偽りの夫婦①
高台の一番奥にあるユウキの家は、隣の家までは少し離れていて、人通りは殆どなかった。
彼女が、慣れない手つきで庭の山茶花や、花の手入れをしている。ずっと家の中に閉じ込めておく訳にもいかないと思ったユウキが、花や木の世話のやり方を教えたのである。 彼女にも、花を愛でる心があるようで、ガーベラやスイセン等の世話に時間をかけていた。
彼女の日課は、朝はユウキより早く起きるが、料理ができないので手持無沙汰で待っている。それから、ユウキを手伝って朝ごはんの支度をする。朝食をとってユウキが仕事に行くと、洗濯と掃除をして庭の花に水をやり、一段落するとテレビを見る。
お昼は冷凍食品をチンして食べて、昼からもテレビを見る。彼女はテレビを見ながら、何やらしきりに口を動かしていた。それは、テレビの番組から、地球の言葉を学ぼうとしていたのだった。
一週間もすると、簡単な料理が出来るようになり、朝餉の支度など、テキパキと家事をこなすようになったが、相変わらずしゃべる事は無かった。身振り手振りで何とか意思疎通は出来ていたが、ユウキには、もどかしかった。
ユウキは、休みの日には、出来るだけ彼女を外へ連れ出した。色んなものに触れることで、日本の環境に早く順応させたかったのだ。
その日も、二人でドライブに出掛けた。春とはいえ、北海道はまだ寒かったが、天気も良く彼女も嬉しそうだった。
中古の愛車を走らせ、花で有名な小高い丘公園に着くと、そこは一面の花畑だった。駐車場に車を置き、海側の展望台まで花々を見ながら歩いていくと、数組のカップルや家族が来ており、眼下には太平洋が広がっていた。
先端の手摺の所まで来ると、彼女は、風に乱れた栗色の髪をかきあげながら青い海の彼方を眺めていた。
今、彼女は何を思っているのだろうと、ユウキが彼女の美しい横顔を見ていると、彼女はユウキの方に視線を移しニコッと微笑んだ。彼は、異国の地で記憶をなくし、孤立無援の彼女の身の上を思うと、かわいそうでならなかった。万感極まったユウキが彼女の手を取り、緑色の澄み切った目を見つめながら、その名を呼んだ。
「エレーナ」
すると、
「……ステラ」
突然、彼女の口から言葉が出たので、ユウキが「えっ」と聞き返した。
「私の名前は、ステラ」
それは、きれいな日本語だった。
「ステラ、そうか君の名はステラか、そうか、そうなのか、よかった……」
ユウキの目に涙が溢れ、周りに人がいるのも忘れて、彼女を抱きしめていた。彼女は最初、彼がなぜ泣くのか分からず、キョトンとしていたが、察したように笑みを浮かべ、ユウキを抱き返した。
この瞬間から、二人の間にあった言葉の壁は崩れ、お互いの心が少しづつ見えるようになった。そして、徐々に、普通の夫婦のような、穏やかな生活が送れるようになったのである。
ユウキが、湖で助けた時の状況を彼女に話してみたが、やはり、それ以前の記憶は欠落していた。
彼女は文字を覚えると、ネットを開き、どう猛に知識を吸収していった。彼女の、学習能力は天才的で早かった。
暫くすると、買い物、近所付き合いなども無難に熟し、綺麗で、日本語の上手な外国人妻だと近所で評判になった。
ユウキは、ステラの笑顔で送り出されて、夕餉の匂いと彼女の笑顔が迎えてくれる新しい生活に、本当の夫婦になったような錯覚に陥っていたが、ステラは、テレビ等で学んだ、夫婦像をただ演じているだけかもしれなかった。
それでも、ユウキは、今の幸せな夢の様な生活が、永遠に続いてくれたらと願うようになっていた。
ある日、ユウキが「プレゼント」といって、彼女に渡した小さな箱には、美しい緑の光を放つ、エメラルドの指輪が入っていた。安物ではあったが、頑張ってくているステラへの、ユウキの感謝の思いが詰まっていた。ステラは指輪を指につけて手を翳すと「きれい、ありがとう」と、嬉しそうに微笑んだ。
それから、何日か経って、ステラが働きたいと言いだした。ユウキは、少し心配はあったが、独り立ちの絶好のチャンスかも知れないと許した。
彼女は、近くのスーパーに、毎日、五時間のパートタイムで勤め始めた。ユウキの心配を余所に、彼女の働きは抜群で、一月もすると職場の責任者になり、正社員にとの話が出るほどになったが、家の事が疎かになってはと辞退した。友達も出来て、ユウキをほったらかして女子会に出掛ける事もあった。
この頃になると、お互いの気が知れてきたこともあり、ステラは言いたいことも言う、活発な感じになっていた。本来の人格がにじみ出てきたのかもしれないとユウキは思った。
ある時、二人で街に出掛けた帰り道、酒でも飲もうと、行きつけの小さなスナックに寄った。
ここのママは、60前後の喋りのうまい小太りのおばさんで、ユウキと同郷ということで話が合った。店にはもう一人、ヨウコという可愛い女の子がいて、背が高くイケメンのユウキが好みなのか、彼の傍から離れようとしなかった。
ほかに客はいなかったので、ステラはママが気遣って相手をしていたが、ステラもヨウコの事が気になるのか、チラチラと彼女に視線を向けていた。
その内、ステラはグイグイと酒を飲み始め、30分もすると、目がすわって来て、「あまり飲みすぎないようにね」とユウキが諭した時には、ヨウコに絡み始めていた。そして、ステラの悪態がエスカレートしてゆくと、ヨウコは逃げ出してしまった。
「待ちなさいよ!」
彼女を追おうとしたステラを、ユウキが止めた。
彼は、ステラが暴れだしたら恐らく止められないと思い、ママに謝ってステラを無理やり連れだした。
ステラは、大きな声で訳の分からないことを口走りながら、訳の分からない方向へと歩き出した。
ユウキは周りの目を気にして、タクシーに乗ろうとしたが、ステラが、ドアにしがみついて乗ろうとしないので、止む無く歩いて帰る事になった。
「私がいるのに、あの女とばかり話すなんて。私が嫌いなの!」
ステラが、しどろもどろの声でユウキを攻めだしたので、宥めながら出来るだけ人の通らない道を選んで帰った。暫くして、彼女が道端に座り込み、静かになったと思ったら、寝てしまっていた。
ユウキは、彼女を背負うと、その鼓動を背中に感じながらテクテクと帰った。