八月で止まった記憶
*
君は思っていたよりも、よく笑う人だった。
*
夢の中にでもいるんじゃないかっていう状況に頭を悩ませる。
水色で統一している私の部屋は八畳くらいの広さで、ベッドと小さな木製のテーブル、本棚などがスペースを取っているため人がふたりいると少し狭く感じる。
床に放置していた読みかけの雑誌以外は片付いていたのはよかったけれど、私の部屋に染谷くんがいる。しかも、幽霊だ。
それでも好きな人には変わりなくて、今更緊張が全身に巡ってくる。
あれから酷く困惑して座り込んでしまった私を見兼ねたのか、落ち着ける場所で話をしようと言われたので自分の家まで来てもらう展開になってしまった。
いきなり家に呼ぶのは少し抵抗があったけれど、頭がパンクしそうな私にとっては家が一番落ち着いて話せる場所だった。
念のためもう一度彼を盗み見る。
……何度見ても同じクラスの染谷壮吾くんの姿をして見える。
「えっと……染谷くん?」
「ん?」
彼はやっぱり染谷くんに間違いない。どこからどう見ても、染谷くんで他の誰かではない。
幽霊なんて生まれてこのかた視たことがなかったので、信じられないという感情ももちろんあった。けれど、目の前で私に触れられないということを見せられたので無理矢理にでも信じるしかなかった。
しかも、染谷くん曰く私しか彼の姿が視えていないらしい。
確かに家に帰ってきたとき、お母さんはいつもどおり「おかえり」と言っていた。横に染谷くんがいたのになにも触れてこなかったのだ。
星型のクッションを抱きしめながら、恐る恐る尋ねる。
「あの、本当に幽霊なんだよね?」
「うん。そうみたい。事件現場で倒れている自分を見たし、今も俺の身体は病室で眠っている」
想像以上に軽い受け答えをされてしまい、どう反応していいのか困ってしまう。
つまりは染谷くんの本体は意識が戻っていないだけで生きてはいる。けれど、肝心な意識が霊体化してしまったということなのだろうか。前に読んだ漫画の中の世界みたいで、いまいち現実味がない。
「聞いてもいい?」
「いいよ。なに?」
「染谷くんはどうして階段から落ちちゃったの?」
私の質問に染谷くんは困った様子でなにかを考え込んでいるみたいだった。
もしかしたら話しにくいことを聞いてしまったのかもしれないと後悔した直後、染谷くんは苦笑しながら冗談でも話すような口ぶりで言った。
「実はさ、全く覚えていないんだ」
「え、覚えてない?」
「落ちたときのことだけじゃなくて、落ちる前の記憶もすっぽりとないんだ」
その内容に驚愕していると、染谷くんはあっけらかんと、全く気にしていないように肩を竦めて口角を上げる。
「不思議だよね」
落ちたときのことを覚えていないからか、本人からは深刻さが全く伝わってこない。この状況は慌ててもおかしくないと思うけれど、染谷くんは案外楽観的なのだろうか。
「あれ?」
壁に掛かっているカレンダーを見て、染谷くんは「今って九月なの?」と聞いてきた。今更九月なのかと聞かれることが不思議だった。
「え、うん。そうだよ」
私の返事に表情を曇らせた染谷くん。どうしてそんな表情をされるのかわからない。
「八月じゃないの?」
「へ? 八月? とっくに過ぎてるよ」
携帯電話のディスプレイに書いてある日付を見せると、染谷くんは考え込む様子で黙り込んでしまった。
「俺の中では八月で止まってる」
染谷くんが階段から落ちたのは九月。それなのに八月で止まっているというのは妙だ。九月の半分くらいの出来事を覚えていないということになる。
「理由はわからないけれど、九月の記憶が全くないみたいだ」
「記憶がないって……それって大変なことなんじゃない?」
「……でも、きっとなくてもきっと困らない記憶だよ」
染谷くんの微笑みはどこか寂し気で、本当は気になっているんじゃないかと思う。
もしも私だったらすっぽりと抜け落ちてしまった記憶のことは気になる。どうにかして思い出したいってなるはずだ。
「元に戻るには染谷くんの身体の傍にいた方がいいとかはないのかな」
「……俺も最初はそう思って、自分の身体に触れようとしたんだけど弾かれたんだ」
「弾かれた?」
「うん。まるで拒絶しているみたいだった」
染谷くんの身体が目を覚ますことを拒否しているということ? けれど、それじゃあ染谷くんはいつまでたっても目を覚まさない。幽霊のままになってしまう。
そう考えるだけで、血の気が引いていく。
「もしかして、無くした記憶と戻りたくない事情が関係しているとかはないの?」
「それはありえるかもしれないね。でもさ、俺の事情なんてきっと大したことないと思うんだ」
私は彼をまだよく知らない。
知っている部分よりも、知らない部分の方がきっとたくさんある。だから、こんなに悲し気なのに、きっと不安でたまらないはずなのにかけるべき言葉が見つからなくて、彼の心に触れていいのかも躊躇してしまう。
「染谷くん!」
「え、なに?」
このままではいけない。部外者の私でもそれくらいわかる。九月の記憶だけがないのには、きっとなにか理由があるはずだ。
「私と一緒に探そう!」
立ち上がり、染谷くんの前に手を差し出す。
ひょっとしたら私はありがた迷惑をしようとしているのかもしれない。また暴走してしまっているのかもしれない。
中学の頃も部活で顧問によく叱られた。私はこうと決めたら周りを見ていないことが多いって。
それでも、このままではいけないって全身をなにかが突き動かす。だって、染谷くん全く平気そうな顔をしていない。
寂しそうだよ。不安そうだよ。無理して笑わないでよ。私が視えている。
他の人には視えていないのに、私にだけ視えているのならそれはなにか意味があるんじゃないかって、夢見がちかもしれないけれどそう思わずにはいられない。
自惚れ。脳内花畑。ありがた迷惑。
それでもいい。放っておけない。だって、私染谷くんにあの教室に戻ってきてほしい。
「記憶取り戻そうよ。もしかしたらすっごく大事な記憶かもしれないよ」
「けど、中村さんをそんなことに巻き込むわけにはいかないよ」
「巻き込んでいいよ。染谷くんはなににも触れられないんだし、私にできることをやらせて」
目を大きく見開いて驚いている染谷くんに笑いかける。
「それにこの際さ、元の身体に戻る前にいーっぱいいろんなことしとこうよ! 歌を口ずさんでも、大声で笑っても、泣きじゃくっても、全部私にしか聞こえないから、好き放題しちゃおう!」
誰の目にも映らなくて、彷徨っていた彼の心は少しずつ孤独に蝕まれてしまう気がした。
あまり強引なことはしたくないけれど、もしも彼が望んでくれるなら私のことを使ってほしい。協力させてほしい。
私の好きな人は染谷くんなんだよ。このまま幽霊のまま、目を覚まさなかったら困っちゃうよ。
「中村さんに聞こえちゃうのは恥ずかしいな」
「私は気にしないのに。一緒に歌うし、笑うし、泣くよ?」
「中村さんって変な人」
染谷くんが笑った。さっきとは違う。無理をしていない笑顔だ。顔をくしゃっとさせていて、少しだけ幼く見える染谷くんに胸がぎゅっと掴まれる。普段教室では見ることができなかった表情だ。
「中村さん、ありがとう。よければ、手伝ってくれる?」
染谷くんのこといっぱい知りたい。私のこといっぱい知ってほしい。そして、好きって伝えたい。下心ある協力者でごめんね。それでも私、好きな人の力になりたい。
「もちろん!」
「これからよろしく」
私が伸ばしていた手に染谷くんが自分の手を重ねる。触れ合っているように見えるのに、感触がない。それでも私たちは確かに握手を交わした。
***
幽霊といえど家に帰らなくていいのかと聞くと、染谷くんはあまり戻りたくないらしい。
詳しくは話してくれなかったけれど、もしかしたら声がかけられないのに心配している家族の傍にいるのは精神的に辛いのかもしれない。
身体が病院にあるとはいえ、慣れない病院にいるのも嫌だそう。
彼はどこかで朝まで暇をつぶすなんて言っていたので、咄嗟に「うちにいればいいじゃん!」と言ってしまった。
勢いで言ってしまい、現実問題着替えや寝るときとかどうしようなんてぐるぐると考えていると、私の心中を悟ったのか夜はベランダにいるよと染谷くんは私の部屋の窓を指差した。
どうやら寒さとかを感じないらしいので、外にいても家にいても同じそうだ。
ベランダに近づき、窓を開ける。少し冷えた夜風にカーテンが揺れた。
「ねえ、染谷くん」
夜の闇の中に彼が立っている。好きで、近づきたいと思っていたのに勇気が出なくて遠くから見つめていた彼。
「どうしたの?」
振り返った染谷くんが不思議そうに首を傾げた。風が吹いても髪が揺れていない。本当に幽霊なんだと、実感しながら彼と向き合う。
「私、無理させてない?」
「無理?」
「……なんかここにいてとか、記憶を取り戻そうとか、結構強引だったかなって」
言葉尻がどんどん小さくなって俯く。昔から暴走しがちなところがあるのは自分でもわかっている。優しい染谷くんははっきりとは言えないかもしれない。
こんなに臆病になっているのは、きっと相手が好きな人だから。嫌がれられることを恐れているんだ。
「そんなこと気にしてるの?」
「そんなことって……」
染谷くんにどう思われるのかは私にとっては大きなことなのに。けれど、そんなこと想いを知られていない彼にわかるはずがない。
「俺は嬉しかったよ。中村さんにそんな風に言ってもらえて」
「本当に?」
「うん。だから、そんな顔しないで」
顔を上げると染谷くんが優しげに微笑んでいる。手がゆっくりと私の元に伸びてきて、心臓がどきりと跳ねた。
好きな人が目の前にいる。微笑んでくれている。でも、その手は私をすり抜けていった。
「ありがとう、中村さん」
すり抜けた手を一瞬悲しげに見た染谷くんは、すぐに手を引っ込めてしまう。
目を細めてなにかと我慢するように口角を上げる表情はどこか苦しそうだ。幽体離脱して、階段から落ちた原因がわからない染谷くんの不安を私が推し量ることはできない。けれど、傍にいさせてほしい。他の人と話ができなくて、触れることもできない染谷くんの手伝いを私がやり遂げてみせる。
「中村さんには迷惑かけちゃってるけどさ、こうして話せるのは嬉しいんだ」
「迷惑だなんて思ってないよ」
私だって話せて嬉しい。そう伝えたいのに緊張して言葉が出てこない。
「同じクラスなのに席も遠いし、俺とは別世界にいる人だなって思ってたんだ」
「別世界?」
「明るい場所で人に囲まれていて、鮮やかな世界」
染谷くんが意識不明で運ばれてから、色褪せたかのように虚しい世界に思えていた。けれど、染谷くんの幽霊と出会って再び色を取り戻す。本人には告白みたいで言えないけれど、私の世界に色をくれていたのは染谷くんだった。
彼を好きになってから、毎日が更に楽しくなった。教室で絵を描いている横顔を覗き見たり、廊下ですれ違うだけで嬉しくて、学校が楽しみだった。
「私……染谷くんの世界が見てみたいな」
「俺の世界なんて見たって味気なくてつまらないよ」
微笑みが消えた染谷くんの横顔を見て、豊丘先生が話していた痣の件を思い出す。誰かと上手くいっていないのかもしれない。けれど、私が踏み込んでいいものなのか躊躇してしまう。
「風が結構吹いているみたいだけど、寒くない? もう部屋に入ったほうがいいよ」
「うん。そろそろ戻るね」
本当はもう少しだけ一緒にいたい。けれど、これ以上夜風に当たっていたら心配をかけてしまいそうだ。
「おやすみ、中村さん」
好きな人からのおやすみは、顔が綻んでしまいそうなほど嬉しい気持ちで溢れてくる。でも見えない染谷くんの気持ちが少しのほろ苦さを心に落としていく。両思いとは程遠い、私たちの奇妙な関係。
「おやすみ、染谷くん」
こうして私と染谷くんの共同生活が始まった。
その日の夜、ベッドに横になりながら未だに緊張がとけず、胸に手をあてる。
好きな人がすぐ傍にいる。
幽霊だけど、染谷くんで、カーテンを開けたら彼がいるんだ。
どうして染谷くんは九月の記憶を忘れてしまったのだろう。一体なにがあったのだろう。
答えの出ないことを考えていると、次第に瞼が重くなりいつの間にか深い眠りに落ちていた。