そして、透明になった
翌朝、学校の支度をしながらテレビを眺める。事件や芸能人の熱愛報道など、様々な情報が流れていて、それを観ながら目玉焼きを咀嚼していく。
まるでなにもなかったかのような朝だ。
「朱莉、学校行ける?」
「……うん、大丈夫」
昨夜、あまり食欲がなかったから心配しているようだった。お母さんは「食べられなさそうなら残していいわよ」と言って、気を使うように微笑む。
昨日のことは夢ではない。染谷くんが非常階段から落ちて、意識がないまま病院に運ばれた。
おそらく故意で落ちたわけでも、誰かに落とされたわけでもないと思う。染谷くんが階段から落ちたとき、すぐに駆けつけたけれど他に人はいなかった。事故の可能性が高いけれど、どうして放課後にあの場所にいたのかが不思議だった。
家を出て、いつも通りの道を歩く。すれ違う会社員や小学生。私が通っていた中学の制服を着た女の子たち。すべて私の変わらない日常の一コマ。けれど、心がどこか別の場所にいるようで、世界が色褪せて見える。
手のひらを緩慢な動作で握りしめる。初めて染谷くんに触れた。けれど、彼は全く動かなくて、声も届かなかった。
怖かった。それが最初にせり上がってくる感情だった。
好きな人だということもショックが大きいけれど、人の生死を初めて身近に感じた。それに、目の前で倒れている人がどうなってしまうのかという不安。
泣きじゃくることしかできなくて、遠藤先輩の方がずっと冷静だった。
染谷くんの目が覚めたのか、早く学校に行って先生に確かめたい。いつもよりも早足で学校へ向かった。
***
生徒たちの間で、昨日の放課後に染谷くんが病院に運ばれたことが広まっているようだった。救急車も来ていたし、大人たちが慌てているのを目撃した生徒も多いのだろう。
「意識ないとか言ってたよ!」
「染谷くんが担架で運ばれていた」
「先生たちが深刻な顔をして話していた」
そんな会話が廊下を歩いていると耳に入ってくる。教室に入るなり、宇野ちゃんと花音が大事件だと私の席へと集まった。話題は予想通り染谷くんのことだった。
「意識ないって相当打ち所悪かったってことかな。自殺とかじゃないよね?」
「非常階段から落ちたって聞いたから違うんじゃない? なんか人が立ち入れないように非常階段のところにテープ貼ってあるらしいから、多分そこでなんかあったみたい」
自殺。突き落とされた。喧嘩。
様々な憶測が飛び交っていて、黄色のテープが貼ってあることに気づいた生徒の情報提供から事故現場がすぐに知れ渡ってしまったみたいだ。
なんとなくふたりには私が最初に階段から落ちた染谷くんを発見したことを話せなかった。ふたりを信用していないわけじゃない。大事な友達だ。だけど、胸の奥に重たい感情がのしかかって言葉が出てこなくて、うまく説明ができそうになかった。
昨日のことを今思い出しても怖くてたまらない。
意識を失っている染谷くんを見つけたあのとき、指先が熱を失ったように冷えていった。
ドアが濁音混じりの音を立てて勢い良く開かれる。染谷くんのことで話がもちきりで騒がしかった教室が少しずつ静かになっていく。
「ほら、席つけー。ホームルームはじめるぞー」
出席を取り終わったあと、気になって仕方ないという生徒たちの雰囲気を察したのか、豊丘先生がなんとも言えない表情で頭を掻いたあと、少しだけ染谷くんの話をした。
「染谷のことだが————昨日の放課後に倒れて、病院に運ばれたが意識がまだ戻っていない」
机の上で握りしめていた手から力が抜けていく。溢れ出しそうになる感情を押し込めるように目を閉じた。
静けさを取り戻していた教室が一気に騒めく。けれど、豊丘先生は珍しく今日はそれを注意することなくホームルームを終わりにした。
詳しい事情はなに一つ話されないままだった。階段から落ちたということは一切言わず、倒れたとだけ。だけど、ただ倒れたわけではないことはクラスの全員が噂で聞いていた。
「私、染谷って話したことなかったな」
宇野ちゃんが窓際の一番後ろの空席を見やると、「染谷くんっておとなしい感じだったよね」と花音もあまり覚えていない様子で返した。
染谷くんはクロッキー帳を広げて、よく絵を描いていたよ。おとなしいというよりも、絵に夢中だったんだよ。
「朱莉、大丈夫?」
「へ?」
「顔色あまり良くないし、平気?」
心配そうに私を見ている宇野ちゃんに笑みを返す。
「うん。大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてた」
「……それならいいけど。無理しないで、体調悪かったら保健室行ったほうがいいよ」
言ってしまったら気持ちがバレてしまいそうでぐっと心に押し込める。
まだなにも頑張れていない片思い。頑張る前に彼は目を覚まさなくなってしまった。こんなことになるのなら、恥ずかしがらずに話しかければよかった。下を向いて後悔ばかりで嫌になる。
私にできることはなんだろう。ただのクラスメイト。少し話したことがあるだけ。だけど、私は彼のことが好き。
目を閉じれば、まぶたの裏に浮かぶ放課後の教室に窓の外の澄んだ青空。夏風はカーテンを攫い、彼は心地よさげに鼻歌を奏でている。真っ暗なはずの視界に色濃く蘇る記憶。
あの夏の日から染谷くんに恋をしている。
昨日、保健室まで持って行ってしまったオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆は私が預かっている。
持っていていいものなのか迷ったけれど、彼が目を覚ましたら返したい。けれど、それがいつになるのかはわからなくて、不安が押し寄せてくる。
どうか少しでも早くこの教室に戻ってこれますように。
***
気づいたら見てしまう窓際の一番後ろの席。けれど、教室に染谷くんがいない。
わかっているはずなのに、いつもいるはずの彼がいないことを何度も確認してはショックを受けている自分がいた。
放課後、話したいことがあり担任の豊丘先生を呼び止めた。無造作な黒髪に無精髭の豊丘先生は二十代後半なのに実年齢よりも上に見える。
この風貌で注意を受けないのかは疑問だけど、校則のゆるいこの学校では教師の身だしなみもあまり厳しくないのかもしれない。
「で、話って?」
「……あの」
気だるげに頭を掻きながら、なかなか聞けないでいる私に視線を落とした。
「先生、染谷くんはまだ目を覚まさないの?」
豊丘先生は僅かに目を見開くと、すぐに目を細めてため息を漏らす。
「ああ、まだみたいだな」
「……そうなんだ」
「転落に関しては、特に目立った外傷はないらしいが頭を強く打ったのか目を覚まさないらしい」
確かにあのとき血は一滴も垂れていなかった。染谷くんは痛みに顔を歪めるわけでもなく眠っているように倒れていた。
落ちたことのショックで一時的に気を失っているんじゃないかってあの時は駆けつけてくれた先生が言っていたけれど、未だに意識を戻さないのは自体は思っているよりもずっと深刻なのかもしれない。
「意外だな」
「え、なにが?」
「中村が染谷のこと、こんな風に気にかけるとは思わなかった」
「……そりゃ、クラスメイトだし。それに私最初に発見したから」
動揺を悟られないように声のトーンが変わらないように努めたけれど、視線が合わせられない。
まだ誰にも言ったことのない私の染谷くんへの気持ち。豊丘先生に変に勘繰られたくない。
「周りの声が聞こえてないくらい泣きじゃくってたもんなぁ」
「うるさいな」
あの場に遭遇して冷静でいられる方が無理だ。
心臓は大きく脈打っていたはずなのに、凍りつきそうなほど心が冷えていって、すごく怖かった。
「お前、染谷と仲よかったのか?」
「よかったというか、その……」
どう答えたらいいのかわからず、言葉尻を濁してしまう。
仲がいいわけではなかった。けれど、一方的に私が想いを寄せていて仲良くなりたかった。
「へぇ。そういうことか。なるほどなぁ。すっげー意外だな」
「なにがなるほどなの! その顔やめてよ!」
おもしろがるように口元を緩めている豊丘先生を睨み上げる。
頬が熱い。もしかしたら顔も赤くなっているのかも。
あんなにも泣きじゃくり動揺していた私を見たら、ただのクラスメイトという関係だけには見えないかもしれないけれど、それは私の感情の問題で私たちは単なるクラスメイト。
悲しいけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
「中村」
豊丘先生が私を呼ぶ声のトーンが落ちて、空気が変わる。頬の熱さが少しずつ引いていき、言葉の続きをじっと待つ。
「これから俺が聞くこと誰にも言うなよ」
「え?」
なにやら言いにくそうに一度視線を下げて、指先でぎこちなく顎に触れている。
「染谷って誰かに虐められたり、揉めたりしてたことあるか?」
「え……ちょ、それどういうこと?」
耳を疑うような内容に眉根を寄せて、問い詰めるように一歩詰め寄る。
「教師よりもクラスメイトの方がそういうの気づくだろ」
「ちょっと待ってよ! 染谷くん誰かに虐められていたの?」
「落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない。……ただ、染谷の腕と腹部に痣があったらしい」
教室にいた彼を思い返す。
休み時間は大抵一人で絵を描いていて、クラスメイトと話しているところをほとんど見たことがない。
クラスで虐めなんてなかったはずだ。ましてや、染谷くんのことを悪く言う声も私は特に聞いたことがなかった。
「おそらくそれは転落でできたものではないらしいから、見えない場所にそんな怪我なんて虐めかと思ってな」
「痣って……」
そういえば染谷くんは長袖のワイシャツの袖を折らずに着ていた。肌寒い日もあるから、徐々に半袖から長袖に衣替えする生徒が多いけれど、日中は暑いので大半が長袖を着ていても袖を折っている。もしかしたら、怪我を隠すために長袖を着ていたのかもしれない。
そう考えると、一気に血の気が引いていく。
「けど、その様子だとクラス内ではないのか」
クラス内ではない? それならどこで?
他のクラスの男の子が染谷くんの席に来たのを見たことがあったけれど、険悪な様子でもなく普通に会話をしているように見えた。
あの染谷くんが誰かと揉めているのなんて想像がつかない。
「私が知る限り、染谷くんは虐められたりしてないよ」
「そうか。もしなにかわかったら教えてくれ。ただ、他のやつには話すなよ。お前だから話したんだ」
「私ってそんなに信用あるの?」
信頼を得ることができるほど、私は大人うけがいいほうでもない。学力もいたって普通で優等生でもない。逆に身だしなみや態度を注意されるグループにいる。
それに担任といってもよく話す仲でもないし、私にだけなんてちょっと疑問だ。お喋りだとか、周りの子に話しそうだとか思われていてもおかしくないのに。
「だってお前、男の見る目あるじゃん」
「なっ!」
「だからお前は言わないだろ」
私の想いは豊丘先生には透けて視えてしまっていたらしい。けれど、悔しいことに豊丘先生の言う通りだった。私は友達にもこのことは言わない。言えるわけがない。
きっと染谷くん本人だって誰にも知られたくなかっただろうし、好きな人が困るようなことはしたくない。
「ねえ、先生」
「ん?」
「……染谷くん、目を覚ますよね」
私の頭に大きな手が乗せられる。決して優しくはなくて、乱暴に髪の毛をくしゃくしゃにされた。
「ちょ、やめてよ!」
「信じて待っていてやれ」
染谷くんにとって私なんてただのクラスメイトの一人だ。友達でもない私が待っていても、染谷くんは嬉しくないかもしれない。
それでも待っていたい。意気地なしで、なかなか話しかけることができなかったけれど、今度こそ頑張りたい。
「私の気持ち、絶っ対誰にも言わないでくださいね!」
「わかったわかった」
睨みつける私に豊丘先生は適当な返事をして背をむけると、手をひらひらとさせて職員室へと入って行ってしまった。
***
周囲に人がいないことを確認してから立ち入り禁止の黄色のテープを掻い潜り、三階から非常階段に出る。
染谷くんが倒れていたのは二階だったので、おそらくは三階から二階の階段の途中で落ちたのだろう。
彼はどうしてこんな場所にいたのだろう。
事件性はないらしいけれど、それならば不運な事故なのだろうか。自殺なんて噂している人もいたけれど、自殺をするならここから下のコンクリートに向かって飛び降りるはずだ。
クロッキー帳と鉛筆を持っていたということは、ここで絵を描いていたのかもしれない。
人のクロッキー帳を開けて良いものなのか迷ってしまい、彼がここから落ちる前に描いていたかもしれないページを見ることは躊躇っていた。
そもそも私が持っているのではなく、ご両親に渡すべきかもしれない。豊丘先生に話して、渡してもらおうかな。
冷たくて気持ち良い秋風が頬を撫で、茶色の髪を靡かせる。
季節が一つ終わってしまった。
彼に恋をした季節から、寂しさを纏った風が新しい季節の訪れを告げている。
時期に緑の葉は燃えるように色を変えていく。
彼が落ちた場所にしばらく立ち尽くしていると、突風が吹いた。
前髪が翻り、目をきつく閉ざす。咄嗟に短く折られたスカートを手で押さえたもののカーディガンに死守されているので、捲れていないみたいだ。
風が止み、ゆっくりと目を開けると階段を降りた二階に誰かが立っている。
音もなくいつの間にか人がいたことに驚いたものの、それ以上にそこにいる人物に目を疑った。
「え……」
染められていない黒髪に、少し長めの前髪の隙間から見える奥二重。しっかりと上まで閉められたネクタイにボタンがしっかりと留められたブレザー。
「うそ……なんでここに」
物憂い気に空を眺めていた彼の視線が私の方へと流れるように向けられて、心臓が大きく跳ね上がる。
「そ、染谷くんだよね? どうしてここにいるの!?」
「え?」
「目、覚めたの? もう退院したの? 身体は大丈夫なの?」
先ほど豊丘先生はまだ目覚めないって言っていたけれど、連絡が来ていなかっただけなのかもしれない。
鼻がつんと痛くなり、目頭が熱くなってくる。
よかった。染谷くんがいる。いつも通りの彼がいる。けれど、染谷くんは何故かきょとんとした表情で目を瞬かせている。
「えっと……中村さん。俺が視えるの?」
「へ? なに言ってるの?」
「俺が視える人に初めて出会えた。よかった中村さんで」
安堵した様子で微笑んでいる彼に対して、私の表情はどんどん険しくなっていく。彼の言っている意味がよくわからなくて頭がついていかない。
「ちょ、ちょっと待って。視えるってなに? どういうこと?」
「驚くと思うけど、できれば落ち着いて聞いて」
音もなく彼は階段を登る。そして、私の肩に手を伸ばして指先を貫通させた。
私自身に痛みはなく、なにも起こっていないように思える。それなのに視界には私の肩を通り抜けていく染谷くんの手。
ますますわけがわからず、青ざめていく私の目の前で染谷くんは呑気に笑って状況を告げてきたのだった。
「俺さ、幽体離脱ってやつしちゃったみたいなんだ」