1章 蕨とゲーム
友人の青葉のバスケの試合を僕は見ていた。
シューズがワックス掛けされた床を擦るキュッキュッという音が耳の奥まで侵食する。
背の低い青葉は見事なまでにブロックされ上手く立ち回れていないのが素人の目でも分かった。試合は大詰めを迎え僕の学校のバスケ部が圧倒的に不利になる。3:9でサンキューなんちってなと僕は心の中で密かに皮肉っぽくほくそ笑んだ。
慰めの言葉よりよっぽどスポーツドリンクの方がアイツに効くだろうと、立ち上がった。
暑い。セミの鳴き声と汗の匂いが夏独特の嫌なモノを連れて来ていた。それは例えば幽霊とか地球温暖化とかそんな諸々であってしかし、苦い青春も覚える何か特別なモノだった。
自販機の前で烏瓜槐を見かける。カロリーZEROコーラに向かって跳ねているが届いていない。長い三つ編みとたおやかな胸が何度も跳ねる。
僕は気怠くしばらくその姿を見ていたが、あんまり意地悪すると、学校での評判に傷が付くため、スっとコーラのボタンを押してやった。
烏瓜は小さな声で「蟻」とだけ言って顔を伏せたまま大慌てで去っていった。
僕は顔に蟻が付いていないか気にしながら、スポーツドリンクを買い、情けなく泣き咽ぶ青葉に差し出す。
この2日後、僕は14歳になった。
誕生日を迎えた僕に両親はギガ数の高いノートパソコンを買い与えた。黒色で統一され高級感を堂々と醸し出している。僕は一瞬で心奪われ夢中になった。
父がおどけて笑ってみせる。
「次のテスト100点でないと没収するぞ」
僕は露骨に嫌な顔をして見せた。
「父さん、出来損ないの息子に何期待してんの」
「そうよ。アナタ」
母は僕の頭を叩いて、「カランカラン」と擬音を口にした。
「この子ったら頭空っぽだもの」
「俺、そんなに?」
「自覚なかっただなんて可哀想に」
母の毒舌も僕への愛と信頼の証であることは痛い程に分かっていた。そんな母が後々、認知症で老人ホームに放り込まれるなんてあの頃の僕には想像も付かなかった。それ以上に僕自身無職のままゲームオタクとして穀潰しになる運命なんて信じられなかった。あの頃は何もかも鮮明で色鮮やかに日々を謳歌していられたのだ。
因みに今、父は過労死している。家の設計士の仕事に命の火を奪われたのだ。父と母は幸せだっただろうか。運命は残酷だ。
その日は夏休み登校日だった。
登校時間はいつもギリギリか遅れるのを狙ってやっている。先生の説教が回りくどくて友人の草生に話すと笑い転げてくれるのだ。
「今日はさ、遅刻しててもパン咥えてたら許してくれるって大真面目に広樹、言っててさ」
青葉は爆笑する草生とは対照的に頭を振った。
「広樹、DV野郎っていう噂だぜ」
僕は少しムッとした。
「アイツ、顔だけだよ。そういうイヤらしい顔だよなあ」
先程まで笑っていた草生がクラスメイトの杏輔の方をチラリと見、声を潜ませた。
「そう言えばさ、杏輔、カラオケルームで楓乃とヤッたらしいぜ」
僕と青葉の声が重なった。
『マジか!』
僕は杏輔を侮っていたと確信を持って再びチラリと拝んだ。
「どこ情報?それ」
「【アニマル・ユートピア】っていうPCゲームで自慢して回ってるらしい」
僕は素っ頓狂な声を上げた。
「【アニマル・ユートピア】?」
教室のカーテンが熱風に吹かれ、揺られている。ほんのり甘い腋臭の匂いに頭がクラクラした。
青葉は教室の白い壁にもたれかかっている。女の子向けに長めに垂らした髪がキザというより初心だった。
草生は椅子をガニ股に跨いで後ろの席の僕に顔を寄せている。少し杏輔を恐れているようだった。杏輔は普段、大人しく和やかだが、男相手だと急に凶暴になる癖があった。
「知らないのかよ」と草生は言った。
「パソコン持って間も無いから仕方ねえか」
青葉が怖い顔をした。
「人を廃人にするゲームらしいぜ。プレイヤーは全身動物だってよ。それをアバターと呼ぶらしい。俺達も試してみるか」
僕の頭の中で薬中のようにゲームに縋るガリガリの男の姿が過ぎった。正に今の僕だ。だが、その時は怖いもの見たさに胸がワクワクするのを抑えられなかった。
「そんなゲーム、いつリリースされたんだ?」
僕の問いに草生が唸る。
「ついこの間、8月15日だったんじゃないかな」
青葉は軽く楽しそうに笑った。
「え?マジでやる?まだリリース記念ボーナス貰えるんじゃね?丁度、3日前だよな」
僕達は何かを期待しながら、頷き合った。
「今夜、風呂から出たらラインして来いよ。いいな?青葉、草生」
「おう、了解した」
青葉も草生も快諾して、夏の匂いを堪能した。
「あまり遅れるなよ、蕨」
帰り間際に文芸部の部室で1人、本を読んでいる烏瓜をぼんやり眺めていた。鉱石図鑑を借りていたが、もう締切をとっくに過ぎていた。
「合歓木君、どうかしたの?」
僕の視線を警戒しながら、烏瓜が言った。
「まるで餌の取れなかった蛙みたいね」
「何だよ、その支離滅裂な比喩」
僕はから笑いして冗談を聞き流した。
烏瓜が眼鏡に手をかける。律儀に人差し指を強く立てていた。
夕暮れの陽射しが教室中に集まり、破裂しそうだった。きっとそれは僕の錯覚だったのだろう。夕陽が破裂することなど生涯通して決して有り得ない。
烏瓜の唇が艶やかに動く。
「私、アナタのこと好きよ」
僕の周りで時間は止まった。口を開けたまま、持っていた鉱石の本をパサリと落とした。
しばらくして烏瓜の目元で何かが光る。それが涙だと気付くのに数秒かかった。
「おいおい、泣くなよ」
自分の心臓の鼓動を感じながら、弱った雛鳥を扱うように烏瓜の肩を抱いた。
烏瓜が「優しいのね」と冷たく呟く。
「誰でもいいなら私を選んで」
僕は歯ぎしりした。女の子にそんな男だと思われていることが悔しくて仕方ない。ウェイトレスが笑顔でないぐらいの残念さだ。
僕は産まれて初めて女の子の頭に手を当てた。
「俺で良ければお付き合いさせて下さい」
頭の中では青葉や草生の冷やかす様がまざまざと思い浮かんでいた。烏瓜のことは嫌いではない。かと言って特別好きという訳でもなかった。
最低だ。
それでも烏瓜は笑顔で泣いた。
少し苦酸っぱい夏の思い出だ。
風呂にバスボムをぶち込んだ。綺麗な緑がかった青色がバスタブの少しヒンヤリとしたお湯の中へ溶け込んでいく。大袈裟にシュワシュワ音を立てて、消えた。
父はお湯の温度にうるさい人だった。夏は冷たく、冬は熱く風呂場の温度調節に抜かりはなかった。それにプラスして、母は入浴剤なしでは風呂に入りたがらない偏屈狂だった。
血の繋がりは誰が何をしても治らない。
僕は良い温度のバスボム付きの風呂にしか入らなくなった。
風呂場で浸かりながら【アニマル・ユートピア】というゲームのことと烏瓜のことを考えていた。
人を廃人にするゲーム。
男を快楽へ堕とす身体。
真面目に考えれば考える程、自分の手には負えなくて、少しイラッとする。僕自身自分が如何に小さいかよく分かっていた。だからこそ、斜めに構えていられたが、実際、事が起こるとコントロール出来ていないのだ。
いや、これはただの言い訳だろう。
僕はゲームも女も慣れていなかった。ただ単にそういうことだ。慣れていないものは扱い切れない。
僕はバスタブのお湯を抜くと風邪を引かないよう急いで洗面台の前に立ち、腰にタオルを巻いた。
全身水気を拭うとスマホが鳴る。
伸び過ぎた髪をボサボサにタオル掛けして、スマホの画面を覗くと直ぐに思わず笑った。頭のおかしそうな顔をした剽軽な鳥が「まだかのー」と吹き出しを囲っている。オウムにしては黄色の目立つふざけた顔をした鳥だった。
スタンプ欄を押す。みーりょんというキャラクターらしい。どのスタンプもふざけている。草生からのラインだった。
服を素早く着付ける。
〈今、風呂上がり〉
僕が爪を当てながら文字を打つと、青葉からも返事が来た。
〈俺、今から〉
〈何が?〉
〈風呂以外に何があるんだよ〉
半ば喧嘩腰の青葉を差し置いて、僕と草生は2人で通話することにした。
「普通、やりたいことがある日に21時過ぎて風呂に入るようなヤツいるか?」
ドライヤーが髪の毛を逆さに掻き立てる。熱が篭もり過ぎ、思わず火傷しそうになった。
草生は失笑している。
「青葉はマイペースだからなあ。周りに合わせるってことを知らない。この調子でいけばここぞという時に絶対、婚約指輪とか渡さないでしくじるタイプだろ、アイツ」
僕は毒気のない無邪気さで笑った。ドライヤーを置いて、顔を鏡の左右からチェックする。
「まず結婚指輪を買わないし、そもそも彼女ができない。できたとしても何も発展しない」
草生が溜息を軽く吐いた。
「流石の俺でも青葉が可哀想になってきたぜ。人生ゲームで例えると借金塗れで1人ボロ屋に立たせられてる感じだよな。周りにはお金も嫁もいるのに」
僕はそれとなく草生に烏瓜のことを話すことにした。
「そう言えばさ、お前、烏瓜槐って娘知ってるか?」
「いつも1人で本を読んでる正に図書委員って感じの子だろ?あの子の胸めちゃエロいんだよな。例えるなら少しずつ実ってる果実だ」
僕の彼女だぞ、と心の中で呟く。草生は悪くないのだ。男なら誰もが持つ感想にしか過ぎない。それなのにその時、僕は草生が憎たらしくて仕方なくなった。
「ああ、まあな」と口に出しただけで付き合っていることは自然と分からせてやろうと自分の胸の淵に秘める。
乾ききった髪を手に2階の自室へ足を運び、ノートパソコンを立ち上げ、【アニマル・ユートピア】のサイトを開いた。パソコンの表ページから簡単に飛べた。
愛らしいアバター達が飛び出してはっちゃけんばかりの勢いで描かれている。電気猫が主枠となって水兎や火蛇や葉虎がサポーターのように見えるようになっていた。
「なあ、蕨、お前、トップランカーは誰か知ってるか」
草生が思わせぶりに口にした。
僕は失笑して首を振りつつブツブツ呟く。
「あのなあ、俺、ゲーム初心者だろ?トップランカーなんか狙わねえよ」
その時の言葉は今思えば皮肉だった。
「だよな。火蛇のアユミン。覚えておけよ」
【アニマル・ユートピア】の新規登録後、データダウンロード中に青葉がラインに乱入して来る。
「このじきの風呂、最高だよな」
「遅せぇよ」
「遅かったな」
草生と僕の相槌は些か冷淡ではあったが、これもまた友情だった。
僕はゲームの豪快な音楽を聞き、何か運命的なものを感じる身震いを抑えられなかった。廃人ゲーは廃人ゲーなりに人を堕とす能力を兼ね備えているのだ。それはワクワクするものだったりテンションを上げるものだったりして要は脳にエンドルフィンを分泌させるのに充分な素質があるのである。
青葉と草生と雑談していると、何やら性格診断テストのようなものに突き当たった。
【アウトドア派ですか?インドア派ですか?】
インドア派。
【人類愛という言葉は当てはまりますか?当てはまりませんか?】
当てはまりません。
【考えることは好きですか?嫌いですか?】
好きです。
【恋人がデートに遅れてきたら怒りますか?怒りませんか?】
怒りません。
【本は好きですか?嫌いですか?】
好きです。
【有名人に詳しいですか?詳しくないですか?】
詳しくないです。
【他力本願ですか?自力本願ですか?】
他力本願。
【 春と秋、どちらが好きですか?】
秋。
【魚派ですか?肉派ですか?】
肉派。
【欲しい物は絶対手に入れますか?手に入れませんか?】
手に入れません。
【ロマンチストですか?合理主義ですか?】
ロマンチストです。
【人助けは得意ですか?不得意ですか?】
不得意です。
【血液型は両親共に一致していますか?一致していませんか?】
一致しています。
【正義と悪、どちらが好きですか?】
悪。
【人生楽しんだ者勝ちだと思いますか?思いませんか?】
思います。
長い永遠と思われる一瞬の時間が流れた。そしてようやく結果が出て来る。
適正キャラは火蛙だった。