夢の続き
「クソッ!」
夜の帳に包まれた木々の間を疾駆しながら、毒づく独りの人間。
それは彼、はたまた彼女には本来備わっていないはずの悪感情の表現。
純粋に心の底。焦燥や苦痛を反映した、その本能からの叫びだった。
その顔は袖や裾が千切られたようになっている薄汚れた外套で覆われて、伺うことはできない。
ただ、その体つきからはかなり小柄な印象を受ける。外見とは裏腹にその油断ない足運び、身のこなしは形容するなら風、あるいは音だろうか。
暗澹たる森の中において衣擦れの音も立てず、足跡も残さず、それでいて視認するのも難しいほど高速で走り抜けている。
—―どうしてこうなった?
とは、あれから何度思ったか。人間はもう覚えていない。一つ言えるのは、これも神の思し召しだというのなら……。
「……パンよりも農家を大事にするみたいだね……。ボクらの信じるカミサマは……」
少年とも、少女とも取れる幼さを伴った声で自嘲交じりに呟かれたそれは、今の自分では不可変の、偉大なる神がもたらした現実への認識だった。
「ッ……!」
唐突に人間はその場で身を躱し、走行の勢いを利用して跳躍する。直後、一筋の風が人間の頭部があった場所を通り抜けた。それは、どす黒い殺意を伴った不可視の物体。不定期に人間のもとへと飛来する、死へと誘う隣人だ。
人間は枝葉を足蹴に再度跳躍しつつ、長時間の走行で火照っているはずの体をぶるりと震わせる。
四方どころか、上下左右。果ては、自分の内面までもが黒く染まり始めるような感覚を覚える。もう幾度目かもわからない感覚に、人間はその足を止めて発狂することも叶わない。
それはひとえに、今もすぐ背後には五つの「闇」が迫っているからだ。
一つ潰したから四つだろうか。人間は森を抜けつつ思考する。しかし自分を定義づける材料があやふやになってしまうような気がして、人間はその思考を放棄する。墓穴を掘って埋まりたくはない。今すべきは走ること、ただそれだけだ。
人間の主観を訂正するなら、決して世界のすべてが闇に染まっているわけではない。
木々を抜けた先には広大な麦畑が広がっており、麦穂の海が四方に向けて、黄金色の光を発していた。夜空には星々がきらめき、背後に広がる稜線。その彼方には、眩いほどの光を放つ真円の月が遍くを照らしている。
ただそこに、その人間は含まれていないのだった。
人間は半ばあきらめていた。その背後には付かず離れず「闇」がいた。
自分が止まれば「闇」もまた止まる。どれだけ速く走っても同じ距離感を保ち続ける。
そんな状況で立ち止まるほどの胆力を、人間は持ち合わせてはいなかった。
――どうしてこうなった?
人間はまたも思う。理由ならいくらでも思いつく。
名前が悪い。家が悪い。権力者が悪い。生まれた場所が悪い。親の立場が悪い。十把一絡げにして運が悪い……。
――でも……。
それらに何の疑問も抱かずに養われていた自分が一番悪い。そんな事は分かっている。
運が悪いならどうするか。決まっている。掴み取れ!
地縁も血縁も、生まれも立場も力も出会いも運命も!
「主よ。今日も生きる糧を与えてくださり、ありがとうございます。今ボクは、一直線にあなたのもとへと進んでいます」
人間が皮肉気につぶやくそれは、生まれて初めての自由を謳う、最後の讃美歌だった。
遥か東から星空が白み出し、それに遅れて夜の帳を放射状に書き換える陽光線。
その光に抗うように、すべてを反射する白壁が地平線を埋め尽くしていく。
それは人々の希望の象徴。そして、数々の波乱を孕んだ、狭くて広い世界への入り口。
果たして、それらは人間の目にどう映っただろうか。
「フッ……」
人間は笑った。
「ハハ……アハハハハ!」
気づけば、大声で笑いだしていた。まるで、生まれて初めての感情を謳歌するように。
それに反応し、人間を挑発するように、あるいは試すように稜線の彼方へと明月が、欠伸交じりで沈んでいく。
これは、すべてを失い生まれ変わることを決意した人間の、相手のいない復讐劇。
陰と陽とが交替し、白壁の頭から顔を出し始めた太陽が、人間の新しい人生の幕開けに灯を点していった……。