第106話 ヴァイス、吹き出す
ジークリンデの要望通り、俺たちはゆっくりとしたペースで帰路についていた。行きの半分ほどのスピードしか出ておらず、このままでは帝都に着く頃にはすっかり夜だ。リリィの為にも早く帰ってやりたい気持ちはあったが…………もう少しジークリンデと二人でいるのも悪くない気もした。
「…………」
ジークリンデはさっきから一言も喋らない。何か言いたそうな雰囲気こそ感じるものの…………一体何を躊躇しているのやら。
「…………むぅ」
長い沈黙を破ったのは、ジークリンデのそんな呟きだった。聞き流すのも退屈なので拾ってみる。
「何だって?」
「…………何でもない。自らの不器用さに辟易としているだけだ」
「今更か。もうすっかり受け入れてるもんだと思ってたが」
こいつの性格は筋金入りだ。少なくとも、出会った時には既に今の性格だった。
「受け入れられるものか。私だって好きでこんな性格をしている訳じゃない。お前みたいなのを羨ましく思ったりもする時もあるんだ」
「どういう意味だそれ。俺が軽い性格だとでも言いたいのか?」
「そうだろう。学生時代だって、女子から随分人気があったじゃないか。あの手この手で誘惑していたと聞いているぞ」
「してねえよ! つか、絶対嘘だろそれ。聞いている、ってお前学校じゃ誰とも話してなかっただろうが」
「話す必要がなかっただけだ。勉強は一人でも出来るからな」
「…………とにかくお前があの頃から全く変わってないことだけは分かった」
コミュニケーションは必要か不必要でくくるような行為ではない。リリィだって知ってることだ。
「…………確かに私は不器用だろう。可愛げもない女だ。一緒にいても面白くないのは分かる」
ジークリンデはこの世に存在するあらゆる言葉で自分を卑下し始めた。止めようとも思ったが、この後の論理展開が気になった俺はスルーしてみることにした。声色的にそこまでネガティブな話でもなさそうだしな。
「…………そんな私だが、このままではいけないという思いもある────という訳でだ」
「という訳で?」
「…………練習…………に付き合って欲しい……と思う」
「練習? 何のだ?」
「それはお前っ…………その…………あれだ。男女の…………そういう奴だ」
「男女のそういう奴? そういう奴ってのはつまり…………そういう奴ってことか?」
「…………そうだ。そのそういう奴だ」
「…………ほお」
ジークリンデの口からまさかそんな言葉が出てくるとは。流石にかなり驚いた。
「いやほらっ、丁度私達は夫婦ということになっているだろう! 疑われない為にも極力本当の夫婦のような空気を作る練習はしておいた方がいいと思ってな! 別に私がそうしたいとかっ、そういう訳ではないからな!」
「まあそれはそうだろうが…………」
ジークリンデにそういう恋愛感情があるようには思えない。ラブロマンスがしてみたい、という欲求があるような奴はコミュニケーションを必要か不必要かで考えないだろう。
「だが…………いいのか? 俺が相手で」
「それは…………仕方ないだろう。こうなってはお前しかいない。私はお前の…………妻、ということになっているんだからな」
「それもそうか…………」
俺の妻として魔法学校の入学式に参加してしまったジークリンデには、もう選択肢が残されていなかった。もしかすると悪いことをしてしまったか…………?
「まとめると────お前は愛嬌のある性格になりたい。そしてその練習として、俺と本当の夫婦のようなやり取りをしてみたい。それであってるか?」
「…………その通りだ。済まないが頼まれてくれると嬉しい」
「別に構わないが…………夫婦らしいやり取りねえ」
正直、そんなものは俺も分からない。だが、とりあえず今のジークリンデに決定的に足りてないものなら知っていた。
「ジークリンデ。お前はまず笑顔を練習しろ」
「笑顔…………?」
「そうだ。お前とは長い付き合いだが、お前の笑顔を見た記憶がない。コミュニケーションには笑顔が不可欠なんだよ」
実は俺が見てみたいだけ、というのは伏せておく。間違ったことは言っていないはずだしな。
「…………実は私も笑顔は必要だと考えていた。最近は部屋の鏡の前で練習したりもしているんだ」
「そんなことしてたのか…………」
静まり返った部屋の中で、一人笑顔の練習をするジークリンデ…………ちょっとしたホラーだな。
「で、その練習の成果はどうなんだ?」
「一応、自分なりの笑顔はマスターしたつもりだ。まだ誰にも見せたことはないがな」
「ほう…………」
俺は二輪車への魔力供給を止めた。二輪車は徐々に減速し、荒野のど真ん中で完全に停止する。俺は荒野に降り立つと、ジークリンデに視線を向ける。いつも通りの真顔がそこにあった。
「よし、お前なりの笑顔を俺に見せてくれ」
「きゅ、急に言われてもだな…………ちょっと待ってろ」
ジークリンデはそう言うと、両手で顔を覆い隠し揉みほぐし始めた。笑顔とはストレッチが必要な程の運動だったのか。知らなかった。
「…………笑うなよ」
十秒ほどのストレッチを終え、ジークリンデは顔を覆い隠したまま言う。
「笑わねえよ」
「よし…………じゃあ…………やるぞ」
「…………ごくり」
────ジークリンデが、ゆっくりと手を外していく。
蕾が開いてやがて花になるように、細い指の下にはコイツなりの笑顔が花を咲かせていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙だけが、この広い荒野を支配していた。俺はもう一度しっかりとジークリンデの笑顔を瞳に焼き付けると、二輪車に乗り込み、ゆっくりとアクセルを回す。二輪車はスピードを上げ、砂利道を走る音だけが茜空に溶けて消えていく。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ぷっ」
「あ、おい! 今笑っただろ! 笑うなと言ったよな!!!」
「ぷっ…………くくくっ…………す、すまん笑うつもりは…………ぷぷっ……!」
「くそっ、だから見せるの嫌だったんだ! とんだ恥をかかされたぞ!」
「叩くな叩くなっ、落ちるからちゃんと捕まっててくれって」
ジークリンデが片手を離し、俺の背中を叩く。相当恥ずかしかったんだろう、割と洒落にならない威力だった。
「…………くそ。やらなきゃよかった」
お腹に戻ってきた手が、ぎゅう、と強く締め付けてくる。その後、小さな衝撃が背中を打った。意気消沈したジークリンデは俺の背中に額をつけ、項垂れているようだった。
「まあそう凹むなって。今度から俺も練習に付き合ってやるから」
「いらん。次にお前に見せるのは完璧にマスターした時だ」
「そうか────なら楽しみにしとく」
ジークリンデがしっかり捕まっていることを確認し、アクセルを思いっきり開ける。景色がどんどん後ろに流れていき、現実味が薄れていく。そんな中でジークリンデの体温だけが確かに感じられた。
「…………」
この状況は中々に夫婦らしいんじゃないか────そう思ったが、言わないことにした。下手に刺激して手を離されては困るからな。