田園風景監察官
私はいつも、夕方の4時に散歩をする。
理由は、気分転換、考えを整理する為、そして引きこもり対策である。
このご時世、引きこもっているのが一番的健康的なのであるが、昼白色の照明とブルーライトの画面を眺めるだけでは、どうも息が詰まる。
やはり、人間はお天道様の光を浴びないと心は晴れないらしい。
こらえきれず、外の様子も確認せず、履き慣れた靴と共に私は(きっちりマスクをして)、外へ飛び出した。
しかし、その勢いを削ぐように雨が"ザーザー"と降り注いでおり、空を見上げると、鉛色の雲が、錘のように憎たらしく居座っていた。
仕方なく、愛用の透明な傘をさしてブラブラと家の周りをほっつき歩いた。
雨がコンクリートにぶつかる音、車に轢かれる水溜りの音、右足の靴に入りこんだ雨のぐしょぐしょ感などを味わいながら。
しばらくしてふと、南の方角へ視線を向けると空が少しだけ明るいことに気づいた。
雲の隙間からチラチラ覗いて見える、光のカーテン。それが妙に気になって、惹かれるようにして、南の方へと歩いた。
踏み切りを越えると、万里の長城みたいな、高速道路の分厚いコンクリートの壁にぶつかった。目の前には、丁度車が一台通れるぐらいのちょっとしたトンネルがあり、中は薄暗く、微かに聴こえる、吹き抜ける風の音が、いい感じの不気味さを演出していた。
反して、出口の方は明るく、その明るさに包まれるようにして、まもなくして私はトンネルを抜けた。
するとそこには、若々しい緑色の稲が、ゆらゆらと水面のように揺れる、美しい広大な田園と、その真っ只中に雄々しくそびえる鋼鉄の送電塔が一つ、立っていた。
あまりこちらは降っていなかったのか、実をつける前の若い稲達が、海のように田園の陰影を、光のグラデーションを彩っていた。
そんな風にして眺めていると、透明の傘をすり抜けて、背中に暖かさを感じた。
振り返ってみると、千切れた雲間から太陽が顔を覗かせ、あまりの眩しさに私は目を細めた。
私は傘を閉ざし、青く透き通る空を背景に、燦然と煌めく太陽とそれを囲むような雨雲が同居する芸術的な景色を眺めながら、ある言葉を思い出した。
それは、あるドイツ人作家のエッセイに書いてある言葉だった。曰く、「美を解する器官を持ってそれを楽しむ能力さえあれば、人間はいつでも幸福になれる」…だそうだ。本当はもっと長く、思慮深い表現だったと思うのだが、趣旨としては大体合っているはずである。
幸福とは何か、幸福の定義とは何か。多くの人が一度は考えるのだろうが、多くの人が考えた割には、コレと言った答えはない。あるいは多すぎる。神学論争並みに目に付きやすい割には、真剣に取り組まないし、面倒なこの論争。個人が目指す幸福と社会が定義する幸福が矛盾する不毛な論争を、誰が楽しめるというのか。嬉々として語るのは得てして皮肉屋ぐらいだろう。
芋づる式に考え、悩んでしまうのは私の悪い癖だ。考えることを止めようとしたその時、子供達の笑い声や甲高い喚声が聞こえてきた。
声のする方へ視線を移すと、黄色の通学帽子を被った10人ほどのマスクをした小学生達が、丁度踏み切りを越えているところで、5人目の子供が渡り切った瞬間、遮断器の赤いランプが明滅し、あの独特な機械音が鳴りだした。
大きな問題も無く、子供達は渡り切ったのだが、最後尾の少年だけが遮断機のギリギリ内側に残るいたずらをし、それを見ていた1人の少女が、その少年の腕をグイと思い切り引っ張って、下校集団の中へと引き戻した。
その後、彼らは、それぞれ5人ずつに分かれ、海のような田園の田舎道を渡っていった。
そんな微笑ましい景色を見ていると自分の悩みというか、やるべきことというのは単純で明朗なものの思えた。
地元の、ほんのささいな美しい景色を眺めて、それを綺麗だなと感じる、取るに足らない普通の感覚を持てることは、やはり幸せの一種だろうし、楽しそうに下校する子供達が、今も将来も、いろんな意味で“息苦しくない世界”になっているように、そういう世界を作るためにも、今の自分が幸せになるように努めようと、その思いを心に留めた。
お読みいただきありがとうございました。