彼女を好きになった日
*
夏風が運んできた眩しくて優しい時間は
しゅわしゅわと弾けて、淡い想いを残して溶けていった。
*
進む道を誰かに決められていることは、楽であると同時に自由を手放すことだ。そして、俺の家で自由を手にするということは、軽蔑されるということだった。
『お前みたいな弟をもって恥ずかしい』
『反抗したいだけだろ。かっこ悪い』
兄から言われた言葉が容赦なく心を抉った。
これが自分の自由と引き換えに得た代償なのだということは、わかっている。
医者になれ。そう言われて育ってきた。まるで医者にならないと価値がないかのように、呪文のように唱えられてきた父さんの言葉。
祖父も医者で、父さんも同じように医者になった。
父さんの弟である叔父は医者になることを諦めて、カメラマンを目指しながら現在も撮影スタジオでアシスタントとして働いている。そのことを父さんは染谷家の恥だと思っているらしく、叔父を会うたびに批難していたのを未だに覚えている。
小学生の頃、叔父が言っていた。
『俺みたいにはなっちゃいけねぇけど、兄貴……お前の父さんみたくなる必要もないんだぞ』
父さんみたいに医者になれと言われ続けていた俺にとっては衝撃的な言葉だった。
『人は自由なんだ。他の誰かになろうとする必要なんかない。壮吾は壮吾のしたいように生きろよ』
薄暗く締め切っていた部屋の中に陽の光と風が吹き込んだかのように、目の前が一気に開けた気がした。
もしかしたら叔父は、俺たちが父さんの生き写しのようになっていることを危惧して言ってくれたのかもしれない。
己の個性を消し、シナリオ通りの人生を歩む役者のようになってしまっていた俺たちは子どもらしさという無邪気な部分が欠落していた。
昼休みや放課後にサッカーやゲームで遊ぶこともせず、家に帰ってひたすら勉強が当たり前。
休日に友達と遊ぶこともしたことがなかったし、夜にアニメやバラエティ番組を観ることも許されなかった。ついているのはニュースだけ。
だから、いつも教室では一人だった。
今流行りのものを知らず、話題にもついていけないし、遊ぶのなら勉強に時間を費やせと言われてきたので話題の合う友達なんていなかった。
そんな中で唯一見つけた好きなことが絵を描くことだった。
美術の授業で校内のどこでもいいから風景を描くという授業で、真っ白な画用紙を画板にのせて鉛筆を一本と消しゴムを一つだけ持って校内をうろついた。
ほとんどの人が中庭や校庭へと向かう中、俺は誰もいない教室へとたどり着く。電気は消されているけれど、窓から太陽の光が差し込んでいて十分な明るさだった。
普段は人がたくさんいる教室は今は自分以外誰もいない。胸につっかえていたなにかが取れて、呼吸がしやすくなった気がした。
真っ白な画用紙に鉛筆をすべらせるように少しずつ描いていく。自分の呼吸と鉛筆の音、近くの教室から聞こえてくる授業をしている先生の声。
夢中になっていくと、聞こえていた音はいつの間にか聞こえなくなり画用紙いっぱいに目に見ている教室の風景を描き込んだ。
指定された時間の少し前に美術室へ戻り、先生に絵を提出すると目を丸くして興奮気味に俺に詰め寄ってきた。
『染谷くんすごいわ!』
なにがすごいのかよくわからなくてきょとんとして立ち尽くしていると、先生は目をキラキラと輝かせて俺の描いた絵を褒めてくれた。まるで宝物でも見つけた子どもみたいだった。
『普段から描いているの?』
『いえ……ほとんど描いたことないです』
褒められることなんて滅多にないから気恥ずかしくて声がどんどん小さくなっていってしまった。
『染谷くんは絵の才能があるのね』
『才能……?』
『ええ』
きっと深い意味はなく、ただ絵をあまり描いたことがないわりに描けていたからだと思うけれど、小学生の俺にとっては泣きそうになるほど嬉しい言葉だった。
叔父の言葉が頭を過る。
『お前の父さんみたくなる必要もないんだぞ』
『人は自由なんだ。他の誰かになろうとする必要なんかない。壮吾は壮吾のしたいように生きろよ』
俺のしたいように生きるのなら、絵を描きたい。もっともっと色々な風景を描いてみたい。
そんな願いと想いが生まれた瞬間だった。
***
それから昔から貯めていたお年玉でこっそりと画材を購入して絵を描き始めた。
中学では美術部に入り、色の塗り方を教わり、家族にバレないように絵の勉強をしていた。
先生に出してみたらどうかと言われた絵のコンテストに応募して賞をとったことがきっかけで更に絵を描くということに夢中になっていった頃、父さんに絵のことがバレてしまった。
『こんなもの無駄だ。くだらない』
そう言って父さんが描きかけだった絵を引き裂いた。母さんは怯えてなにも言わず、兄も弟も冷めた目で傍観している。
『俺は……医者にはならないよ』
初めて父さんに逆らった瞬間――――頬を思いっきり殴られた。
頭がくらくらして、視界が白く弾け飛ぶ。頬は痛みよりも熱が主張していて、心臓でも持ったかのようにどくどくとした動きが伝わってきた。
ぼんやりとした頭で腫れるだろうなと考えながら、威圧的に俺を睨みつけている父さんと目が合う。
『頭を冷やせ』
それだけ言って、父さんはリビングから出て行ってしまう。
母さんも、兄も、弟も誰も声をかけずに出て行き、残されたのは床に座り込む自分と千切れた紙。
怒られて当然だ。この家での常識は医者になることなのだから。娯楽なんかいらない。ひたすら学べ。そういう方針のもとで育てられてきた。
悲しさや寂しさよりも、ようやく見つけられた好きなことを失わないように床に散らばった紙をかき集めて大事に手の中に閉じ込めた。
***
父さんに指定されていた兄と同じ高校ではなく、違うところを受けた。一応事前に母さんには伝えていたけれど、なにか聞かれても知らないふりをしてほしいと言っておいた。
母さんにまで怒りの矛先を向けられたらさすがに堪えられない。怒られるのは自分一人で十分だ。
避けられることはないと思っていたけれど、高校受験の件を知った父さんは容赦なく俺に制裁を下した。
殴り、蹴り、罵倒する。お前は家の恥だと、どうして言う通りにできないのだと言われて、自分に求められていたのは人形として生きることだったんだと実感する。
『か、顔はやめて……!』
止めてくれるわけでもなく、控えめに言った母さんは俺と目があうと怯えた様子で視線を下げた。きっと俺の目は酷く冷めきっていた。
いつか帰り道で見た手をつないで楽しげに道を歩いている親子。そんな関係はこの家には存在しなかった。わかりきっていたことを考えてしまって自嘲気味の笑みを浮かべながら、ぽたりと落ちる雫をしばらくの間眺めていた。
高校は自分が望んだところへ行けるようになったものの、未だに父さんは俺を医者にすることを諦めていなかったみたいだった。
美術部で絵を描いていると時間を忘れるくらい夢中になれて楽しかったけれど、コンテストにはいくら応募しても結果が出なかった。
いつの間にか賞をとることに執着していき、自分を見失いかけた頃、部内で嫌がらせを受けるようになった。
物を隠されたりするくらいで、壊されたり、板橋先輩に嫌味を言われることもあった。
『賞が取れない絵なんて無価値で無意味』
悔しかったけれど、その通りだと思ってしまった。俺の絵は今のままでは無意味でしかない。
美術部に行かずに誰もいなくなった放課後の教室で窓から吹き込む夏風を感じながら、去年の合唱祭の曲を口ずさむ。
この曲は好きだった。特に出だしの部分が好きで、心地よい気分で鼻歌に浸っていると音がして慌てて振り向く。
そこにはクラスメイトの女の子が立っていた。
席は遠くて話したことなんて一度もなかったけれど、目立つグループにいる一人なので俺でも知っている。
茶色の長い髪に、短めの制服のスカート。俺とは見ている世界が明らかに違い、いつも友達と楽しそうに談笑している子だった。
よりにもよって鼻歌を聴かれてしまうなんて恥ずかしすぎて、咄嗟に俯く。
『一年のときの合唱祭の課題曲だね』
声をかけられたことに驚いて顔を上げると、彼女は友達と話すときと変わらない様子だった。教室でいつも絵を描いていて暗い俺にこんな風に気さくに話しかけてくれるとは思わなかった。
『……下手くそだったでしょ』
歌はうまくないことは自分が一番わかっているから、合唱祭のときは足を引っ張らないように極力控えめに歌っていた。
『ううん。綺麗だった』
『そんなわけないよ。音外してたし』
『すごく綺麗で楽しくて、眩しかった』
お世辞で言ってくれているのだろう。そう思って、視線を再び彼女へと向けると目に映った光景に言葉を失う。
日差しを浴びて微笑んでいる彼女は思わず目を瞑りたくなるくらい眩しくて、それでも逸らしたくないくらい綺麗だった。
心臓が不規則な音を立てて、先ほど鼻歌を聴かれたときとは違う動揺と熱を持った感情がせり上がってくる。
『中村さんのほうが眩しいよ』
そんな言葉を返してしまったら、彼女――――中村さんは目を丸くして黙ってしまった。意味がよくわからないようで首を傾げた彼女に笑いかける。
『いいよ。わからなくて。そのままでいて』
この人は自然体でこんなにも眩しくてキラキラとしているんだ。彼女にはそのままでいてほしい。まっすぐな瞳で、飾ることのない笑顔で、明るいままでいてほしい。
彼女を前にすると自分の黒く汚れた部分が浮き彫りになってしまうような気がするけれど、俺は純粋に憧れてしまった。
中村さんが教室を去った後、クロッキー帳に脳裏に焼きついた光景を描く。
教室で太陽の光を浴びて、微笑んでいる眩しい彼女。
描いた後に恥ずかしさがこみ上げてきて、見られてしまったら気味悪がられるのではないかと思って慌ててカバンの中に仕舞い込んだ。
それからそのクロッキー帳は学校に持って行かずに部屋に仕舞っておいた。
それなのに――――まさか母さんが本人に見せてしまうなんて予想外なことが起きてしまった。
幽体離脱というものをしてしまった俺は中村さんと豊丘先生とともに俺の家に訪れた。そのときに母さんは中村さんに彼女なのかとまで聞いていて、恥ずかしいのと困らせてしまう勘違いに頭を抱えた。
しまいにはあの絵を見せてしまい、豊丘先生は中村さんにラブレターだなんて言い出すので叫んで逃げてしまいたいくらいだった。とはいっても、俺は何故か中村さんにしか視えていない。
当の本人は驚いているようだったけれど、あまり気にしていないみたいだったのでホッとする気持ちと意識されていないという複雑な感情が入り混じる。
あの放課後の日から目で追うようになってしまった同じクラスの女の子。俺にとっては特別でも、彼女にとって俺は特別なんかじゃない。
わかっているのに、中村さんは俺に屈託のない笑顔を向けてくれる。
それがどうしようもないくらい嬉しくて幸せで、このままでいいはずなんてないのにこのままでいたいなんて思ってしまう自分がいる。
***
俺の家に行ったあと、中村さんはとっておきの場所に連れて行ってくれた。そこは昔懐かしい雰囲気のノスタルジックな駄菓子屋だった。
中村さんが建て付けの悪い引き戸を開けると、振動する音が大袈裟なくらい響いた。
古い木と埃と、生活感のある匂い。裸電球が天井からぶら下げられている薄暗い店内の奥には腰の曲がったおばあさんがお茶を啜っていた。
「おやまあ、あーちゃん久しぶりだねぇ」
「うん! 久しぶり。おばちゃん、元気だった?」
中村さんとおばあさんは親しげに会話を交わしていると、ランドセルを背負った男の子たちが大きな足音を立てながら店内に駆け込んでくる。
「ばあちゃん! 俺これアタリでた! 交換して」
「ずっりー! 俺ももう一個買う!」
「俺、このゴールドのチョコ買うー! これアタリでやすいんだぜ」
小学生って普通はこんな感じなのだろうか。俺にはこういうときがなかったからよくわからない。駄菓子屋にきたのも今日が初めてだ。
活気あふれる子ども達に圧倒されていると、中村さんはガラスケースの中からラムネ瓶を二つ取り出して、二百円をおばあさんの側に置いた。
「また来るね!」
皺が刻まれた笑顔で頷いたおばあさんに手を振って中村さんが駄菓子屋を出て行く。その後ろを慌てて追うと、すぐ側で彼女は待ってくれていた。
「小さい頃ね、ここで駄菓子を買うのが楽しみだったの。昔は駄菓子屋のおばちゃんって呼んでいたのに、いつの間にかばあちゃんって呼び方に変わっていて驚いちゃった。時は流れていっているんだね」
懐かしそうに目を細めている横顔はほんの少しだけ寂しげだった。けれど、そんな表情は一瞬で俺の方へと向き直るとニッと白い歯を見せて両手でラムネ瓶を持って、見せつけるように掲げた。
「今の染谷くんは飲めないけど、窓際に置いておこう! 目が覚めたら一緒に飲もうね!」
「いいの?」
「もちろん! てか、私が勝手にしているだけだよ」
彼女はこうして目覚めたときの楽しみを作っていってくれているような気がした。だけど、俺は言えない。
ある異変に気づいてしまっているけれど、言ってしまえば本当にそうなってしまいそうで、俺自身はそれを望んでいないから。
「染谷くんの描いたラムネ瓶すっごく綺麗だった」
「ありがとう」
「好きなものを詰め込んだんでしょ? だったら、そのときによってラムネ瓶の中の世界は変わるのかな」
笑顔が眩しくて、柔らかで優しい口調が心地よくて話していると不思議な高揚感に包まれた。
彼女の言う通り、きっと今描いたらまた違った風景をラムネ瓶の中に詰め込んでいるよ。この日の夕焼けはきっと入る。好きな子と見た思い出の日だから。
「ね、見て!」
彼女が持ったラムネ瓶の向こう側には、琥珀色に染まっている夕焼け空と太陽。
「本当に空と太陽を閉じ込めたみたいに見えるね!」
きっと彼女はこれを俺に見せたかったのかなと、ふと思う。
俺の見えている世界を少しだけ共有できた気がすると無邪気に笑う彼女は、俺の家の話を聞いても無理に励ましてくれるわけでも慰めてくれるわけでもない。
ただ傍にいてくれて、俺の好きな景色を見せてくれる。
ラムネ瓶の中に閉じ込めた夕焼け空は、燃えるように熱くて眩しくてしゅわしゅわとキラキラと輝いていた。




