序章 槐とエイルⅣ
辺り一帯に色とりどりの花が咲き誇っている。珍妙な香りが鼻元をくすぐる。目眩に似た感覚を押さえて敵陣を見据えた。
空を飛ぶ雷鵺がこと煩く喚き立てた。よく見ると鵺にしては嘴が裂けている。それは愛らしいドット絵の中でもグロテスクさを醸し出していた。
ワサビはエイルⅣのMP回復区分まで行き、一時期最強と言われた火炎魔術を口から吐き出す。
素早い攻撃に耐えられず雷鵺は地面に叩き付けられ、もがき苦しんだ。
最強の魔術と無限のMPのコンビに勝てるアバターはいない。
チラリとワサビはエイルⅣを見る。ーーやはりアイツに似ている。ぶっきらぼうで不器用で何より優しい。
愛らしい【アニマル・ユートピア】の世界でワサビはトップランカーを目指す夢を立てていた。ワサビのアバターには手足がない。火蛇だ。背中からオレンジの炎を吹き出し、口から火炎魔術を練り出す。
エイルⅣは痺れ鰐である。爬虫類の目さえ可愛くなるのは【アニマル・ユートピア】の美点だった。
女性専用アバターは尾の先にはピンクのリボンが着いている。
ワサビのアバターにも首元に青い蝶ネクタイが着いていたが、本当の所、首元のネクタイより尾の先のリボンの方が好みだった。しかし、ワサビは嘘を吐けない性格をしていたのである。
ダックワーズという名前の雷鵺のプレイヤーはコメント欄に「は?」を連発する。珍しいことではない。進化もロクにしていないアバターが圧倒的に押すと誰でも机や椅子でも蹴飛ばしたくなるような心境になるだろう。だからと言って同情するゲームではないのである。
天気雨の中、虹がかかる頃にはダックワーズは再起不能となっていた。
「良い景色だな、エイル」
ワサビは青い空を仰ぎ見る。余りにも美しい光景に天国を味わっている気がした。
学生の頃、勉強を敵に回してまでしてゲームに没頭する者は多かっただろう。かく言う僕・合歓木蕨も全くダメな学生の典型だった。数式を頭に入れるよりよっぽどゲームの必殺技のコマンド入力を覚える方が身に力が入るというものだった。僕の周囲には当たり前のようにゲームの話で熱が入り、勉強の話で萎え、女の子の話で気持ち悪くなるようなそんな人畜無害なヤツらしかいなかった。
僕の家は都会とも田舎とも言えない場所に建っていた。買い物にも緑にも不便しないまあ便利と言えば便利と言える小さな一戸建ての家庭で僕は育った。
ここまではただの過去話になるだろう。
今の僕は薄汚いアラサーのオジサンだ。何がどうしてこうなったのか分からないが、確実に分かるのは純情な少年だった僕はロクでなしに昇格するフラグを人生のどこかで立てて回収する羽目になったことである。
僕の人生を狂わせた愛しのゲーム【アニマル・ユートピア】シリーズが出たのは丁度、僕が14歳の時だ。1stシーズンのキャラが解放されていく中、僕の学力はメキメキとうなぎ登りの逆を成し遂げていた。親のブツクサ咎める文句も右耳から左耳に流れ、内容は全く頭に入らなかった。
「いつまでゲームなんかやってんの?」
ゲームなんか?違う。人生というゲームはもう詰んだんだ。
「将来、後悔することになるぞ」
将来?何それ美味しいの?僕に将来なんか来ないんだ。
高校受験は悲惨なものだった。
まだ【アニマル・ユートピア】が目新しい頃ーーつまり14歳の頃ーー、初めてガールフレンドができた。
烏瓜槐は今では珍しい三つ編み眼鏡のソバカスの目立つ女の子だった。僕は特別に誰かを好きになることはなかったから、ただ単に男友達への自慢のつもりで告白を真摯に受け入れてOKを出した。
それから彼女が変わったなら、ただの妄想ラブコメ小説になるだろう。槐は女子生徒に笑いのネタにされるようになった。誤釈は勘弁だから付け足すが、僕はその時はカッコ良かったのだ。ただそれが調子に乗っているというサインに繋がったらしい。男と付き合うダサい女は同性の目に梟から見た鼠のように映る。
何故、初めてのガールフレンドの話が出て来るのかもうじき分かる。
彼女は14歳で死んだのだ。
不慮の事故だった。
だから、僕が再び彼女と逢う可能性は全く無なのである。
僕がエイルⅣに既視感を持ったのは先週の火曜日ぐらいからだった。燃えるゴミを一括にまとめ、運動不足の身体の悲鳴を聴きながら、ボロアパートから出して帰ると、エイルⅣは少し低い声でボイスチャットを勝手に始めていた。クセのある茨のような声は確かに死んだはずの彼女の声に間違いなかった。それでも僕はこの段階では赤の他人のほんの偶然だと自分に言って聞かせる余裕があった。彼女が死んだのは僕のせいなのだ。死人に怯えさせられることなどあってたまるものか。
だが、次第に分かってきた。
本当は構って欲しいだけの時は無口になり、心の底から楽しい時は笑えるポーズで固まるのが僕の初めての人だった。
好きになればなる程、僕はゲームから抜けられず、バイト先でもクビになった。
親が僕が大学に行く時のため貯めたお金で切り詰めて生活する日々は子供に怒られても何も言い返せない程、惨めだった。
『エイル、俺どうしよ…』
『どうしたの』
『もう金ないし、働きたくない』
小さな痺れ鰐がシャボン玉マークを浮かばせる。
『オフ会でも開く?』
僕の火蛇がビックリと驚いた顔をした。
『俺、ダメダメオッサンだけどいいの?』
『私もただの金持ちのNEETだし、大丈夫だよ』
『クソ羨まし!!』
『鋼の毒魔には内緒だよ』
鋼の毒魔は僕のギルド《マテリアブラック》の親衛隊兼ねコミュニティリーダーだ。僕は《マテリアブラック》のリーダーでエイルⅣは副リーダーを勤めている。
僕にとってオフ会は罪の意識からの解放と惨めな生活からの奪還を賭けていた。
『よろしくお願いします!!!』
痺れ鰐がさも満足とばかりに腕を組んで頷いた。
『ワサビ君は素直でよろしい』
待ち合わせ場所はワザと遠い場所にした。僕が昔、自分を見捨てた元彼だとバレないよう髪型もファッションも変え、サングラスで目元を隠した。いつもはしないオシャレと話し方を自力で研究した。街行く人に奇妙な目を向けられないか実践し、心臓が破裂するような想いまでした。
それにしても人は自分が思っているより遥かに他人に興味がないものだ。最初はぎこちなかった僕でも次第に胸を張って街並みを歩くことができるようになった。
家から電車で30分かけて空木町の街を他人のフリして歩く。今日の僕はヒモでもNEETでも自宅警備員でもない。昔やっていたように1人の男だった。
目先にコンビニがあった。朝飯を抜いてきたのをふと思い出した。17年ぶりの槐に会えるのだ。興奮して眠気も食欲も吹っ飛んでいた。
やはり本当は死んでいなかったのだ。学校の連中をギャフンと言わせるための自作自演のシナリオにマンマと引っかかるところだった。
自分の顔がニヤけるのを止められない。きっと僕は彼女のことを好きだったのだ。彼女は僕を覚えていない。イジメの現実があった以上、正に好都合である(僕の声を聴いても彼女は何も驚かなかった)。
コンビニでツナおにぎりと玉子パンを買った。空木町の喫茶店で12時に待ち合わせだから、まだまだ時間がある。今は10時40分過ぎだ。
腕時計から目を離すとコンビニの入り口で金髪ピアスの古い不良にカツアゲされている情けない面した軟弱な青年がいた。服の袖がクシャクシャで骨董品に出しても100円にもならなさそうだ。
僕は周囲の目を確かめた。気まずそうに視線を逸らすか何事もないかのように電話しながら笑って歩き去る人しかいない。
青年が僕を見ている。
「ちょっ…誰か」
僕の視線は右往左往し、最後には両拳を固めた。らしくないことは分かっていたが、誰かが止めないと本当に死んでしまうのだ。
「時代遅れの兄ちゃん、金ならオジサンがあげよう。カツアゲなんかやめなさい」
不良は僕を見て一瞬慄いた。何がそうさせたのか僕には分からなかった。
「オッサン、財布出せよ」
自慢げにピアスを弄りながら不良が自分のペースに持っていく。
僕は大人しく財布を渡した。鰐皮の財布だったから惜しい気がした。
「免許証と保険カードとクレジットはオジサンに返してくれんか」
少し殴る素振りを取ってみる。心臓がバクバクと脈打ち、両手足が恐怖に震えている。
マウントを取ったと思った不良は得意げにニタッと笑った。しかし、次の瞬間、財布を慌てて落とし、ゴテゴテに改造されたバイクに跨る。騒音に負けじと叫んでエンジンを吹かし、大逃げに走った。
「…化け物がッ!!」
青年も青ざめ僕から大慌てで逃げ出した。
槐が来たのだ。
夏なのに冷気を肌で感じ全身が鳥肌立った。槐は死んだ。エイルⅣは幽霊なのだ。
僕が会おうとしているのは幽霊なのだ。