第三途 イノリノハテ ノロイノハテ 弐部
一度も危ない目にあったことがない者には、まだ勇気とはどういうものであるか分かっていない。
ラ・ロシュフコー
二、 コーヒーハウス
「……」
気がついて、ゆっくりと目を開ける。
見慣れた丸い照明、見慣れた白い天井がある。
慣れた肌触りのベッドから体を起こす。
見たことのある机。見たことのあるテレビ。
見たことのある本棚。見たことのあるゲーム。
見たことのある雑誌。見たことのあるカーテン。
ベッドから出る。
寒いのを我慢して窓辺に行く。
カーテンを引く。
窓を開ける。
「ふう~」
雲一つない冬の朝が目の前にある。
いつも通りの、二階からの眺め。
眺めと呼べるほどすごいものじゃないけれど、見慣れたその光景に僕はなぜかホッとする。
なぜ?
いつもどおりなのに。分からない。
分からないけれどホッとし、白い息をゆるゆると吐く。
窓を閉める。
壁にかかる時計で時刻を確認する。
午前六時二分。
いつも通りか。
「そして今日も学校、か」
登校時間になるまで何をしよう?
そんなことを考えながら部屋を出て、一階の台所へ行く。
冷蔵庫を開けミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、中の水をグラスに移し、飲む。
飲み終わり、居間のテレビをつける。
チャンネルを回す。
時間帯のせいもあるけれど、やっぱり面白い番組は流れていない。
「……それでは次のニュースをお伝えします。
○○地区で昨夜遅く、火災が発生したとの百十番通報があり、警察と消防が現場に駆けつけましたが、
火の手や物が燃えているなどといった様子は確認できなかったということです。
周辺の住民の話を聞いて警察がその後詳しく調べたところ、同時刻頃、
現場付近で赤い光のようなものが見えたとの目撃証言が多数挙がっているとのことです。
警察は、昨夜○○地区で昨夜遅くから未明までの間に何が起きたのか、引き続き調査を進めていくとのことです……」
「大滝さん。これは、なんなんでしょうね。
赤い光というのは。花火かなんかの悪戯ですかね?」
「そうですね~、可能性は否定できませんけれど、今この段階では断定は難しいと思うので、
とりあえずは警察の発表を待つほかありませんね」
スタジオで司会とコメンテーターが何かについて話している。
赤い光?
信号機の止まれの合図?
緊急車両のランプ?
そんなものこの世の中ならどこにでもある。
火事じゃなかったんならそれでいいだろう。
もっと面白い報道をしてくれ。そんなことを思いながらテレビを消す。
どうでもいい。
少なくとも僕の日常には何の関係もない。
聞いたことも行ったことない場所で火事が起ころうと起こるまいと知ったことじゃない。
薄情かもしれないけれどそんなものだ。
いちいちこんなことに首を突っ込んでヤキモキしていたら人生やってられない。
僕は部屋に戻る。
ゲームの電源を入れる。
キャラクターを動かして対戦する格闘ゲームを始める。
……。
……。
……。
けれど十五分で、飽きる。
電源を切る。
もう一度ベッドの中にもぐりこむ。二度寝をしようと目を瞑る。
……。
………。
…………。
うとうとして意識が一瞬飛び、はっと目が覚める。
時計を見ると三十分が経っている。
午前六時三十七分。
もうそろそろ寝るのはよそう。いつも通り学校に行くか。
そう思ってベッドを抜け出す。
パンを焼き、卵焼きを作り、それを食べ、歯を磨き、顔を洗い、
授業準備を済ませて、制服に着替え、家を出る。
何も昨日までと変わらない。
どこまでも一人だ。
机に向かいノートや教科書を広げて午前の授業をのほほんと受けて、
購買部で弁当を買い、それを教室に戻ってまた食べ、
午後の授業を居眠りしつつ受けて、また家に帰り、一人になる。
きっとそうだ。
昨日までときっと変わらない。
学校で友達が話しかけてきたところで、どうせ僕から話すことなんて何もない。
だから適当に話を合わせて、それで終わる。
僕みたいなゲーマーなんてあまりいないから、熱く語ることもほとんどない。
語ったところで、ドン引きされるだけだ。
いちいち人から変な奴だと思われるくらいなら、最初から人前で自分をさらさない方がいい。
逆に適当に話を合わせるだけでいい。
僕に話しかけてくる奴なんて、大抵僕以外の誰かに話しても聞いてもらえず、
それゆえに話を聞いてもらうことに飢えている連中ばかりだ。
そういう連中を前にして、僕はただ聞き役に回っていればいい。
向こうは気が済むまで話していればいい。けれどこれはこれで予想通りつまらない。
人と一緒にいる時間が決して短くないくせに孤独ばかりが募る。けれど相手はそれに気がつかない。
そんな奴しか、僕の周りにはいない。
「ふう」
それで?
それで、どうしたんだっけ。
確か、そんな自分が嫌になって、思い切って、誰かに近づこうとした
……ような気がするけれど、だれだったっけ。
いや、そんなはずない。
僕にそんな勇気なんてあるはずない。気のせいだ。
アニメの見過ぎだ。
「はあ」
どうでもいい。
今日も昨日の繰り返し。多少の変化はあれ、たぶんこの「繰り返し」は死ぬまで続く。
それでいい。
楽しくはないけれど、これはこれで安定しているから。
それでいこう。多分その程度で満足するのがちょうどいいんだ。
そんなもんなんだ。僕の人生なんて。
家を出て、駅まで歩き続ける。
バスで行けばもっと楽に速く着かなくもないけれど、今日はいつもより早く出たから駅まで歩いても十分間に合う。
それに疲れているわけでもない。
だから気分転換に僕は歩く。
変化が嫌いと言ったくせに。
日常の中の些細な事にも変化を持たせようとする自分もまた、ここにいる。
はは。
結局僕は矛盾の塊なんだ。
何の取り柄も哲学もなく、ただその日暮らしを続けている。
タタタタ。
僕の背後から小さな足音が聞こえる。
足音は通りを走る車の音や電柱やごみ置き場にたむろするカラスの鳴き声ですぐに掻き消えてしまうほど小さな音だけど、
それら騒音が途切れるとまた、耳に小さく響く。
振り返る。
タタタタ。
別に僕の後を追っている訳じゃないらしい。
僕が止まったところで足音の主はそのままセカセカと歩き続け、僕を追い越していく。
猫だった。
白地に黒斑の猫はたまたま僕と進む方向が一致していただけらしく、ある十字路で僕と別れた。
「猫が僕に用がある?
そんなわけない……重症だな」
心の奥底で変化を望んでいる自分を見つめ、ふふっと笑いつつ、僕は駅に着く。斑猫の姿を思い出しながら電車に乗る。
駅を降りる。
自分と同じ制服を着た学生を何人も見かける。
ポータブルゲームをやっている奴。ヘッドホンをつけ音楽を聴いている奴。
コンビニに入りお菓子を買っている奴。友人を見つけて楽しそうに話しながら歩く奴。
参考書を読みながら歩いている奴。ぼうっとしている奴。
頭をボリボリ掻いている奴。
いろいろいる。
皆、未来のどの辺まで見通しを持って今を生きているんだろう。
……って、そんなこと、考えたところでどうにもならないか。
「おはよ~ん」
「?」
ポスンッと肩に手が乗る。
振り返る。
「おはよ」
「?」
知らない学生が声を掛けてきた。
制服は僕と同じ学園のものだけれど、面識はない。
「どうしたの?」
「えっと、す、すいません、誰ですか?」
「ひど―――いっ!」
団子頭の、それなりにかわいい女の子はいきなり大きな声を上げて、カバンを持っていない方の僕の腕をひっつかみ、
ブンブン振り回す。周りが見ている。
やめてくれ。
ものすごく恥ずかしい。
「ちょ、ちょっと待って。ほんとに誰?」
「私だよぉ、昨日転校してきた荻原時雨!
うう、忘れちゃったの~?」
「え……ああ、そうだっけ」
言われて、昨日のことを思い出す。
そうだ……。そうだ、確か、そうだ。昨日、うん。
昨日、確か転校生がうちの学園に何人か入ってきたんだ。
そのうちの一人で僕らのクラスに来たのがこの、荻原時雨だった。
「思い出してくれました~?」
「うん。ごめん、あまりにも突然のことだったから……ほんとにごめん」
「いいさ、いいさ、思い出してくれれば」
「あの」
「うん、なにさ」
「腕……離してもらえない?」
「腕?
あっ!
ごめん、ごめん」
異性に体を触れられた記憶のない僕は緊張しつつ、自分の腕を解放してくれることを望んだ。
荻原も気づいて手を離してくれる。
その頬は赤い。きっと僕もこんな顔になっているんだろう。
それにしてもドキドキした。
まるでラブコメだ。
こんなことって本当にあるんだな……。
その後、僕は転校生の荻原と一緒に学園の校門をくぐる。
そのまま教室に入る。
転校生と一緒にクラスに入った僕は最初好奇の目でみんなから見られたが、それも授業が始まり、時間が経つにつれてなくなる。
荻原は常にみんなに囲まれていた。
誰に対しても愛想がよく、彼らが話すことにはちゃんと耳を傾けつつ適切なタイミングで話をきり返していた。
冗談を言ってみんなを笑わせることもあった。
そうなると当然僕に構っている時間などあるはずがなかった。
考えてみればこれこそ現実だろう。
たまたま道であっただけの僕に好意を寄せてきたらそれこそ気味が悪い。
そんなのはアニメか漫画の世界だ。
好意を寄せてほしかったらクラスの男子のように荻原の周りを取り囲んで自分をアピールするのが当然の筋だ。
自分に好意を寄せてくれるのを待っているようじゃ百年経っても好意なんて寄ってこない。
世界は自分を中心に動いているわけじゃない。故に自分から行動しなければ何事も始まらない。知っている。
そんなことは誰だって知っている。
もちろん僕だって。
「やれやれ」
そして僕は、いちいち相手から自発的な好意を寄せてもらえるのを渇望するほど、実のところ「好意」に飢えていない。
そんなのは正直、どうでもいい。
くれるのならもらうけれど、喉から手が出るほど欲しいとは思わない。
なんでなのかは分からないけれど、今は欲しいとは思わない。
手に入らないと、諦めているのかな。
それとも別の理由があるのか。
欲しかった気もするけれど、よくは思い出せない。
授業が終わる。
いよいよ帰る時間となった時、
「金井君」
「はい?」
荻原が声を掛けてきた。
「一緒に帰ろう」
「ごめん。ちょっと用事があるから」
「え~、用事ってぶっちゃけ何さ~」
「たいしたことじゃないけど、とにかく用事があるから、ごめん」
周りは僕の答えにホッとしたらしく、すぐに荻原をまたもや取り囲む。ちなみに用事なんて僕にはない。荻原と二人でわざわざ帰って周りから変な目で見られるのは御免だ。そんな面倒を被るくらいなら一人で帰る。
「むふふ。馬鹿な男よ」
そう思った時、荻原の近くにいない変わった同級生の一人が僕の所へ来て言った。
「はいはい。お前こそ転校生の取り巻きになればいいだろ」
「ふむ。それはそれで劇的な話だが、生憎私にはもう既にフィアンセがいる」
「三次元より一つ次元の低い世界の、だよな」
「二次元だろうと三次元だろうと関係ない。『鬼区』におはすあの方はゴールドグールの姫君なのだ」
「はいはい。要するにあの露出度の高いデカチチに釘づけってことだろ」
「あの美乳は見る者の心魂を射抜く魔力がある。魔力から逃れるのは極めて難しい」
「で、姫君の騎士になった、と。ご苦労さん。ドン引きだな。まあいいや、またブラックマリアでボコボコにしてやる」
「甘い。甘すぎるぞ!お前の使いこなす技はとうに見切ってある。つけ加えて俺は幾多のネット対戦でポイントと研鑽を積んだ。たばこ臭いゲーセンにも通い詰め多額の投資をした。もうお前なぞに負ける気はしない」
「ブラックマリアがだめならじゃあ、ハドロンとバリオンでやるよ」
「まさか貴様………キャラを乗り換えたというのか!この外道め!恥を知れ!」
「いや、外道も何も……最初から全キャラ使えるし。っていうかキャラへのこだわりなんてそもそもないよ」
「な、なんということだ……」
僕の傍に来るのはこんな訳のわからないオタクくらいのものだ。荻原とその取り巻きから離れ、オタクの同級生と少しだけ話した後、結局僕らは二人でゲームセンターに行く。
格闘ゲーム『鬼区』の台にそれぞれ座り、対戦する。
同級生は胸の大きくて背のスラリとしたドレスの美女をバトルキャラクターとして選択する。機関砲を扱うこのキャラはゲームの中で攻撃力こそ一番高いが防御力が低い。
一方で僕は包帯を巻いた双子をバトルキャラクターとして選ぶ。素人好みでプロはあまり使いたがらない、クセのあるキャラクターだ。
「智宏。聞こえるか」
「全く聞こえない」
「宣告しよう。どれを使おうとお前の負けは確定している。これは因果律なのだ」
「はいはい」
こんな感じでこいつとの戦いは始まる。以前は時間が経つのを忘れるほどこの瞬間に熱中していた。けれど、今日は何かが違った。十字キーを動かしていて、ボタンを連打していて、それが何?という感じが頭の中に常にあった。
全然面白くもなんともない。加えて周囲の騒音と煙草の臭いに気が散って頭がおかしくなりそうになった。
「っしゃ―――っ!!」
「はあ……」
「言ったろう!俺の勝ちは確定していた。勝ちとはまさに価値!勝利こそ最高の自己肯定なのだ!ふはははははははは!」
結局この同級生に僕は負けた。
「どうした?もう帰るのか」
「ちょっと疲れた。家に帰って寝るよ」
「そうか。もしかして怒ってるのか」
「とても。機嫌を著しく悪くしたってこと」
「そんな、冗談のつもりで言っただけなのに……気を悪くしたのなら本当にスマン」
「嘘だよ。でも少し疲れたのはホント。あと、眠い」
「大丈夫か?風邪でも引いたのか?」
「そうじゃないと思うけど、ところで明日って、学校は休み?」
「土曜だからな。当然だ」
「そうか。じゃあ僕は先に帰るわ。お前もあんまり遅くならないうちに帰れよ」
「分かった。正直さっきの真剣勝負は自分として少し納得できない所があった。偶然勝てたような気がしなくもない。完璧な勝利を望む俺にとってこれしきでは満足できん。研究していく」
「そんなこといってないでさ、ハドロンとバリオンを使ってみたらどう?」
「いや、それはできない。姫君に申し訳がない」
「その姫君が自分の胸に獲物のチェーンガンを挟むポーズにムラムラする、と」
「失敬な!俺はそんな不純な思いで姫君のシュバリエ(騎士)となったわけでは断じてない!」
「はいはい。今度ゆっくり聞くよ。じゃあもう行くわ」
「ん、ああ。とにかくゆっくり休め。そして俺は姫君の騎士としてますます強くなる」
僕はゲームセンターを出る。
「はあ……」
周囲を見る。日は落ちている。それはいつも通りだ。けれど相当自分は疲れていると分かった。
目が痛い。
それに加えて、変なものがいくつも、いくつも見える。
「蛍?そんなわけないよな」
塩素消毒が施されたプールで長いこと目を開けて泳いだ後みたいに、丸い光がいくつも見える。
涙で視界が滲んだときに見える光に近いかもしれない。
けれどそれとは本質的に違うのは、丸い光は何も明かりの傍に出来ている訳じゃなくて
何もない、どちらかと言えば暗い場所、例えば足元なんかにそれだけで見えるという点だった。
要するに小さな球のような淡い光がいくつも漂って僕には見えた。
まるで蛍か鬼火がアスファルトの上をゆっくりと移動しているようだった。
「やばいな、これは。早く帰ろう」
家へ向かう道中、何度も僕は蛍火を目撃する。
それは逃げ水のように永遠に近寄れないものとは異なり、僕が歩いて接近すれば、
ある程度の距離まではそのままの場所をふわふわと漂っている。
けれどぶつかりそうになったところで、ふわりと僕を避ける。
そして僕が通り過ぎた後、光は別に何事もなかったようにその場に残り、またふわふわと漂い始める。
決して多くはないけれど、一向に少なくならない不思議な光を主に足元に見ながら、僕は電車に乗り、家に帰った。
「はあ」
照明のある電車の中でもそうだったが、明かりに照らされた部屋の中では、あの不思議な蛍火は見えなかった。
けれど電気を消すと、一つか二つ、幻のようにそれは見えた。
そして真っ暗であろうとなかろうと、目を瞑ればその光は見えなかった。
そういうわけで僕は寝る、という選択をする。
まだ午後九時前だけれど、起きていたいとはこれっぽっちも思わなかった。
だから風呂に入った後はさっさとベッドに横になった。
「疲れた」
布団をかぶり、目をつぶりながら転校してきた荻原のことを考える。
というより、荻原が入ってきて一変したクラスの雰囲気を思い出した。
前まであんなクラスじゃなかった。
個々が塊を作ってくだらない話をしたり宿題を写したりして、特に活気の感じられないクラスだった。
それが、荻原の登場で変わった。
男子が特に荻原を取り巻いていた。女子もほとんどが荻原の傍にいた。
荻原の傍にいなかったのは数名だ。
「……」
そして、欠席者のことを思い出す。
一人、休んでいた。誰だったか。
「中西、だっけ」
ん?
中西?
中西って……そんな奴いたか?
「あれ?
誰だったっけ。
どうしてそんな名前、頭に浮かんだんだ?」
……。
何か、おかしい。
頭の中にひっかかるものがあるのに、それが何なのか思い出せない。
でも、確かに授業中も机は一つ空いていた。
誰がじゃあ、休んだんだ?
やばい。
クラスメートのことを思い出せないなんて。
いくら関わりがないっていっても、これはまずい。
頭がおかしくなったのか、僕は。
…………。
………。
……。
一人一人の顔と名前を思い出そうとしているうちに意識が朦朧とし始める。
どうでもいいと思うまで頭の中をひねった後、結局七割くらいしか顔と名前が一致せず、あきらめて僕は眠った。
「ふあ~」
上体だけ布団から起こし、しばらくぼうっとしているうちに、あくびが出る。
時計を見ると午前四時三十二分。
「まだこんな時間か」
昨日早く寝過ぎたせいか、日が昇らないうちに僕は目が覚めた。
再び横になるけれど、眠れず、しかも体が、太ももと背中を中心に疼く。
同じ姿勢で寝続けたせいかもしれない。
仕方なく布団から出て、温かい格好をして居間に行く。
換気のために窓を開く。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、それを小鍋にカップ一杯分入れ、そこにインスタントコーヒーの粉末を入れる。
火にかける。
同時に食パン二枚をトースターにセットする。
すぐに鍋のコーヒー牛乳が沸騰し、僕はそれをマグカップに移す。
それを一口ずつゆっくり飲んでいるうちに、パンが焼ける。
冷蔵庫からマーマレードとバターを取り出し、焼き上がったパンに塗って食べる。
陽が昇っていないという点を除いて、いつもと変わらない。
両親は共働きで、いつ家に帰って来るかも分からない。
だからこうやって一人食事をする。
家族そろって食事をとった記憶なんてここ数年ない。
「そう言えば」
窓を閉めてエアコンのスイッチを入れたときふと、家族で思い出した。
僕には姉がいた。
その姉は外国の大学で医学の勉強をしていたけれど、だいぶ前に行方不明になった。
悲しいとかそういう気持ちが起こる前に姉は僕の前からいなくなり、しかもだいぶ経ってからの「行方不明」だったから、
姉がどうなっているのか気にはなったけれど、あまり悲しいとか辛いとか感じることはなかった。
たぶんこれはいけないことなんだろう。
身内ならもっと気を揉んで、心配してあげるべきなんだろう。
けれど僕にとって家族は結局、この朝食の一コマみたいにバラバラだから、しょうがない。
焦げた耳を残してパンを二枚とも平らげ、一息つく。
部屋はだいぶあったまってきた。
これからどうしよう。
今日は休日で学校は休みだ。
久しぶりにRPGでもやるべきか。
いや、やるべきかって言えば、別にやるべきほどのことじゃない。
格闘ゲームも、なんか飽きたしな……。
どうしよう。
……。
「……歩くか」
いつもなら絶対に出ない選択肢を試しに口にする。
「……そっか、歩くか」
言ってみると、なんだか歩きたくなってくる。
「でもこんなバカみたいに寒い朝に歩かなくたっていいだろうに」
ブツブツ独り言を言いながら僕は部屋に戻り、外出できる恰好に着替える。ジャージにウィンドブレーカーを着こみ、財布とハンカチと家の鍵を持ち、外に出る。
「さむ」
顔が痛い。さっそく息を長く吐いてみると、白い湯気がはっきりと目に見える。
こんな寒い中歩いている連中なんているわけない。そう思いつつ外を歩き出す。
予想に反して朝の早い人は結構いた。
ジョギングをする中年男。ウォーキングをする若いカップル。
犬と一緒に散歩する老人。バイクに乗った新聞配達。
新聞配達人以外、すれ違い様に彼らは僕に挨拶をしてくる。
仕方なく僕はいちいち頭を下げ、彼らと別れる。
「なんかメンドい」
ぼやきつつ、まんざらでもない気持ちになる。
「どこへ行こうかな、と」
考えつつ、足を運び続ける。
でもどこへ行こうかは決まらない。
それでも足は勝手に前に進む。
タタタタ。
道路脇の塀の上を猫が歩いているのに気づく。
こんな時間でも猫はもう起きて散歩しているのか。知らなかった。
「おはよう」
誰も見ていないから僕は猫に挨拶する。
猫は声に反応して塀の上で立ち止まり、僕を見る。
「あ、この間のブチ」
だと思った。
たぶん間違いない。
白地に黒斑の猫はこっちを見て「ニャ~」と鳴いた。
「じゃあね」
猫を残して僕はまた歩き続ける。
「……」
最初はいろいろな物に目がとまり、考えたりはしないで歩いていた。
けれど歩き続けるうちに疲労からか、下を向いて考え事をしながら歩くようになっていた。
考え事――。
「思い出せない何か」について考えた。
ここ数日の記憶がはっきりしない。
昨日のことはよく覚えているけれど、それ以前の記憶が、ない。
いや、あるのかもしれない。
けれどものすごくあやふやだ。どうしてだろう。
「……」
思い出せないことを思い出すために、昨日のことを中心に丁寧に考えることにする。
昨日何があった?
朝から思い出せ。
確か目が覚めて、学校に向かう途中、荻原に声を掛けられた。
転校生の荻原だ。
それから教室で、普通に授業を受けて、それで、成り行きでゲームセンターに行って、家に帰って、すぐに寝た。
なんですぐに寝た。
やることがないから。
……。
違う。
違わないけれど、正しくない。
疲れてた。
本当に?
どうして疲れてた?
いや、疲れてると思った。なんで?
「……蛍」
蛍……みたいな光が見えて、それで自分は疲れてるなぁって思った。
蛍火?
足元を転がり浮遊する光?
暗闇に灯る光?
「……それは」
どこかで見た。
どこかの……街で。
いつかの……夜。
どうして見た?それは……何かを追ってたから。
何を……
「……影の、猫」
足が、止まる。
膝が震える。全身に鳥肌が立つ。
忘れていた。そうだ!
僕は、告白してフラれた中西由美を追って、夜の街で変な猫を見つけた。
それで、それで、猫の跡を追ううちに変な病院に辿りついた。
病院の名前……
病院の名前……
燕塚病院だ!
知ってる。
そうだ。
あの病院の名前は、知ってる。
知ってる?
……………………………………………………………………………………。
違う。
覚えている、だ。
知ってるわけじゃない。
それで、それで……なんだっけ。
なんだっけ!?
「はあ、はあ、はあ、はあ」
気づけば走り出していた。
急いで駅に向かい、電車に乗って記憶を整理しつつ「街」に行く。
あの時匂ったはずの不思議な香りは駅でも電車内でもしなかった。
けれど、僕の頭の中には匂いも影猫もあった。
そうした記憶を頼りに僕は電車を降りた後、病院へと続く街を走った。
空は暗い群青色に統一された世界から、橙を少しずつ流し込んだような色彩へと変わっていく。
澄み渡った空気を胸一杯に吸い込みながら、僕は焦る気持ちを押さえつけて走り続けた。
中西由美を僕は燕塚病院で見た。
中西は僕に……僕の首を掴んだ。
あの時の中西は、普通じゃなかった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
中西の安否がメチャクチャ気になる。
そう思った時、考えてみれば中西の家に直接連絡を入れればいいだけだと気づいた。
けれど、その前にどうしてもあの廃墟同然の病院に行って、この目であの時何が起きたのかもう一度確認したかった。
全ては夢だったのか。
それとも現実に起きた事なのか。
分からない!
この目ではっきりさせたい!!
「はあ、はあ、はあ、はあ」
見覚えのある古びた橋を渡る。
錆びついた区域に足を踏み入れる。
夜、決して一人歩きしたいとは思えないその寂しげな場所は今、東の空から顔を出す太陽に照らされてオレンジに染まっている。
その中を、僕は走り続ける。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
走った。
かなりの距離を走った。
丘の上。ついに僕は燕塚病院に辿りつく。
足元が見えなくなるくらい茂っていたはずの雑草は全くなかった。
かわりに茶色い枯草がポツリポツリと、寒さでひび割れた黄色い土の上に生え残っていた。
「……」
病院の壁面に大きく開けられたいくつかの穴を見つつ一旦呼吸を整えた後、
僕はフェンスが破れているところから敷地内に入り、病院内に入る。
月明かりで見た時と様子は一緒だった。
強いて違いをあげるなら、あの時より物は散乱し、足の踏み場が文字通りないってところか。
上の階につながる階段は戦車の砲弾でも受けた後のように、粉々に崩れて昇れなくなっていた。
「中西……」
中西を見た部屋に向かうべく、院内の廊下を歩く。
中西を見たのはたしか一階だった。
良かった。
階段が崩れている今、二階以上の階だったら確認しにいけない。
そんなことを思いつつ廊下を歩いていると、瓦礫の中に車椅子がひっくり返っているのを見つけた。
そう、よく覚えている。
誰かが押したり引いたりしているわけでもないのに廊下の中を行ったり来たりしていたあの車椅子だ。
あのときよりも今の方が不気味な感じがするのはどういうわけだろう。
ついに、中西を見た部屋に着く。
中に入り、壁の一面が鏡張りになっていることを知る。
あの狂った夜が原因なのかは知らないが、鏡は至る所に亀裂が走り、割れた無数の破片が地面に落ちていた。
「何のための、部屋だろう?」
リハビリのための施設だろうか。
よくは分からない。
もっと分からないのはどうして中西がよりによってこんなところで踊りを踊っていたのか、だ。
さっぱり分からない。
「ニャ~」
「!」
部屋のひび割れた鏡に見飽きて散乱している瓦礫を見るともなく見ていたその時、部屋の隅の方で猫の鳴く声がした。
びっくりしてそっちを見る。
猫だった。
考えてみれば、猫の鳴き声がしたんだから、猫に決まってる。
「あれ?」
「ミャ~」
猫はこっちを見たまま鳴いている。
その猫が、さっき、自宅近くで見た白地に黒の斑猫とそっくりだった。
「まさか、お前さっきの」
我関せずとばかりに、猫は前足で顔を洗っている。
だけど僕が近づいてくると顔を洗うのをやめ、じっとこっちを見る。
「……そんなわけないか」
家の前の斑猫と同じわけがない。
確率的にない話じゃないだろうけど、こんなところまで来る意味が僕には理解できない。
ここに棲んでいるのか?だとしたらなんでうちの近所にいたんだ?
そんなの絶対に変だ。だから別の猫だろうと思った。
だからそのまま無視して部屋の外に出る。
「ここから、外に出たわけだ……なるほど、一階の窓から落ちたって死ぬことはない、な」
観察を続ける。
廊下を挟んで、鏡の備え付けられた部屋の真向かいの壁に設けられた窓の一つに足をかけ、外に飛び出す。
すぐに足がつく。
「こんなところを飛び越えるために、あの荻原に抱っこされてたのか」
ふう、と息を吐いて、もう一度建物の中に戻る。
できれば上の階に行ってみたかった。
けれど廊下をさらに進むと、そこはもう壊滅的な被害を受けていて、階段も減ったくれもなくなっている。
「これじゃほんとに上に昇れないな」
途中運搬用のエレベーターがあったけど動いていない。
もちろん動いていてもこんなところのエレベーターなんて死んでも乗りたくない。
結局あきらめて外に出た。
「やれやれ」
太陽がまぶしい。
空は雲一つなく、肌を刺す冷たい風が丘の上の一切を絶えずさらう。
病院の外に出た僕は凍えきった地べたに腰を下ろした。
「なんだったんだろう」
そう、あの夜はいったいなんだったんだろう。
夢だったのか?
けれど今見ても明らかなように、壁には戦争の爪痕のような大穴がいくつも空いている。
普通じゃない。
あの日確かに僕はここで、争いごとに巻き込まれた。
でもそのどれもが非現実的で、他人に話しても信じてもらえそうにない。
信じてくれるとしたら、
「……荻原」
そうだ。
そうだった。荻原は確かにあの時ここにいた。
しかも……争いに加わっていた。
この目で見たわけじゃないけれど、あの、銀髪の男の味方みたいな感じだった。
「あいつ、一体なんなんだろう」
よくよく考えてみれば、昨日あいつは訳の分からないことを言った。
転校生?
そんなことあるか。前からいるじゃないか。
前から……あれ、本当に前からいたか、あいつ。
「荻原、時雨……荻原時雨……」
いない。
そんな奴、そもそも最初はいなかった。
でも、いつの間にかクラスにいた。
そのうち最初からいたような気になったんだ。
そうだ。
「……」
そんなことってあるか?転校生が仮に来たとして、自己紹介もせず教師も放置して教室の中に置いておくなんてこと、あるか?
ありえない。
あっ、それで突然昨日になって転校生として紹介……ありえない。
絶対におかしい。
でも誰も何もそれに関して言わない。
どういうこと?
タッ。タタタタタ。
病院一階の廊下の窓から、斑猫がさっと飛び出す。
地面に着地した猫はそのまま土の上に座る僕の方へまっすぐやって来た。
「ニャ~」
「……」
訳の分からないことばかりで考えるのが億劫になった僕は「おいで」という意味を込めて斑猫に手を差し伸べた。
猫は僕の手を見ていたが、やがてその手の下に頭を伸ばした。
僕は手のひらを返し、猫の頭をなでる。
猫はされるがままに撫でられていた。
「不思議だ。家の前でお前を見たような気がするよ」
あぐらをかいたその中に猫を抱き入れて頭をなでながら、僕は猫に語りかける。
猫は僕の中で丸くなり、目を瞑っている。
「もしかしてほんとにお前なのか。斑猫」
何も答えない。
「まあいいや。……疲れた。
一緒に帰ろう」
しばらくして猫を抱き上げ、膝から降ろす。
僕は立ち上がり、敷地を出る。
猫が付いてきてくれたらなんとなくうれしいと思って振り返ると、もう猫はそこにいなかった。
しょうがない。猫は気まぐれだ。
人間と同じで、思うように動いてはくれない。
「はあ」
ため息をつきつつ、駅に向かう。
その途中、中西の自宅に連絡することを思い出した。
クラスメイトの電話番号のうち、中西の家の番号だけは、知っていた。
彼女を少しでも知ろうとして僕が知り得た彼女の個人情報は彼女の自宅の住所と電話番号だけだった。
けれど知ったところで一度も電話したこともなく、また一度も自宅を訪ねたこともないまま、今に至る。
そんなことをあれこれ思い出しているうちに僕は駅に着く。
さっそく駅で彼女の家に電話してみた。
けれどつながらない。
話し中なのかツー、ツー、ツーという音が続く。
一度電話を切り、間を置いてもう一度かけてみる。
けれど反応は同じだった。
あきらめて電車に乗ったところで、偶然昨日一緒にゲームセンターに行ったクラスメートに会う。
「こんなところで会うなんて、ちょっと驚いた」
「左様、すなわちごもっとも。ところで何をしている?」
「散歩、かな」
「散歩のために電車に乗るのか、お前は」
「今日はたまたま。そういうお前はこんな時間にどうしたの?」
「これから△△のゲーセンに行く!」
「朝っぱらからそこって、やってるの?」
「二十四時間フル稼働の不夜城だ。正月も含めて休みなし!朝五時前なのに既に格ゲーのコンボを決める音が聞こえてくる!しかもだ。ネットによると、今日はどうも猛者がこっそり集うらしい」
「ネットに情報がアップされてて“こっそり”も何もないと思うけど。で、猛者っていうのはプロゲーマーのこと?」
「イエス。ハイレベルな闘いとハイレベルなトークが俺を待っているらしい」
「ああ……そうなんだ」
「良かったらお前も来ないか」
「僕が?」
結局することがなかった僕はクラスメートと一緒にそのゲームセンターに行くことにした。
クラスメートの言う通りだった。ゲームセンターには技を磨きあげた玄人が大勢集まり、
プレーヤーの対戦の様子を見ながらああだこうだと言い合ったりアドバイスをしたりしていた。僕らはその中にそっと混じっていった。クラスメートの方はすぐに腕を認められ、彼らの会話の輪の中に加わっていった。一方の僕は戦う気にはなれず、しばらく彼らが戦う様子を見ていた。時々思い出して静かな場所へ移動し中西の家に電話をしてみるけれど、どれもつながらなかった。五回かけなおしてつながらなかった段階で、僕は電話するのを諦めた。
どうしてつながらないのか、考えるのがなんとなく怖かった。
だからプレイヤーたちが操るキャラクターの動くゲーム画面に意識を集中した。
「……」
画面の中で動き回るキャラクターのリアルな動きを目で追う。実際にそれが現実に出来るのかどうか、やったとしたらどうなるのか、いつの間にか考えて出していた。
「……」
できなくはないだろう。ただし、やれば間違いなく死人が出る。
「で、せっかくここに来たのにお前はやらないのか」
「今日はいいよ。見学してる」
「そうか。それもアリだな。もっとも俺は実地で鍛えるのを旨としているからやりまくる!」
「ああ、ほどほどにがんばれ」
他の台も見て回りながら、画面の中で動き回るキャラクターの動きを三次元の空間の中でなるべく精密にイメージする。
その作業のおかげで他の事を考えずに済む。
だから丁寧にイメージを続ける。
目を閉じたり開いたりしてイメージと画像を重ね合わせているうちに時間はどんどん経ち、気づけば日が暮れていた。
「金井!外を見ろ。もう夜じゃないか」
「うん。六時過ぎてる。お前は熱中し過ぎだと思う」
「楽しき時が過ぎることのまことに早いことよ」
「……」
クラスメートに促されて外を見た瞬間、目の中に例の蛍のような光が一つ見えていることに気付き、ドキッとする。
「悪いけど、もう帰るわ」
「そうか?ならば俺も帰ろう」
「ごねないなんてめずらしいな。もうやらないの?」
「もう十分堪能した。それにあまり帰りが遅いと親が心配するからな」
「勉強もしないで遊んでばかりいる奴が言うセリフか、それ。まあいいや。帰ろう」
僕らはゲームセンターを出、電車に乗る。お互いに自宅の最寄り駅は異なるから、クラスメートとは途中で別れる。
「……」
やっぱり、見える。
電車を降りて夜の街を歩きながら“蛍”の光を見つつ、これが何か考える。
ほかの人は見えているのか。
それともこれは僕の幻視か?
「はあ」
電車の中で思い出したけれど、明るい場所なら蛍火は見えない。
あるいは気にならないだけかもしれない。
とにかくそういうわけで、僕はなるべく明るいところを選んで家に急ぐ。
そうは言ってもどこもかしこも電灯や電飾があるわけじゃない。
一つ路地を曲がればそこは闇、なんてことも普通にある。
「はあ」
もう少しで家というところで、ついに電灯の明かり以外何も照明がない地点に入る。
蛍火が嫌でも目に付く。
ふわふわと地面近くを漂っている。
ピタ。
「?」
その蛍火のような光が突如、揺蕩うのをやめる。
その場に静止する。
やがて光は小さく振動を始める。
そして淡く白く輝く、煙の筋のようなものをそこからたなびかせ始める。
ちょうど僕が今ゆっくりと吐く息が白く目に見えるのにそれは似ている。
蛍火から出た白煙の筋は上に向かっている。
電灯のついていない電柱の上……
「……!」
完全に、すくむ。
電灯の真上に、人がいた。
両手両足を使い電灯の上でバランスを取り、こっちに顔を向けている。
でも目も口も閉じたままだ。
ニヤ。
背広姿でサラリーマンらしきその不審者は目と口を開く。
口には歯があったが、瞼の裏に目はなかった。
ボタボタボタボタッ。
離れた電柱の電灯光と、蛍火から立ち上る白い煙が放つ弱い光が、一切を僕に見せる。
暗い口と暗い目から黒い液が重い音を立てて地面に落ちる。
まるで膠か原油だ。
「はあ、はあ、はあ」
逃げたかった。
けれど体の動かし方を忘れた。
歯の根が合わない。
背中と手のひらに汗がにじむ。
「はあ、はあ、はあ」
どうして、そんなところにいるんですか?
そう聞きたくもなったけど、その必要はなさそうだった。
理由は、「人」に見えないから。
見れば見るほど、人間からかけ離れているように思えた。
電灯からサラリーマンがブワッと飛び降りる。
自らの目と口から垂れ流した液は既に水たまりのように広がっている。
バチャッ!
両手両足で着地の際、重液が跳ねて音をあげる。
これは夢ではないと告げるかのように。
「ケハ」
蛍火に囲まれ、二本足で立ち上がったサラリーマンが小さな声を立てて笑う。
背を丸めて膠のような黒液を垂れ流すその姿は「生きている」という印象から程遠い。
ゾンビにしか思えなかった。
「!」
瞬間、サラリーマンは黒液をまき散らしながら僕めがけて走ってきた。
「あっ!?」
僕の両肩はあっという間にサラリーマンの両手でつかまれ、押さえつけらる。
そして間髪入れずサラリーマンは口を開き、僕の首に噛みついてきた。
「うああっ!」
歯が肉にめり込む痛みに全身の筋肉が目覚める。
僕はようやく手足をばたつかせ、必死になってサラリーマンを突きとばした。
ブチブチという千切れる音と共に激痛が首に走り、同時にメキッと何かが折れる音がした。
「はあ、はあ、はあ」
転がり、すぐ起き上がるサラリーマンを確認しながら僕は首筋に流れる温かな液体を手のひらにとって目で確認する。
赤い鮮血が黒い液体に混じっていた。
さらに痛みのひどい箇所を触ってみると、楔のようなものが刺さっている。
「ケハッ」と再び相手が笑った時犬歯がなくなっているのを見て、「楔」の正体が突き刺さった歯だと知った。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
血の流れ出す首を手で押さえたまま僕は走り出す。
でも背後を気にしながら走る僕の移動速度などたかが知れていた。
あっという間に化け物サラリーマンに追いつかれて、僕は押し倒される。
「うあっ!やめっ!やめてくださいっ!!」
言葉の通じる相手かどうかはもう考えられない。
ただパニックだった。
だから必死に許しを求めた。
けれど相手は野獣のように聞く耳を持たず、そのまま今度は僕の肩の肉を一口食いちぎった。
「うあ、あああああああっ!!」
痛い!
殺される。
痛い!食い殺される。
痛い!このままだと生きたまま食い殺される。
痛い!
痛い!痛い!!
助けて。誰か助けて。
怖い。怖い。
死にたくない。死にたくない。
どうしよう。誰も助けてくれない。
助けて。
誰か助けて!
「ケハ」
笑ってる!
怖い!
死にたくない!
殺される!
痛い!
ガブッ!
「ぐっ!!」
死にたくない!
生きる!
生きたい!
生きたい!!
「このおおおおおおおお……」
そのとき、目にゴミらしきものが入る。
ひどく眩しいゴミ。
するとすぐに目の前が真っ暗になる。
まるで火花を間近で直視した直後のような感じだった。
見えないと思ったら全身が熱くなった。
「おおおおおおっ!!!」
持てる百パーセントの力を発揮して抵抗しようとした。
とにかくサラリーマンをはねのけられればそれでいい。
とにかくそれだけの力を、僕は全身の細胞に希求した。
カッ!!!!!!!
「ケハ!?」
ドンッ!
ズドォーンッ!
僕の体は急に軽くなる。
でもなんで?
分からない。
だって目が、見えない……。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
視界がまもなく回復する。
僕の上に乗っかっていたサラリーマンは……いない。
だからか、体が軽くなったように感じたのは……でもじゃあ、どこに行った!?
「あっ!」
慌てて起き上がり周囲を探した僕はサラリーマンが電柱に激突しているのを目撃する。
首の骨と右腿の骨が折れたらしく、首と右足があってはならない方を向いている。
「ケ……ハ……」
「はあ、はあ、はあ、はあ」
今なら、逃げられる。何が起きたのか知らないけれど、今がチャンスだ。
そう思い、僕は首から流れる血を手で押さえながら必死にその場から逃げた。
「ふう……はあ、はあ……ぐっ……うう」
たぶん五十メートルくらいしか進めてない。
けれど僕はそこまでで、もう限界だった。
「ダメだ……もう」
足がふらつく。
頭が、ぼうっとする。
たぶん、血を失いすぎたんだ。
それもそうだ。
なんてったって、首の肉を持って行かれたんだ。
ひょっとしたら頸動脈まで傷ついたかもしれない。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
でも、よくここまで生き延びられたな……ほんと。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
死ぬのはもったいないけど、あんな化け物に生きたまま全身食われないだけ、マシか。
「はあ、はあ、はあ」
あの化け物サラリーマン……。
勝手に襲いかかってきたくせに勝手に吹き飛んで、勝手に自分の首と足の骨を折って……。
……。
まさか、あんなふうにしたのって、僕なのか?
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
フッ!
「しまった……遅かった」
確かに本気で抵抗した。
けれど、いくらなんでも、僕一人の力で電柱まで人を吹き飛ばしたりなんてできない。
スピードを出して突っ込んできた車に轢かれたんじゃないのか。
でも、それじゃ僕だけどうして……
「はあ、はあ……歌う花よ、波間に虹を浮かべよ!
魚の枯れし沼の主よ、瀑布に臨む羊の群れを招き入れよ!」
何だか首と肩が、あったかい。
どうして?
ん?
誰、だ。誰の手だ?
まさかあの化け物、まだ追ってきて……なんだ……学生服?
……中西?……違うな、誰……あ……
「荻、原……」
「黙って」
何、真剣な顔してるんだ、こいつ。
こんなキャラだったっけ?……まあ、どうでもいいや。
疲れた。
なんか眠い。
たぶんあの化け物は、死んだろう。
そして僕も助からない。これでおあいこだ。
しょうがない。
普段からもっと体とか心を鍛えておけばよかった。
それを怠ったんだから、死んでも文句は言えない。
もうちょっと真剣に生きとくべきだった。
真剣に――。
どんな風に生きることが「真剣」なんだろう。
「何やってんだ、私……」
きっと、今の荻原みたいな顔が「真剣」なんだろう。
本当にこいつは何やってんだろう。
まさか、僕の治療をしてるのか?
……だとしたら、なんか、うれしいな……。
真剣に――。
そうだ。きっとそれは、誰かのために生きようとするときに表れるものだ。
「あり、がとう……」
「しっかりして!
まだ死んでいいなんて言ってない!」
そうだ。
死んでいいなんて荻原は言ってない。
けれど、人の死は荻原の決めることじゃない。
たぶん僕の決めることでもないんだろう。
もっと、手の届かない、運命の女神かなんかが決めることなんだ。
いるとすれば、だけど。
「金井君……死なせないから」
荻原。
僕はお前を良く知らない。
けれどその、そんなに「真剣」になってくれて本当にありがとう。
僕なんかのために。
チック、タック、
チック、タック
チック、タック、
チック、タック……。
「うう」
時計の時を刻むような音で、目が覚める。
「……」
身動きもせず、見知らぬ天井でクルクル回るファンを眺めながら、考える。
どうして自分が横になっているのか。そしてここはどこなのかを。
ここがどこなのか、天井を見ただけじゃ、わかりそうにない。
けれどどうして横になっているのかは、まもなく分かった。
「……死に、かけたのか」
化け物サラリーマンを相手に、揉みあった。
その挙句、肉を食いちぎられた。
そうだ。
それで最後、確か、荻原が出てきて、僕は死んだ……と思っていた。
ギシッ。
身を起こす。
どうやら革張りのソファーの上に寝ていたらしい。
首を回しつつ周りを観察する。
雰囲気としてはレトロな喫茶店という感じだ。
明かりを取るための窓が一つだけある。
窓にはカーテンがなくて、曇りガラスがはまっていて、外の様子は何も見えない。
ドア、ソファー、椅子、テーブル、カウンター、コーヒーメーカー。
全てがその曇りガラスの窓から届く青白い光のみによって辛うじてその姿を確認することができた。
チック、タック、
チック、タック……。
僕の横になっていたソファーは、窓のある壁とは反対の壁際に寄せられている。
そのソファーから四歩分くらい離れた、同じく壁際に、柱時計らしきものが厳かに立っていて、
さっきから規則的に時を刻み続けているらしかった。
ギシッ。
僕は立ち上がり、時刻を確かめに行く。
文字盤の長針と短針は五時二十五分をさしている。
けれどそれが午前なのか午後なのかは分からない。
「どこだ、ここ」
見知らぬ喫茶店で目を覚ますのはあまりいい気分じゃない。
とにかく落ち着かない。
とりあえずここから出よう。
そう思い、さっそく扉に向かう。
ドアノブに手をかけて押したり引いたり横に動かしたり試みる。
けれど扉には鍵がかかっているらしく、全く開く様子はない。
「くそ」
別の出口がないか部屋中を探し回る。
普通の店舗なら非常口の一つくらいあるだろう。
けれどこの喫茶店の場合、入口らしき場所も、出口らしき場所もさっきの扉以外見当たらなかった。
「なんでだよ」
苛立ちつつ椅子に腰かけ、比較的広い部屋を見渡しながら、どうするか一人思案に暮れる。
そのうち窓の存在を思い出し、そこから外に出ようと窓に手をかける。
けれど窓にはそもそも開ける場所がなかった。
学生服の姿だった僕は上着を脱いでそれで右の拳を覆い、守るようにしながら、思い切って窓を殴ってみる。
けれどその感触は分厚いコンクリートの壁を殴っているようなもので、ガラスをたたいたような感触ではなかった。
おかしい。
堅さもさることながら、普通窓が一つしかなかったらそこは空くようにするだろう。
なんで、開かないんだ。
「はあ……」
あきらめて、また椅子に腰かける。
テーブルの上で両手を組む。
脚で貧乏ゆすりを始める。
こうすると少しだけ落ち着いた。
けれど落ち着いている場合じゃない。
一体ここはどこで、どうして僕はこんなところにいるのか。
どうして僕は閉じ込められているのか。
閉じ込められているとして、誰がこんなところに僕を閉じ込めたのか。
そもそも僕を閉じ込めることに何の意味があるのか。
分からない。
分からない。
「……」
考える。
けれど現状をいくら考えてみたところで分からない。
このまま座っていると分からないことが多すぎて頭がおかしくなりそうになる。
だから立ち上がって部屋を歩き始める。今度は出口を探すためではなく、純粋にこの場所を観察するために。
少しでも情報が増えれば、導ける答えが出て来るかもしれない。
「火も水も、使えるみたいだな」
カウンターの中に入り、コンロを見つけ、それが使えること、同様に蛇口をひねれば水が出ることを知る。
なぜかホッとする。
さらに冷蔵庫を見つける。
冷蔵庫には電源が入っていて、明けるとサンドイッチの載った皿が入っていた。
「……」
ラップのしてあるサンドイッチは作ったばかりのように新鮮だった。
食べてもいいのかと思うけれど、今はとても食べる気になれない。
もしかしたら毒が入っているかもしれない。
よほど追い詰められない限り、食べるのはよそう。
さらに部屋の中を歩く。
「あっ」と思わず声を上げたのは、新たに扉を発見したときだった。
心臓の高鳴りを押さえていざあけてみると、そこには水洗トイレがあるだけだった。
落胆しつつ部屋の観察を続ける。
めぼしいものは他に何もなかった。
チック、タック、
チック、タック、
ボーンッ、ボーンッ、
ボーンッ、ボーンッ……
「!」
椅子にもう一度腰をおろしたとき、時計が大きな音を立てる。
僕は時計を見る。時刻は六時ちょうど。
まだ窓の外の色は明るくも暗くもならない。
チック、タック、
チック、タック……。
六時五十五分。
このときようやく窓の色に変化が見られた。
驚いたことに、外が明るくなってきた。
「朝だったのか」
たったそれだけのことが分かっただけでも、僕はホッとして椅子の上でヘナヘナになってしまった。
けれどそれが分かっただけじゃどうにもならない。
また立ち上がってここから出る手段を探さないと。
そう思って立ち上がり、もう一度くまなく見て回る。
チック、タック、
チック、タック、チック、タック、
チック、タック、チック、タック、チック、タック、
チック、タック、
チック、タック……。
「……」
何度も立ち上がり、何度も座った。
「くそっ!」
何度も壁や床に触り、何度も窓や扉や時計を殴った。
けれど、出られそうにない。
時を告げる時計の音だけが空しく部屋中に響く。
時計の時を刻む音が耳にこびりつき、頭がおかしそうになる。
思わず叫ぶ。
けれど時計の音は消えない。
消えるわけがない。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
何かないか。
何でもいい。
何かできること……仕方ない。
僕はふらふらと歩きだし、冷蔵庫に向かう。
扉を開き、中に入っているサンドイッチを取り出し、テーブルまで運ぶ。
ラップを外し、中に入っているサンドイッチを一つずつムシャムシャと頬張る。
毒が入っていたとしても、知るもんか。
「……」
…………………………………………………………………………。
「うっ、ううっ」
咀嚼するうちに涙が止まらなくなる。
とても、本当にとても、おいしかった。
泣きながら皿に盛ってあるサンドイッチを食べ終わると自分は喉が渇いていたことに気付く。
立ち上がり調理場へ行き、蛇口をひねり、水を飲みたいだけ飲む。
そうすると、今までのイライラが全て収まった。
見たくもなかった時計を見る。
午後二時二十三分。
室内の温度はあまり変わる気配はないけれど、窓は日光で明るく光っている。
「ふう」
僕は目覚めた時横になっていたソファーに横になる。
これは悪い夢だ。
だけど悪い夢の中に、少しだけおいしいサンドイッチと水があった。
きっとそれだけのことだ。
そんなつまらないことを考えているうちに僕はウトウトし始める。
別にウトウトしちゃいけない理由なんてなさそうだから、そのまま僕は眠ることにした。
……ゴーンッ、ゴーンッ、ゴーンッ、ゴーンッ。
「む……」
時計の音で目が覚める。
窓を見ると、オレンジ色に光っている。
ソファーから立ち上がり時間を確認するために時計の文字盤を見る。
六時ちょうど。
「六時って、午後六時だよな……」
一つのテーブルの前の椅子に移動する。
腰をおろし、三時間弱の間に見た夢について思いを巡らす。
変な夢だった。
おとぎ話めいているのに、色彩があって妙に現実感のある変な夢だった。
僕はバイオリン弾きで、それでいてサラリーマンと同じく雇われ人で、雇っている人は貴族のような立派な身分だった。
その貴族が何か僕を気に入らない理由があって僕を解雇し、それで僕は森の中をさまよう羽目になる。
そこで妖精とかいう連中に会う。
彼らはキノコと歌が好きで、僕は彼らから踊りを教えてもらう。
どんな踊りだったかは覚えていないけれど、踊りを教えてもらって、それで、そのうちに誰かが自分に会いに来る。
会って、愛の言葉を語り、それから、会いに来た人に、僕は襲われる。
理由は知らないけれど、会いに来た人は狼に変身して、僕を襲う。
僕は死ぬ……そんな変な、暗い夢だ。
チック、タック、
チック、タック……
「ちっ」
それにしても、何が一番腹立つかと言ったら、死ぬ夢じゃない。
目が覚めてもこの訳の分からない部屋に自分が閉じ込められている事実だ。
誰が何の目的で僕を閉じ込める?
僕を飼いならしたいのか?
「……あれ?」
苛立ち、額に浮いた汗を手で拭った時、ふと、テーブルを見て気づいた。
サンドイッチを乗せていた皿がなくなっている。
お化けでもみたかのように僕は驚く。
なぜ?
僕は片付けた覚えはない。
「どうしてだ」
本気で考える。
そのときはっとして、僕は立ち上がり、冷蔵庫を見に行く。扉を開く。
中にはラップで包まれたサンドイッチが入っていた。
「あった!」
思わず声が出る。
さっき眠る前、確かに僕はサンドイッチを食べた。
なのに、どうして?
そう思いながらラップされたサンドイッチの皿を取り出す。
暗い部屋の中でそのサンドイッチをよく見るため、僕は窓に一番近いテーブルまで皿を運び、置く。
穴が開くほどじっとサンドイッチを見つめる。
「!!」
具が違う!
卵サンドなんて入っていなかったのに今は皿の上にある。
ということは、僕が寝ている間に誰かが部屋にやってきて、別のサンドイッチを冷蔵庫にいれたんだ!
「誰か、誰か助けて下さい!!」
サンドイッチの盛られた皿を持ち上げ、ありったけの声で僕は叫ぶ。
今叫んだところでサンドイッチを冷蔵庫に入れた人に聞こえる保証なんてどこにもなかったけど、とにかく叫んだ。
叫ばずにはいられないほど僕は焦っていた。
「誰か!
誰かいませんか」
十分くらいだと思う。
僕は叫び続けた。
けれど返事はなく、あるのは時計の時を刻む音だけだった。
「うっ、ううっ、うっ……」
何が何だかもう分からなくなって、涙があふれ出てくる。
サンドイッチの皿をぶん投げたかったけど、食べ物を粗末にできる状況じゃない。
そう思い、震える手に持つ皿を一旦冷蔵庫に戻しに行く。
その後窓際のテーブルに戻り、突っ伏して泣いた。
泣いていると、泣いている自分がみじめに感じられてきて、言いようのない苛立ちが全身に募った。
「うああああ!!!」
立ち上がり椅子を掴み、思い切って窓めがけて投げつける。
ドカンッと音を立てて椅子の脚が一本折れた。
けれど窓には傷一つついていなかった。
「ふっ、ふっふっふっふっ」
今度は衝動に任せて物を壊した自分が馬鹿らしくなって、思わず笑ってしまう。
ヘナヘナと歩きながら僕はもう一度ソファーに戻る。
腰をおろし、窓をぼんやり見つめていた。
チック、タック、
チック、タック……
「だいぶ暗くなった」
時計に話しかける。
ついでに立ち上がり、時計の顔を見にいく。
時刻は四時五十七分。つまり午前四時五十七分。
「お腹が減ったよ」
時計にそう言って、僕はまたソファーに腰を降ろす。
「でもサンドイッチは食べない。食べるとまた眠くなるからさ。
だからお前と一緒に見張ってることにするよ。
きっと誰かがサンドイッチがなくなったかどうか様子を見に来るだろ。
見たところ監視カメラとかそういうのはないみたいだから、きっと確かめに来る。
そうしたら、来たその時は寝たふりをするけど、隙を見て逃げ出して見せる。
お前も一緒に連れて行きたいけど、ちょっと大きすぎるから、無理だ。
ごめん。
でもお前の仕事は時間を人に告げることだから、十分役目は果たせてる。
さっきまではお前のせいで発狂するかもしれないと思ったけど、
今はさ、お前がいなかったらたぶん発狂してるんじゃないかって僕は感じてるんだ」
ゴーンッ、ゴーンッ、
ゴーンッ、ゴーンッ、ゴーンッ。
「そうか。五時か。ありがとう」
表情を変えずそう言って、またソファーに腰を降ろし、窓を見る。
チック、タック、
チック、タック……
「サンドイッチを食べた後、僕は寝ていただろ」
チック、タック、
チック、タック……
「その時、変な夢を見たんだ。まだお前には話してなかったね」
チック、タック、
チック、タック……
「変な夢だった。
キノコが出たり、妖精が出たり」
チック、タック、
チック、タック……
「結局僕は狼みたいなのに襲われて、死ぬんだ。夢の中で。無抵抗だったな。むしろ狼に自分から食われに行ったような感じだった。どうしてそんなことしたんだろう。道端で首輪のついていない犬がこっちに走って着たら僕なんて無我夢中で逃げると思うんだけど、その時は、狼に向かって行った」
チック、タック、
チック、タック……
「狼に襲われて死んだ。うん。体が冷たくなる。けれどまた温かくなる。そして目が覚める。いや、現実に目を覚ますわけじゃない。夢の中でもう一度生き返るんだ。そこは……泉だった。森に囲まれた泉。そして日はとうに暮れていた。うん、ちょうど今みたいな感じだ。いいや、もっと暗かったかもしれない。そしてそう、こんな感じにたくさん蛍が見えた」
チック、タック、
チック、タック……
「お前にはこれが見える?見えるわけないよね。そもそも冬に蛍なんているはずないしね。これは鬼火?それとも人魂?あるいは幽霊?生憎僕はそういうのを信じていない。神様とかそういうのもやっぱり信じていない。まあ、もしいるとしたら「お前は何がしたいんだ」って一度聞いてみたい。まあいいや。そんなことお前に言っても仕方がないよね」
チック、タック、
チック、タック……
「この光が、夢の泉の上を取り巻いていた。その光景を見て、僕は気づくんだ。ああ、これが求めていたものだって。でも正直、どうして蛍が泉の上を飛んでいるだけでそう僕が思ったのか、僕にはよく分からない」
目を瞑る。
蛍の飛び交う泉の中に飛び込む自分を想像する。
飛沫をあげて飛び込んだ水中の底には「月」があって、そこから水面へ向けて青く白い光を射し上げている。
水上を漂っていた蛍の光が、水と接触する。
そして、僕の漂う月光水の中にゆっくりと落ち、沈んでくる。
そろそろ僕の手が、届くかな……。
チック、タック、
チック、タック………………。
「?」
時計の音が突如聞こえなくなる。
目を開ける。久しぶりに見る漆黒の闇。
しばらくして地面からさっきまで見えていた蛍火が一つ、また一つと現れて、浮かぶ。
地面から四、五十センチの高さまで昇った蛍火はそれ以上高くには上らず、その高さでゆっくりフワフワと飛び回っていた。
「おい、どうした」
呼びかけるけれど、時計から返事はない。
「はあ、お前が眠ってどうする」
時計の音が聞こえなくなったことで僕は話し相手を失った。
気分がますます沈む。
こうなるともうダメだ。
立ち上がり、手探りで歩きながら冷蔵庫まで行く。
サンドイッチの皿を手に入れ、もう一度ソファーに戻る。
ラップを外し、中の冷たくなったサンドイッチを一つずつ味わいながら食べることにした。
「……」
ムシャムシャと食べながら、目を瞑る。
蛍火は当然見えない。
サンドイッチの具材の味を舌の上で丹念に確かめつつ、気づけばさっきのイメージが脳裏をよぎる。
月光水の中に漂う僕と、蛍。
蛍はあちこち飛び交いながら、結局水の外へ逃げず、かといって水底の月に向かって行くわけでもなく、
僕の傍へ漂ってくる。
僕は近づく光にそっと手を伸ばす。
蛍は僕の手の中で、感触もなく消えた。
「ふう」
目を開く。
目の前に蛍火が四つあり、それがヒョッと吸い込まれるようにして僕の目にぶつかる。
「痛……」
真っ暗闇の中で突如車のハイビームを正面から目に食らったような感じだった。
ビシッ!
その直後だった。
亀裂の走るようなすごい音がした。音のした方を見たい。
「う……」
けれど蛍火が目に衝突した瞬間、猛烈に目が痛くなって僕はすぐに目を開くことができなかった。
「?」
犬の吠える声が小さいけれど聞こえる。
車の走り去る音が小さいけれど聞こえる。
えっ!?と思い、目を開ける。
「くそっ」
よく見えない。
けれどじっと見ているうちに、視力が回復する。
「あっ!」
窓を見てみると、ガラスにヒビが入っている。
驚いて立ち上がる。窓へ急ぎ近づく。
耳を澄ませば、外の世界の音が聞こえてくる!
僕は窓の側に転がっている椅子の脚を手にとり、窓ガラスを思い切りたたく。
ガシャンッと音を立てて窓ガラスが割れた!
「よし!」
窓ガラスを粉々に砕き、外の様子を見る。
立ち並ぶ住宅の窓から光があちこち漏れている。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
うれしくて泣きそうになりながら僕は夜の空気を胸一杯に吸い込み、窓の外に飛び出す。
飛び出し、自分が出てきた場所がどういうところだったのか急ぎ確認してみる。
内装と同様、探せばその辺に転がっていそうな喫茶店にしか見えなかった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
僕は走った。
ちょくちょく見える蛍火を蹴飛ばす勢いで走った。
とにかく人の大勢いる場所に行きたい。
そしてここの住所が知りたい。
やがて道端で犬を散歩させている女子大生を見つける。
近づいて行って最寄の駅を聞いた。
それでここがどこなのか分かった。
普段僕は学校へ電車で行く。
その学校へ向かう途中の駅名を彼女は言った。
「ありがとうございます!」
安堵のあまり思わず流れ出た涙を拭いながら、僕は教えられた道を駆けていく。
女子大生は驚いているだろうけど、そんなの構わない。
彼女だって訳の分からない場所に拉致されて一日中監禁されれば僕と同じように泣くにきまってる。
たとえサンドイッチと柱時計があったとしても。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
とにかく、出られた。そしてここがどこかも分かった。あとはどうにでもなる。
僕は駅に着き、駅前の交番に入り、事情を話した。
交番で待機していた警察官のうちの一人が確認してくると言ってパトカーに僕を乗せた。
僕は警察官と一緒に今来た場所へ彼を案内した。
「ここです」
そう言って僕は例の喫茶店を指さす。
警察官は誰かと無線で連絡を取った後、「待っていなさい」と言って一人で中に入っていった。
けれど五分してまた出てきた。
「何もないけど、本当にここ?」
「はい、ここで一日中監禁されていました。窓を破って出てきたんです!」
「窓は一枚も割れていないけど」
「え」
「とりあえず戻ろうか」
交番に戻り、警察官に事情を話したが結局拉致が開かなかった。
向こうも僕が嘘をついていると思い始めたらしい。
僕の住所と証言、それに例の喫茶店があった店の住所を書類に記入し終えると、帰るよう促し始めた。
「これで自分の家まで帰れるね」
警察官から帰るのに必要な電車賃を受け取り、後日返しに来るよう言われる。
僕は頷き、交番を出、電車に乗り、自宅の最寄り駅に降りた。
「ふぅ~」
このとき、どれだけホッとしたか分からない。
ついさっきまで監禁されていた身であることを考えれば、今この瞬間ここにいることが奇跡みたいだ。
チョン。
突然、肩に圧力がかかる。
「おつかれ~」
後ろから声がして振り返る。
「荻原」
そこには荻原がいた。
「こんなところで何してるのさ」
「いや、別に何も」
「そうなの。最近学校休んでいたけど、大丈夫?」
「え?ああ」
大丈夫なわけない。
けれど監禁されていましたなんて、とてもじゃないけど言えない。
言っても信じてもらえないだろうし、もう口にしたくもない。
「なんとか持ち直した、かな」
「心配したよ~。
転校していきなりクラスメートがこなくなるなんてぶっちゃけ寂しいって」
訳の分からないことを荻原は言った。
それで、かねての疑問を思い出した。
「どったの?」
「転校生って、誰が?」
「誰って私でしょ。
ほれ、こんなきゃわい子ちゃんが君のクラスに前からいたとでも……」
「お前は最初からいただろ。
最初からっていうか、とにかく結構前からいた」
荻原の表情が一瞬止まる。けれどすぐに笑顔に戻る。
「悪いけど僕もう帰るよ。ちょっと疲れてるんだ」
つい最近転校してきたなんて嘘をどうしてついたのか、聞いてもよかった。けれど今は本当に疲れていたから、それはまた今度の機会にしようと僕は思い直した。
「本当に大丈夫?」
「ああ」
なにげなく荻原の足元を見る。
蛍火が、震えている。
「……」
このときになって、サラリーマン姿の化け物に襲われた時に荻原が僕を助けようとしてくれたことも思い出した。その結果かどうかは分からないけれど僕はこうして今生きている。だからその時の感謝の気持ちくらいは伝えておこうと思った。
「荻原」
「何さ」
「あの時は、ありがとう」
「あの時って?」
「僕がその、死にかけたとき、荻原が必死になって僕を助けようとしてくれているのが、すごくうれしかった。それだけ」
「死にかけ?ん?何を言ってるのさ?私は死にそうになってる金井君を助けたことなんてないよ。大体転校してきたばかりだし」
「そうか。じゃあ全部、勘違いか」
「だと思うけど、大丈夫?ぶっちゃけ頭を強く打ったりとかしてない?」
「うん」
嘘をつき、真実を隠す荻原には荻原なりの考えがあるんだろう。照れ隠しか?ま、なんだっていい。ただ僕は僕がうれしかった気持ちを伝えたかった。それだけだ。ここは一旦引き下がろう。食いついても面白くない。
ドックン。
?
何か、おかしい。そもそも何か、大切なことを忘れていないか。
「いやいや金井君。そんな寝言を真剣に言われたらお姉ちゃん心配になっちゃいますよ。よしきたっ!ここはひとつ、家までついていきましょう」
「心配ないよ。ほんと大丈夫だから」
ドックン。
ドックン。
感謝とか、転校した、しないとか、それ以前に何かとんでもないことを僕は、忘れている気がする。
「あは~、さては夜道をオンナノコと歩くのが初めてとか?キャ~、照れてるところがマジかわい~!ぶっちゃけお姉ちゃんの好みです!」
ドックン。
ドックン。
ドックン。
周囲の蛍火が荻原の所へ集まる。蛍火からほどけるようにして白い煙の筋のような光がスルスルとこぼれ、それがソロソロと荻原の体に流れ込んでいく。
ドクンッ。
ドクンッ。
ドクンッ。
どういうことだろう。これは、あの時と一緒だ。電灯の上にいたサラリーマンと同じ。蛍火と本人の距離に違いがあるだけで、煙のような光がたなびいているのは、一緒だ。
ドクンッ。
ドクンッ。
ドクンッ。
「またどったの?」
「荻原は一緒に、帰りたいのか」
「えっ、な、何言ってんの!そ、そんなことあるわけないじゃない。でも……どうしても一緒に帰りたいっていうんなら、その……一緒に帰ってあげてもいいわよ!?ど、どうなのよ!返事なさい!」
場合が場合だけに、ふざけている姿が異常なほど不信感を煽る。
「それなら……」
断るか?……どうするか?
「えっと」
断りたい気もする。
断りたくない気もする。……少し、様子を見よう。何か、引っかかる気もするし。
「荻原」
「し、時雨って呼んでもいいのよ!?」
「とにかくさ、一緒に帰ろう」
確かにあのとき、荻原は僕を助けようとしてくれた。だから、大丈夫だ。サラリーマンから救ってくれた時のあの、真剣な表情は絶対に、信用できる。蛍火がどういう理屈で光を荻原の所へ送っているのかは分からない。
けれど、大丈夫。
荻原はあの電灯の上のサラリーマンとは違う。
絶対に、絶対に。
「なんか元気ないね~しかもすごく汗かいてるし。ぶっちゃけほんとに大丈夫?」
荻原の手が僕の腕にもう一度触れようとする。
「だ、大丈夫、大丈夫だから」
蛍火の恐怖がどうしても頭から離れず、僕は荻原の手を逃れる。
「ふ~ん、まあいいや。んじゃ早く帰ろう。私の家もそう遠くないんだ、ここから」
荻原の周囲を漂っていた蛍火の色がさっきよりはっきりとしてくる。蛍火たちは震えるのをやめ、その場に凍り付いたように動かなくなる。
「でさ、私の隣に座ってる落合君なんだけど、面白いんだな~あのノッポ君は」
せっかく差し出した手から逃れられたことなど気にしないといった感じで話し出す荻原と一緒に、僕は家に向かって歩き出した。
「まったく、思春期の男女はこれだからいかんのだよ。分かる?」
「あ、ああ。なんとなく」
「よろしい」
歩き出してしばらくは一方的に荻原が喋っていた。荻原の話はクラスメートが彼女に持ち込んだくだらない話の受け売りだったが、その中には唯一中西の話だけ出てこなかった。だから荻原の話を遮り、僕は思い切って中西について尋ねた。
「僕がいない間、中西は学校に来た?」
「中西」という言葉を自分の口から発した瞬間、頭の中にさっきからひっかかっている“何か”に中西が大きくかかわっていたことを思い出した。でもなんでこの瞬間になって思い出す?
「誰それ?」
「ん?」という顔をしながら荻原は言った。
「クラスメートだよ。前からいるだろ」
「だ~か~ら~、私はこの学校に来たばかりだっちゅ~に」
「そんなことない。前から僕はお前を知ってる」
街灯の明かりがその時、こっちを見る荻原の眼の中で反射した。それが僕には、荻原の眼が光っているように見えた。
光る眼。
………………………………………………………………………………………………………
「!」
……忘れている何かをはっきり思い出した。
廃墟の病院。
中西。
角女。
銀髪男。
そして、荻原。
「……燕塚病院でも会ってる……確か、誰かと一緒だったように見えたけど、あの人は、無事なの?」
「……」
「荻原?」
「おかしいな~」
「え」
「なんで覚えてるのさ」
「何を?」
「何もかも」
荻原が立ち止まる。こっちを見る彼女の虹彩は青く鈍く光っていた。
「やっぱり何かしたんだ。僕に」
「うん。きれいさっぱり何もかも忘れるためのおまじないをさ、失恋君にかけたんだよ」
失恋君って、中西にふられた僕のことか。でもこれで、荻原は中西の存在を認めたことになる。やっぱり何か知っていて、それを隠すために荻原は嘘をついているらしい。
それにしても……
おまじない――。
僕の頭の中の中西と中西を巻き込んだ戦争を忘れさせ、さらに荻原の存在を曖昧にした“何か”。
これはおまじないなんて生半可なものじゃない。「蛍火」というきっかけがなければ全く思い出す余地のなかった完璧な催眠術。それを荻原は僕にかけたらしかった。
「それなのに君はちゃんと覚えてる」
「それは何か、まずいの?」
「というかね、あまり人に知られたくないことを君は見たり聞いたりしちゃったんだよね。だから、私としては忘れてもらいたいわけ」
「誰にも、言わないよ」
「ふふ。そうだといいな」
「約束する。第一、誰かに言っても信じてもらえそうにないし」
「それもそうだね」
道を再び歩き出す。好き勝手に飛んでいるはずの蛍火は荻原が近づくとビクッと止まり、彼女が通り過ぎるのを待つ。今は煙の筋を出さない蛍火たちも、荻原が通り過ぎると落ち着きを取り戻したようにまたフワフワと地面付近を漂い始める。
やがて僕たちは老人ホームの前に来る。老人ホームの前には芝の敷かれた綺麗な公園があって、ランニングコースがその芝を取り巻くように設けられている。要するに広い敷地がホームの前にはあった。
「ねえ失恋君。私からもいくつか質問していいかな」
公園の前で立ち止まった荻原が切り出す。
「……うん」
「どうやって倒したの?」
「え?」
誰を?
何を?
いつ?
「覚えているでしょ。
高所で獲物を物色していた成人標準体型の捕食者に君は襲われた。
それでさ、確かに君は死にかけていた。
けれどそれ以前に、背広の方は乱れ死んでいた。どうやったのさ?」
「……」
背広の男が、死んでいた?じゃあまさか、僕が殺したのか?僕は犯罪者か?
「言わなくても分かると思うけど、あれは“人”じゃないよ。もうあの時既に、死人を通り越して化け物だったから、落ち込む必要はない。って、こんな話、君に必要なのかな?」
「人、じゃないっていうのか」
じゃあ一体何だ?
「人に見えた?あれ」
「……」
目から口から鼻から耳の穴から粘度の高そうな黒い液体を垂れ流し、電灯の上にいたあの背広。電気ケーブルの修理をしていたようには、絶対に見えない。考えてみれば、背広以外、常識を全て逸脱している。本当に、人じゃなかったっていうのか。
「そういう君はところで、普通の人なの?それとも違うの?」
言っている意味が分からない。普通の人って何だ?
荻原やあの銀髪の男や角女とは違うってことか?
違うに決まってる!
「おかしいな~、でもやっぱり気のせいかな~って思ったんだけど、いまいち確信がなくてね。とりあえず、知人の遺言通り、君を守ろうとしてさ、匿ったんだよね。コーヒーハウスに」
コーヒーハウス……喫茶店?僕が監禁されていたあの喫茶店のことか!?
「お前!!」
「怒ってる?でもさ、閉じ込めたのはね、君をあの時襲ったような連中が今この街や街周辺にウジャウジャいるからなんだよ」
そう言う荻原の目から不気味な光が消えることはない。
「でさ、君を守りながら戦うのは正直しんどいのさ。だから、安全な所に隔離しておいたんだ。本当だよ?殺すつもりだったらいつでも殺せたし、それに、サンドイッチなんてつくって置いておかないって」
「……」
シャンパン色の団子頭はニコニコしながら「殺す」という言葉をごく自然に放って見せる。そして「サンドイッチ」というキーワードを添える。どちらも僕を震え上がらせるには十分な効力を持っていた。
「でもさ、君、破ったでしょ。コーヒーハウス」
破る?窓を割ったってことか。
「あれね、私以外に空けられないのさ。でもさ、君は破った。だからどうしてかなって思って、今一緒に歩いているのさ」
椅子を投げても傷一つつかなかった窓ガラス。押しても引いてもびくともしない扉。それら一切が脳裏をよぎる。
「聞いてる?」
「ああ」
「でさ、最初に謝っておくね」
「えっ、何で?」
「返答によってはさ、敵になるかもしれないから。まあそのときは、しょうがないよね」
「……」
「質問。君は“何”?」
漂揺する蛍火が、荻原を通り過ぎることが出来なくなる。
ドックン。
荻原の傍にやってきた蛍火はその場で凍り付き、止まる。
ドックン、ドックン。
自然、荻原の周りに蛍火がたまる。一旦静止した蛍火はそして、その場で震え出し、煙のような朧光を放つ。
ドックン、ドックン、ドックン。
荻原の首筋にその光が流れ込む。
ボソ。
「何?」
「ううん、なんでもない。それにしても寒いね」
口は動かさず、聞き取れないほどの小声で何か言ってから荻原は鼻から息を静かに吸い込んでいく。
ドックン、ドックン、
ドックン、ドックン。
かわりに周辺の蛍火が僕と荻原の周りから一斉に散っていく……絶対にやばい!
「ふあ~」
僕を見ていた荻原がふと眠そうな目をし、欠伸をするように口を開く。
「……」
体…………動いてくれっ!
ボォッ!!
瞬間、荻原の口から青と紫の混じった炎が鋭く噴射され、道の半分を瞬く間に焦がす。僕は焦がされる前に後ろに飛び退き、すぐに立ち上がって走り出す。僕が、というよりも僕の体が、と言った方が正しいかもしれない。咄嗟に身の危険を感じて体が勝手に動いた感じだった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
走りながら足元を凝視する。蛍火は僕の走る一本の太い直線を避けるように左右に移動し、静止している。僕を飛行機に例えるなら、蛍火は夜の空港の滑走路の正確な位置を教える照明灯のような配置で静止していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
いや、違う。
この光景は僕に、「そこにいたら轢き殺されるぞ」と警告している。だから、気をつけろと体中の細胞が僕に警鐘を鳴らした。それに気づきすぐに、公園の方に飛び退いた。
ドゴォォォォ―――ンッ!!
飛び退いた直後、アスファルトの地面が堀のように抉り抜かれた。蛍火の描く「滑走路」の先にあった自販機が滅茶苦茶に壊れて溶けている。
「やっぱり魘者じゃないよ、君は」
荻原の声がどこかから響く。
後ろから、じゃない。
脳裏にこだまする感じだった。
ガシャガシャガシャンッ!
「!?」
公園のランニングコースに規則的に建てられた電灯が一瞬のうちに全て壊される。
ついでに街灯も壊されている。
周囲にある明かりがほとんど消える。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
「同業者なんだろうけど、どこの所属?
目的はなあに?」
蛍火はさっき以上にはっきりと目に映る。
彼らは彼らでテンヤワンヤに動き回っている。
たぶん荻原が動き回るたびに止まり、荻原が「何か」をするたびに逃げ出し、
そうこうするうちに吹雪のように散り乱れてしまっているせいだろう。
「狙いは私の「知人」?
それとも私?
それとも私の「敵」?
それとも別にある?何かな~」
どこだ?
荻原はどこだ!?
荻原の声が闇から降り注ぐ中、蛍火の一群が電話ボックスの天井程度の高さまでのぼり、そこで輪の形を作り、静止しているのが見えた。
凝視する。
蛍火が震えながら煙を流しているのがわずかに見える。
そしてその中心に、蛇のように光る紫の眼がある。
「正解。
私はここにいるよ。よく気づいたね。
気配を消しても分かるなんて困っちゃうな」
その視線はあまりに鋭く、長い直視を許さない。
僕の目は自然、傍の蛍火に戻る。
僕と荻原を結ぶ直線上を蛍火が移動するとき、蛍火が静止する場所がある。
磁石の上に紙を置き、その上に砂鉄を撒くと磁力線が浮かぶのに似ている。
釘づけにされたように動かなくなった蛍火によって、僕は僕と荻原を結ぶ直線状にいくつもの輪が生じていることを知る。
一番僕に近い輪は僕の胴の目の前にあった。
ちょうど、心臓の当たりを囲むように。
「くっ!」
ライフル銃のレーザーポインターに捉えられたような恐ろしさを覚えた僕はひたすら逃げる。
輪が崩れる。蛍火が散る。
けれど「磁石の砂鉄」のように捉えられた蛍火がまた、僕の目の前まで続く輪の連続を描き出す。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
荻原は今度こそ殺すつもりだ。
どうする?
どうしたらいい?
逃げる?
逃げられるか?
無理だ。
だったら、石とか木の棒でも拾って投げつけるか?
投げたとして、それが当たるか?
当たったとして、荻原の動きを止められるか?
アスファルトの地面も自動販売機も豆腐を殴ったみたいに滅茶苦茶にできる荻原が、そんなので止まるか?止められるか?
「はあ、はあ、はあ、はあ」
石ころじゃだめだ。木の棒も同じだ。
もっと強い、何かじゃないと。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
強い何か。僕にはそんなものない。
銃もナイフも持ってない。持っているはずない。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
じゃあこのまま殺されるだけか!?
このまま狼に食い殺されたようにボロボロになって死ぬだけか!?
「はあ、はあ、はあ、はあ」
思いつかない。もう殺される……だけか。
「はあ、はあ、はあ……」
死んだ後か。
それは夢か幻か、区別のつかないあの……
「湖」の中のように、何もかも静寂なのだろうか。
ビィッ!!!!
「くああっ!」
しまった。
激痛が走り、僕はその場に倒れる。
僕の一番近くに出来上がっていた輪を形作る蛍火がそそくさと僕の太もも付近から離れていく。
「湖」のことでつい頭がいっぱいになっていた。
何やってんだ僕は!
「うん、いいセン言っていたとは思うよ。でもそうだね、まだまだ甘いよ。そんなんじゃ“こっち側”の誰と争っても生き残れないな。あれ?でも“こっち側”だっけ?」
荻原の声が少し離れた正面からする。
蛍火が荻原の周りに一旦近づくと少しの間は逃れられない。
それとあの光る紫の眼のおかげで彼女の位置だけはどうにかつかめる。
「質問を少し違った角度からもう一度。君は誰?どうやってコーヒーハウスの結界を破ったの?そしてどうやって捕食者……いちいち言いかえるのはよそうか。知ってるでしょ。どうやって菌屍を殺したの?」
「はあ、はあ、はあ、はあ……僕は、何も知らない」
突如体を爆風が呑み込む。
ドゴッ。
「っ!?」
人の気配を察した瞬間、つま先が腹部にめり込む。
思い切り蹴飛ばされる。
「うう……ふう、くふ……ふ」
激痛で、呼吸がうまくできない。
「偶然で破ることができるような代物じゃないんだよね、あれは。今君を逃がさないためにこの辺一帯に張っている結界なんて目じゃない。……それともやっぱり協力者がいるのかな?」
目の前に立つ荻原がしゃべり続ける。
何を言っているのかさっぱり分からない。
「協力者なんて、僕にはいない。そ、それに、本当に何も、何も知らない」
ボグッ!
「うっ!」
再び蹴られる。
さらに首根っこを掴まれて、持ち上げられる。
「困るんだよね。本当のことを話してくれないと。私は私の仕事を邪魔されるのが、何て言うのか、とても嫌いなのさ。まだ君が邪魔になるかどうかは分からないけれど、状況によってはそうなるかもしれない。だから今のうちに処分しておいた方がいいのかもしれない。たとえ君を守るようどこかのお人よしに頼まれたとしてもさ。うん、とにかくそれをはっきりさせたいのさ」
「……」
何も僕は知らない。
頼むから助けてくれと言いたかった。
だけど、首根っこをすさまじい握力で掴まれているせいで息が出来ない。
徐々に意識が遠のいてくる。
首を掴む荻原の手を解こうとする両手にも力が入らなくなる。
そのおかげというべきかどうか。次第に恐怖も痛みも感じなくなってきた。
残り時間は、きっとわずか。
許される時間内で、冷静に考えてみる。
僕は、どうしてこんな目に遭った?
何が気に入らなくて、荻原はこんなことをしているって?
僕の正体が分からないこと?
知ってるだろう。
僕は金井智宏だ。それ以上でもそれ以下でもない。
何が目的か分からなくて苛立っている?
目的なんて何もない。強いて言うなら家に帰ることだ。
これも分かり切っているし、気に入らない理由とは思えない。
仕事を邪魔する?
賭けてもいい。絶対に邪魔なんてしていない。
仕事が何かは知らないけれど絶対に邪魔なんてしていないし、これから先もするつもりなんてない。
それじゃあ、何だ?
何が気に入らない?
ああ、あの喫茶店の窓を破ったことか?
確かに自分の家の窓を割られれば誰でも頭に来るだろう。
あの喫茶店が荻原の家かあるいは所有物だとしたら、腹を立てるのも道理かもしれない。
でも、しょうがなかった。
割って外に出るしかなかった。だって、考えてもみろ。
訳も分からず閉じ込められれば、出ようと必死になるのは動物の本能だろう。
特にあの喫茶店はおかしかった。
窓も壁も扉も異常に頑丈で、とにかくあれだけ頑丈だと、どんな手段を使ってでも外に出たいと思う。
少なくとも僕は死ぬほど出たかった。
それで?
どうやって僕は外に出た?
……………………………………………………………………………………………………………………。
……………………………………………………………………………………………………………………。
ああ、蛍火だ。
そうだ。
蛍火のイメージがあって、それで、壊れる音がした。
そうだった。
それで?
蛍火の何をイメージした?
確か………………
「泉」の中で、月があって、僕があって、蛍火があって……それで……そうか。
「か……あ……」
「ん?答える気になった?」
気道を圧迫していた荻原の手から解放される。
全身に酸素が行き渡り始める。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
どうにか呼吸を整えつつ、僕は目を閉じる。
整理した頭の中で静かにイメージする。
泉の中を漂う自分と蛍火。
そして蛍火が僕の中に溶け込んでいくイメージ。
蛍火を自分の体の細胞一つ一つに溶かしたい。
そう思うと、全身に鳥肌が立った。
「それじゃ、失恋君。最初の質問に答えて。君の正体ってな~に?」
「僕は……」
泉の中で、ありったけの蛍火を体に満たすイメージが出来る。
そして目を開く。
「お前の言う通り僕は」
「!?」
公園を飛ぶ蛍火は荻原の時とは違い、止まらない。
震えない。
何もたなびかせない。
ただ蛍火は飛び込んでくる。僕の目を目がけて。
「ただの失恋君だ」
祈りの果て 呪いの果て(二)
私は、誰なのだろう。
誰だったかは、言える。
私は臼井百合花。
死ぬべくして、死んだ存在。
そう。私は死んだ。
確か、車が私に突っ込んだ。
それで腕と目を潰され、血を多く失い、そして死んだ。
そんなことを覚えているのは、どうしてだろう。
そんなことを考えられるのは、どうしてだろう。
――そんなの、どうだっていいじゃない。
――そうも言っていられないわ。
――どうして?
――どうしてって……確かにそうね。
今となっては、どうだっていいことなのかもしれない。
――うんうん。
あのね、私、今この瞬間が一番うれしい。
――「一緒」になれてってこと?
――うん。こうなるのが、夢だったの。
だから夢が叶って最高にうれしい。
――……。
私は交通事故で死んだ。
その後、親友の中西由美がわざわざ私を作った。
こんなことが、できるとは思わなかった。
私はよく分からない形でもう一度この世に生を受けることになった。
しかもあり得ないような姿で。
――姿とか形なんて、そんなのどうだっていいじゃない。
私は私が百合花だって分かればそれであとはどうでもいいんだから。
考えてみれば、この物の怪のような姿は私にふわさしい。
思えば私は、罪に対する罰を償っていない。
だから角と斧を生やしたこの姿はよく似合っていた。
――罪?罰?
一体何のことを言ってるの?
――少し、前のことよ。
私と由美がまだ、ブラスバンドに所属していた頃のこと。
――ああ、あのゴミ屑たちと一緒にいた時のこと?
もういいよ、あんなの。きれいさっぱり忘れよう。
私、嫌だよ、あの時のことを思い出すと、学校の人間全員を千切って殺したくなる。
――そうね……。
あの当時の由美にとっては、おそらくそうだったでしょうね。
――でもさ、呪えば人って本当に死ぬんだね。
私はあの時それを思い知ってすごく感動したよ。
ほらあの三人、死んだでしょ。覚えてる?
アイツとアイツとアイツ。
――……ええ。よく覚えてる。
でもね、それ実は……私が殺したの。
――は?
――……。
中学受験を経て中等教育学校に入学した私と由美は、当然中学校から一緒だった。
そしてブラスバンドで互いに知り合った。
知り合った当時、由美はいじめに苦しんでいた。
いじめてきたのはブラスバンドのメンバー三人で、しかも自分や由美と同じクラスの人間だった。
私は「いじめる・いじめられる」の関係と特に関わり合いは持ちたくなかった。
けれどそんな当時、由美はブラスバンドの活動中、意を決したように同じクラスの私に声をかけてきた。
私は他の生徒のように不必要に由美を無視するのは嫌だった。
だから、由美が話しかけてくれば、どんな些細な事でも必ず答えるようにしていた。
そのうち由美が好きになった。
私もたいして人付き合いがうまくなかったから、「友達」と呼べるほど親しい人間など周りにいなかった。
だからこそ、せっかく自分を選んで声をかけてくれた同級生を失いたくないという気持ちが強く働いたのかもしれない。
とにかく私は由美をただの「同級生」ではなく、「友達」と考えるようになった。
それと同時に、非難される理由など特にない彼女をいじめる連中に対して我慢ができなくなってきた。
だから、殺した。
由美をいじめる連中は由美をいじめているうちに、由美の傍にいる私にちょっかいを出し始めた。
彼らは最初、物を隠す、上履きの中に画びょうを入れる、教科書を破く、机の中に小動物の死骸を入れる、
根拠のない噂を流すなどの陰湿ないじめだけで満足していたが、そのうちに由美や私を呼び出し、パシリに使うようになった。
有名中高一貫校に通うお嬢様ではちょっと手が出しにくいアルコールが欲しい時などは、特に私たちを使うようになった。
復讐を企む私はそれを利用することにした。
祖父は植物のエキスパートだった。
元は生態系における草本、木本の分布や種類などを調査する学徒に過ぎなかったらしい。
けれどそのうち植物のもつ驚異的な力に魅せられ、薬理学寄りの研究者へと転身した。
これには私にとっての祖母、すなわち祖父にとっての最愛の妻を早くに失ったことも原因にあるのかどうか……。
薬理学を修める――。
簡単に言えば、病気や怪我の治療に植物の力が使えないかと祖父は常に模索していたのだろう。
だから漢方を用いる東洋医学についても祖父はかなり明るかったらしい。
薬――。
それは用い方を誤れば当然毒にもなる。特に植物毒は怖いものが多い。
「そこらへんに生えている草一本とっても、使いようによっては人間一匹を生かしもするし、殺すこともできる。
結局のところ、ヒトは及ばんのさ。草一本にも」
誰よりも植物を畏れていた祖父のもつ古い貸コンテナの中には、
見たことのない植物が加工され、漬けこまれた薬品瓶が多数、厳重に保管されていた。
「ひいきにしていた取引業者のリストだ。金に困ったらこのクソ共に連絡して薬品は売れ。
一生金には困らねぇ。お前に全部やる」
祖父と過ごす時間の長かった私だけが貸コンテナのことを知り、貸コンテナの中身をある程度理解していた。
「忘れるんじゃねぇぞ。この中にあるのはつまるところ、“呪い”だ。
誰に飲ませようと、呪いはかならず使ったものにはね返る。良きにせよ悪しきにせよ、だ。
その覚悟ができているなら、止めやしねぇ。好きなように使え。
実直に生きても悪党に生きても短い人の一生だ。どのみち草木には及ばねぇさ」
祖父はその言葉とコンテナの鍵、コンテナの所有権を私に遺して世を去っていった。私が小学校六年生の時だ。
「そうね……草一本に及ばない。少なくとも私の命は」
由美のためなら呪いでも地獄でも引き受ける気になっていた私はまもなく祖父の残した“呪力”を用いることにした。
根から抽出した植物毒をアルコールに混ぜる。
無味無臭無色。しかも体内で作用後すぐさま分解が起きるため死後血液中から検出されない。
祖父特製の恐るべき植物毒をアルコールに混入した後、私はいじめっ子三人にそれを献上した。
いつも通り飲料全部を気持ちよく飲み干した三人は二度と目を覚ますことはなかった。
私は手袋をはめペットボトルから自分の指紋をふき取りもう一度彼女たちの指紋をつけ、
眠りこけた彼女たちの一人から髪の毛を抜き取り、厳重に施錠された理科準備室の鍵をぶち壊し、
中にあった薬品棚のエタノールを回収し、かわりに持ってきた髪の毛を部屋に落としておき、
壊した鍵の残骸を彼女たちの一人のポケットに入れ、回収したエタノールは家で燃やすという策を弄した。
事件はマスコミによって大々的に報じられたが、結局本人たちの「不良行為」ということで片付けられた。
酒飲みたさのあまり、三人は理科準備室に押し入り、鍵を壊してエタノールを持ち出し、
致死量を超えてそれを摂取し、結果的に中毒死した。
そういうことになった。
とにかく私が犯人であることは最後まで暴かれることはなかった。
悪は成敗した。
三人のいじめっ子を地獄に送った直後はそう思い、胸がスッとしていた。
けれどそのうちに、自分はとんでもないことをしてしまったのだと感じるようになった。
そしてそんな自分が、元ブラスバンドメンバーだった三人と同じブラスバンドに所属していると思うと、
胸が苦しくて息が出来なくなった。
だから、私はブラスバンドを逃げるようにしてやめた。
ちょうど中学校を卒業し、高校に進学する時だった。
私はやめてすぐに、新体操部に入った。
ここに入ったのは良かった。
練習ががむしゃらに忙しくて、余計なことを考えずに済んだから。
気づけば副部長に推されるくらいに、私は熱心に練習に取り組んだ。
由美も、私がブラスバンドを辞めてすぐにブラスバンドを辞めた。
けれど新体操部には入らなかった。
正確に言うと、入れなかった。
体力的に無理だと顧問が判断したためだった。
由美はその後、どこの部活にも入っていない。
早く家に帰ればいいのに、わざわざ私の部活動が終わるのをただひたすら待つようになった。
私は申し訳なかったから、練習が終わり次第急いで掃除をし、帰り支度を済ませ、由美と一緒に学校から家に帰った。
交換日記を由美が申し出たときも部活で疲れて正直つらかったけれど、
私のような人間とそうまでして関わりたいと願う由美の気持ちを無下にしたくはなくて、死ぬ直前まで続けていた。
――そう、だったんだ。
――……。
そう。
そうだった。
私は人殺しだ。
人に殺されても文句は言えない存在だ。
だから私は、怒っている。
――何を?
――こんな私を由美が甦らせたことを。
――……。
――そして悲しい。こんな私と、たとえ仕方なくにせよ、融合する道を由美が選んでしまったから。
――……そんなの、知らない。
――何言ってるのよ。
――何言ってるのは、こっちの台詞。私のために悩む百合花を、私がどうして好きになっちゃいけないの?私がどうしてよみがえらせちゃいけないの?私とどうして一緒になっちゃいけないの?
――だから、私は犯罪者……
――知らない!関係ない!どうでもいい!何億人死のうと、何兆人殺そうと、私は百合花と一緒だったらそれでいい。私は掛け値なしであなたのことが好き。もう他に何も、本当に何もいらない。百合花さえいれば、あとは何もいらない。何もいらない。
――……。
私は、友人としては失格だ。
たとえどんなにおだてられたとしても、友人がこんなふうに自己中心的な考え方をするならば、
「それは間違っている。そんな身勝手は許されない」と諌めるのが本当の友なのだろう。
だけど、私には、できそうにない。
私は、弱い。
本当は、私も一人でいるのが怖い。
死んだら一人ぼっちだ。
そんな気がする。だから嫌だ。
一人でいたくない。一人になりたくない。
――そうでしょ!?だから一緒にいよう。大丈夫!私たち一緒なら、何だってできる。何だって。ほら、百合花が言っていたあの「魔女」だって、きっと倒せるよ。
――!
その言葉にハッとする。
突然夢が破れて現実世界に引き戻されたような気分になる。
由美と融合してから、“知った”ことを思い出した。
由美は、見知らぬ女に声を掛けられた。
それがそもそもの始まりだった。
どんな奴かはどうでもいいことだから覚えていないと由美は言う。
……。
どうでもいいなんて、とんでもない。
何せその女が、私を「作成」する方法を由美に教えたから。
その方法。
それは、簡単に言えば“踊りを覚えて踊れ”というものだった。
馬鹿げている。
踊りを踊ったくらいで死人が生き返るなら、この世は死人のダンスホールになっている。
しかし、「魔女」の言った話を実行した由美は私を、この科学万能の世の中に実際に作って見せた。
正確なところ、「魔女」が踊りを教えたのではないらしい。
「魔女」は踊りを知っている魔法使いのような者の居場所を知っていて、それを由美に教えた。
私の事故死によってナーヴァスになっていた由美は早速、願いをかなえるために教えられた場所へ行き、
そこで魔法使いに泣きついた。
泣きつかれたくらいで魔法使いが自らの秘法を教えるとはどうも思えない。
何か裏があるとは考えるが、とにかく由美に泣きつかれた魔法使いは、「踊り方」を記した紙切れを手に入れた。
舞踏譜――。
由美はこれについてだけは最後まで覚えていた。
とにかくこの舞踏譜というのを手に入れた由美は必死になって踊り方を、というよりも踊りのステップを覚え、それを踊った。
全身が映り込むほどに大きな鏡を前にして、願いを込めつつ正確にステップを踏めば、
魂を代償に願った夢を見せるとかいう麻薬の親戚みたいなアイテムに由美は酔いしれた。
けれどあくまでこれは夢に過ぎない。
夢と言っても超がつくほどリアルな夢だが。
学校にある新体操部の地下練習場で「私」の姿をした像は夜の間だけ鏡を飛び出し由美の傍にいて、
由美の涙で濡れる頬に触れたり由美に抱きしめられたりしたらしいが、それはあくまで由美の思念の投影に過ぎず、
時間が経てば消えてなくなった。
ここに、「魔女」が再び登場したらしい。
「魔女」は由美に何かを渡した。
それが何かを由美は記憶していない。
やっかいな話で、由美は最初から最後まで私に直接かかわるようなことしか記憶していない。
もうこれは仕方がない。
いくら問い詰めたところで思い出す見込みはありそうにない。
とにかく由美は魂を代償に踊りを踊り続け、衰弱しもうじき天国に召されるというところで、
「魔女」と再会し、そして「何か」を手に入れた。
その何かによって、由美は人をやめた。
そしてそのせいらしいが、幻影にすぎなかった私はいつの間にか意識を持ち、時間が経つにつれて、生前のことを思い出すようになった。
思い出すというのは正確ではないかもしれない。
私の構成要素は由美が肌身離さず持っていた交換日記だ。
彼女がいつまでも消えなくなってしまった幻影状態の私に、その日記の中身を朗読し続けた。
幻影である私はその情報を使い、私を構成した。
結果的にほとんど生前と変わらぬ状態になった。
なんて都合のいい話はあるわけないと思うが、現に死んだはずの私は生前の情報の全てを補完してここにいる。
日記帳には私が生前封をして自分の机の引き出しにしまっておいたはずの由美宛ての手紙が張り付けてある。
たぶん私の親が私の死後、遺品を整理しているうちに見つけたのだろう。
中身はなんてことはない。
由美をいじめていた例の三人の「自殺」についての真実と反省を綴った文章だ。
けれど由美は私の親から受け取ったはずなのに内容については全く知らなかった。
たぶん、どうでもいいと思ったからだろう。
取るに足りないと思ったから黙殺したと考えるのが、由美の場合、適切だろう。
私という幻影が由美の持つ日記帳を元に受肉したという、この都合のいい理屈を話してくれたのは当の由美で、
交換日記の最後の方にはこの理屈を由美に説明したらしい「魔女」についての記述が残っていた。
けれど「魔女」について、容姿、特徴などの説明は全くなく、日記帳には単に「女」としか書かれていなかった。
残念だ。
その後、「魔女」から「何か」を与えられた由美は人をやめ、ゾンビみたいな状態になった。
一方で私は常に由美の傍にいてやれるようになった。
その矢先、由美に舞踏譜を渡したとかいう銀髪の男とその手下みたいな団子頭の女が私たちの潜伏先の朽ち果てた病院に現れた。
ちなみにその病院は由美が自分で見つけたらしい。
なんで?と聞いたらたまたま外を歩いていたら見つけたとか。
たぶんこれも勘違いだろう。
おそらく「魔女」の仕業だ。
あんな気味の悪い場所をたまたま見つけるなんてまずない。
現れた二人は由美を狙っているらしかった。
私一人なら殺されても良かったけれど、由美が殺されるのは心外だと思った。
だから暴れた。
暴れているうちに、自分の中に湧き上がる力が制御できなくなった。
でもだからといっていつまでも暴れているわけにはいかなくなった。
銀髪の男が連れてきた手下の団子頭の攻撃が、由美に当たった。
私は由美を連れ、撤退を余儀なくされた。
由美はゾンビみたいになっていたけれど、不死身じゃなかった。
銀髪男の手下の攻撃のせいで由美は今度こそ死にそうになった。
しかも、膠のような黒い粘液が由美を襲った。
おそらくあの二人の仕掛けた罠だろう。
おかげで由美は病院を取り巻くようにして集まっていた黒い連中と同じようになってしまった。
――それで、ヤッたのよね。
――あまり感心できる言い方じゃないけど、そうね。
確かにヤッた。
最後の願いを聞いてくれと、由美の魂は私に語りかけた。
何かと尋ねると、由美は一つになりたいと言い出した。
どうやってと聞くと、由美の魂は日記帳の最後のページに書きつけた文章を暗示した。
言われた通りページを繰ると、そこには幻影投影者(由美)の魂を幻影が取り込む手について書き記されていた。
どうやら、「魔女」は由美がここまで追い込まれることを想定して、あらかじめ由美に手を打っておいたらしい。
健全な判断を下せない状態にあった友人が死ぬ寸前まで利用されたかと思うと、怒りに総身が震える。
――あら、そう?私は感謝してもしきれないくらい感謝しているけど。おかげで百合花と一つになれたし。
――はあ、まったく……!?
――どうしたの?
――しっ!静かに!
カッ、
カッ、
カッ、
カッ。
私たちは今、学校に潜伏している。私たちが生きていた頃通っていたあの中等教育学校の敷地だ。学校は由美が銀髪男の手下と謎の黒い液体にやられてまもなく一時閉鎖したらしく、昼も夜も人がいなかった。
だからちょうどいいと思い、私たちはここを根城にしている。
カッ。
そこに今、侵入者を知らせる音が聞こえる。
私たちのひそむ音楽室の外に、
「こんばんは」
鍵のかかった鉄製の薄い扉の向こうに、声がする。
「……」
誰に向かって話しかけている?
私?
由美?
それとも別の誰か?
あるいは勘違いしている?
では何と?
――私たち両方に挨拶しているんだよ、きっと。
――聞き覚えは?
――さあ、覚えていない。
――そう……分かったわ。お願いだから少しの間静かにしていて。いい?
――はぁ~い。
「言葉を失ってしまいましたか?」
「……」
「お友達の傷は、もう大丈夫ですか?」
お友達。
傷。
もしかして、由美のことを言っているのだろうか?
「先日の戦いでお二人とも怪我をなさったと思い尋ねているのですけれど、お変わりありませんか?」
戦い。
二人。
怪我。
間違いない。
声の主は私たちのことを知っている。
「よろしかったらお顔を拝見しつつ、お話し願えませんか」
女の声が暗闇に響く。姿を見せろだと?
――あっ!
――何?
――思い出した。この声。
――誰?
――私に舞踏譜の事を教えてくれた人だ。
――!!
「魔女」が、今ここにいる!
どうする?私はどうしたらいい!?
「もしもし?聞こえていらっしゃいますか?」
――礼を言ったらいいよ。
――礼?何を馬鹿なこと言って……
――礼を言ったら、殺しちゃえばいいよ。だってもう要らないでしょ?百合花が警戒するような生き物だったら、それはきっと悪い奴だよ。だから殺しちゃおう。
――……
殺す?
「魔女」を殺す?
そう言えば、その「選択肢」もないわけではなかった。
銀髪の男を相手に暴れた後、私もまた、尋常ならざる力を手に入れたことに私は気づいた。
カマキリみたいな両手は切り落とされたが、代わりに人間と同じ五本の指のある普通の手が生えてきた。
角も落とせば目が生えるだろうか。
これじゃまるでカタツム……
――百合花!後ろ!!
ガシャンッ!!
「!?」
背後にすさまじい殺気を感じる。身の危険を感じ咄嗟に飛び退く。
シュキンッ!!!
ガラスの割れる音から間髪入れず、鉄の匂いが弾丸のように鋭く体の傍を通り抜ける。
「お邪魔します」
私の目は、死んでからは見えない。
けれど角はソナーのように働いて、私の目の前に何かがいることを正確に教えてくれる。
角の教える情報によれば、音楽室の窓ガラスが割れ、吹き込む風のためにカーテンがたなびき、床にガラス片が散乱し、その上に一人の人間が立っている。
胸のふくらみからしておそらく女だ。
手には、物干し竿と同じくらいの長さの鉄の棒……じゃなくて、刃物がある。
やや反り返った刀身からすると、日本刀かもしれない。
その馬鹿みたいに長い日本刀からは強い光が上がっている。
それを握る女よりもずっと強い、青い光が。
――どうして……信じられない。今まで扉の向こうにいたはずなのに。どうやって反対側の、それも窓の外から……
――はあ、「バケモノ」は私たちだけじゃないようね。
「ヌッ!アクザ!ルァパ!」
「一体何の用だ」と叫んだつもりだ。だけど相変わらず自分で聞いていても訳の分からない音しか口から出てこなかった。
これだったら犬みたいにワンワンと噛みつくように吠えた方が、相手を追っ払うのによほど効果的かもしれない。
「何の用と言われても、ご機嫌をうかがいに参っただけです……というのは建前で」
「!」
「本当は貸した物を返してもらいに参っただけです」
言葉が通じた。意外なこともあるものだ。でもこれなら、問い質すことができる。
「エドヴァンヌ・エハッ・ゴインッ!」
お前は一体何だと尋ねた。
「何者かと言いますと、名前でよろしいですか?ロー・アトロポス・クロスカラと申します。今後はクロスカラと呼んで下さって結構ですよ」
「魔女」は淡々と自己紹介を済ませる。
ロー・アトロポス・クロスカラ?
どれがファーストネームかも分からない。
これじゃ聞いても聞かなくても変わらない。
「職業(魔女)」の方がまだ分かりやすい。
「オウゲレクス!ヨウォッ、ヴォクル!」
「ですから、貸した物を返してもらいに参ったんです。中西さんに私が貸した物なんですが……中西さんはどちらにいらっしゃいますか?」
「ショディエルッ、セズッ!ラキルッ!」
「それは私の意思ではありません。中西さんを殺したのも私ではありません。そうでしょう?そして魂の融合を望んだのはあくまで中西さん自身。それで、中西さんはそれじゃあ、今あなたの中にいらっしゃるのですね?それは困りました」
何がだ!?
「中西さんに与えた力を返してもらおうと思ったのですけれど、仕方ありませんね。中西さんを取り込んだあなたから中西さんに与えた力を引き剥がすことはできませんから。そのかわりに、あなたが私の玩具として働いてもらいましょうか」
「エリプフォセルッ!!」
「ふざけてなどいません。借りた分はきちんと返す。それができないなら債務者は己の持つ唯一の財産、つまり「自由」を抵当に入れる。それを申し出るのは債権者として当然の権利です。もっともそれを裁く法の番人はいませんが」
由美を利用した「魔女」はそう言うと、剣を握っていない方の左手を振り始める。
五本の指先が青白くキラキラと光る。
間髪を入れず、私たちの足元にベンゼン環みたいな六角形の模様がシュンッと音を立てて現れる。
線はよく見ると小さな文字が並んでできている。
青白い光の線に囲まれて、私たちの体は突如自由を奪われる。
全く動けない。
「!!」
ベンゼン環に塩素が付加したときの構造式のように六角形の各頂点から六角形の外側へ向かって光の枝がシュルシュルと走り出す。
体が一気にズシリと重くなる。
――百合花!苦しい!助けて!
――何なのよ……これ……
「アレ……ソッ、ミーム……」
「ですから“支配”です。厄介な魔物を退治するために協力していただきます」
――ふざ、けるな!!!
「!」
「ヴォアアアアアアッ!!!」
足元で光るベンゼン環内に亀裂が走る。模様を構成する小さな文字の光が若干その輝きを弱める。
――百合……花……
………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………。
もう私たちには何もこの先、残されていないかもしれない。
私たちの命なんて所詮ありあわせに過ぎないのかもしれない。
私たちなんてむしろいない方がいいのかもしれない。
でも、
ビキビキビキビキビキッ!!
腕が、腕であることをやめる。
燃えろ。
ズギュウッ!!ギシュギシュギシュッ!!
手が、手であることをやめる。
………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………由美。
ビギビギビギッ!!
由美の命をこれ以上弄ぶことだけは、絶対に許さない。
ゴオオオオオオオオオオオオ―――ッ!
何一つ悪くない由美を利用する奴だけは、許さない。
「ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
殺す。
その一点において、私はお前を処刑する。
ギャシャンッッ!!!
「あら、そう簡単に破られるなんて」
法の番人はいない。
でも、死刑執行人はここにいる。
ボッ!!
ガキンッ!!!
「これはちょっと重い…………ちっ」
「魔女」が体勢を立て直す。
それで?もう一度私たちを捕まえる気?
無駄よ。
私たちは今ここに、お前を斃すことを宣言する。
絶体拳幕――。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドンッ!!
拳を固め、打つ。
それは点ではなく面による攻撃。
「ヴォアアアッ!!!」
シュパンッ!
ガシンッ!!
刃物を握る「魔女」が私の目ともいうべき角を狙って攻撃してくる。
けれどそれはフェイクだった。
「魔女」は窓の外に逃走する。
それを私たちは追いかける。
ブウォンッ!
窓から飛び出した瞬間、背中から地面に向けて落下途中の「魔女」は笑顔を浮かべる。
バシュゥウンッ!
落下を始めたばかりの私たちめがけて宙で剣を振る。
刃にあふれんばかりにまとわりついていた青く閃く色彩が剣を離れ、天に上昇する。
天と青い閃光の狭間を私たちは墜ちてゆく。
光との衝突は避けられないと覚悟し、私たちは青い閃きを受け止める。
生温かい何かが体外へ溢出する。
おそらく血だろう。
由美と二人で築いた、二人の血だ。
シュ~……
私たちは「魔女」の落下直後に備えて拳を再度固め直す。
できることなら、このまま落下の衝撃を利用して、「魔女」を殴りたい。
腕が吹き飛ぶかもしれない。
普通の人間なら吹き飛ぶどころの話じゃないだろう。でも「私たち」は普通じゃない。
だから、やる。殴る。
落下の衝撃で、地面もろとも「魔女」を粉砕してやる。
絶帯殴魔――。
ズドオオオオ――ンッッ!!!
拳から肘、肩、背中と順に衝撃が走る。
そして願いの一つは成就する。
ゴオオオオオアアアアアッ!!!
拳が壊れる前に、轟音と共に地面が砕け、火を噴き、岩片が勢いよく飛び、すり鉢状のクレーターが急遽生じる。
けれど願いの一つは叶わない。つまり「魔女」に直接、拳は当たらなかった。
私たち二人が砕いたアスファルトやコンクリートの破片が再び地面に戻る前に、「魔女」が襲いかかってくる。
「遅いですよ」
ドスンッ!
「魔女」の握る剣の軌跡にばかり気を取られていた私たちは彼女の放つ蹴りをもろに食らい、体のバランスを崩す。
その隙を、警戒していた剣が一気に襲ってきた。
ガシュンッ!!
青い光が切り口で燃え上がる。かつてない激痛が走る。
でもあきらめない。
私たちは落ちた岩片を両手にそれぞれとり、まず片方を「魔女」めがけて投げる。
「魔女」はそれを避ける。
私たちは急いで走り寄りつつ、「魔女」の刃圏のギリギリ外で残りの岩片を投げる。
「魔女」がそれを造作なく斬り崩す。その間にさらに間合いを詰める。
ブッ!!
「?」
こっそり口の中に入れ、能な限り噛み砕いておいた岩の破片を私たちは一気に吐き出す。
吐いた自分が驚くぐらい、それはパウダー状になっていた。
「く!」
「魔女」の目を一時的に潰すことに成功する。
ブオンッ!
ザクッ!
ブシュウッ!
慌てた「魔女」はとっさに剣を振る。
それを、片腕を犠牲にして止める。
「ヴォアアアッ!!」
ボッ!
ドゴ――ンッ!
犠牲にした左腕が千切れて地面に落ちるのとほぼ時を同じくして、私たちの右拳が「魔女」の腹に深くめり込む。
「うっ!」
「魔女」は吹き飛びつつ体を一回転させ、もう一度剣を構える。
けれど動きが明らかに遅くなった。
どうやら私たちの“足掻き”は多少なり通用するらしい。
ガキンッ!
バシュンッ!
ズガンッ!
ドンッ!
ドドンッ!……ガシッ!!
「!?」
剣を握る「魔女」の腕が伸びきったところで私たちはその手首をつかむ。
切断された方の腕で「魔女」の顔面を打つ。
ボグンッッ!!
私たちの手首の切断面が「魔女」の顔をぶちのめす。
魔女はクルクル回転しながら吹き飛び、ついに立ち上がらなくなった。
ガクッ。
ブシューッ!
「!」
突然膝が崩れ、すぐ近くで血しぶきが上がる音がする。
見ると、私たちの片足が切断されていた。
遅れて激痛が全身を襲う。
「魔女」を見ると、いつの間にかもう片方の手に鋭利な片刃の短剣を握っていた。武器を隠していたか。
くそ、どこまでもふざけた真似を……。
「うふふ」
「グルルルルル……」
何がおかしい。
「天使になろうとする人がついに悪魔になり、悪魔になろうとする人がついに天使となる……。まったくもって、世の中の皮肉ですね。うふふ……」
横たわったまま、「魔女」が何かを言って笑っている。
「参りましたね。これほどとは……おかげで予定がすっかり狂ってしまいましたわ」
「!」
ビニールの袋が風を受けて軽々と空に舞い上がるように、「魔女」の体がフワリと宙に浮く。姿勢を立て直し、静かに着地する。顔半分は腫れあがり、わずかに開いた唇からは血のような液体が流れていることが、私の角でも感じ取れた。
「二匹の悪魔……いいえ、二匹の天使よ。その胸に刻んでおきなさい。確かに貴女達はお強い。しかし最後には消えていただきます。いかなる手段を用いても私は貴方達を排除する」
そう言うと「魔女」は刃物を手にしたまま夜の闇に消えて行った。
地の果てまでも追いかけたかったけれど、
足と手を一本ずつ失った私たちはそれどころじゃなかった。
また、治るだろうか。
――治るよ。
――起きたの?
――うん。つい今。
――そう、一旦「声」がしなくなったから心配した。本当に良かった。
――ふふ。
――どうしたの?
――私たちのこと、天使だって。
――そうね、確かにそう言っていたわね。
正直、「魔女」に「天使」呼ばわりされてもうれしくもなんともない。
それよりこれからどうしようか。
考える。
けれどあまりいい考えが浮かばない。
――とりあえず、ここにいようよ?
そうすれば手も足もまた生えてくるって。
――生えてきて、それからどうするの?
――知らない。
でも私の勘だと、またあの「魔女」は私たちの所に戻ってくる。
だって私たちのこと殺そうとしていたから。
――それは、そうよね。
おそらく「魔女」とまた戦うことになるだろう。
その時は確実に息の根を止める。
理由は単純だ。
由美を守るためだ。
そのためなら悪魔だろうと天使だろうと何にだってなって見せる。
――百合花。
――なに?
――ありがとう。
――何が?
――最後まで、私の傍にいてくれるんでしょ。
――……そうね。
現状を悩んでもしょうがない。
過去を悔いてもしょうがない。
将来に腹を立ててもしょうがない。
ただ、友を守るために殺す。
この一点のみに私は全てを捧げよう。
――最後まで、一緒にいるわ。
――よかった。
砕けたアスファルトの上で鎮火しつつある火を眺めながらそんなことを考えているうちに、
私の手足はトカゲの尻尾のようにきちんと元通りに再生した。