形骸と通俗
大雑把な感想だが、現代は一方に、糞アカデミズムとでもいうもの、つまり無味乾燥で中身もなく、トリヴィアルなだけなのに、それを「客観的」と称する方法論が出回っていると思う。もう一方では、通俗的世界観、つまり素人受けするわかりやすい、メロドラマ的な、単純化された物語が出回っている。現在の知的基盤というのは、この両方に分解され死滅している最中だと思う。
もちろん、こうした事はただの全体的な印象でしかない。…ただ、私などは、大学のアカデミズムには詳しくないので、せめて良心的な学者が優れた場所にはいると思いたかったわけだが、あまりにもそれに反する事実の方が多いと感じる事が多く、こうした文章も書いてもいいのではないかと思った。
それで、具体的には今、我々が見ている光景がそれだ…と言えばおしまいなのだが、例をあげて考えたい。
とある大学教授、独創性はないが、試験をパスし、大学教授としての地位は確保できるくらいの優秀性を持っている某教授がメディアに持ち上げられて、「自分はアーティストだ」と言っているのを私は随分前に知った。
こうした中身のない「学者先生」が、目録作り的な能力しかないにも関わらず、そこからアクロバティックな展開を見せて、「アーティストだ」とナルシシズムに収斂していく。これは現代の知性の解体の二形態を表していると感じる。
歴史学なんかにはこうした方向性は明瞭なように思う。歴史が、一方では、丸山真男の言う所の「クソ実証主義」に淫して、無味乾燥の研究結果を発表して、学者としての地位を得る。しかし、そこには大きな空隙が生じる。歴史がただ事実の集積であるとすると、歴史は分解された断片の連続でしかなく、それらを統合しようとすると「主観的な意見であり、学問としては失格」などと言われてしまう。それで、学者は一歩を踏み出せず、後退りする。
その穴を埋めるように現れるのが、井沢元彦のような人に代表される通俗歴史観である。これは色々なバリエーションが考えられるが、ネトウヨ的な方向もその一つだし、何でもかんでもオタク視線で捉えるとか、色々ある。大河ドラマを見て、司馬遼太郎を読めばもうそれ以上に「歴史」は必要ない、という人は沢山いるだろう。そういう悪しき素人趣味と、悪しき玄人意識の両極に分解され、本格的な知性の歩みというのは現代の日本から消え去ってきているのではないか。
これ自体は広範な事実なので、すべて分析するのは不可能だろうし、素人であるが玄人よりも優れた洞察を示している人、またアカデミズムの中にいながらも部分的な事実に埋もれず、それらを統合させ真に迫ろうとしている人もいるだろうと思う。ただ、全体的な傾向としては今言ったような方向になっていると思う。
最近はこうした傾向を感じる事が多い。ネットで見かけた文章で、トンデモ文章というか、一体何を言っているんだろうというような人が、割と有名な大学の先生だったりする。最近、大学教授になるのが、何かで名前が売れた人という例が多いと思うが、ジャーナリズム的な人がいつの間にか、啓蒙的な立場にすり替わっている。そこにあるのは、大衆に対する奉仕であって、真実に対する奉仕ではない。
国家とか権威の側でも、内側から腐ってきている。これは総理大臣がマリオのコスプレをする、というようなパフォーマンスによく現れている。あるいは、東大生がただテレビに出てやたらクイズに答える事が「天才の証」というような馬鹿げた事が本気で行われている。
今あげた例というのは、権威とか秩序とかいうものが、一方ではきちんとした吟味を経た立派なものという外観を示そうとしているのにも関わらず、内側から腐敗しており、その腐敗が外側に向かっている図を示している。外側とは大衆の好悪であり、大衆の卑俗な関心と、権威とか制度とかいう立派なものが裏で手を組んで、堕落・腐敗は極まろうとしている。
私は普段、普通の人と会話をするのだが、大学を出た事のない人は、大学というのは何か立派なものだと考えている場合が多い。彼らからすると「東大」などというのはどうあがいても手に届かない高いものであり、東大生というのは謎の知的巨人に見えるらしい。
そうした彼らが自分の子供を大学に行かせるとなると、高い学費でもなんとか捻出しようとする努力が行われる。そうした場合、彼らにおいて大学の内実が何かとは問わない事、つまり「有名大学」がブラックボックスになっているというのが重要なポイントとなる。彼らにとっては、秩序信仰、権威信仰は、その内部がわからないからこそ可能なものとなっている。「なんだかわからないけど偉いもの」だからこそ、権威は機能する。
その「偉いもの」に多少なりとも内実があれば、社会は滅びずに済むのかもしれない。だが、今は「偉いもの」が内側から崩壊している。形骸化した、試験というシステムを通り抜けて教授という地位を得たとしても、そこに地位という形はあるが内実はない。クソ実証主義のような形骸した骨組みしかない。そのような無味乾燥なものはそもそも退屈である。だから、退屈さを無意識的に感じている才能のない教授が、何かの拍子でメディアに持ち上げられると、アカデミズムに抑えられていた通俗的世界観が露出してくる。普段は事務作業を黙々とやっている人間が、飲み屋で急に長大な自分語りを始めるようなものだ。
それでは、お前の言う学問の内実とは何なのだ、と質問されたと仮定してみよう。これに関しては私もあまりわかっていない。ただ、ギリシャに生まれた真善美の「真」に仕えるものだと漠然と考えたいと思っている。
それは漠然としすぎだ、と言われかもしれないが、これについて語るのは難しい。例えば、東洋の学問では、道徳と学識は一致しており、それ故に、知的なものそれ自体が独立して動いていくというのはほとんどなかった。西欧が特にそういうものを作ったのだが、スコラ哲学などはむしろ東洋的で、道徳と学問が一致しており、それ故に知性という名の翼は現実に牽引され、宙を舞う事叶わなかった。
大切なのは「真」という一点に向かう事にある。丸山真男の論考によれば、日本の儒学・朱子学の思想の練磨が、近代的な思考法の受け入れに寄与した。これは西欧における神学の成熟が、哲学その他の諸学への発展していった過程に近いものがある。こうした事実から、真を求めるとは何か、経験的に探っていくしかないのではないか。
しかし、そもそも大学という制度も明治以降にできたものだろう。知の枠組みというのが、一方では西欧から何かを学び、それを自分達のものにする為にあったとすると、今は昔ほどの差はない。日本が世界に追いついたというより、世界そのものがフラットになって、日本もフラットな小山の一つになったという印象だ。
日本の近代初期には、知識を啓蒙するという福沢諭吉的な役割が必要とされたが、今、大衆が欲しているのは啓蒙ではなく、自分達の欲望を満たす物語が提供される事だ。これは啓蒙ではなく、インテリが大衆に媚びる事を意味する。作家が大衆の欲しがる物語を製造して売り渡すようなものだ。
すべてがフラットになった世界にも関わらず、権威は存在し、存続しているという見かけを保たなければならないという社会的要請がそもそもの矛盾を生んでいるのかもしれない。その調和点として、一方では形骸化したアカデミズムが、反面では大衆向けの通俗物語が氾濫しているのかもしれない。
先程、スコラ哲学の話が出たが、現在は中世に逆戻りしている時代と考えたほうが良いかもしれない。知性は再び、現実の前に頭を屈する。今の日本でも、片方では利益・実益を最高価値として、テクノロジーの進歩によってそれは叶えられるという考えがあり、それが外側に広がっていく考え方だとすると、内側に向かってはむしろ保守的で、自分達の本質とか思想そのものは誰にも吟味させたくないという頑な態度が見える。
内に向かっては硬くなり、外に向かっては無限に拡大していく。その場合、理想というものはない。理想は既に、自分達の利益という事で答えは出ているからであり、答えを立証していく為だけの無限の手段だけが求められる。絶対的な価値は最初に決めておいて、相対的なものを延々と議論していく中世と現在は類似しているかもしれない。
現在がそのような時代と考えると、アカデミズムが既存の秩序を肯定する為だけの道具となり、大衆には通俗物語が氾濫するのも普通かもしれない。江戸時代の儒学は、秩序を肯定する為に必要とされた知的体系だった。ここから知的体系が、社会による拘束ーー即ち、道徳性という拘束衣を脱ぎ去って、自由に羽ばたいて行くまで、明治維新という大動乱が必要とされた。だが、その羽ばたき、つまり日本の近代は速やかに収束され、戦争と平和の時期をくぐって、現在のような小さな姿に収まり変わった。
それらを歴史の必然と考えるともうする事はなくなるが、本居宣長のような愛国的異端者とでもいった男が、芸術の自立性を図らずも唱えたように、まだすべての希望を捨てる必要はないのだろうと思う。少なくとも、そうした試みには一旦の価値があるように思う。
ただ、こういう真(本居宣長の場合は美)に対する歩みというのは、現在の状況では、悪しきアマチュアリズムと、悪しきプロフェッショナルイズムを排する事で得られるのではないか。それは通俗と形骸の否定であって、真という道に対する奉仕という事になるだろう。真に至る道を擁護するに、あるいは制度に帰属し、あるいは在野に在るを問わない。そうした独自な学者が出てくる事が望まれる。しかしそんな人物がこの世界でどのような悲劇を得るか、それは固有の理想を持った者にしか味わう事のできない悲哀であろうと思う。