第55話 ヴァイス、父親として
「────ぱぱっおきてっ!!」
「リリィ…………?」
突然の大声に意識が覚醒する。目を覚ますと、リリィの可愛らしい笑顔が視界いっぱいに広がっていた。常々思っているんだが、娘に起こされるというのはこの世に存在する起こされ方の中で最も幸せなものの一つじゃないだろうか。俺はなんて幸せ者────
「…………ッ!?」
────あまりの床の硬さに我に返る。
俺が無様にも大の字で転がっているのはベッドではなく床で、俺は寝ていた訳じゃなく帽子職人に不覚をとって気絶させられたんだった。よく見ればリリィは笑顔などではなく、その大きな瞳の下には涙のつたった跡がはっきりと残っていた。
「怪我してないか!?」
慌てて身体を起こしリリィを抱き締める。リリィは俺の胸の中で小さく震えだした。
「うっ、ぐずっ…………ぱぱぁ…………」
「ごめん…………ごめんなリリィ…………」
リリィの小さい身体を抱き締めながら、心の中には強烈な後悔が押し寄せる。
エスメラルダ先生に「リリィの魔力が出ないのはお前のせいだ」と言われたあの時。
「魔力が出た」と喜ぶリリィを抱き締めながら、俺は一体何を決意したんだ。
────もう二度と娘を泣かせはしないと、誓ったのではなかったか。
「ぐずっ…………ぱぱっ…………だいじょーぶ…………?」
リリィが涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺の表情を覗き込んでくる。
「…………大丈夫。ありがとうなリリィ」
声が震えそうで、つい言葉が短くなってしまう。
情けなくて涙が出そうだった。ただただ悔しかった。
…………リリィは自分も不安でいっぱいに違いないのに、それを我慢して俺の心配をしているのだ。震える身体を必死に抑えつけて、自分は何ともないよと強がって、俺を安心させようとしているのだ。
娘にそんな事をさせてしまう親が果たしているだろうか。いる訳が無い。父親に対してそんな事を思った事は、記憶遡るまでもなく一度もない。
どうして俺はリリィに────大切な娘に、こんな顔をさせてしまってるんだ。
噛み締めた奥歯が悲鳴をあげる。今すぐ自分をどうにかしてしまいたい。けれど今自分がすべきことはそんな下らない自傷行為ではない事くらいは、父親失格の俺にも辛うじて分かるのだった。
「…………」
顔を上げると、ボロボロになった店の中で立ち尽くすラヴィメリアの姿があった。顔には驚きの感情が張り付いている。こちらを向いてはいるが、俺達を見ているのかは分からない。
身体を確かめながら立ち上がる。咄嗟に障壁で防いだ事が幸いしたのか、どうやら大きなダメージは無いようだ。いくらラヴィメリアの魔力が相当なものだとはいえ、気絶してしまったのは本当に不覚と言わざるを得ない。
ラヴィメリアの魔法陣が昔エルフの国で見たとある人物のものに似ていた気がして、それに一瞬気を取られてしまったのだ。魔法の対応が遅れるくらい呆けてしまったのは、それが決して似るはずのない人物のものだったからだ。
「…………リリィ、少しの間だけ待っててくれるか?」
足にしがみついているリリィが、不安そうに俺を見上げる。目を合わせて頷いて見せると、ごしごしと涙を拭って名残惜しそうに手を放してくれた。
今度は絶対その信頼を裏切ったりしない。
父親というものは、娘が見ている前では絶対に負けない生き物だから。
◆
「…………私は認めない…………人間がエルフを育てるなんて…………」
ラヴィメリアは虚ろな目で俺を捉えた。どうやらあのドアには特殊な加護が施されていたらしく、それを突破されたショックから抜け出せていないようで、すんなりと俺の接近を許してしまっている。
ドアの逆サイドまでぶち抜かれた部屋の惨状を見れば、リリィが一体どれだけの魔法を行使したのか想像がつく。リリィの潜在能力を知っている俺ですら、まだ目の前の出来事を信じられないくらいだった。
「お前に認められる必要はない。リリィの父親になると俺が決めたんだ」
きっと俺を見てくれているだろうリリィの存在を背後に感じる。
俺が守らなければいけない存在。守りたいと思った存在。
その思いが今、俺を強くする。
「わッ、私に近付くな!」
数メートルの距離まで近付いたところで、ラヴィメリアが叫びながら魔法陣を展開する。彼女が展開した魔法陣にはやはり見覚えのある文様が刻まれていた。
いくら不意を突かれたとはいえ、俺は並の魔法で気を失うほどやわな鍛え方をしていない自信があった。あの時は簡易的とはいえ防壁も張っていたんだ。それを貫通して俺を吹き飛ばすほどの魔法を行使出来るのは、彼女の出自による所が大きいんだろう。
…………エルフの国の王族にのみ受け継がれている文様を持つエルフが、何故アンヘイムで帽子職人をやっているのか。普段なら気になるところだが、今だけはどうでもよかった。
深紅の魔法陣が、彼女の魔力を受けて輝きだす。改めて見ても彼女の魔力は相当なものだった。それに耐えられるあの魔法陣もだ。果たして彼女に勝てる人間が帝都やゼニスに何人いるだろうか。想像してみたが、パッと思いついたのはホロだけだった。あいつの纏うオーラや咄嗟の身のこなしはその実力を雄弁に語っていた。ゼニスでもトップクラスの実力の持ち主だろう。
「認めない認めない認めないッ! お姉ちゃんを傷付けた『人間』なんか────私は絶対に認めないんだからッ!!」
魔法陣が一際強い光を放つ。
現れたのは彼女の感情を象ったような鋭い炎の槍。その穂先を一直線に俺に向けると、憎悪の槍は風切り音を置き去りにして空間を疾駆する。下手に距離を縮めてしまった今、状況は絶望的と言えた。
────避ける必要があれば、の話だが。
「え…………?」
ラヴィメリアの放った渾身の炎槍は────俺に触れるや否や煙のように立ち消える。信じられない、というようにラヴィメリアが声を漏らした。
────同質、同量、逆位相の魔力をぶつける事で魔法を消滅させるこの『対消滅』という技術は、高度な魔法の理解を必要とする。戦闘中にそれを行わんと願うなら、さらに思考の瞬発力も必要になる。相手の魔法を初見で完全に理解する事はまだ俺には出来ないが、今回は既に一度ラヴィメリアの魔法をその身に受けている。分析するには十分な体験だった。
つまるところ────
「────お前の攻撃はもう俺には届かない。一度目で俺を殺さなかった事がお前の敗因だ」