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精霊の舞踏譜3  作者: 雨野 鉱
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第三途 イノリノハテ ノロイノハテ 伍部

七、 舎瞳


「はあ、はあ、はあ、はあ」

 瞼が上がっている感覚はある。

それなのに目の前が真っ暗で何も見えない。目の周りを指で触れると、ドロリと生暖かい液体が流れていることに気付く。鼻先までそれは流れ落ちて、強い鉄の匂いを放つ。

額を触ってみる。額には水滴のように粘り気の少ない液がくっついていて、それが手のひらを濡らす。どうやら額から汗を流し、目からは血を流していて、それで何も見えていないらしかった。

 草木の匂いが冷たい夜風に乗って流れてくる。こんな匂い、夏じゃなきゃ絶対に嗅げないはずなのに。

「はは……こんな……うそ……」

 草木の匂いと一緒に小さな声が響く。時雨の声だ。

「……」

 その声が、止んでしまう。

「時雨!」

 草の感触を足の裏に感じながら、僕は手探りで前に進む。

「時雨!どこだ!?」

やがて足に何かがぶつかる感じがあって、そこにしゃがむ。

 最初それが何か分からなかった。

人のように五体はある。けれど、その体の周りには、草が生えている。生えていると気づいたのは、払っても、払ってもいっこうに葉がなくならないからだった。

「時雨……そんな」

 今更かもしれない。だけど「やりすぎた」と思った。

荻原を止めるとは思ったけど、死ぬ寸前まで追い詰めたいなんて思わなかった。

けれど考えてみれば、僕が「舎瞳」を使うということは、こうなることを意味していたんじゃないか。

それなのに僕は……間違えたのかもしれない。

「まいっ……たな……君……ほんとに……」

 時雨を抱き上げようとする。けれどびくともしない。まさかと思って仰向けに横たわっているらしい時雨の背中に手を入れてみる。

「!」

 背中から紐のようなものが伸びていて、それが地面とつながっていた。まるで、根を張った切株のようだった。

「私の……負け……だね」

 ショワショワ……。

 植物が繁茂するような音が耳に伝わる。

「何言ってんだよ!」

払いのけても消えない音、匂い。

時雨に顔を近づけようとすると顔に堅い枝のようなものがぶつかる。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 目が!

目が見えない!

こんなときに、こんな大切な時に!

「ぐうっ!?」

 そのうち激痛が走りだす。痛みは目から始まり、脳髄に達し、全身を駆け巡る。

「くそぉ……」

「とも……」

「なんだ時雨!?」

 伸長する植物の音に荻原の微かな声が混じる。

 ショワショワッ。

 シュルシュルシュル……

「す……」

 シュルシュル……。

「……き」

「え?何だ?何て言ったんだ!?時雨!時雨!!」

 時雨の手や足にもう触れることが出来ない。それどころかゆっくりと僕を押しのける植物の圧力に押されて僕の体は後ろに倒されてしまう。

 シュルシュルシュルッ。

「くそ……くそ……」

 前が見えない。

目が潰れるほど痛い。前後左右がぐるぐる回る。頭が割れるほど痛い。指一本動かすだけで全身が軋む。体が壊れそうなほど痛い。大切な人の、大切な言葉が聞こえない。胸が張り裂けそうなほど痛い。

「時雨、時雨……」

 シュルシュルシュル……シュ。

 植物の育つ音が突如途絶える。

 舎瞳の余波が、終わったのか?

 ォォォォォォォォォォォォォォォォォォ……

「?」

 なんだ?


――舞台を降りて久しいので裏方に徹するつもりでしたけど致し方ありません。私が、仕上げを行いましょう。


 ゾクッ。

 足元の地面から聞こえてきた女の声に、身の毛がよだつ。

一瞬痛みを忘れるくらいの恐怖を感じた。なんだったんだ、今の声は。

 シュ~……

「う!」

 痛みを忘れさせるほどの超強烈な悪臭が僕の鼻孔に充満する。

「げほっ、げほっ」

 気持ち悪くなり、思わずせき込む。

せき込めば当然、代わりの空気を肺が求め、体は自然に空気を吸い込む。

「!!」

 けれどその空気が恐ろしく臭くて、しかも重い。

時雨への募る思いとは別の意味で胸が苦しくなり、耐えきれなくなる。

その場に思わず吐いてしまう。

「はあ、はあ、はあ、うぷっ!」

 臭い。

腐臭?

 汚物?

 なんの臭いだ?

そしてなんでこんなに、しかも突然……?

――巷に満ちる腐肉をもとに創造が始まっているからです。私に拠る創造が。視界の利かない分、嗅覚は敏感に死を感じ取っているのでしょう。

「げふっ!うぷっ……!」

 両目の暗闇の中に、光が一点ずつ灯る。

その一点が徐々に、徐々に大きくなっていく。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 視力が回復しつつある!その嬉しさで気持ちがわずかだけど落ち着く。

「げはっ!」

 けれど吐き気は止まらない。

腐肉を使って?創造?誰が?何を?

というか、この声は誰なんだ!?どうして地面から響く?

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……………?」

 腐臭が止む。今度は自分の吐しゃ物の臭いが鼻を突くようになる。けれどそれもすぐに消える。

「はあ……はあ……」

視界を完全に取り戻した時には、吐いたはずのものも、植物塊になったように思われた時雨も僕の前からなくなっていた。

「ふう、ふう、ふう」

 痛みもだいぶ治まった。少しずつ冷静になる。

「?」

すると、おかしなことに気付き始める。

「……」

 床は大理石のタイルで覆われている。

 さっきまでアスファルトの上にいて、一旦は「舎瞳」でそのアスファルトの上を僕が草を茂らせて、おかしくしたはずだ。

けれど……どうして大理石が?

 四つん這いだった僕は口元を拭うと、顔を上げて、周囲を見渡す。

「?」

 天国にある神殿にでも迷い込んだのかと、最初は思った。

白と黒の正方形の大理石のタイルが床一面に規則的に敷き詰められている。

その上には、天井からつりさげられた六つの大きなシャンデリアがある。

シャンデリアは一つ一つクリスタルと金で丁寧に作られていて、そこにキャンドルを何本も立て並べている。

そのキャンドルの光が、巨大な広間の豪華な白さを暗く妖しく浮かび上がらせている。

 天上や側壁には油絵が所せましと飾られている。

天上を支える柱は、シャンデリアに勝るとも劣らないほど絢爛な装飾が施され、柱のそれぞれの根元には、見覚えのある騎士の甲冑が飾られていた。

「ふう」

 甲冑の形だけは嫌というほど見覚えがあって、それを見つけた僕は少し落ち着く。思えば変な話だ。

 広間の奥を見る。

拳銃弾を床に置いて投影機で光を当てたときに出来る影を、そのまま大きくしたような形の窓の前に、誰かがいる。

窓の外は闇だ。何を見ているのだろう。

 後ろ姿から、おそらく女性だと思った。

しなやかな体の肩から手首にかけて、透けるような白い薄布が包んでいる。

細身の胴は、宝石をちりばめたような胴衣でぴったり締め上げている。

「!」

 これから咲こうか咲くまいか迷って首を垂れているササユリのような白紅色のスカートがゆっくりと動く。ブロンドのセミロングの上の小さなティアラと大きなイヤリングの宝石がキャンドルの光を受けて、これまた妖しく輝く。

「ソードエンブリオの契約者です。どうぞお見知りおきを」

 小さな顔の細い眉がそっと上に動き、大きな目がこっちを捉える。中世ヨーロッパの貴婦人のような出で立ちの、顔に僅かに幼さの残る女はそう言って僕に挨拶をしてきた。

「……誰だ。あんた」

 さっき地面から響いてきた声と同一の人物だということだけは分かった。だから警戒しつつ、尋ねる。

「ですから契約者です。ソードエンブリオの」

「それは答えじゃない。あんたが何者かって話だ。僕はあんたの名前を聞いている」

「ロー・アトロポス・クロスカラ。運命を断ち切る女神という意味だとか。“裏切り者”と同様、肉体は既に滅びたため、ソードエンブリオに新たに名づけて頂いたのですが……聖装で人前に姿を現す以上、真の名を告げましょう。コレシュスと申します」

「コレシュス……」

 聞いたことのない名前のはずなのに、妙に頭に引っかかる。なんで引っかかるか考えているうちに、夢の中で見た湖と、そこで煙草をふかすフェナカイトさんの姿が浮かんだ。フェナカイトさんと何か関係があるのか?

でも、今はそんなことに気を取られている場合じゃない。

「あんた、荻原に何をしたんだ?」

「何もしておりません」

「嘘をつくな!」

「私からソードエンブリオに積極的な働きかけをしたことは一度たりともありません。全ては契約者が自ら望んで行動しただけのこと。私はその支援を行っただけです。そして私が今から目指すのは、契約者の成し遂げようと目指した事柄の完遂です。即ち舞踏譜を作成し、それと若干の人魂を呼び水に人間に死の祝福をもたらそうと思っています」

「なに?」

「私の契約者はあなたを舞踏譜にしようと望んでおりましたが、私はあなたに拘る特別な理由などありませんので、別の人物で舞踏譜は代用するつもりです。しかしあなたを放置することは断じていたしません。あなたからはカリロエの、虫酸の走る臭いが致しますから。この場で私自らが肉片一つ残さぬよう抹殺する所存です」

「……カリロエ?」

 誰の事だろう。

その人のせいで、この女の人は僕をとてつもなく嫌っているらしい。

「ほほ……私から心を奪った男です。言ってみればあの者のせいで、私は破滅いたしました。契約者があなたによって破滅したのとは少し事情が違いますが、ほほ……」

「……」

「もし人の世にもう一度でも立ち現れることがあったら、私のような嘆きを誰も繰り返すことのないよう、人など消してしまおうと思っていたのですが、そこへソードエンブリオが現れました」

 ソードエンブリオ……荻原のことか。

「カリロエの手にしがみつくようにして残っていた私の怨念に、ソードエンブリオは語りかけました。全てを台無しにしてみたいとは思わないかと」

「荻原が、そう言ったのか?」

「はい。私は長らく封印されてそれなりに落ち着きましたから、一応、なぜ世界の破滅を望むのか聞いてみましたわ。そしたら、ほほ……」

「?」

「自分は既に破滅しているから、道連れだと」

「どういう意味だ?」

「ですから最初から申し上げているではありませんか。あの娘はソードエンブリオ。魔の力も借りずに、武器の精製を自らの血肉によってのみ成し得る者。太古の魔物の残党のようなものです。もっとも、本人が望んでそうなったのではないようですが。あの娘を育てた魔の探究者の一族の一人によって、人ならざる身に変えられたそうです。体内は魔の副作用に蝕まれ、どのみちあのままでは長く生きられない体となり果てていましたわ」

「……」

「さて、お話はおしまいです。久しぶりに人様の前に出てきたせいで少々喋りすぎました。何でも女のおしゃべりは嫌われるとか。もっとも、私は既に女でも人でもないわけですが。ふふ」

 コレシュスと名乗った女が、歩き出す。音もなく前に進み始めた時、彼女の頭上のシャンデリアを囲むキャンドルの一本が落ちた。

 コトッ……チリチリ……

 キャンドルは落ちてもなお火が消えず、その火がドレスのスカートに引火する。

 ボワッ!

 コレシュスはあっという間に火だるまになる。

「!」

 けれどそのまま歩き続ける。

「夏草の生い茂るあの場を離れるため、象牙の塔として舞踏場をわざわざ選び、幻築したのには二つほど理由があります」 

 火だるまになった貴婦人のシルエットが変わっていく。大きく……歪に……。

「この世は舞踏会のようなもの。男女の間を悪魔が踊る。それを象徴するためというのが一つ。もう一つは」

 ドスンッ。

 ドスンッ。

地響きとともに煙の中から、巨大な四本足の何かが姿を見せる。

「全ては舞踏譜に始まり、舞踏譜に終わることを暗示したかったから」

 三つの狼の首を持つ大きな黒い獣が現れる。

左右の二つ獣たちは人間でいう白眼の部分が赤く、それでいて瞳は黒い。真ん中の首は、目があるべき場所から巨大な白い二本の角が生えている。

どの首の大きな口も牙をむき、黄色い涎をだらだらと垂らしている。気味の悪さをこれでもかと集めたような、そんな恐ろしい姿だった。

「あの娘の命を救ったのも舞踏譜、あの娘の命を滅ぼしたのも舞踏譜。何もかも舞踏譜が支配している。要するにそういうことです」

 天上から?どこからともなく響き続けるコレシュスという名の女の声。

「それでは開演」

あの女が、この化け物狼に変身したのか?

「怨念の花束を前に、凡ての望みを棄てよ」

 グアッ。

 僕から見て一番右の狼の口が開く。

「!」

 口の中に、中に……

「中西!!」

 よく知った、悲しいほど知った顔が見える。唾液まみれのその顔は白目をむいたまま微笑んだあと、大きく口を開ける。

 ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!!!

 口から巨炎が飛ぶ!

「うああっ!」

 僕は横に飛び退く。火柱が片方の耳をかすめ、焦がし、顔のそばを通り過ぎていく。

 ドオオオオオオッ!!

 体を起こし、さっと振り返る。地獄の業火に焼かれた壁面と柱、そして飾られていた鎧が熱でみるみる溶けていく。

「うっ!?」

 鼻を思わず手の甲でおさえる。溶けたその箇所から、肉を生のまま焼いて焦がしたような強烈な悪臭が漂い始める。なんなんだ、この臭い!鼻がもげそうだ。

「舞踏譜の代償は死。この踊り場もそれに似合いますように屍を利用してできております。先ほど申し上げた「構築」です。菌屍になりそこねたが命を浚われた、あなたの身内による犠牲者です」

 バクッ。

 グアッ。

 右の狼が口を閉じる。ほぼ同時に左端の狼が口を開く。

「?」

 一瞬誰なのか分からなかった。中西の時のように白眼を向いているわけでもなく、菌屍のようにそれは目を閉じている。

「智君……」

 だけどその、その声を聴いた瞬間、誰なのかを理解できた。

「姉さん!!」

 反応するかのように、姉さんの目と口が大きく開く!

 バシャアアアアアアアッ!!

 ジョルジョルジョルジョルッ!

瞬間、姉さんの口と両目のあるべき計三か所の穴から、三本の不気味な“何か”が飛び出してくる。

 ドゴンッ!! 

 ガガ――ンッ!!

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 ズビュズビュズビュッ!!

 ドゴ――ンッ!!!

 赤黒い触手が三本、鞭のようにしなやかにたわみ、あるいは伸び、広間を暴れ回る。

 ドゴンッ!

 ズビュオンッ!!

 ヒュドンッ!!

 プシュ~……

 ぶつかった箇所はその衝撃で砕け、加えて触手にまとわりつく謎の粘液のせいで、硫酸をかけられたかのように溶けだす。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 何度も触手とまき散らされる体液を躱し、飛び跳ねているうちに飾られている甲冑が手にしている剣に気付き、それを求めて僕は全力で走った。

 ジョルジョルジョルッ!!

 ジュビョンッ!!!

 ピチャッ!

 シュ~……

「うっ!?」

 その途中、ギリギリで交わした触手に付着していた粘液を背中に被弾する。火傷を負ったような激しい痛みが背中を襲う。けれど立ち止まらず走り、ようやく僕は武器を手に入れる。柱に隠れる。柱を利用して何とかするしかない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 息を吸ったり吐いたりしながら、自分がこの状況を、凌がねばならない当然のことのように受け入れ、さらに戦い、生き残るための最善の手段を考えている不思議を思った。やっぱり、あの湖の二人のおかげだろう。だからこそ、その経験を無駄にするわけにはいかない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 ジョルジョルジョル……シュルル!

 触手が一旦引いていく音を聞く。僕は神経をできる限り研ぎ澄ませる。次はどっちから触手は襲ってくる?右か?左か?それとも石柱を砕いてくるか?ひょっとしてまた火を吐くかもしれない?その場合はどっちに逃げる?たたみかけて触手を伸ばしてくる可能性もある。どうする?落ち着け。静かに!心を、沈めろ!!

 フ~フフ~フ~フ~フ~、フ~フフフ~フ~フ~、フ~フフフ~……

「……?」

 部屋の中に誰かの鼻歌が流れる。音に対しては特に意識を集中させていたので、その微かな音を僕は聞き洩らさなかった。

 鼻歌――。

 姉さんが、そう言えば昔……。

「……っ!?」

 体が、動かない。

 まさか金縛り?

 嘘だろ!?

 こんな時に、ふざけんな!!

 グアッ。

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!

「うああああああああああああああっ!」

 柱の両側から一気に僕の周囲はオレンジに染まり、そのまま高熱が僕の両側から僕の両腕を焼いた。しかもそれだけですまなかった。柱の周囲が焼けただれ、僕の全身の皮膚を徐々に焦がし始める。

 ジョルジョルジョルッ!

 ジュビョッ!!

「ごはっ!」

 炎を避けるようにして、僕の足首に一本の触手が巻き付く。そのまま僕の体は柱の後ろから思い切り引きずり出され、宙を舞う。空から落ちる恐怖は何にも勝る。焼けただれる痛みも触手の粘液に溶かされる痛みも落下する恐怖を前にすれば何ともなかった。

 ヒュ~……

 目の前に、狼の中央の首に生えた角が迫る。

よせ!やめろ……

 ズゴシャッ!!!

 ブシュ――ッ!

 串刺し、なんて。

「さて、息の根はここで止められそうですね。あとはそこで叩いたり砕いたり焼いたり溶かしたりして消尽しましょう。約束しました通り、肉片一つ、残しはしません」

 痛い……怖い。

 痛い……熱い。

 痛い……苦しい。

 痛い……寒い。

 痛い……辛い。

 痛い……暗い。

 何を間違ったんだろう。

いや、間違えるとか、そういう感じじゃなかったろう。

だいたい、ここは、どこだったんだ。

あのコレシュスとかいう変な奴が好きで作った場所みたいだったけど、どうやって作ったんだ?

いや、そんなこと考えてみたところでしょうがないだろ。

とにかく、こんな具合の悪いところで争ったところで、

最初からどうにもならなかったんじゃないのか。

そうだ。思い出して見ろ。窓の外を見る限り、今は夜だ。

それなのに、そうだ。目が見えるようになってから蛍火が一匹も見えなかったじゃないか。

こんなの、分が悪いに決まっている。

僕が知り得る、こういう連中と渡り合える唯一の方法は「舎瞳」だけだ。

失明するリスクはきっとあるけれど、あれがなければとっくに死んでいた。

あれがなければ生き残れない。だから必要だ。

だけどその「舎瞳」を発動させる蛍火が一匹もいない。こんなの、無理に決まってる。

 蛍火。どこにいったんだ?


・――情けない奴だ。自らの拳一つで敵に抗う気概はお前にないのか。それに、どこにいっただと?呆気者め。さっきお前が一切を集めたではないか。


……?

 何かが、聞こえた。

ん?

聞いたのか?

それとも感じとったのか?「声」に、触れた?

よく分からない。けれど今「声」が、傍にあった。

誰?

コレシュスとは違う。と、するとまた僕の知らない誰か、か?

・――お前の知らない「誰か」で構わぬ。ただし今から、お前が知っておかなければならないことを伝えておく。

 知らなければならないこと?

・――然り。お前の眼中には、集めた“魔”がまだ残っている。それを使えばあるいはあの哀れな人間の娘たちは止められる。

 “魔”って、妖波のことか。

・――名は何とでも。その妖波を賢く使うすべをお前に遺そう。それより先は、お前自身で切り抜けろ。

 そんなこと言っても、できるかどうか……。

・――切り抜けられるか分からぬから、それでやらぬというのか?

 ……ごめん。できるかどうかじゃない。やるって、最初から決めてる。

・――では、伝える。

 自己紹介も不十分なまま、僕の意識は暗闇の中で何者かと交わり出す。つい今まで肉を焼かれ溶かされ串刺しにされていたとは思えないほど、何もかも静かで、何もかも落ち着いていた。

 ゴポッ。ゴポポ……。

暗闇に色が付く。

下から白い寂しげな光があって、周囲を群青に、濃い青色に、水色に塗り分けていく。

どうやらまた、ここに僕は戻ってきたらしい。

夢でも、時雨を止めた時にも見た「湖」だ。つくづく水に縁がある。

「?」

水の屈折率が、少しだけおかしい。そう思って前方の水中を注意してよく見る。

まるで等身大の人型のガラス細工が水中に沈めてあるみたいに透明な「何か」がそこにはあった。

・――お前のその目、それは金井愛歌と狂姫のもたらした偶然の結晶である。使い道を誤ればお前を滅ぼすのみ。が、同時にあの狂姫を止め得る唯一の代物でもある。

「……」

 「何か」は一言で表現すると、「ガラス」だった。

見た感じで言えば、ガラスでできた良く分からない彫像か、不出来なマネキンだった。

それは浮いている僕の目と鼻の先までやってくると厳かな声で告げた。

「告げた」と分かるのは、そのガラスマネキンの体中に、周囲とは異なる蛍火のような、

けれどそれより少し大きめの白い光が言葉と一緒に光を上げるせいだった。ガラスが言葉を投げかけて来る度、腹の中で白い、あるいは青い光が明滅した。

・――今のまま妖波を用い続ければ、失明では済まぬ。失明の前にお前の魂は目に吸い寄せられて妖波に分解され、消え果てる。しかし妖波を漸次的に使うなら、光を失う程度で済むであろう。

 光を、失う。

・――その覚悟はないと?

 ゴポッ。

 ある。

相手は中西や臼井の敵だ。

姉さんの敵だ。

荻原の敵だ。

僕に払える代償ならどんな代償を払ってでも、あのデカ犬は絶対に止める。

・――ならば心して聞け。お前が今の今まで行使してきた技は、単純に眼中に凝集させた妖波を即拡散解放させるだけであった。安定した状態に戻ろうとする妖波は眼中から解放された瞬間に莫大な力を解放する。お前はそれを武器として利用していたにすぎぬ。それを中止する。目に全負担を負わせる代わりに、目以外のどこか肉体の一点において妖波を収束し、解放する。

 ……どういう、こと?

・――やってみせる。

 目の前のガラスに異変が起きる。のっぺらぼうの顔の、普通の人なら目玉が収まっている箇所で突如、黄金の光が二つ生じる。その光はこれでもかと言うほど輝きを増したあと、一気に、首、胸、左肩、左腕と体の中を流れて左手に集中する。

・――アルティマ・アルメ……これこそ人の身であるお前に許された“葬備”と知れ。

 ボッ!!!

 水が一気に沸騰したかのように泡立ったかと思うと、ガラスの左手に「光」が握られていた。

……。

「光」は広刃の剣のような形をしていた。

拳を守るための鍔は横に長く、握りに相当する部分は縦に長い。まるで十字架のような形をしていた。けれど、その切先は確かに鋭く尖り、他の部分に比べより一層強い輝きを放っていた。

・――目以外の箇所へ妖波を集めようとすれば、必然的に妖波は体内を移動することになる。これによって妖波の漸次的な使用が達成される。いずれにせよ直に試し、その体で覚えるがいい。

 ガラスはそう言うと、自分の手にせっかく作った光の剣を消してしまう。やってみろっていきなり言われても、どうやるんだ?

・――集めたときを思い出せ。集めて、妖波は眼中に流れ込む。流れ込んだ妖波を、自分の望む箇所に流す。どこに流し、どう象るか、それを強く思い描くのだ。そして、そう在れと願え。願えば、妖波がその場で望む形を模す。できあがったそれは、魔を滅することに特化した武器となる。

………………………………………………………………………………………………。

・――分かるか?今のお前には、

………。

 カッ!!!

 ボッ!!!

・――それを成すことが、許されている。

 ……。

 ……。

 できた。

 本当に、できた。

串刺しにした狼の角を断ちたい。だからそのための剣を一振り、右手の中に望んだ。

目の奥で鋭い痛みを感じた後、体の中を熱風が駆け抜ける感じ。熱風は最後、右手の中に集中する。

ガラスが手にしていたのと同じ、光の剣に、それは変わる。

・――忘れるべからず。いくら妖波を目以外に流し、漸次的に用いて負担を減らすとはいえ、目には限界がある。妖波の収束後の痛みの増加は終局への警告である。可能な限り急いで、あの狂姫とその手下を仕舞え。あとお前に告げるべきことがあるすれば……考えよ。何を備え、どう使いこなせば敵を撃てるか。それはお前のよく知る者から教わったはずだ。

 眼鏡の魔法使いと、フェナカイトさん……でも、どうしてそれを。

・――フェナカイト……死してなお人間を信じている、あの狂った人形がお前のために全てを膳立てした。それに偶然私が巻き込まれた。でなければ私は「ここ」にいなかろう。

いたかも知れぬが、少なくともこのようにお前を支える形で幻出することはなかっただろう。

 ……誰なんだ?あんた。

・――お前と血のつながる姉を利用し、最後はお前の姉に利用され滅びた道化。それが私だ。

 ……。

・――名はメリュジーヌ。お前を不幸に陥れた神聖な幻だ。覚えておくがいい。

 分かった。……必ず戻ってきて、ぶん殴ってやる。

・――できるものなら。残念ながらお前の生還を待っている時間はない。目が覚め次第、体に刺さる魔狼の角を断ち切れ。お前の腕と腹の傷を癒やしたら、私はもはや往く。後は存分に暴れよ。“定め”を相手に。

 ……ああ、分かった。メリュジーヌ。

 グワンッ。

 周囲を包んでいた群青の世界が渦を巻くようにしてあっという間に消滅する。完全な闇だけが広がる。やがて前から光の線が槍のようにヒュンヒュンと飛んできて、僕の周りを飛び過ぎていく。時間が音を立てて流れ始めるような感じだった。まもなく光が飛んでくる闇の奥に二本の白い突起が見える。それは徐々に大きくなる。そしてとうとう僕の胸元まで迫る。

 キ―――ンッ!!

ようやくそれを角と認識した瞬間、右手を振り上げ、全力で振り落す。光の線が旗を振ったように流れ、それが白い突起にぶつかり、そのまま突起の中に入っていく。抵抗もなく、当然のように。


 シュパンッ!!

 ズドーンッ!

「!?」

 背中から地面に叩きつけられるような衝撃でハッとする。見上げれば、

「フクウウウウウウウウウウウウウウウウ……!!」

 真ん中の狼の角が片方、斜めに斬りおとされていた。

 ブオッ!

 ドガンッ!!!

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 振り上げられた狼の足で踏みつぶされそうになる。慌ててそれを飛び退き、力の限り右腕を振る。その時、自分の両腕や穴の開いた腹を黄金色の砂粒のような光がキラキラと覆っているのが目に映った。

さっきの、あの“ガラス”がきっと治してくれたんだ……。

「せあっ!」

 シュパァ―――ンッ!

「アオオオオオオオオオオオオオオ―――ンッ」

 ズド―――ンッ……!

 体を支える四本の脚のうち一本を薙いだために、狼は悲鳴を上げ、バランスを崩してその場に倒れる。

これで、狼そのものが突進してくる心配はなくなった。

角の使い方は、さっきのように捕まえて、串刺すしかないはずだ。

ならあとは、首を落とす!

「うおおおおっ!!」

 そのために斬り込む。けれど、

 グアッ。

 一番右の狼の首が口を開く。白目の中西が顔を見せる。眉間にしわを寄せていかにも不機嫌な表情をしていた。

「ウザインダヨ!!熾ネ!!!」

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!!!

 中高生なら一度は吐いたことがありそうな呪いの言葉を大声で発した後、灼熱の炎を中西はその大きく開いた口から吐き出す。しかも炎は火炎放射のように長々と出続け、狼が首を振ることで、その炎が僕を追いかけてくる。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 逃げ場があるなら、絶対に遠くへ逃げる。けれど今は四方を壁に覆われた密室。そこで遠くに逃げようとすると逆に黒焦げになる。

それは最初から分かっている。それでも一度逃げ回ったのは、敵の出方が分からなかったことと、敵に対抗する武器を持っていなかったから。

 武器もある。敵の出方も分かる。それなら、逃げない。

甲冑の騎士……というかあの眼鏡の魔法使いとの戦いで僕は戦術というものも多少は勉強した。行動範囲の制限された空間、つまり逃げ場のない空間において、敵から無駄に距離を取ろうとしても無駄だ。むしろそうすることで敵に自由に間合いをとることを許してしまう。

 間合い――。

 戦力的に拮抗していると思われる相手との戦いにおいて、間合いは勝敗を左右する。間合いがとれなければ、勝ちは拾えない。間合いを制すれば、おそらく勝てる。

 ダッ。

 狼の鎮まる左端の首めがけて僕は走る。

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……

 中西の入っている狼の右首は、そんな僕を追いかけるように火炎を止めることなく吐き続ける。

 グアッ。

 左端の首が開く。目を瞑る姉さんの顔がその中にある。

どうする?

僕の動きを止める歌を歌う?

僕を溶かす「舌」を伸ばす?

それとも中西が「火」を止める?どっちだ?どれだ?

 おそらく……「舌」だ。歌っている暇なんかない。

「火」は止まらない。「舌」で僕を絡めて、「火」に投げ込む。

あるいは「舌」ごと「火」が焼く。こいつらなら、それくらいしかねない。

「今デモ死ヌホド好キヨ。智クン」

 ジョロジョロジョロンッ!!

 目を閉じたまま姉さんが言葉を漏らす。まもなく姉さんの目の穴と口の計三か所から触手が一気に伸びる。

全神経を集中させて、それを左に交わす。

そして、素早く斬る。

 ガスンッ!!

 ジュリュジュリュジュルジュリュリュッ!!

「智……クン……愛シテ……シテ……ウウッ、ウウッ」

 斬られたショックで触手はすぐさま姉さんの口と目に戻る。角の狼のように悲鳴を上げる代わりに姉さんの悲嘆に似た嗚咽が上がる。けれど火炎に追いかけられている僕は立ち止まらない。このまま姉さんが歌い出す前に、狼の後ろに回り込む必要がある。

 ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!!

「フウウウウウウウウウウウウウッ!!」

 ようやく狼の悲鳴が上がる。姉さんの入る狼の首をやり過ごす直前に、中西の吐く劫火が中央の、角の生えた狼の首を焼くのが見える。

角の生えた狼が熱さに耐えかね、暴れる。

その首が下に垂れた途端、止まらない中西の炎が姉さんの入る狼の顔半分も焼いてしまう。

当然口を開いたままだった姉さんの顔半分にも、バーナーで焼いたように火が付いた。

「ヒイイイイ!!!助ケテ!智クン!!智!!熱イ!熱イイイイイッ!!!!!」

 その悲鳴に一瞬、何も考えられなくなるくらい胸が締め付けられた。

けれど、止まれない。止まるわけにはいかない。ここで止まれば、何もかも無駄になってしまう。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 狼の毛を掴み、背に飛び乗る。そのまま背の上を走る。

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!

 何をされるか気づいた中西は炎の針路を変え、首を目いっぱい天井に向けて、炎を吐き続ける。けれど、結局その炎は背中に届かない。

「りゃああああっ!!」

 ガスンッ!!!

 ボズーンッ! シュ~……

 火柱を噴き上げる中西の入った狼の首を刎ねる。首は口を開いたまま床に落ちる。

「チクショウ……ユ、リカ……カタキヲ……トッテ……」

 中西の恨みに歪んだ顔がようやく鎮まる。炎が収まり、溶けた天井の装飾がドロドロと腐臭と共に落下してくる。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 強烈な吐き気と、思い出したかのように襲ってくる目の痛みをこらえる。手の剣を見ると、光がだいぶ薄れて、剣の太さはガラスのメリュジーヌと一緒に初めて見た時の半分以下になっている。

「ぐうう……」

 目を瞑る。

右手の先にもう一度、妖波を集めたい。右手に剣のあるイメージの後、全身が熱くなる。汗が噴き出る。目の奥に言葉に出来ない痛みをもたらす。もうすぐ、見えなくなる。でもその前に、やることを、やらないと。

 キィィィ―――ンッ!!

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 痛みを堪えつつ、嗚咽を上げ続ける哀れな首の上まで歩き進む。

「姉さん、ごめん」

 ガシュンッ!!!

 練り上げたばかりの光で、姉さんの入る狼の首を刎ね飛ばす。

 ドゴッ、ドゴーンッ!

「智クン……マタ……一緒ニ……寝ヨウ、ネ……」

 焼きただれて顔半分の肉がなくなったせいで、刎ねた狼の口元から姉さんの首が覗けた。

その姉さんの最後の言葉を聞き届けた後、僕はトドメに入る。

「ウウウウウ……」

 唯一口を開かなかった狼。角を一本失い、顔半分を姉さんの入る狼の首同様焼かれた中央の首を、僕は上から断ち切った。

 ガキンッ!!

 今までとは少しだけ異なる硬質な音が上がる。違和感を覚えたけれど、首はそのまま落ちてくれた。

 ドスンドスンッ!

「はあ、はあ、はあ、はあ……終わった」

「終わり?鬼札はまだ残っていますが」

 溶けた天井から声が不意を突いて降り注ぐ。

 バシンッ!!!

「うああっ!!」

 突然背後から何かがぶつかり、僕は弾き飛ばされる。

「く、そ……」

 起き上がり、弾き飛ばされた場所である狼の死骸の方を見る。尻尾だけが動いていた。

 ブシュ―――ッ!!!

 バキバキンッッ!!

 ゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキッ!!

 メキメキメキメキメキメキッ!!

「!?」

 それとは別に、角の生えた狼の首がビクリと動く。瞬間、血の吹き出すような音と、地響き、そして骨やら何やらを接ぐような奇音が室内に響いた。

 ボゴンッ!

 ボゴボゴンッ!!

首を三つとも失った狼の胴体が、空気の抜けた風船のように急激にしぼんでいく。まるで皮だけになってしまったかのようだ。その一方で、角の生えた狼の首だけがビクンッビクンッと動いている。首の下にある大理石に亀裂まで……?何が起きて、何が始まるんだ……

 ギュルルルルルルルルルルルッ!!!!

 は!?

 一角狼の首が突如、宙に飛び、弧を描いて突進してくる!! 

 ドゴ――ンッ!!

 ミシッ!!

「うああ……ああ……」

 あまりに突然の事だった。だからよけきれず、左腕が狼の首と壁の間に挟まれた。

「……なんだよ、こいつ」

 狼の首の後ろに赤茶色の骨のようなパーツがいくつも続いている。それが蛇のように蛇行している。蛇の体の先は大理石に空けられた大きな穴へと続いていた。

 ガシュンッ!!

 狼の顔を剣で斬りつける。狼はその拍子に体を一気に壁から引き抜き、高速で後ろに引き下がっていく。斬りつけられたのが痛いからそうしたというよりも、単に止めを刺し直そうとしているような落ち着いた様子だった。それだけにこっちとしては、全く生きた心地が全くしない。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 蛇体の後方が大穴から全部這い出て、とぐろを巻く。蛇体の前方が上に持ち上がる。

即ち十メートルくらいの高さまで狼の首が持ちあがった。

 ギチチチチチチチチチチチチチ……

 そして蛇のような威嚇音を口からこぼし始める。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 どう戦う?これはさっきの場合と、勝手が違う。さっきのデカブツみたいに動けないわけじゃない。それどころか僕よりずっと速い。しかもパワーも破壊力も尋常じゃない。つまり五分五分とはいかない。これだけの相手を倒すとなると、一体どうすればいい?無論間合いは明らかにあっちの方が広い。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

どうする?

どうすればいい?舎瞳?

 いや、ダメだ。

あのとにかく爆発みたいな「舎瞳」は目だけでなく命をこの場で潰しかねない。そうメリュジーヌは言っていた。

仮に狼を斃せたとしても、あのドレスの女はまだどこかに隠れている可能性が高い。

だからここで目も命も潰すわけにはいかない。

となると、何かを作って、どうにかするしかない。

それだけでも、それすらも命がけなんだ。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 何を作る?

 チチチチチチチチチ……

 いや、何かを作ったから勝てるとか、そういう相手じゃない。それよりも何かを利用しないと、

 シャオンッ!

「!」

 壁に衝突した瞬間の隙を突いて斬り下げる。やはりこれしかないと観念する。

 ドゴ―――ンッ!!!!

だから攻撃を必死に避け、そして立ち上がるや否や、間髪入れず剣を振り下ろす。

 ブオンッ!!

 ギュルルルルルルルルルルルルルッ!!

 けれど狼の首は僕が剣を振り下ろすよりも先に壁に刺さる角を引き抜き、元の場所に戻ってしまう。最初とは違い、今度は剣が空振る。それを見ながら狼はまたも威嚇音を上げる。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 くそ!いつの間にか、狼の顔面が完全に再生している。斬り落とした方の角まで伸びて。そう言えば大穴も……塞がってる。

くそ、何かないか。何か攻略法は?

 相手は何だ?角を二本持つ狼。しかも体は骨のように堅い骨格で覆われた蛇。蛇腹で目にもとまらぬ速さで動き回る。

 どうする?

どうする?

だいたいなんで角なんて生えてるんだ。狼なのか蛇なのかはっきり……!?

 ちょっと待った……。

 角と言えば…………アイツ。

 ………そうか。

あれは「臼井」だから、角が生えている。断言はできないけれど、違うか?

 臼井――。

 臼井と言えば……。

 ……。

 やってみるか。

「ふう……」

 左腕が痛い。たぶん骨に亀裂が走ってる。でもそのおかげで、目の痛みだけに煩わされずに済みそうだ。よし……落ち着け。

 ギュルルルルルルルルルルルルルルルッ!!

 落ち着け。

 完全無欠なんてありえない。

 誰にだって弱点はある。

 ドゴ―――ンッ!!

「はあ、はあ、はあ、はあ……じゃあ、こんなのはどうだ」

 ダッ!!

 突進攻撃をかろうじてかわした後、柱に隠れるようにして僕は広間の中を走り出す。

 ギチチチチチチチチチチチチチッ!

 ギュルルルルルルルッ!!

 ドゴンッ!!!ドゴンッ!!!ドゴンッ!!!

 体をすぐ引き戻し、僕の「逃避」を確認した狼蛇はすぐさま蛇腹を使って移動を始め、柱を一本、一本と叩き潰し、そのまま高速で体をくねらせ、僕を追いかけ始める。僕は僕で柱と柱の間を蛇行し、狼蛇の速度を遅らせようとする。やがてそれに苛立ち始めた狼蛇は柱を砕くことに専心し始める。それを確認し、僕は一気に進行方向を変える。壁際で壁に平行に走るのをやめ、急遽広間の中心に向かって走り出す。その先には、僕が切り落とした狼の首がある。

「!?」

 柱の破壊に専心していた狼蛇は一瞬出遅れて、後ろを気にして走る僕を凄まじい速度で追い駆ける。目的を思い出した狼蛇は徐々に頭を低くし、角の先端の照準を僕の胴体に合わせる。

「はあ、はあっ!」

やばい!でももう少し!あともう少しだ!!

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 「そこ」に辿りついた僕は急いで身をひるがえし、狼蛇の方に体と顔を向ける。腹をくくったと思わせるために、剣を中段に構える。

 ギュルルルルルルルルルルルルルルルルルッ!!

 元より攻撃を受け止めるつもりなどない。カウンターを狙うつもりもない。かわすのが目的だ。だから狼蛇の突進を避ける。

 ドジュ―――ンッ!!!

 狼蛇の角が、中西の入った狼の首を貫く。狼蛇の動きが止まる。

「………ユミ!」

 ガシュンッ!!!!

 狼蛇の牙の隙間から友を呼ぶ声が微かに漏れる。その声を、その首とともに僕は断ち斬った。

 ドスーン……。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 友を思う心を利用する。そんな悪魔のような作戦を実行した自分を顧み、天を仰ぐ。

止めるには、これしかなかった。

そんな言い訳などしても、仕方がない。結果は変わらない。そう思い、そのまま膝をつく。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 もう後には引けない。ここまで来たら、ここまでしたのだから、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、後には引けない。

コレシュスを絶対に止める。

「はあ、はあ、はあ、はあ……うっ」

 悪臭が再び鼻を突く。

「見くびっておりましたわ。さすがはカリロエの見込んだ殿方。定めに呪われた雑魚の寄せ集めでどうにかできる相手ではございませんでしたね」

風もないのに肉片がゴロゴロと勝手に転がり始める。骨が何かの力で引きずられるようにして移動していく。それらが一カ所に集まっていく。非現実的な世界の、さらに非現実的な光景。夢……ではないことをひどい臭いが伝える。

今もまだ現実は続いている。あがくなら死ぬ気であがけと、全身を襲う痛みと疲労に耐える細胞の一つ一つが僕に告げている。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 斬り落とされ、飛び散った肉や骨が集まり、圧縮されていく。

 ボコンッ!ボコンッ!ゴキメキッ!ブシュウッ!メキメキッ!ギチッギチチ……

 やがて自分より少し小柄な人型に肉塊は収まり、その体に皮膚が生じる。皮膚の上にまた皮膚が生じたかと思うと、それはドレスに変わり、宝石を散りばめたかのような胴衣に変わり、髪に変わり、ティアラに変わり、イヤリングに変わる。

 ポコポコッ!ムニィィ。パカッ!

 目玉が皮膚に飛び出し。鼻筋が生まれ、口が割れるように生じる。やがて顔が整っていく。

「やはり踊る相手は、私しかないのでしょうね」

 自らをコレシュスと名乗った化け物がそこに完成する。もう絶対に人だとは思わない。

 グチュグチュグチュ……

 よく見ればまだ完成していなかった。最後まで形状が定まらなかった左手の先に血管のような桃色の管がいくつもいくつも現れ、そして絡まり、伸び出す。地面に平行に、そしてまっすぐに伸びたそれらはやがて互いに溶け合い、薄くなり、灰色に変わっていく。灰色はついに磨き上げられた鋼のような白銀色に変わり、ギラリと波紋を浮かべる。

「ふう、ふう、ふう……」

 日本刀を馬鹿みたいに引き伸ばしたような正体不明の刃物一振りがコレシュスの左手に完成した時には、僕はどうにか立ち上がることができた。

 チャキッ。

 軽く握られた三十センチの柄の先に、三メートル近くある片刃がキャンドルの火を映す。それはオレンジ色だったが、すぐに剣自体から光が上がる。

 ボッ。

 アクアマリンのような、水色とも緑ともつかない青い炎が剣を包む。

「舞闘は久しぶりですわ」

 コレシュスはつぶやいてほほ笑む。

「……」

 僕は手に残る剣を構え直す。

「海神の奈落と無辺なる宇宙の狭間、この寂しさをしばし踊るとしましょう」

妖波が拡散していくせいか、光の剣は徐々に細る。急がないと。何度も拵えて平気でいられる代物じゃないんだ。

「?」

 刹那、コレシュスが消える。けれどすぐに表れる。さっきよりもだいぶ近づい……

 フ。

 青い炎を纏う切先が、目の前にある。

「ほほ」

 切先はそのまま僕の眉間に突撃する。左右に交わす余裕なんてない。それを本能が感じ取り、体を急いで後ろに倒す。額が切れる。前髪がわずかに青く燃える。

「ぐ!」

 つまらないものでも見るような目をこっちに向けたコレシュスはそのまま突き出した剣を下に落とす。倒れつつある僕はこのままじゃ絶対にかわせない。だから右手の剣で力いっぱいはじく。

 フ。

 光の剣は虚空を空しく薙ぐ。手ごたえはない。またコレシュスが消えた。

「うっ!」

 受け身を取り損なって倒れる。痛みをこらえてすぐさま立ち上がる。化け物を必死に探す。

「お話にならないかもしれませんわ。この様子ですと」

 背中に何かが当たる。丸みを帯びた尻、温い背、そして、声。

「あなたと踊っても、血の沸くような夜は過ごせそうにありませんね」

「う……うあああああああっ!!」

 コレシュスと背中合わせに立っていることに気づき、凍り付くほどの恐怖を覚えた僕は振り返るや否や、がむしゃらに剣を振りまわす。けれどそこにコレシュスはもういない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

「私の契約者と同様、あなたがソードエンブリオでしたら、今頃は武勇に優れた殿方になっていたかもしれません。あるいはあの悪魔の娘のように、舞踏譜によって幻影として作られカリロエの力を宿した受肉した存在なら、私を殴打することが叶ったかもしれません。あるいはあの学者のように妖精と力を合わせれば、私に太刀打ちできたかもしれません。

けれども、全ては起こらなかった仮定に過ぎません。今さらこんな話をしても詮無いことでしたわね」

 キャンドルが囲むシャンデリア。そのシャンデリアと同じ高さに、コレシュスは浮いている。空も飛べるなんてやっぱり、普通じゃない。しかも動きは時雨以上に速い。最悪だ。

「思えばあなたに備わったその力、実に因果なものと言わざるを得ません」

 僕を相手に剣を振るのにもう飽きたのか、それともいたぶって殺すプレイの一環なのか、

また貴婦人のおしゃべりが始まる。

「はあ、はあ、はあ」

ちょうどいい。ありがたい。考えろ。生き残るためにこの時間を無駄にするな。

「はあ、はあ、はあ……」

 生きて戦い抜くための作戦を考える。

「幼き日のあなたに病魔を克服させるために、あの学者は妖精すらも利用し、あなたの治療を行い、結果的にあなたに力の土壌を作った」

 考えろ。

妖波は何も、剣を生み出すことしかできないわけじゃない。

メリュジーヌが確か言っていた。

考えよ。何を備え、どう使いこなせば敵を撃てるか。それはお前のよく知る者から教わったはずだ――・

 剣以外の形も、妖波はとれる。そして、手のひら以外にもおそらく、妖波を収束させることはできる。

「そしてソードエンブリオ。正しくは後にソードエンブリオとなった幼き盲目の娘との出会い。学者の「遺産」であるあなたを監視するためにあなたの傍にいたカリロエは、娘の不幸を悲しむあなたに舞踏譜を教え、そしてあなたは舞踏譜を踊った。盲目の娘と一緒に」

 考えろ。斑猫と戦ったときのことを。斑猫は甲冑の騎士になって、いろいろな武器を装備した状態で戦った。そして、そして、最後は……あの眼鏡の魔法使いになった。あれはヤバかった。でもあの戦いは参考にならな……くもないな。遠くから氷を飛ばしてきた。「舎瞳」の爆発なしにあの「投石」を交わすとなると、どうすればいい。相当な移動速度が必要だ。

早く移動するにはどうしたらいい?

筋肉量を増やす?

瞬発力を増す?

そんなことできるのか?

できるとして、どうやって?

「二人の「光よ、あれ」という願いを舞踏譜は叶えた。それはつまり、舞踏譜が、踊った二人から魂という代償を僅かですが吸いあげたことでもあります。おそらく舞踏譜の干渉作用を、あなたの中の「土壌」はそのとき記憶したのでしょう。そしてそれが故に「土」から「芽」が出、あなたの能力が花開く結果となった。つまりソードエンブリオの掛けようとした舞踏譜由来の催眠魔法に体が過剰反応し、妖波を取り込む能力を意図せずして手に入れてしまった。舞踏譜にここまで関わるとは、まことに気の毒な話です」

「……」

……。

……。

どうやって?

そうじゃないだろう。

どうしたい。

それが重要なんだ。

そうだろう。メリュジーヌ。

流れ込んだ妖波を、自分の望む箇所に流す。どこに流し、どう象るか、それを強く思い描くのだ。そして、そう在れと願え。願えば、妖波がその場で望む形を模す。できあがったそれは、魔を滅することに特化した武器となる。分かるか?今のお前には、それを成すことが、許されている――・

「ふう……」

妖波を収束させる。

収束箇所は……全身。

即ち魂を守る細胞ひとつ残らず、全てだ。


 カッ!!!!!


「?」

 剣、槍、斧、鉾、鎚、弓矢、暗器、鎧、兜、盾。

 そんなもの……要らない。

「あら」

斬る物。要らない。突く物。要らない。

かち割る物。要らない。突き刺す物。要らない。

叩き潰す物。要らない。遠くへ射る物。要らない。

隠し武器。要らない。身を守る物。要らない。

そんなもの、必要ない。

「素敵ですこと」

なぜなら、

この身は妖波を備えることを許された者。

即ち全身武装体。

「殿方がそのように神々しい輝きを秘めておられるのでしたら、燭台の貧相な灯火なんて必要ありませんわね」

 スパンッ!

 コレシュスが剣を振る。六つのシャンデリアを吊るす糸が全て切れる。

 ガシャガシャガシャ――ンッ!!

 シャンデリアが地面に叩きつけられ、音を立てて壊れる。けれど部屋は暗くならない。

「本当に、美しい」

それどころか、前にも増して明るい。キャンドルの炎はどれも消えているのに。蛍火はどこにも飛んでいないのに。

「踊るに値するかどうか、もう一度、試すといたしましょう」

 窓に映る自分の姿。体中から、金色の光が湧き上がっている。

「……」

 ……なるほど、これなら、明かりは要らない。

 フ。

 コレシュスが僕の目で追えない速度で移動を始める。けれど、

 ガキンッ!!

迫りくる風圧と殺意を全身の細胞は確実に感知し、禍々しい気配を纏う青い剣を左手首で防ぐ。体を覆う光がコレシュスの剣圧を防いでくれる。

シュルウゥゥゥゥ……

けれど鍔迫り合いのようになった途端、コレシュスの剣先のアクアマリンの光が腕に絡みついてくる。腕に激痛が走る。絡まれた箇所から血がこぼれ出す。

「はっ!!」

 離れ、今度はこっちから攻め込む。細胞そのものを信じて、力の限り殴り込む。

 ダンッ!!

 筋肉が全部入れ替わったかのように動きが軽く、早くなる。たぶん今なら、追い詰められる。

 ガキンッ!!パパパパパンッ!

 コレシュスが僕の衝突を剣で受け止める。でも僕は鍔迫り合いなんてしない。とにかく、殴る。できるだけ早く、そしてできるだけ重く。けれどそれをコレシュスは全て剣身で受け止めて見せる。柄を握る腕は早すぎて全く見えない。

「あはははははは!」

 時雨を思い出させるような笑い声をあげながら、大きく目を見開いた「剣神」はまた忽然と消える。

 スカカカカカッ!ガラガラガラガラッ!!

 広間で自分から一番近い石柱の一本に無数の線が走る。

すると石柱が音を立てて崩れ始める。

 ド――ンッ!!

 腐臭が上がる。崩れる石片の一つが弾丸のようにこっちに飛んでくる。

 それを交わしたとき、崩れ落ちる石柱の中に、剣を天に向けて静止するコレシュスの姿が見える。

 ブオンッ!!

 剣が振り下ろされた瞬間、アクアマリンの青い光だけが三日月のような円弧を保ったままこっちに飛んでくる。

 ゴシャッ!!

「ぐっ!」

 青い光にぶつかられた衝撃で僕はそのまま後ろに思い切り吹き飛び、壁に体ごとめり込ませる。

「はあ、はあ、はあ」

 ヒュヒュヒュヒュヒュンッ!ベチャチャチャチャチャアッ!

 めり込んだ体の両腕、両足、首の計五ケ所に、また青い光が飛んできてぶつかる。

しかも、それはスライムのような感触を備えていて、

くっついたと思ったら全く離れない。

「ぐううう……」

 スライムのくっつく箇所が熱い。しかも痛い。締め上げられているようだ。そして何より、身動きが取れない。

 ヴン。

「「「「「修羅城より告げん。汝に救うべき価無し。汝こそ、呪われて在れ」」」」」

 いずれも青い光のまとわりつく長剣を手にした鋭い眼光の「コレシュス」が、全員こっちに顔を向けている。聞き覚えのあるその呪文に、時雨が臼井を相手に見せた酷技をふと思い出す。

全身に鳥肌が立つ。まさかアレを、やるのか。

 ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ! ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!!

「「「「「苦しいですか?寂しいですか?悲しいですか?愛しいですか?悔しいですか?ゆっくり味わいなさい。」」」」

 飛行機の翼につけられたプロペラに体ごと飛び込んだらどうなるか。

たぶん跡形もなく粉砕され、骨粒入りの真っ赤なシェイクが出来るだろう。

一見惨すぎる話だが、やった本人は痛みを感じている暇もなく即死するだろうから、

存外惨くないかもしれない。

本当に惨いのは、プロペラに右腕、左腕、右足、左足と順番に少しずつまきこまれていって

最後に胴体を下の方から削り取られていくことだろう。「これ」はそれに、似ていた。

 ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

「「「「「千百の感情の流れに身を没する人間の業の味というもの」」」」」

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!

ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!!

 あるいは巨大なシュレッダーに放り込まれる。それと似たようなことが今僕の身で起きている。黄金の光に守られているせいで、飛び込んでくる「剣神」の青い一撃一撃は致命傷にはならず、ただ激痛だけを僕の体に刻み込んでいく。蓄積された痛みのせいで気絶寸前にまで追い込まれる。けれど即訪れる次の激痛のせいで意識は途絶えることを許されない。体を動かそうにも五体の動きをスライム状の青い光で封じられていて動かせない。

 けれど、このままだと、死ぬ。確実に死ぬ。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 他に、手が浮かばなかった。動きを封じられているのなら、それを解く以外、生き残る術はない。

 ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガスンッ!ガス……ガシッ!!

「!」

 死にもの狂いで全身に力をこめ、柔らかい泥のようなスライムをどうにか引きちぎる。

 フツンッ。

 全身が燃えるように熱くなったその時突然、右目が全く何も見えなくなる。失明したか。でも今はそれどころじゃない。それに左目がまだ残っている。まだ何とでもなる。

 ドゴンッ!!

他の分身同様斬り込んできたコレシュスの一人に、カウンターの蹴りを見舞う。

剣を握るその腕があり得ない方向に曲がり、ついでに弾き飛んだその分身に僕は飛び乗り、

地面に押し倒して、首を片手でしっかりと掴む。

「はああああっ!!」

顔面めがけて、もう片方の固めた拳をぶち込む!

 ズドオオオンッ!!!!

 クレーターが出来る。最強無比と思われた「剣神」の上半身が地面にめり込み、粉々に粉砕する。

青い煙がブワッと体全体から発生し、コレシュスが一人消える。クレーターを作る際に僕が生み出した地震によって姿勢を崩した別の一体を見つけた。

そこへ全力で迫る。

 ズボゴォンッッ!

 見舞ったボディーブローがコレシュスの分身の体を二つに割る。再び青い煙になって勢いよく消える。

「足掻き、動き、悩む……うふふ」

 バゴンッ!

「くっ」

 僕から見て左側から声がしたその時、見えない右側から突如刃物がぶつかってくる。

「そろそろ生きていることは空しいと悟りましたか」

その刃物にくっついていたと思われる青い光を左目がとらえた時に、顔の右側の皮膚に焼かれるような痛みが走る。

 ガキンッッ!! 

 すかさず傍にいたコレシュスの分身に反撃するも、青い光の灯る剣で拳をきっちりと防がれる。

これだと相手を倒すのは難しい。

とにかく拳を剣ではなく、体にぶつけないと、ケリはいつまでたってもつかない。

 パンッ!!

「身の程を知らぬあなたに不吉な宴を催しましょう」

 別の一体が後ろから上段で斬りかかってくる。頭をぶち割られる前にその剣を白刃取りのように両手で止めた瞬間、その一体は剣を手放し、拳を固める。

「さようなら」

「!?」

肘から拳まで青い炎をらせん状にまとったスクリューのような腕が僕のがら空きの胴に突き刺さる。

「はおっ!!」

 吹き飛ばされる僕の行く手に、別の分身二体が上段と下段でそれぞれ剣を構えている。僕が二体の刃圏に突入した瞬間に、上と下から青閃の刃がうなりを上げることは容易に想像が出来た。

 ヒュウンッ!!

 ザクシュッ!

「不滅なる不幸よ、今ここに在れ……!?」

 たった今「譲ってもらった」片刃の長剣を僕は宙に浮いた状態で投げとばす。上段に構えていた一体の腕の付け根にそれはどうにか刺さり、その一体がバランスを崩して倒れる。

 ガキンッ!!

 タッ。

 ボグシャッ!

 ズドーンッ!!

 もう一体の下段からぶち上げられた刃を僕は両腕で受け止める。受け止めた反動で体を回転させ着地し、着地と同時に顔面を顎から右足で蹴り上げる。首が千切れ飛び、胴だけとなったところへ、振り上げた右足を踵から落とす。残された胴体を半分に裂く。

 そのコレシュスが青い煙となって消え逝く中、急いで体勢を整え、肩に剣が突き刺さっている倒れたコレシュスを倒しにかかる。顔面を殴り潰そうとした瞬間、またも

「この世の悲惨を終わらせるものは墓場以外にないというのに……」

 ドゴンッ!

「くっ!?」

 右側から青い衝撃が走る。弾き飛ばされ、大理石のタイルの上を何回も転がる。

「はあ、はあ、はあ」

 かすみ始めた左目であと「剣神」が何体残っているかを確認する。

 シュキンッ。

 あと、二体だった。

倒れるコレシュスの腕に刺さっていた刀をコレシュスが引き抜く。

引き抜いたコレシュスのドレスの色が深紅に染まる。

さらに、形が変形していく。兜を脱いだ甲冑の騎士のような格好に変わった。

おそらくこいつが……本物のコレシュスだ。

「奇跡の肉塊」

 甲冑を纏うコレシュスは僕を見下すようにしてそう告げ、

「苦痛と恍惚を終わらせてあげましょう」

 死の宣告をしてきた。空気がさらに張り詰める。

 ダンッ!!

 左目が白くぼやけている。このままだとまずい。

急がないと。もうじき見えなくなる!

 ガキィ―――ンッッ!!

 僕の突きと甲冑のコレシュスの握る剣が正面衝突する。けれどコレシュスは弾き飛ばず、逆に僕を弾き飛ばす。

「!?」

 そこへ、左手をだらりと垂らしたコレシュスの分身が飛び込んでくる。右手には剣がある。

 ガキンッ!

 分身コレシュスの剣を止めて反撃に出ようとした瞬間、赤い塊が邪魔をする。

 ドゴンッ!!

「か、は……あ」

 肘を突き出した紅の甲冑の肘当てが僕の胸にぶつかる。光に守られているにもかかわらず、僕の胸でミシミシと嫌な音がする。呼吸の一時停止を余儀なくされる。

 バッ! ガキガキンッ!

 ガシッ! ドスンッ!

 サクッ! ボシュンッ!!

 紅の甲冑はすぐに消え、僕の傍に残されたのは、右手だけで僕を斬ろうとするコレシュスの分身だけだった。

痛みをこらえながら僕は間合いを詰め、分身の顔面を左手で掴むと、右手の剣を逆手に持ち替えつつ、立った状態から一気に後頭部を地面にたたきつけた。

そして右手に握る剣の切先を倒れたコレシュスの心臓に突き立てる。

それでようやく最後の分身が青い煙となって消滅する。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 何もかも既に暗い。

目が確実に見えなくなっているのもあるだろうけれど、もう一つ。

僕の体から出る光が、明らかに弱まっている。

暗い。

くそ、本物はどこにいる?

……どこからくる?

……それはきっと……

 フッ! 

 僕の死角。右からに決まってる。

「!」

 これだけ近づいてくれればよく見える。そんなに驚いた顔するなよ。

「せあああっ!!」

 ボグシュッ!

 剣の柄頭でコレシュスの顔面を殴る。顔半分が吹き飛ぶ。

「……」

 コレシュスはよろめくも、攻撃の構えを崩さず、一旦僕から距離を取るべく離れる。僕が一足飛びに近づけないほど離れたところでコレシュスは剣を捨てた。

 ガラガランガラーンッ。

「?」

 ボワッ!

 コレシュスの顔半分から溢れんばかりの青い炎が吹き上がる。炎は顔を飛び出し蛇のように甲冑の体に巻きつく。赤い鎧に青い炎が走り、全体がおどろおどろしい紫色に染め上る。

「ほほほほほ。いい加減に……消えろ」

 ガチャッ。

 ガチャッ。

 ガチャッ。

 ガチャッ。

 ゆっくり、歩いてくる。

「最初に言った通り、私は早々に“無”を始めたい」

 ガチャッ。

 ガチャッ。

 ガチャフッ!

「!」

 ズガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

速すぎる――!

コレシュスが消えた瞬間、拳が、いきなり「面」となって襲ってきた。もはや反撃する暇はなく、ただひたすら防戦を強いられる状態になる。そして防御に徹していても、防ぎきれない高速の拳が全身を打ちのめしてくる。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

「誰が悪い?神が悪い?男が悪い?精霊が悪い?女が悪い?妖精が悪い?誰が悪い?誰がこんなふざけた物語を、セカイを創ったのかしら?」

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 ふんばっているのに、拳圧に押されて体が後ろに下がっていく。やがて壁に背中がぶつかる。

「セカイを、この狂った錯覚を壊すためなら全てを捧げても、悔いるところはない……あはははははははははは」

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 コレシュスは僕が左右に逃げられないよう横からも容赦なく拳を見舞ってくる。このままだと、殴り殺される。

 でもどうしたらこの攻撃を止められる?

 考えろ。考えろ。考えろ。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 ……。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 …………。

 敵の拳を砕き、かつ、敵の命をも砕く拳を。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 作るとすれば、そのためには全てを賭けるしかきっと、ない。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 全身を覆う妖波の鎧。これを、放棄する。

その代わりに、体に残る全ての妖波を一点に収束させる。文字通り一点に。

 ……右。

 左の腕はほとんど壊れてしまっているから。右の拳に、全てを賭けよう。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!

 妖波。

全部集まってくれ。

もう、守らなくていい。

コレシュスの攻撃に備えなくていい。

ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ……

ただ集まってくれ。

僕の右手に……。

……ガガガガガドグシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャグシャッ!!

「くううっ!!」

 「武装」を解除した途端、一瞬にして骨や臓器が取り返しのつかないダメージを負うのが分かる。けれど全ては、

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――っ!!」

 この一撃のため!!

 キィィィィィィィィィィ――――ンッッ!!!!!

 「拳」が、完成する。

「!」

 その時、コレシュスは危険を感知したらしく、後ろに一気に退く。

 待て!

 行くな!!

 追いかけるように手を前に伸ばし、思わず僕はその手のひらを開けた。

「「?」」

 図らずもその瞬間、手のひらから、それは出た。

 ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!

「!!!!!!!」

 全身の力が抜けるような感覚と共に黄金の光が、横たわる巨大な柱のようになって前方に逃れたコレシュスに襲いかかる。ついさっきまでの僕のように今度はコレシュスが光に押し付けられ、倒れることの許されない状況に追い込まれる。

 何でこうなったのかよく分からない。

拳にため込んだ力がこらえきれず「舎瞳」のように飛び出したのか。

よく分からない。

とにかく分かるのは、もうほとんど、視力が効かないことくらいだった。

光の柱とそこから逃れようとする青い光がわずかに左目で見えるくらいだ。

「ギィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……」

 コレシュスの悲鳴が聞こえる。

頼む、これで終わってくれ。

そうじゃないと、もう反撃する力も余裕も、僕にはない……。

「ク……アアアアアアアアアアアアアアア……」

 ピシッ!

 ピシピシッ!!

 ギシリッ!!

 亀裂音がコレシュスの悲鳴に混じって響き出す。

何の亀裂?ああ、広間の?……そう言えば広間の外は、どうなっているんだろう?

 ドサッ。

 ダメだ。立っていられない。体がもう、動かない。

「グッ、ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!グッウウウウウウウウ……」

 決まってくれ。

中西のためにも。

臼井のためにも。

姉さんのためにも。

時雨のためにも。

それ以外の、傷つき果てた犠牲者のためにも、もう終わってくれ。

「グ……ウァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 バシュウウウウ―――ンッ……


「……」

 何も、音がしない。

暗闇だけが、残る。暗いのは僕が失明したせいか?それとも本当に闇しかないんだろうか。……それよりも、僕はまだ生きているのか。

この様子だと、それすら怪しい。でもたぶん、この冷たい感じは、大理石の床だろう。そう言えば、僕はたった今、倒れたんだ。内臓と骨をたくさん砕かれ、疲れ切って倒れたんだ。これじゃ確かに、生きていられる保証はあまりないな。

ピシピシピシ……

 亀裂音が始まる。ということは、さっきの場所にまだ僕はいるってことか。とりあえず今は、僕は生きてるってことか?

 ビシィッ!!

 それで、コレシュスはどうなった?悲鳴も、笑い声も、話し声もしない。もう死んだのか?戦いは終わったのか?

ガラガラドゴ――ンッ!!!

 壁の崩れる音がする。すると音のした方へすさまじい勢いで風が吹き込み始める。まるで巨大な掃除機が僕のいる闇の何もかもを吸い込もうとしているようだった。

「!」

 倒れていた僕の体もその強引な風によって浮く。

風で体が浮くなんて、こんなことがあるのか。やれやれって、何のんきなことを言っているんだ。でも、焦ってもどうしようもない。こんな体じゃ、もう何も、どうにもできない。

「……」

 吸い込まれた先で、僕は天地を失う。上も下も右も左も分からない。ただ漆黒の闇の中を漂っているような感じ。

「!」

 驚いた。左目の残りわずかな視力がそのとき、青い光を捉える。もしその形が流れ星のように尾を引いた光線だったり、蛍火のような幽かな光球だったら、僕は反応することもなかったろう。けれど、それは違った。流れ星にしてはあまりにも太過ぎた。蛍火にしてはあまりにも大きすぎた。

「……」

 ドレスを着た女性がそのまま青く光っている。そんな感じだった。

「生きているのか、まだ」

 コレシュスだ。あれはきっと。

「くそ……」


―――君の勝ち。


「?」

 あまりの静寂に耳が痛い。

 そんな中、ドレスを着た青い光の方から何かが聞こえたような気がした。コレシュスが何か言ったのか?

 シ~ン。

 けれどコレシュスらしき発光体は何も言葉を発さない。スペースシャトルから人工衛星を眺めている映像のように、僕と同様、音もなくその発光体は闇の中を漂っていた。

 サ~……

 発光体の光が、散っていく。固形入浴剤を湯浴の中に落としたように青い光の粒子が闇の彼方へと流れて去っていく。

 サ~……

 コレシュスが、散っていく。どうにか、彼女の暴走を止められた。これで終わりなんだな。


―――さようなら。古き友よ。


「……!」

 今、何かが聞こえた。何だ…………時雨!?

 そう思った時には、僕は闇の中を必死にもがくようにして泳いでいた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 もう動かすことはできないと思っていた手足をばたつかせて、僕は青い闇を泳ぐ。けれど前にも後ろにも進まない。進んでいるのは、バラバラに別れた発光体だけだった。それだけにしか変化を許されていないかのように、僕はいつまでたっても先に進めない。発光体だけが、自分を散らして彼方へ往く。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 発光体の正体が何なのか確信なんてない。けれど、ひょっとしたら、ひょっとしたら、あれはコレシュスじゃなくて、時雨なんじゃないか。そう思うと、居ても立っても居られない。何が何でも傍に行きたかった。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 前に進めない。

後ろに下がれない。

上に昇れない。

下に降りられない。

どうすればいいんだ。どうすれば……

「ちくしょう……」

 目がもう、見えなくなりそうだ。

「……」

 目……。

 …………………………………………………………………………………………。

 …………………………………………………………………………………………。

 …………………………………………………………………………………………。

 そうだ!

 僕には、「舎瞳」がある。

「舎瞳」は、メリュジーヌの言う「拡散解放」以前に妖波を集める力がある。

「……」

 もし今、闇の彼方に去りつつあるあの青い光が、妖波と同じものなら、僕ならあるいは、

「集められる……」

 泳ぐのをやめる。

呼吸を整える。

神経を研ぎ澄ませる。

集中する。

妖波を集めたい。

消え逝く時雨を、集めたい。

時雨を一人ぼっちのままで終わらせたくない。

荻原を失いたくない。

「時雨……」

 この目は君に共感し、君の事実から出発し、君の救済を祈るモノ。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 焦点すら定まらなくなりつつある左目に、青い光の粒が映る。粒は次第に大きくなり、また数が増える。

「はあ、はあ、はあ、はあ……時雨……」

 目に、光が飛び込んでいく。無数の光を迎えた後、僕の視界は完全に途絶えた。世界が光を失ったからか、それとも僕が光を失ったからか。またも分からない。分からないけれど、そんなこと、もうどうでもよかった。

「……」

 胸の中が、温かさで満たされている。ただもうそれだけで、何もかもどうでもよくなった。ここがもし「死」だとすれば、僕は本当に幸せだ。こんな気分を胸に抱いて死ねるなんて、本当に……良かった……

「好き……だ……」

 時雨と一緒に、死ねる。それはそれで有り難い。だけど、もしもう一度やり直すことができたら、それはそれでどれだけ幸せだろう。死んで一緒よりも、どんな形でもいいから、一緒に生きる方が、僕はやっぱり、いい気がする。

「シグ……レ……」

もう一度、時雨に会いたい。できれば……

時雨の物語の、最初に。


「……」

 うたた寝をし終えて目覚めたような気分だ。

両瞼を開くと、そこには眩しい太陽の光がある。

「……」

 今さっきまで、宇宙の果てみたいな闇の中を必死に泳いでいたはずなのに、

どうして?

「いてて……」

 同じ姿勢で寝ていた時に感じるような背中の痛みを久しぶりに味わう。そう言えば、体のどこにも激痛を感じない。

目も痛くない。

というか両方の目の視力が回復している。内臓も骨も潰された時に感じた痛みがない。皮膚を焼かれるような強烈な痛みもない。これはひょっとすると……本当に死んだのか?

「よいしょっと……」

薄いクッションの上に革が張ってあるだけの腰掛から身を起こす。温かい日差しを背に受けながら、ここはどこかを考える。直感的に、勝った、負けたの現実世界とは違うと思った。

第一蛍火が全く見えない。それで、目の前にある白い壁には下から一メートルくらいの高さに手摺が設けられている。その手摺は廊下と思しき通路の端から端まで、壁がある限り設けられている。まるで病院だ。あの世にも病院があるのかな、と思ったりした。

立ち上がり、歩き出す。

火災報知器がすぐ目に入り、やがて消毒用のアルコールの入った容器、花瓶に活けられたグラジオラス、消化器、車椅子と、飛び込んでくる。

明け放たれた扉の中にある手摺つきの大きな白いベッド、その隣の点滴をつるす金属、あるいは薬を乗せたトレーを見た時に、たぶんここは病院なんだと確信した。

でも、誰もいない。

ここが病院だとしたら、医者とか、患者とか、見舞客とかが少しくらいいたっていい。

これだけ歩き回っているのに誰もいないなんて……あっ!

廊下を歩き回るうちに、少し開けた場所に出る。

腰を降ろし軽く談話ができるよう脚の低いテーブルとイスが何脚か設けられてあった。

色づいた柿を思わせる色のカーテンが開けた窓から流れ込んでくる風に揺れている。

その風を流す窓を見るように、銀髪の男が腰を降ろして座っていた。

「フェナカイト、さん」

 声をかけた。

けれどフェナカイトさんは夢で会った時と同じように、何も答えてくれない。まるでテレビに映る映像に向かって話しかけているみたいに、こちらには無反応だった。

 僕は近づいていき、彼の肩に手を乗せる。だけども僕の手は彼の肩に乗らず、そのまますり抜けた。

どうやら、フェナカイトさんはここにいるけれど、ここにいないらしい。いや、僕の方こそ、ここにいるけれど、ここにはいないのかもしれない。じゃあここはいったいどこなんだっていうことになる。

病院の「フリ」をしたどこか。でもそれ以上は今まだ分からない。

 フェナカイトさんが黒いコートの中から煙草を取り出し、それに火をつけようとした時だった。

「おじさん!」

 パジャマを着た男の子が大きなスリッパをパタパタ鳴らしてフェナカイトさんの所へ走って着た。どこから来たんだ?

「はあ、はあ、はあ……おじさん!」

「どうした?」

 フェナカイトさんは火をつけようとしていた煙草をしまい、パジャマの男の子に答える。

「あのね、あのね、すごいんだよ!」

「で、どうしたんだ?」

「あのね、シグレがね、目が見えるようになったんだよ!」

「……そうか。それはよかったな」

「おじさんの教えてくれたとおりに、ちゃんと二人で踊ったんだよ!」

「ああ。すごいな」

「ねえ、おじさんも見に来てよ」

「別に見なくても分かるさ。……そうか、願いは叶ったか。本当によくやったな」

 フェナカイトさんは男の子を見ながら微笑む。この人も笑うことがあるのか。

「うん!おじさんありがとう!」

 パジャマの男の子は額に浮いた汗をぬぐいながら、また駆け出そうとする。

「トモヒロ」

 え?

「なに?」

「少し休みなさい」

「平気。大丈夫だよ、全然」

「……」

 男の子はまたスリッパをパタパタ言わせて駆けていく。

トモヒロ……シグレ……。

「追いかけなくていいのか?」

「!」

 フェナカイトさんと二人きりになった時、フェナカイトさんは突如そう言った。

「僕が、分かるんですか?」

「もう一度だけ、言っておく。……いつか、ここに来るだろう若者よ。追いかけろ、自分を。そこに、お前の望む答えはある」

 目を瞑り、フェナカイトさんはしまった煙草を再び取り出し、火をつける。白煙をゆるゆると吐きだす。

「……」

 フェナカイトさんは、僕が見えているわけじゃない。

「……踊りの本質は」

だけど僕がここにくることを、この人は知っていたんだ。そんな気がする。

「つなぎ、つながろうとすることだ」

そして、僕にきっとメッセージを残したんだ。

「それを忘れるな。それだけは」

僕はこの人のメッセージの中に今いるんだ。きっと。

「……ありがとうございます」

 僕は一礼して、その場を離れる。

廊下を進み、もう一度振り返った時、今歩んできたはずの明るい廊下は漆黒の闇に呑まれていた。それはまるで、振り返るなと僕に告げているかのような光景だった。

僕はパジャマの男の子のパタパタという音を駆け足で追った。

「シグレ?シグレ?どこ行ったの?」

 パタパタという音がやむことはなかった。音を追うと、やがて男の子が廊下でつながる病室の一つ一つを行き来する場面に僕は出くわす。不安そうな顔に汗をにじませながら、男の子は必死に「シグレ」を呼ぶ。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 一部屋一部屋を見て回ってもシグレを見つけられなかった男の子は、また別の場所へ走り出す。僕はそれを速足で追う。

今度は、どこへ行くんだ?

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 レクリエーションルームと書かれた部屋に男の子はやってきた。大きな鏡のある部屋だった。それ以外に運動用の器具、歩行のための補助器具などが部屋にはあった。

「シグレ!どこ行ったんだよ」

 男の子はとうとう、走るのをやめる。胸が苦しいのか、胸に手を当てて、その場に座り込む。

「どうしよう。シグレのやつ、どこいっちゃったんだろう」

「……」

 気づけば、僕自身もまた胸に片手を置いていた。

 そう。時雨のやつ、どこに行っちゃったんだろう。

「また、シグレに会えるかな」

 小さな声で、床に向かって男の子は話しかける。

「でも、会えるとしたら、いつ会えるんだろう」

「どこ行ったかも分からないし」

「どうしよう……うっ、ううっ……」

 自問するうちに悲しくなってしまったのか、男の子はその場で泣き出してしまった。僕は近くまで行き、男の子の傍に腰おろした。触れられないことはフェナカイトさんとのやりとりで分かっていたから、僕はただ男の子を見守ることにした。

「う、ううっ、ぐす……ぐすっ」

 しばらく泣いた後、男の子は立ち上がり、スリッパを脱ぐ。そして、不思議な行動をとり始めた。

最初は何をしているのか分からなかった。けれどそのうち、この子は踊っているんだと気づいた。真剣に足元を見つめながら、ゆっくりとステップを踏んでいた。

「ちゃんとやれば、シグレ……また会えるよね」

「……」

 男の子の足元を見ているうちに、そのステップの始まりと終わりが分かるようになった。

そして男の子が繰り返し、繰り返し、ステップを踏み続けていることも分かった。

でも、どうして?

踊ることと、時雨に会うことに何の関係があるんだ?

「……ぐすっ、また、願いを叶えてよ……」

 顔をまたクシャクシャにして男の子は踊っている。

 願いを叶えてよ?

 ……。

 男の子とフェナカイトさんの会話を思い出す。

そうか、願いは叶ったか。本当によくやったな――。

「……舞踏譜?」

 その時、男の子が何をやっているのか分かった。

時雨がだいぶ前に話していた舞踏譜。中西を狂わせた、願いをかなえるあの舞踏譜。

それをこの男の子は、今踊ろうとしている。

「ぐすっ、ぐすっ……こんなにちゃんとお祈りしているのに、やっぱり、一人じゃダメか……」

 踊り疲れてまた腰を降ろした男の子がつぶやく。

 ……。

おじさんの教えてくれたとおりに、ちゃんとシグレと同じように踊ったんだよ――

「……」

 舞踏譜が願いを叶えるにはおそらく、二人要る。

 二人が、舞踏譜の踊りを踊る必要がある。

その踊りは全く同じだろうか?もしまったく同じなら、あの時フェナカイトさんに男の子は「同じように」なんて言ったか?「ように」っていうのは、何だろう。全く同じなら、「同じに」でもいいはずだ。

「……」

 ぼんやりと、男の子は鏡を見ている。鏡の中には、僕はいない。いるのは泣いたせいで目元の赤いやせた男の子だけだ。

「そうだった!」

 男の子は叫び、鏡の前に行く。そしてステップを踏み始める。その瞬間、

 シュンッ。

 取り付けられた鏡が一瞬にして曇りガラスのように曇ってしまう。

「そんな、ひどいよ!どうしてだよ!」

 男の子は鏡をガンガンと叩いた後、泣きながら僕の立つ、元いた場所に戻ってきた。

「!」

 同じように――。

 意味が分かった。

それはある軸に対して左右対称になるってことじゃないか?

だから「同じように」。

それなら、二人必要なことも分かる。

二人で、一つの踊りを完成させる。足運びはおそらく、左右逆にすればいい。

願いを込めて、左右対称に踊りを踊る。

鏡に映り込んだ自分と踊るように。そうすると、願いは叶う。違うか?

「ぐすっ……」

 あきらめきれないのか、しばらくして男の子はもう一度立ち上がる。

「会えるもん」

 踊るつもりだ。

 ドクンッ。ドクンッ。

ドクンッ。ドクンッ。

 鼓動が高鳴るのを抑えながら、僕も立ち上がる。

 踊りのために二人、要る。

 ドクンッ。ドクンッ。

ドクンッ。ドクンッ。

 踊るために二人が、いる。

 男の子と、僕。

 願いは、一緒だ。

「ぐすっ、ぐすっ……」

 シグレに会いたい。

「ス~、ハ~……よし」

 時雨に、逢いたい。

 ヒタ。

 男の子のステップが始まる!

今さっき何度も見たステップを逆にして僕は男の子のゆっくりとした足取りに合わせる。

人の体内の循環系を思わせる軌跡を真剣に僕は歩く。

正直な所、踊っているという感じじゃなかった。ただ足取りを合わせる。

それだけだった。

絶対に、絶対に、間違えられない。手に汗がにじむ。

「あっ!」

 思っていた矢先のこと、僕は途中で間違えてしまった。

全身が脱力する。

どうしよう。なんてことを。

もしこれで、男の子が踊るのをあきらめたら、もう、時雨に逢えない……。

「……」

 男の子はけれど、ステップを終えるとまた最初から、ステップを踏み始める。

助かった!

今度は絶対に、ミスできない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 男の子の顔がゆがむ。明らかに苦しそうだった。

男の子に残された体力からして、ひょっとしたらこれがラストかもしれない。

「よしっ!」

 ステップが終わった。思わず大きな声で喜んでしまう。

「はあ、はあ、はあ……」

 男の子はその場にへたり込む。

「あれ?」

 願いが叶うはずなら、時雨がどっかから現れてもいいはずだ。

どこに時雨はいる?

どうして出てこない?

ステップは完全に左右対称にした。間違いない。男の子のステップ自体もさっきまでと全く同じだった。間違えていないはずだ。なのに、どうして!?

「はあ、はあ、シグレ……シグレ……」

 歯を食いしばって、男の子は立ち上がる。

「お願いだから、戻ってきて」

「……」

 しまった。

 「過ち」に気づき、僕は目を瞑る。

鳥肌が立つのを覚えながら、何が間違っていたかを確認する。踊りを正確に踊る事ばかりに気を取られて、肝心な「願い」を、忘れていた。

 踊りは、二人要る。

願いを一にし、左右対称に踊れる二人が要る。男の子に「願い」はあったが、僕には「焦り」しかなかった。

「ス~、ハ~……」

 深呼吸をし、目を開く。

男の子は袖で額の汗を拭き、ゆっくりとまた、踊り始める。

 ヒタ。

 時雨――。

 必ず逢える。

 だってこんなにも、

僕は君を、愛しているから。

 踊りが終わる。

「シグレ……また……」

 男の子は気を失う。倒れそうになる体を支えようとした矢先、男の子の体が金色の光に包まれて、バラバラに砕ける。

 サ~……

 開け放たれた窓の外、窓、壁、鏡、器具、床。全てが少しずつ光を放ち始め、黄金色に包まれ、徐々に形を崩していく。一切はついに妖波のような蛍火のように変わる。

 それら膨大量の光が、目の中に飛び込んでくる。飛び込んでくるのを感じつつ、それによって心が満たされる感じを強く覚える。それはさっき暗闇を漂っていた時と同じ感覚だった。それで気づく。今飛び込んできている妖波は荻原の一部だと。魂という妖波の塊がバラバラに砕けたものだと。

 妖波――。

それを知覚するこの目を「舎瞳」と名づけた時雨は、僕を舞踏譜にすると言った。あいにく人殺しのために利用される舞踏譜になるつもりはない。

それは今も変わらない。

「入祭唱。旋律詞拝」

そのかわり時雨。

「晃階唱。旋律賛溢」

僕は、僕は君のために舞踏譜を歩む。

「アレルヤ唱。旋律解互」

僕ともう一人の「僕」が願いを重ねて、君の「砕けた魂(妖波)」を魂へ、もう一度まとめ上げて見せる。

「奉献唱。旋律開配」

時雨、君にもう一度人生を歩んでほしい。

「聖体拝領唱。旋律聖燦」

どんな人でも、生きることを突きつめた先には希望があるって、気づいて欲しい。

「舎瞳。この目は君に共感し、君の事実から出発し、君の救済を祈るモノ」

今ここに、魂の再生を。

「時雨……生きろ」



エピローグ


カランカランッ。

「いらっしゃいませ」

 温められた室内に、わずかだけどアロマの香りが漂う。

それとケンカしない程度に、誰もが清潔感のある匂いを持って仕事をしている。

「では、こちらへどうぞ」

 タオルを持って立っている俺は、同僚によって奥へ案内されてきた男性に挨拶する。

男性と軽く世間話をした後、さっそく仕事にとりかかる。

「それじゃ、筋肉の方を、ほぐしていきますね」

 俺の腰くらいの高さの台上にうつ伏せに横たわった男性の腓腹筋、半腱様筋、大内転筋、大殿筋、広背筋、大円筋、小円筋、棘下筋、僧帽筋、頭板状筋を僕はゆっくりともみほぐしていく。五十代半ばらしい筋肉の凝りを手探りで僕は知覚する。

「強さの方は、これくらいで大丈夫ですか」

「もっと力入れてよ」

「分かりました」

 “アレ”から、もう五年が立つ。

 目覚めた時、俺の目はもう見えなかった。

ただ世界が終わっていないことは、冬の朝を知らせる冷たい風、アスファルトのにおい、

カラスの鳴き声、救急車の走る音、全身を覆う激痛、そして、

「智宏……よかった」

 聞きたいと望んでいた人の声で分かった。

「時雨……なのか」

「ひょっとして、目……」

「うん。ちょっと見えない。ごめん」

「……」

 その時、時雨の膝の上にどうやら俺の頭はのっていたらしい。その俺の両頬に時雨の両手が当たる。とても温かかった。

 ポタ。

ポタ。

 顔に雫が落ちる。

「泣いているのか」

「……」

 荻原はすぐに答えなかった。だから俺もしばらくは何も言わなかった。

「寒いね」

 しばらくして、荻原はそう言った。だから「そうだね」と答えた。

「これから、どうするんだ?」

 死にもの狂いで時雨を復活させた俺は、時雨が何を望むのか興味があった。

俺と幼き日の俺が願ったのは、この世の破滅を望む時雨じゃなかった。俺たちが望んだのは、魔法だの虐待だの訳の分からない束縛から解き放たれた時雨。これだけは、確かだった。生きる意味を突き詰めた先に、人生の否定しか思い浮かばないような人生は絶対に選ばせたくなかった。

「ありがとう」

「え?」

「体の中に、私にはいろいろ入っていたんだけど、それがそっくり、消えちゃった」

「例の……ソードエンブリオとかいう、あれか?」

「うん。そうだね。あと私の悪巧みに協力してくれたコレシュスも」

 時雨の手が俺の頭をなでる。

「私、死なないよ」

「……」

「死んでお詫びなんて、そんなことしない」

「……」

「私のしたことは取り返しがつかないから。この命が果てるまで、償う」

「そうか……でも、時雨はたぶん、悪くないんじゃないか」

「優しいね、君は。でも、そうはいかないんだよ」

「時雨。君は一回死んだ。生まれ変わったんだ……だから」

「それでも、私は私……」

「それなら……僕も付きあう」

「……」

「償うんだろう。だったら、僕もそれに付き合う。僕も命が果てるまで、誰かのために、何かのために償うよ」

「……そう。ありがとう。でも無理しないで」

 そのとき人の声が聞こえて、救急車のサイレンが止まる。まさか自分たちを運ぶために救急車が来たのか。

「よいしょっと」

 時雨が俺の頭を持ち上げる。地面の上にそっと降ろす。ただし地面と俺の頭との間には、時雨の匂いのついた上着がクッション替わりに置かれた。

「時雨?」

「行かないと」

「どこへ?」

「私を裁く所へ。そこでまず裁きを受けて、そしたら……また戻って来るよ」

「僕も一緒に……」

「君は来なくていい。それより、お父さんやお母さんが心配しているから、ちゃんと元気な顔を見せてあげなよ」

「時雨!」

 目が見えないことをこのときは呪った。体を起こし、その姿を目で追おうとしたところで、どこにいるかは分からない。

 時雨は、俺から姿を消した。

 俺は病院に搬送され、そこで両親と久しぶりに顔を合わせた。俺にとっては確かにどうでもいい瞬間だった。でも時雨に言われたから、その歓迎の声と温もりにしっかり向き合うことにした。

 肉体がボロボロに傷つき、衰弱しきっていた俺は退院するのに一年もかかった。

一年後、目以外の体の機能が元通りになって退院することのできた俺は、両親の勧めで盲学校に通い、そこで三年間、整体師になるべく職業訓練を積んだ。目が見えないというハンディは結構大きかったけれど、俺にはなすべきことがあったから、それを思い、耐えることができた。

時雨の背負った罪の償いを俺も担う――。

時雨が殺した俺の同級生や姉さん、姉さんが臼井を止めるために払った犠牲を思うと、どんなに辛い状況にあっても耐えなければいけないと思えた。

時雨がどこで今どんな償いをしているかは知らない。

けれどきっと償っている。

人のために生きている。

俺はそう信じて、職業訓練を終え、国家試験をどうにかパスし、今、整体院で人のために働いている。

 男性客の施術が終わり、彼はお金を支払い、店を去っていく。それからまもなく、別の客が来る。

カランカランッ。

「いらっしゃいませ」

 毎年、この季節になると事件を思い出す。

あの事件によって犠牲になった人々を追悼するために、追悼記念式典がこの街ではこの時期催されるようになった。それがラジオやテレビで流れる度に、事件を思い出す。

「先生、次こちらの方をお願いします」

「分かりました」

 追悼記念式典には、必ず参加することにしている。そこでかつての同級生に再開し、話を聞いたりこっちの近況を話したりする。彼らの話に興味があるわけではないけれど、ただ、彼らが懸命に、死んでいった知人の分まで精いっぱい生きようとしている話を聞くと、

とても励まされた。だから彼らの話を聞きに、そしてもちろん追悼をしに、式典には毎年参加してした。

「今日はどうされましたか」

「腰が痛くて」

「分かりました。ちょっと骨盤の様子を見てみますね」

 二十代くらいの女性の話を聞いて、彼女を台の上にうつ伏せに寝かせる。脊柱に指を当て、骨盤に指を当て、足を持ち上げて踵を合わせ、足の長さに違いがないか、歪みが出ていないか確認していく。

「だいぶ歪みが出ていますね」

「そうですか。それなら、治療をお願いできますか」

「ええ。それじゃ筋肉の方から、ほぐしていきますね」

 足の方から首の方にかけて筋肉の凝りを散らしていく。

「明日って、式典ですよね。確か」

「え?はい。そうですね」

 突然、追悼記念式典の話が客から出て、ドキリとする。

「力加減は大丈夫ですか?痛くないですか」

「大丈夫です。……あの、式には参加するんですか?」

「自分ですか?……そうですね。式には毎年出てますね」

「どうして、ですか」

「あの事件で、知り合いが大勢亡くなりまして。その事実を風化させたくないので必ず出ることにしています」

「そうですか。私もです」

「そうなんですか」


「……しかも私が原因で」


 ピタッ。

 ……………………………………………………………………………………。

「……時雨か」

「うん。……ただいま」

 しばらく動けなかった。

頭の中に過去やら夢やらが渦巻いて、何が何だか分からなくなった。

「また、どこかに行くのか」

 俺は施術を再開しつつ、尋ねた。

ダメだ。手の震えが、止まらない。

「執行猶予」

「?」

「私がここにいるのは、執行猶予が付いたからなんだよね」

「あの時言っていた、裁きってやつか」

「うん。五年の勾留の末、言い渡された刑は死刑。ただし執行猶予が終身」

「それって……」

「私が今後一度でも魔法を使おうものならその時は死という刑罰が待っている。だけど使わないなら、好きな形で社会奉仕しなさいということになったんだよ。協会は想像以上に寛容になったってことだね」

「……」

「私は火と剣と魔をもって万物の霊長を絶滅させようとした凶悪犯罪者。だけどその原因が親の植え付けた剣柩ソード・エンブリオと、幼少時の精神的汚染にあるってことで、超がつくくらい刑が軽くなったんだ」

「……」

「ついでに裁く側の都合も量刑に関係していてね。彼らが手を焼いていた君のお姉さんを結果的に倒し、舞踏譜という禁術もこの世から完全に消滅させた。彼らの仕事や脅威を減らしたということもあって、終身にわたる執行猶予で落ち着いたのさ」

 そう言って荻原は首を触れと俺に言う。首の後ろには確かに何かビー玉のような球体がはまっている感じだった。

「これが爆弾。魔法を使うと自動で爆発。といっても、いろいろ記憶も失ったおかげで魔法なんてもうほとんど使えないんだけどね」

「……そうか」

 いろいろと言いたいこと、聞きたいことはあった。けれど今こちらから根掘り葉掘り聞くのはどうだろう。時雨が告白したいタイミングで、告白するのを待つべきだ。だから俺は、それ以上多くは言わない。

「とりあえず、おかえり」

「うん。ただいま」

 時雨はそう言うと、あとは黙ったままだった。

ようやく落ち着きを取り戻した俺は時雨の歪みの出た骨盤を直した。首にも少し歪みが出ていたからどうしようか考えたけれど、「ビー玉」に触れて何かあったら怖いと思って、とりあえず肩と首の筋肉をほぐすにとどめた。

「式典には出るんだっけ」

「ああ。出る」

「そっか。じゃあまた明日会おう。伝えておくことが、あるから」

「それなら今ここで言えばいいだろ」

「それは無理。もっと厳粛な、厳かな場所で。絶対に」

「……そうか。分かった」

 施術が終わると荻原はそんな言葉を残して代金を支払い、帰っていった。

思えば詳細な時間も場所もはっきり指定しなかった。式には大勢の人が参加する。こんな約束の仕方で果たしてもう一度会えるだろうか。

 式典当日は、雨が降っていた。

街の中で最も破壊されていたところにモニュメントが作られ、そこで毎年式典は催される。

ちなみにモニュメントは俺が荻原と争った場所、そしておそらくコレシュスと“踊った”場所だった。荷物集積所は壊滅的な被害を受け、そこを管理していた運輸会社は気の毒にも倒産し、空き地だけが残った。そこにモニュメントがあり、今喪服を着、傘をさした多くの追悼者が集っている。

 黙祷が済み、市長があいさつし、その他大勢の追悼者が追悼の意を述べ、死者が浮かばれるような街づくりを進めようと話はいつも通りまとまり、式が終わる。

 時雨に会ったのは、その後の帰り道だった。

「智宏」

 そう呼ばれるのは二度目だった。

いや、ずっと前にもこう呼ばれていた。舞踏譜を二人で初めて踊った時は、時雨は俺をそう呼んでいた。

「時雨?」

「探したよ。やっと見つけた」

「俺はここにいる」

「そうだった。そうだったね」

「いないのは……いつだってお前だ」

 白い補助杖をぎゅっと握りしめる。

自分で言いながら、何を言っているんだと思った。こんなこと、会って早々に言うべきことじゃない。けれど、五年間も音沙汰の無かったことを思うと、どうしても恨み言の一つも言いたくなった。どれだけ心配したと思っているんだと、叫びたかった。

「そうだった。へへ」

「それで、話って何の用だ」

「なんかとげとげしいね。自分の呼び方も「僕」じゃなくなっているし。どうかしたの?」

「どうもしないさ。年を重ねただけだ。それと一人で歩くのが少し怖いだけだよ」

 片手に握る杖を車のワイパーのように小さく右に左に降りながら、俺はもう片方の手で傘をさして歩く。その隣を荻原が歩く。

「いてもいい?」

 この国に?

この街に?

「構わないよ」

「一緒に歩いてもいい?」

「ああ」

「そっか、ありがとう」

 雨が冷たい。

そのときふと気づいた。傘を叩く雨音が傘一つ分しか聞こえないことに。

「時雨?」

「なに」

「傘は?」

「……ないよ」

「どうして、朝から雨は降って……」

「智宏の傘に入るつもりで、来たから」

「……」

「……」

 何が言いたいのかは、すぐに分かった。

最初から分かっていたし、最初からそれをずっと待っていた。けれど、あまりに長いこと待っていたせいで、あきらめなければいけないものだと、それを思い始めてもいた。

「俺の目、もう見えるようになることはないよ」

「どうだっていいよ、そんなの」

「……そうか」

 杖の先で、荻原の位置を確かめる。

「時雨」

 杖と傘を捨てる。

「好きだ」

 濡れそぼつ古き友を、大切な人を、

「私も、だから」

 俺は、僕は、抱きしめた。

 背負ったものはあまりに重く、大きい。

それは奪ったものがあまりに重く、大きかったから仕方がない。

だからこれからは、多くを与える。

自分たちの持てる以上の力を出し切って、一人でも多くの人のために、人生を捧げる。

その中できっと、生きる価値を強く感じることができると思う。

多くの喜びや希望に出会えるかもしれないと思う。

「一緒に……生きよう」

 その喜びや希望や、価値を感じられたらいいと思う。

大切な人と一緒に。

「うん」

 外は寒く、冷たかった。けれど何か優しく語りかけるような十二月の雨の中で、俺たちは二人で前に進むことを静かに誓った。


         (了)

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