第104話 ヴァイス、怒る
殺し屋『ブラック・レイン』は、仕事に一つのこだわりがあった。
ターゲットの殺害方法を必ず『酒瓶での頭部撲殺』にするというその奇妙なこだわりは、彼の人生を変えた一つの出来事にそのルーツがあり、『ブラック・レイン』という格好つけたような二つ名は彼が初めて殺しに使用した酒瓶の名前だった。
彼は魔法省のとある人物から依頼を受け、帝都から遠く離れた採掘地帯に足を運んだ。遠い視線の先では、ターゲットの女性とその護衛と思しき男が洞窟に入っていくのが見える。彼は小さく口の端を吊り上げ、整った顔を僅かに歪ませた。前情報では護衛は十人と聞いていたが…………今回は簡単な仕事になりそうだ。
彼はターゲットから少し遅れて洞窟に足を踏み入れた。魔法が使えない彼は、発光する魔石を頼りに洞窟の奥へと進んでいく。事前に地図を渡されていたし、ターゲットは目印代わりに発光する小さな魔石を落として歩いていたので追跡は容易だった。あとはいつ仕掛けるかだけが問題だったが────それも解消された。
(…………分かれ道)
彼の前に二つの小道が現れた。そしてそのうちの片方に、光る魔石が続いていた。
『ブラック・レイン』は背負っていた鞄から酒瓶と昏倒効果のある薬品を取り出し、光る道に足を向けた。
「…………お母さん。また一人、そっちに送ってあげるから。だから────もう泣かないでね」
◆
『ブラック・レイン』は予定通りターゲットの女性を昏倒させることに成功した。彼は少し先が行き止まりになっていることに気が付くと、ターゲットを背負って移動することにした。小道の終わりは広場のようになっていて、赤く光る大きなクリスタルが岩肌から顔を覗かせていた。
彼はターゲットを地面に寝かせると、酒瓶をしっかりと握りしめた。それは彼が初めて人を殺した時と同じ状況だった。彼は人を殺す時、必ずこのシチュエーションを作るようにしていた。
あの時と同じように彼の心は異様な昂りに包まれ始め、瓶を握る手はまるで薬物中毒者のように震えだす。人を殺す時は、いつもこうだった。
「お前さえいなければ…………!」
今、彼の精神は母が亡くなった七歳のあの時に戻っていた。そして、目の前に横たわる女性は憎きあの男に映っていた。
ザリ、と砂を擦る音が広場にこだまする。彼は一歩踏み出し、眼の前で横たわる母の仇の側に膝をついた。あとはあの時のように手を振り下ろすだけ。それで、僕は幸せになれる。
「────、──」
何かを呟いて、彼は思い切り右手を振り下ろした。
ビュン、と風を切る音が彼の耳に届き、次に聞こえたのは────瓶が割れ、頭蓋骨が砕ける、あの大好きな音。
…………ではなく、自らの右腕が爆散し吹き飛ぶ激痛だった。
◆
「何だお前。いや、いい。お前は何も言わなくていい。お前が一体誰なのか、何故ここにいるのか────聞きたいことは山程あるが、それ以上に俺は今────」
沸き立つ怒りを押さえながらジークリンデの様子を確認する。詳しく確認しなければ正確なところは分からないが、とにかく生きてはいるようだ。
視線を戻す。目の前の男は既に虫の息だった。寧ろ、右手の手首から先を飛ばされてまだ息があることを褒めてやるべきだろうか。少し考えて結論が出る。どうやら今の俺には死にゆく者に一欠片の優しさをくれてやる余裕すらないらしい。
「────お前を殺したい」
「ヒィッ! ハッ、はあっ、おかあっお母さん! 痛いよお母さん助けて!」
男は害虫のように地面を這いつくばりながら、非対称になった両腕を必死に動かし俺から逃げようとしていた。俺は手をかざし、男のとある部分に魔法を打ち込む。
「グギガがッ────、グゥうううッ…………!」
無様な叫び声をあげ男はのたうち回る。
「動きやすくしてやった。思う存分逃げろ」
ついさっき非対称になってしまった男の両腕は、今再び左右対称に戻った。…………いや、少し左側を削りすぎたか。つい魔力を込めすぎてしまった。
「お母さんお母さんお母さんお母さんどうしてどうしてどうして僕は幸せにならなきゃいけないのにどうしてどうして」
「…………お母さん? なんだそりゃ」
男は既に俺の言葉など耳に入っていなかった。残った身体を痙攣させながら、ぶつぶつと言葉を繰り返している。
「殺さなきゃ殺さなきゃコロさなきゃコ露さなキャころサナガァっ…………イタイよ…………おカアさん………」
ゴロン、と男の身体が横を向く。既に目は虚ろだった。子供のように身体を丸め────恐らく膝を抱えようとしたのだろう。しかしそこで手首から先がないことに気が付いたのか、男の手は力なく血の海に落ちた。
「オカア……サン…………」
「…………もしかして何か辛い過去があったのか? 実は家族思いの良い奴だったのか? …………でも悪いな、興味がないんだ。俺は善人じゃないからな。お前を殺しても何とも思わない」
俺は男に手をかざす。既に息はないかもしれないが、もしかしたらあるかもしれない。
「お前が不幸だったのはジークリンデを眠らせたことだ。こんな姿、アイツに見られたくはないからな」
俺がこんな人間だと知ったら、ジークリンデはどう思うだろうか。人を平気で殺せるやつだと知って、それでも軽蔑せずにいてくれるだろうか。
「…………」
俺はいつから、アイツに嫌われるのが怖くなったんだろうか。ここ最近のような気がするし、昔からそうだったような気もする。分からないが、とにかくジークリンデに嫌われるのを想像すると心に奇妙な痛みが走った。
もしかすると…………これが恋とかいう奴なんだろうか。
「なあお前…………恋って知ってるか?」
返事はない。見れば、男は既に事切れていた。