朝コタツの午前
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩、先輩、問題です。
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、財産を食いつぶしてしまった人は誰でしょう?
――おお、さすがですね。小原庄助さんです。福島県の民謡に出てくる御仁ですね。
財産を使うだけあって、なんともうらやましい生活をしていますね。朝酒はともかく、前後の2つなんかは、なんとも魅力的な響きにあふれています。休みの日といわず、平日にだって実行したいことですよ、これは。
私なんて「朝」がつくもの筆頭が「朝練習」ですもん。もたもたしていると、遅刻からのどやされコース。好きで入った部活とはいえ、いろいろと強いられるのはしんどいものですね。
先輩は「朝○○」といったら、何を思い浮かべる人ですか?
私、家族や知り合いにいろいろ聞いてみたんですけれど、先に挙げたもの以外にも、ややマイナー寄りの話をいくつか知ることができたんですよ。
そのうちのひとつなんですけど、耳に入れてみませんか?
私のおじさんが、わけあって友達のワンルームに半月ほど泊めてもらったときの話です。
大学の長い春休みではありましたが、朝方の部屋はまだ寒い。二人して布団から出ようとしても、そのままうだうだ過ごすか、部屋のこたつのスイッチを入れて、そこへ潜り込むかの2択だったようです。
折あしく、友達の部屋は暖房が故障中。部屋にある有力な暖房器具は、このコタツしかありません。
雪降る下の露天風呂みたく、いったん身体を沈めてしまうと、あまり出たくなくなるのが心情。トイレなどは我慢しても、家事なり買い出しなりは「おい、いけ」「いや、お前こそいけ」などと、悪意の譲り合いをする始末。
二人きりじゃ、「どうぞどうぞ」と押し付ける第三者もいません。結局、じゃんけんからトランプまで、外に出る時間が長くなりそうなものほど、白黒つけるのに、凝ったゲームを使い、ちょっとでもこの天国にいられる時を引き伸ばしたかったとか。
しかし、そのお泊まりの中で、やや奇妙な体験をした日がおじさんにはあったそうです。
その日の前の晩は、「朝帰り」コースだったとおじさんは話します。
別にいやしい意味じゃなくて、24時間開いているお店で、夜から友達とダラダラ過ごしての帰り。空がまだ白む少し前くらいの時間に、ようやく部屋へ戻ってきたんです。
お酒は入っていませんでしたが、いつ眠ったかも定かでないほどの、熟睡だったみたいですね。ただ、かろうじて布団に入ったことは覚えていると。
それが目覚めてみるや、コタツの中へ寝転がっている自分がいたようです。
電源は入っていません。服装は寝間着のままでしたが、布団たちはきれいに片づけられています。
天板の上には、小さい土鍋が乗っかったカセットコンロ。それに挟まった小さなメモ帳に友人の字が。
「急な用事ができたんで、午前中は家をあける。朝飯はその鍋の中だ。適当に食ってくれ。
電話は出なくていい。居留守上等だ。その代わり、俺が帰るまでは部屋を出ないでほしい。できればコタツからもな」
小皿や箸も、コンロ前に置いてあります。
鍋を開けてみると、昨日の昼まで二人で突っついていたお鍋の具に、ご飯がどかどか入れられ、雑炊の準備が整っていました。たいして水かさが減っていないところを見ると、準備してさほど時間は経っていないとみられます。
おじさんは雑炊が大好物でした。さっそくコンロに火を入れ、近くの本棚から友達にすすめられた漫画の、続きの巻へ手を伸ばします。
ややあって。
コタツから離れた友達の机の上に乗っている電話から、着信のベルが響きます。
出なくていい、とのことでしたから、おじさんはわずかに顔を向けただけで、すぐ漫画に目を落とします。
なかなか着信は止みません。すでに1分以上は鳴らされ続けるのを見て、「留守電とかセットしてねえんか?」とおじさんはひとりごちます。
結局、延々と3分ほど叫んだのち、電話はやっと沈黙。しばしの静寂が戻りましたが、ほどなく鳴らされたのはインターホン。
二回、三回と長鳴りした後、戸を叩く音も続きます。友達の名を告げ「お届け物でーす」との、若い男の声まで聞こえてくる。
間が悪い時に来たもんだ、とおじさんはメモの通り、無視を貫こうとしますが、思わぬ妨害が。
外からではありません。おじさんの内側から邪魔が迫ってきていました。
腹具合です。厳密には電話がかかってきた直後から、悪い意味でお腹がぐるぐる鳴り出していたのですが、インターホンが鳴らされる段階から、それに尿意さえ攻勢に加わってきたんです。
こたつの中で、足をもぞもぞさせながら耐えるおじさん。
居留守の際は、足音などの気配さえ殺しておきたい、というのがおじさんのポリシーでした。
訪れた側には「居」留守だと思わせたくない。自分が使われた側から無視されたと考えたら、自分の身だと不愉快で仕方ないから。
しつこくノックとインターホン、呼びかけをしてくるお兄さんに「あきらめろ……あきらめろ……」と念じること数分。
とん、とドアに前に何かを下ろす音と、立ち去っていく気配がしました。
――置き配かよ? 牛乳配達か? だがこの部屋、保冷ボックスとか玄関先に置いてなかった気がするけど?
そんなことがちらりとよぎりましたが、ようやく訪れた機を前に、ささやかな疑念はおじさんへのハンドブレーキにすらなりません。
コタツを脱し、トイレへ直行。我慢を重ねた末に、用を足す数十秒間は人生屈指の安心感を味わえる時間といえるでしょう。
しかし、それは長続きしませんでした。
ぶるりと身体を震わせるおじさん。
用を足し終えたため、ばかりではありません。にわかにこのトイレ空間の気温が下げってきた気がしたんです。
立ち上がろうとしますが、便座につけたお尻が一回で持ち上がりません。思わぬ力でひっつけられ、二度目により力を入れて、「バリバリ」とマジックテープのような音と肌触りと一緒にようやく引きはがせたそうです。
ノブに触れたときも、一度はぱっと手を放してしまいました。
静電気と勘違いするほど、急激な痛みが弾けたんです。先ほどのお尻のことといい、まるで冷凍庫の中身に触れているかのようだったとか。幸いにも、スリッパを履いているせいか、足にはさほどの引っ付きを感じません。
このままじゃ、トイレから出られない。おじさんは苦肉の策で、手袋代わりにティッシュペーパ―を何重も手に巻き、ドアノブを無理やり回します。
目の前に広がっていたのは、ところどころからつららにさえ見える霜を、盛大に垂らした家具の数々でした。
これがほんの少し前まで、人がいた空間と言えるでしょうか。
閉じ切った玄関のドアのすき間から吹く風は、身体を震わせるどころか、刺すような痛みをもって悶えさせに来ます。
真っ白に彩られたフローリングは、雪がうっすら積もったかのよう。おそるおそる一歩を踏み出したスリッパの底は、そのまま強く引っ付いてしまい、いくら足に力を込めても、フローリングとむつみにむつんで、離れる気さえ見せません。
おじさんは動けなくなってしまいました。
いったん戸を開けてしまったトイレの中は、振り返った時にはすでに霜が降り始めています。おそらくはこちらの部屋と同じく、超低温。
スリッパを封じられたおじさんは、恐る恐る靴下つきの足を出し、フローリングにほんのわずか触ってみます。
一瞬のふれあい。にもかかわらず、フローリングは靴下をがっちりとらえ、なんとか引きはがした時には、そこに靴下の裏側がちぎれて、残されてしまう始末。
もはや、どこにも動けません。次に触れたところは、それがどこでさえ顎となり、あらわになったおじさんの肌を食いちぎってくるに違いないのです。
かといって、じっとしていたところで肌寒さはいよいよ、刃物のような鋭さを帯びてきます。
にわかにぽたり、ぽたりと、床へ、スリッパへ、垂れ落ちるもの。
おじさんの血。急な寒さに耐えかねた表皮が、あっという間に裂けていき、その下から赤い血の花をつけ始めていました……。
どん、と飛び跳ねたくなる勢いで、玄関の戸が叩かれたのはその時です。
「無事か!」と張り上げられるのは、友達の声。
戸はなお、二度三度と大きく揺らされ、はびこる霜がボロボロと崩れていきました。そうしてほとんどの霜が落ちた後、飛び込んでくる友達の姿があったんです。
室内の惨状を見るや、友達は羽織ったダウンのポケットから、いくつもカイロらしきものを取り出しました。
パッと見こそカイロでしたが、それが友達の手でこすり合わされ、放り投げられてから家の各所に張り付くまで、かすかに赤く火を噴いたように見えたのです。
カイロはくっついた先から、ぐんぐん熱気を放ち、まるで早送りの映像を見ているかのように各所の霜が汗をかき出します。その勢いが、滝に近づいていくのも、すぐのことだったのです。
大雨のあとのように、水浸しになってしまった室内ですが、もうあのはぎ取るような寒気は消えています。
一緒に掃除をしながら、友達は話してくれました。
どうもこのところ、春が来ることで取り残される「冬」を届けに来る輩が、訪れるということ。
届く冬はとても人見知りで、隣り合った密閉空間であっても人の気配ある限り、入ってはこない。代わりに、おじさんのようなトイレへ立つわずかな間でも、気配がなくなればすぐにその空間へ入り来んでくるのだと。
もしや、あの宅配の声がそうだったのかと思い、応対すればいいのではというおじさんの言葉に友達は首を振ります。
「聞くに、あれを届ける輩はもっとやばいんだとさ。
隣の部屋のじいさん、ひと月前に玄関先で倒れているところを病院へ運ばれたんだが、暖かい日だったにもかかわらず凍死寸前の重体だったとか。
このアパートの人は、冬の届け人にじかに応対してしまったんだろうと、もっぱらのウワサしているのさ」