第103話 殺し屋、ブラック・レイン
殺し屋『ブラック・レイン』が初めて自分の異常性に気が付いたのは、彼が実の父親を手に掛けた七歳のことだった。
まだ彼が唯一心を許していた実母から与えられたフリオ・ラフニールという名を捨てていなかった頃────彼はいつものように父に何度も殴りつけられ、強かに壁に背中を打ち付けた。金色の髪の下で、整った顔立ちが苦痛に歪む。
「クソガキッ、てめえが稼いでこねェから酒が切れちまっただろうが!」
「がハッ…………うぅ……」
帝国領内のとある貧しい村、その中でもとりわけ貧しい家庭に生まれたフリオは、残念なことに父親に恵まれなかった。
元々は裕福だったラフニール家をギャンブルにより一代で落ちぶれさせたこの男は、その身を極貧にやつしてもなおかつての豪華な生活を忘れられず、現実との差に涙を流すほど落胆し、妻と息子を働かせた金を酒に代えることで何とかその悲しさを忘れる生活を送っていた。どうして俺はこんなに不幸なんだ、というのが男の口癖だった。
不格好に腹ばかり肥え太ったフリオの父は、伸び切った髭を乱暴に掻きむしり唾を飛ばす。
「何のためにここまで育ててやったと思ってる! さっさと靴の一つでも磨いてこねェか、この穀潰しが!」
「ぐッ……ぁ……」
言葉と同時に脚が飛んでくる。いくら酔っ払いとはいえ…………大の大人が放つ蹴り。まだ六歳のフリオにとっては思わず呼吸が止まるほどの衝撃があった。
(…………どうして……どうして僕はこんなに不幸なんだ)
フリオは毎日、時間があればそんなことばかり考えていた。僕とお母さんだけなら幸せなのに。どうしてこんな奴が僕の父親なんだ。こいつさえいなければ僕たちは平穏に暮らしていけるのに。
フリオはよろよろと立ち上がると、すっかり建て付けの悪くなった木製のドアに体重を掛けるようにして外に出た。刺すような冬の朝の冷たさは満足に服すら着ていないフリオにはまるで凶器のようだったが、家にいるより数段マシだった。フリオは大通りに出ると道の端にしゃがみ込み、ぼうと道行く人々を眺めた。
(…………みんな幸せそうだ)
フリオの目に映る人々は決して誰も彼も笑っていた訳ではないが、それでも自分よりは余程幸せそうに見えた。ただ一人自分だけが冷たい地面に座り込んでいるのが何よりの証拠のように思えた。それが惨めで仕方なく、フリオは痛む身体を無理やり起こして立ち上がった。しかし、立ち上がった所でどうすることも出来ず、結局フリオは同じ場所に座り込んだ。道行く彼らにはどこか目的地があるが、フリオにはそれがなかったのだ。
結局、彼は父親が泥酔して昼寝を始めるまでの間、外でじっと寒さに耐えていた。それもまた、彼にとってはありふれた日常だった。
◆
そんな彼の心を支えていたのは、他でもない彼の母親だった。
「フリオ…………ごめんね」
ラフニール家の暴君たる父が眠りについた夜更け過ぎ、フリオの母親、アリシアは我が子を抱きしめると、彼に謝罪の言葉を告げた。
「僕は大丈夫だよ、お母さん。だから…………泣かないで」
母の痩せ細った身体と、彼女の身に纏っている色褪せて何度も修繕された衣服に包まれる度、フリオは大きな安心感と、少しの悲しさと、そして────それら全てを燃やし尽くす怒りで心が一杯になった。直ぐ側で大きなイビキをかいているあの男さえいなければ、お母さんはもっといい服を着られるはずだった。街行く人々のように輝いているはずだった。身体に痛々しい痣など刻まなくていいはずだった。
「お母さん……二人で逃げようよ。あんな奴のことなんて忘れて、二人で生きようよ」
アリシアの胸の中で、フリオは涙ながらに訴えかけた。アリシアはそんなフリオを精一杯抱き締めると、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんねフリオ…………でも…………私がいないとあの人は生きていけないから……」
「死んだっていいじゃん! どうしてお母さんが殴られないといけないのさ!」
「ごめんね…………本当にごめんなさい……」
このやり取りは、彼らにとって何度も繰り返された光景だった。アリシアが首を縦に振ってさえくれれば、フリオは今直ぐにでもこのボロ家を飛び出してもいいと考えていたが、アリシアは決して首を縦に振ることはなかった。フリオはそのことがとても悲しかった。
僕の大好きなお母さんが、僕の大嫌いなあの男のことを好きでいる。お母さんは僕以上に暴力を振るわれているのに、それでもあの男のことが大切なんだ。僕がこんなに傷付いているのに、お母さんはそれでもあの男と一緒にいたいんだ。
まるで自分よりあの男の方が大切だと言われているような気がして、フリオは堪らない気持ちになる。僕にはお母さんしかいないのに…………この気持ちはどこまで一方通行だった。
「うっ…………ぐずっ…………」
「ああ…………ごめんなさいフリオ…………本当にごめんなさい」
同じようにボロボロの服を身に纏い、同じように身体に痛々しい痣がある二人だったが、涙を流す理由だけが悲しいほどに違っていた。
◆
それから半年ほどたったある日。アリシアが病死したことにより、フリオの人生は大きな転機を迎えることになる。
「クソッ…………何死んじまってんだ。金はどうするんだよ金は…………!」
あの男は今日も朝から酒を飲み、うわ言のように何かを呟いている。
(死んだんじゃない…………お前が殺したんだ…………!)
アリシアの命を奪ったのは流行りの感染症だった。
呼吸器系に深刻な影響を与えるその病は、けれどしっかりと治療すれば決して死ぬことはないものだった。優秀な光魔法使いか薬剤師に掛かることさえ出来れば、すぐに良くなる病なのだ。
しかし────アリシアは死んだ。
治癒の魔法を受けることもなく、何かしらの薬を飲むこともなく。最後はベッドとも言えぬようなボロボロの布の上で、死なないでと泣きながら抱き着くフリオを置いて、死んでしまった。
「ごめんね…………幸せになってね」
そうフリオに言い残して。
(…………分かったよ、お母さん。僕、幸せになるよ…………)
フリオは顔を上げ、だらしなくベッドに寝転がっているあの男に視線を向けた。お母さんが飲めるはずだった薬が、酒瓶に形を変え彼のそばに転がっている。
「…………」
フリオは自分でも驚くほど落ち着いた精神状態で、酒瓶を拾い上げた。そうして、それをあの男の頭に思い切り振り下ろした時────彼の心のなかには、得も言われぬような快感が広がっていた。