魔法陣で周囲を埋め尽くすラヴィメリアは、さながらエルフの兵士に守られる将軍のようでもあった。
俺は以前同じ文様を持つエルフを助けた事があるんだが…………まさか同じ王族でもここまで性格が違うとはな。まあ、エルフによって性格が違うのは当たり前か。人間にも下らない王族が山ほどいるからな。血は人格を担保しないという事だろう。
「死ねぇええええええっ!!!!」
そこから放たれるのは、槍────ではなかった。
炎の身体を持つ、鋭利な刃物が付いた鎖。無数に展開された鋭利な触手が、俺を目掛けて空間を蹂躙していく。
「ぱぱっ!」
心配そうなリリィの声が既に屋内と呼べそうにない室内にこだまする。
ラヴィメリアの魔法は、既に俺を決死領域に引きずり込みつつあった。四方八方に散らばった無数の刃物は、さながら猛禽の爪。
ラヴィメリアの怒りの結晶が、獲物を刺し穿たんと今まさにその刀身を神速に預けた。ゆらんゆらんと揺蕩っていた鎖の部分が蜘蛛の糸のように後を引く。中心にいた俺は、その様子が何故かスローモーションに見えた。
「────大丈夫だ、リリィ」
…………槍が刃になったところで結果は変わらない。ラヴィメリアの魔法は、俺の皮膚を裂くすんでの所で音も無く消え去った。『対消滅』は高度な戦闘技術だが、身に着けてしまえばこれほど万能で強力なものはないんだ。
「なッ、なんなんだお前はッ!? どうして私の魔法が消えるんだッ!」
自分の魔法が俺に全く通用しない事を悟ったラヴィメリアが叫ぶ。その表情には先程までの怒りではなく、恐怖や怯えが顔をのぞかせていた。王族の魔法が強力である事を差し置いても、ラヴィメリアは相当な使い手だ。魔法戦でここまで手も足も出ないなんて、こんな経験は今までないだろうな。
「うっ…………」
俺が一歩前に踏み進める度、ラヴィメリアは同じだけ後退していく。けれど無限に下がれる訳も無く、やがてラヴィメリアは部屋の壁に背中を付けた。俺はお構いなしに距離を詰めていく。
いつの間にか俺と彼女の距離は、その細くて白い首を掴んで、壁に押し付けられるまでに縮まっていた。
「グッ…………がハッ…………」
ラヴィメリアの顔が苦悶に歪む。
世の中には整った顔立ちのエルフが苦しむ事に快感を覚える奴がいるらしいが、残念ながら俺にそんな趣味はなかった。けれど逆に、それを可哀想だと思うまともさも持ち合わせていなかった。俺は善人ではないからだ。
唯一気になっていたのは、これから起こる事がリリィの教育に悪いという点だが…………リリィの場所からは俺の背中しか見えない。終わった後は、気を失っているとでも適当に誤魔化してしまえばいい。先に殺されかけたのはこちらなのだから、アンヘイムの法律的にもきっと大丈夫だろう。躊躇う理由は無いように思えた。
────こいつを今ここで、殺してしまう事に。
俺の心は今、不思議なほど殺人のハードルが低かった。酒場でチンピラ共に感じた躊躇いは一体何だったんだろうか。
もしかするとこれは、リリィを危険に晒してしまった自分の情けなさを払拭しよう、という浅ましい心のメカニズムなのかもしれない。ラヴィメリアの命を奪った所で、俺が父親失格だという事が覆るはずもないのにな。
「…………」
俺は右手に力を籠める。ラヴィメリアは必死にこちらを睨みながらも、その薄紫の瞳から涙を溢れさせた。さっきまでギリギリ地面についていたお洒落なブーツのつま先が、今は完全に宙に浮いている。顔が赤くなっているのは極度の興奮と酸素欠乏によるものだろう。両手で俺の腕を掴んでいるが、エルフの女性の筋力ではどうする事も出来ない。
彼女は一体今何に泣いているんだろうか。苦痛か、それとも悔しさか。どちらだとしても俺には関係ない。
「がッ…………お…………お姉、ちゃ……は…………」
それはもう殆ど嗚咽だった。目と鼻と口から醜く体液を垂れ流した彼女が最後に何を言うのか気になった俺は、ほんの少しだけ時間を与える事にした。
「本当……にッ…………好き、だったん、だ…………」
ラヴィメリアは自分がそろそろ死ぬ事を理解しているだろう。それなのに、その瞳は視線だけで俺への殺意を伝えてくる。彼女は最後の意思で、俺を睨む事を選択したのだ。その点だけは好感が持てた。俺の経験上、生き物というのは死の間際が最も醜いからだ。
「それ、な、のに…………人げッ、は────ぁ」
最後に気の抜けるような声を漏らして、ラヴィメリアは白目を剥いて失神した。俺の腕を掴んでいた両手がだらん、と宙に垂れる。果たして彼女が最後に何を言いたかったのか、それはもう分からない。
首から手を離すと、ラヴィメリアは糸の切れた人形のようにずるずると壁を滑り落ちる。
エルフの王族の魔法には確か自動で発動する魔法障壁があったはずで、きっと彼女もそれを身に纏っているはずだが、気絶した今となってはそれを意味を成さない。自動というのはあくまで本人に意識があった時の話だ。
俺はラヴィメリアに手を翳した。魔法陣を生成しながら────最後にもう一度考える。果たして彼女の命を奪うべきか。
「…………」
魔法陣が俺の魔力に反応して淡く光り出す。泣き腫らしたリリィの顔を思い浮かべれば、答えは考えるまでもなかった。
「────あの」
背後への接近に気が付かなかったのは────珍しく人殺しに意味など求めていたからだろう。
「ラヴィメリア様を許して頂けないでしょうか。代わりに私の命を差しあげますから」