第50話 爺、なんか強そう
謎の爺はカウンターまで歩いてくると、飛び乗るように椅子に座った。腰なんてもう直角に曲がっているのに、器用というか身軽というか。
「爺さん、今この店がアンタの物だと言ってた気がするが」
爺は俺にちら、と視線を向けると小さく頷いた。顎に蓄えた大量の髭がふわんと揺れる。
「左様…………フウカちゃん、いつもの頼めるかの」
「あっ、はい! 只今!」
フウカは突然のこの状況に取り残されているようで、言われるがままに酒を準備し始めた。手順が身体に染み付いているんだろう、おっとりとした雰囲気とは裏腹にその手際はスマートで様になっていた。
「ど、どうぞ」
「ありがとうのう」
爺はグラスに口をつけると、どこがどうなっているのか分からない皺だらけの顔を更にしわくちゃにした。喜んでいるのか…………?
「フウカちゃん、お酒作るの上手くなったのう。もうあやつと変わらんわい」
「私なんてまだまだで…………でも、ありがとうございます」
フウカは照れ臭そうに軽く頭を下げた。
「…………」
部外者の俺は黙っていた方がいいような気もするが、乗りかかった船でもある。掘り下げたい気持ちもあった。
「爺さん、さっきの話なんだが」
「フォフォ…………焦りなさるな、若いお人。分かっておるわい」
見ればフウカもそわそわしていた。しかし爺は俺とフウカのそんな態度など全く気にならないのか、ゆっくりと長い時間をかけてグラスを空にした。
「ふう…………この店の話じゃったな。フウカちゃんが見たという名前はワシのもので間違いないじゃろう」
「そうなん、ですか…………あの、えっと…………」
フウカはうまく言葉を紡げないでいる。
そもそもフウカは権利書の人物に今の状態を知られることを恐れていた。それが実は店の常連だったと知って、内心あたふたしているはずだ。
よく観察すればこの爺から敵意は感じられないんだが…………今のフウカは冷静さを欠いている。
「爺さんとフウカの父親はどういう関係なんだ?」
エルフの年齢は見かけでは分からない。
フウカがもし人間なら俺と同じくらいにしか見えないだろうが、エルフの年齢マイスターの俺の判断では、俺よりも遥かに年上だろう。フウカの父親もそれなりに歳を取っているはずだが、流石に目の前の爺は更に一回り年齢を重ねているはず。
となると考えられるのは、仕事の上司部下や師匠弟子のような関係。それか、この爺が土地や店の貸し付けをやっている金持ちって所か。
「…………あやつはワシの一番の弟子じゃった。あやつの魔法はその殆どがワシが教えたものじゃ」
「なるほどな」
予想通りの回答に、俺は大体のあらましを想像で補完することが出来た。
「事情は大体分かったが、爺さんはフウカの父親に何があったか知らないのか? 急にいなくなったらしいが」
「分からん…………じゃが、あやつが誰かにどうこうされるとも思えん。あやつはワシの自慢の弟子じゃからな」
「そうか…………なら、どこに行っちまったんだろうな」
「急に魔法使いを辞めて酒場のマスターになると言い出す男じゃ。またどこかで好き勝手やっているんじゃとは思うがの」
「随分テキトーな奴だったんだな」
俺に言われたくはないと思うが。
「あの…………私は、このお店は、どうなるんでしょうか…………?」
フウカが小さく手を挙げて会話に入ってくる。
爺はその皺だらけの顔の奥に僅かに光る瞳で、フウカをじっと見つめる。
「…………フウカちゃんはこの店を続けたいのかの? 最近は悲惨な状況じゃったが」
「…………はい。辞めたいって思う事もありましたけど、やっぱり私、続けたいです」
真剣な表情のフウカと、表情の分からない爺がしばし見つめ合う。
数瞬続いた沈黙の後────爺の高らかな笑い声が酒場に響いた。
「フォフォフォ! それは助かるのう。なら権利書は今この瞬間からフウカちゃんの物じゃ。煮るなり焼くなり、好きにして構わんぞい」
「えっ、でも…………」
「ええんじゃよ。元々返してもらう気は無かったからのォ。店を閉めたいというのなら話は別じゃったが。お代はそうじゃな…………今日のお酒をタダにでもしてくれれば十分じゃ」
爺はそう言うと、グラスを持ち上げてお代わりを要求した。フウカは戸惑いながらも、充実した表情で新しいグラスを爺の前に差し出した。
これにて一件落着と言いたいところだが…………俺は頭に浮かんだ一つの疑問を爺にぶつける事にした。
「爺さんが助けてやればよかったんじゃないのか? アンタにならそれが出来るはずだ」
爺から感じる魔力は相当の物だった。さっきの奴らを撃退する事など造作もないはず。
ゼニス暮らしが長かった俺にはその考えはしっくりこないが、帝都やアンヘイムでは義理や人情で他人を助けるのが一般的なのは理解している。
しかし爺は、温かみにあふれた俺の言葉を一笑に付した。
「ワシが撃退してどうなる? 厳しい事を言うようじゃが、あれくらい一人で何とか出来るようにならねば酒場のマスターは務まらんとワシは考えておる。ああいう輩は酒場には付き物じゃからな。無論、本当に危ない時は助けるつもりじゃったが」
爺の言い分はぐうの音も出ないほど正しかった。俺の考え方とも一致する。
爺だっていつも店にいる訳にもいかないだろうし、いつまでも生きている訳でもない。
ある程度の事は自分で何とか出来るようにならないと、いつの日か困るのはフウカ自身だ。
爺は今回の件をどう対応するかで、フウカを試したんだろう。
「…………結局、ヴァイスさんに助けて貰っちゃいましたけどね…………」
悲しそうに肩を落とすフウカ。けれど爺は首を横に振った。
「それもフウカちゃんの力じゃ。足りない部分は他人を頼ればよい」
俺の考えとは少し違うが、それが世界のスタンダードだろう。フウカも納得した様子で、しっかりと頷いた。
「お爺さん、本当にありがとうございます。ヴァイスさんも。ヴァイスさんが居なかったら、私、まだ真っ暗な闇の中にいました」
フウカが今日一番の笑顔で俺に微笑む。
フウカに荒くれ者を撃退する力はないし、店だってボロボロだ。
まだまだ問題ばかりではあるんだろうが────フウカは、そしてこの店は、今やっと前に進み始めたんだろう。空気が弛緩し始めたのを察知したのかリリィが大きくあくびをする。いつもならそろそろお昼寝の時間だった。
「別に大した仕事でも無かったからな。こっちこそ声をかけてくれて助かった。アンヘイムには来たばかりで右も左も分からない所だったんだ」
「そういえば、ヴァイスさんって人間ですよね。私、人間の方と話すの初めてかもしれません。アンヘイムに引っ越してきたんですか?」
フウカからいいパスが飛んできた。ゴールの見込みは薄いがシュートしない手はない。
「いや、リリィの帽子を探しに帝都から来たんだ。アンヘイムに凄腕の帽子職人がいると聞いてな」
言いながらリリィの頭を撫でると、夢の世界に旅立ちかけていたリリィが、ん~と唸った。
「そうなんですね。帽子職人ですか…………私は聞いた事ないんですけど、お爺さん何か知っていますか?」
俺たちは爺に視線を向けた。しわくちゃでも分かるくらい、爺は難しい顔をしていた。
「…………知っておる。知っておるが…………若いお人、お前さんでは絶対相手にされんぞ」