第三途 イノリノハテ ノロイノハテ
人間は調和を求める。だが、類としての人間のために何が望ましいかを、
自然はもっとよく知っている。だから自然は、争いを求めるのだ。
(カント)
第三途
~ イノリノハテ ノロイノハテ ~
一、 懺悔
「私ね、今朝猫の手を食べてきたの」
授業と授業の合間、同じ教室内で会話する同級生の話にドキリとし、彼女を見る。
「はあ~?」と言い返し馬鹿にする彼女の友人と、「嘘に決まってんじゃん」といって「実はさ」と本題を切りだす彼女。「なんだ」とその二人を見るのをやめる他のクラスメートたち。そのどれにも属さなかったのは、クラスの中でただ一人だけだった。
中西由美――。
二か月前、隣のクラスの無二の親友を交通事故で失った高校二年生。
一年以上の片想いの末、一昨日告白して、その僕をフッた女子。
「……」
中西一人だけが、「猫の手食べたの」の方へ注意を向けず、ボロボロになるまで使い込まれた日記帳のようなノートに目を落と し、ページをめくっている。
疲れてくぼんだような目元が白桃色に染まっている。ユリの花みたいに。
閉ざした口の端はわずかだけど、湖面に生じた波紋のように形状をそっと変えている。
その泣きだしそうな、あるいは笑いだしそうな不思議な表情を僕は部屋の隅の机に座ってそっと見、すぐに視線を外した。
「ふう」
目をつむる。
僕――。
金井智宏。
どこにでも転がっている、どこかに転がっている類いの高校二年生。
特技は、たぶんない。
ゲームセンターに独りで行って、百円だけで乱入アリの格闘系アーケードで何時間粘れるかにこだわるぐらいしか趣味がないヒョロ助。
どこにでも転がっていないのはこの学校。
一応は私立の中高大一貫校。
ある程度の学力か結構な金がないと入ってこられないらしい。
当然僕は後者。
学力なんてからっきし自信がない。
中間、期末、学力到達度テスト、外部模試……どれを何度やっても踏みつけられた雑草みたいなみじめな点数しかとれない。E判定ばかり。
運動の方は……どうでもいいや。
そんなすごい学校に通う、たいしたことのない僕が、高二の夏、中西に恋をした。そして冬、告白をした。何の手順もふまず、根回しも前触れもなく。
「放っておいてくれない?」
告白をした段階で、中西の友人にあの臼井百合花がいるなんて、僕は知らなかった。
知っていたら、このタイミングで告白なんてしていない。自制する。僕だってそれくらいの空気くらい読める。だけど本当に全く知らなかった。
二か月近く前に交通事故死した同級生の臼井百合花が、中西の友達だったなんて……。
だから彼女の穏やかなじゃない心の内を予期することができなかった。
「誰かと付き合っているの?」
テンパった末に出た、つまらない問い。
「仮にいるとして、その質問に答える義理はないでしょ」
全くその通り。そして「いる」「いない」の問題じゃなかった。
「あっ、うん。ごめん……ねえ、僕ってその、ウザい?」
どうしようもない、問い。
「知らない」
ツヤのある長い黒髪の下、紙のように白い顔がうつむく。
「第一そんなことはどうでもいいから」
再び持ち上げた顔の、カヤで裂いたような切れ長の目が僕を射抜く。
その視線に耐えきれず、僕は目をそらす。切り刻まれているような気分。
「ねえ、あなたの命を私にくれない?」
?
ショッキングな言葉が、僕の耳にそのとき届いた。当然驚いて中西を見る。
「へ?」
「臼井百合花って知らない?隣のクラスの子。髪は短くてまつ毛の長い、甘そうな唇をしてサフラン色の瞳をした百合花は私の友達なの。だけどこの間乗用車に衝突したトラックが飛ばしてきた板ガラスの破片で両手と眼をなくして、ついでに内臓にガラスをめり込ませて苦しみながら病院で失血死したの」
何かが猛烈なスピードで中西の口から飛び出していく。
異常なほど細かい説明……のような形をした何かが、彼女の唇とその周りの筋肉を動かしていた。
「もう一度言うわ。しなやかな両手と、サフラン色のきれいな眼よ。それでもし、彼女を生き返らせるために誰かの命を私が必要としていたとして」
取りつかれたように一気にしゃべっていたその速度が落ちる。細い目の中の瞳が、光に透かした赤ワインみたいな色になる。
「あなたは私に自分の命を差し出すことができる?」
「……」
何を言っているかすぐには分からなかった。
「えっと、あの……」
命をよこせ?そう言ったのか?
「冗談だから気にしなくていいよ」
瞳の色が黒くなる。いや最初から黒かったのに、こっちの気持ちでそう見えただけかもしれない。とりあえず何て答えたらいいんだ?頭がようやく回り始めたその時だった。
「……ウザいかどうか聞いたよね?『ウザい』の意味が『とりあえず要らない』っていう意味ならば、私にとってあなたはウザい。……話は終わりよ。さようなら」
言って、僕の前から去っていく。その時僕はようやく彼女の苦しみを知った。同時に自分の無知を恥じた。そういうことになる。
それからというもの、彼女をまともに見られなくなった。まともに見れば、自分を追い詰めたくなる。間抜けな自分が死ぬほど恥ずかしい。無論向こうは、部屋を舞うホコリほどにもこっちを気にしていないだろうけれど。
「起立。気をつけ。礼」
授業が終わる。帰りのショートホームルーム。
「さようなら。気をつけて帰れよ」
「何に気をつければいいのか教えてくださいよ先生」と思いながら教室を出て行く担任を見送る。それから見つめたのは、僕の握る自在ボウキの先にくっつく紙屑やホコリ、食べカス、女子の髪の毛。誰かさんみたいにゴミ箱がお似合いな連中。
掃除を放課後、僕はいつも通りまっすぐ家には帰らず、ゲームセンターに行って時間をつぶす。
ガチャガチャ。クレーンゲーム。音ゲー。格ゲー。シューティング。カード自販機。たばこ。トイレ。フィギュア展示。缶コーヒー。コインゲーム。クイズゲーム。その雑多と騒音の一部になりに、僕はゲームセンターに入る。
時間をつぶしたくて、というのは正確じゃない。
どちらかというと、格闘ゲームに集中することで、こんな自分のことを考えないようにするためだった。
ほんと……イタイやつ。
傍からみたら間違いなくそうだ。
「イタイ」次いでに、もし叶うのならダンゴムシにでもなってヘクソカズラの生えている土の上でも歩いていたかった。そうして一日中ヘクソカズラに頭をぶつけてその悪臭を浴びていたかった。
それくらいしないと耐えられない気持ちだった。でも、ダンゴ虫にもなれそうにないし、仮になれたとしてもヘクソカズラはこの辺には生えていなかった。
もちろんゲームセンターにも。あるのはゲームセンターの前に立ち並ぶ、ポプラの裸木ぐらいだ。僕とは違って気高い。そして何より美しかった。
「はあ、ゴミだな。僕って」
いつものように日が暮れた頃、とぼとぼと独り店を出て定期で電車に乗り家へ帰ろうとした。
「!」
駅のホームで、中西にあった。
竹のようにすっと背筋を伸ばし、無表情のまま早くも遅くもない速度でさっさっと歩いてくる。そして僕の横を、まるで赤の他人であるかのように通り過ぎて行った。
「……」
中西を見た瞬間、凍りつき緊張と興奮で一時まわりが見えなくなったが、彼女が甘い香りを残して過ぎ去ってしばらくして、自分が完全に無視されていると思い知り、再びへこんだ。
出会った瞬間思わず地面に張ってしまったひょろひょろの根っこがあっという間に根腐れを起こしたような気分だった。根腐れを起こさせた化学物質はきっと流れずに終わった悔し涙だと思う。
「はあ」
せっかく二次元空間で相手をぶちのめして憂さを晴らしてきたのに、これじゃ何の意味もない。いや、意味なんて考えてもしょうがない。
そもそも僕に意味なんてもうないのかもしれない……。そんなことを考えている自分はいつの間にかベンチに腰をおろし、エノコログサの花穂ように背を曲げてうなだれていた。
「……?」
ハッと気づき、辺りを見回す。
時計を見る。夜十時を回っていた。ゲームセンターを出たのが六時五十分だから、三時間近くベンチで眠ってしまったらしかった。
「うん……ぐ」
立ち上がり、伸びをする。思い切り鼻から息をはき、吐いた分の空気を思い切り鼻で吸い込んだ。冷たい空気はうまくもまずくもなく、ただ冷たいだけだった。
「!」
その時、何かの匂いを、鼻が捉えた。
何の匂いか考えているうちに、中西の顔が浮かんだ。
そうだった。さっき自分の目の前を通り過ぎて行った中西がつけていた香水らしき匂いと同じ匂いだと思いだした。
何の匂いだろう?どんな植物とも違う、嗅いだことのない、不思議な匂いだった。
ホームのアナウンスが流れる。電車がホームへ入ってくる。風が巻き起こり、匂いが一気に拡散していく。
プシューッ!
ホームに入った電車の扉が開く。気のせいだと思っていた匂いは、電車の中の方から強く漂っていた。あまりに気になったから、扉が閉まる前に僕は飛び乗ってしまった。
扉が閉まる。電車が発車する。
僕は匂いの充満する車内を見渡す。嫌悪感を抱かせるような匂いじゃないけど、このむせるような濃さは異常だ。誰もこの匂いに気づいていないんだろうか。
それとも鼻が慣れてしまってすでに関心を失っているんだろうか。誰も手で鼻を押さえたり、ハンカチで覆ったりする人はいなかった。そして電車はいくつもの駅に止まる。
けれど匂いはあまり外へ出ていかない。
「あ」
そう思っていた。けれどある駅で突如、匂いが外へ一気に流れ出していく感じがした。びっくりするほど勢いよく車内から抜けていく。
あまりに不思議で、体は匂いの後を追うように電車から降りる。「あ、降りたんだ」と後で頭がついてくる。
ほとんどが無意識に……ちがう。無意識じゃない。意識はちゃんとある。
たぶん、中西のことが気になって……いや、それもちょっと違う。たぶん中西が気になる自分がこれからどうしていったらいいかわからないから、匂い任せで電車から降りてるんだ。
中西を避けて生きたいのか、それとも中西に近づきたいのか。近づきたいとして、近づくためにはどうしたらいいのか。色々と、分からなくて、考えたくないんだ。
考えたくないから、彼女の亡霊のような匂いを、なんとなく追いかけようとしているんだろう。
「ふう……」
こんな具合に自分を突き放して他人事のように考えなきゃ、今はダメみたいだ。ショックを受けたばかりだからかな。
電車のような密閉空間とは違って、匂いはいくらか薄らいだ。その匂いをたどって、僕は歩けるだけ歩いた。
「ん?」
ふらふらと道を歩いている最中だった。スクランブル交差点まで来たとき、電灯の光とともに、視界の右端に何かが映った。
何だろうと思って右を見たけど何もいなかった。
「ニャ~」
左から猫の鳴く声が聞こえて今度はそっちを向く。そのとき電灯の下を、
「?」
小さな影が動いていた。影だけ。そう、影だけだった。
鳴き声からして猫がいればよかったけれど、電灯の下を走り去っていく影は確かに影だけだった。
一瞬の出来事と見間違えじゃないかと思うほど不思議な光景に頭の中が真っ白になる。
けれど次の瞬間にはまた鼻腔に、さっきの誘うようなにおいが届く。
「あれ」
だけど匂いは、分かれていた。今まで一方向に流れていただけだったのに、ちょうど自分の鼻先で、二つに分かれていた。
その一つは鳴き声だけを残して僕の傍を走り去っていった猫のような影へと続いている。
もう一つは居酒屋や雑居ビルが立ち並ぶ通りへと続いている。
「……いて」
冷たい風が目に染みたのか、それとも影みたいな猫を見たせいなのか、どっと目に疲れを感じる。それでギュッと目を閉じる。
目の奥がズキズキする。
「はあ」
目を開く。影猫の姿はもうない。
「あれ」
そして匂いもしなかった。どうして?今の今までしていたのに。
「……」
僕は辺りを見回す。夜の街は冬の淋しさを纏ってただ目の前に横たわっている。僕はその淋しさの底にぽつんと突っ立っている。
それだけだ。匂いも影猫もいない。
「どうしよう」
中西の手掛かりと思ってつけてきた匂いがここに来て消えてしまった。
こんなことなら最初から影猫でも何でも見えるものの後をつければよかった。どうしよう。
ここでしばらく待っていたらまた匂いが流れて来るだろうか。
「?」
さっき目にゴミが入ったせいだろうか。視界がにじむ。そのせいで目に飛び込む光がどれも輪郭を丸める。けれどその丸い光とは明らかに異なる明滅する丸い光が、足元を漂っている。
「……蛍?」
幽かな光球は片手のひらに収まるほど小さく見える。それでいてとても明るい。限りなく白いのに、どことなく黄色い。
そして透明感あふれる小さな光。それらが足元をコロコロと転がったり、そうかと思うと地面を跳ねて、そのまま宙を漂う。
まるで光る大粒の粉雪のようだった。
脚を動かして光をそっと蹴飛ばそうとすると、光は意識を持っているかのように僕の脚から逃げていく。
けれど鳥のように危険を感じて遠くまで飛んでいくのではなく、少し遠ざかっただけでまた、地面近くをゆっくり漂い始める。
まるで蛍の光だった。
僕は目をしばたかせる。街灯やネオンの看板の文字はようやくはっきり見えるようになる。けれど、
「……」
蛍のような小さな光の群れはまだ辛うじて見えた。それはさっき影猫が歩いて行った方向に流れていた。
まるで天の川の細く薄く束ねて引き伸ばしたような道がアスファルトの上にあった。だけどその光は徐々に弱りつつあった。
タッ。
その光の軌跡が何を意味するのか。考えようと思った。けれど考えている間にまた好機を逸してしまうかもしれない。
この光の道が何にせよ、たどれば影猫に出会えるかもしれない。影猫はさっき確かに中西と同じような匂いをまとっていた。
なら影猫を追えば中西に辿りつくかもしれない。そんな風に頭を整理し出した時には、僕は光の軌跡の上を駆け出していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
光の軌跡が徐々に薄れ、本当に見えるか見えないかわからないくらいになる。
けれど辛うじて見えるから、とにかく僕はその軌跡の上を止まらずに走る。
やがて繁華街を抜け、人気のない細い道に入る。来た道を戻れる自信なんてもうない。けれど仕方ない。走り出したんだ。
途中で引き返すわけにはいかない。とにかく、光だ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
明るくなる光。
暗くなる光。
とにかく消えるな。消えちゃだめだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
ダメだ。もう見えない。
いくら目を凝らしても光の軌跡は見えなくなった。しかも周りはものすごく暗い。
気づけば昼間もシャッターを下ろしているような商店や空き家が目立つエリアに足を踏み入れていた。
電灯がごくまばらにしか立っていない。しかもその電灯もチカチカ点滅していたり、点いていなかったりして、とにかく暗い。
逆に星はよく見える。さっきの蛍みたいな光は夜空に帰っちゃったのか?なんて、ロマンチックなことをぼやいている場合じゃない。
探している光はどこへ行った?
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
膝に手を突きつつ途方に暮れていたそのとき、僕は辛うじて灯る遠くの電灯の下を歩く影猫を見た。
「……いた、いた」
走ろうとした。けれど足がさっきまでのように前に出ない。急なランニングのせいで足の筋肉が痙攣を起こしたらしかった。くそっ!
「はあ、はあ、はあ」
思うように動かない足を引きずりながら、僕は影猫の後を追う。影猫は相変わらず影しか見えない。
電灯の明かりの下で、黒い影だけが地面に出来る。今初めてこの影を見た人ならおそらくそれが猫なんて分からないだろう。
けれど僕はさっき街中でそのシルエットを横から見ている。ビルの壁面に小さく猫の黒い影が映った。
それがどんな仕組みでそう映ったのかは知らないが、とにかく映った形が猫だったのは確かだったことは覚えている。
今はそれだけでいい。
とにかくアレは猫みたいな影で、中西の下へ向かっている。
そんな気がする。勘だけど、僕には確信がある。
だからこそ、見失うわけにはいかなかった。
影猫を追う。
影猫の通った電灯の下まで来ると猫の歩いた後は薄墨を軽く刷いたようなモヤが地面に残っていた。暗闇だらけで黒猫以上に黒い猫を探すのは半端なことじゃないが、このモヤみたいな訳の分からない痕跡が残るのなら、あるいは影猫を追えるかもしれない。
「よし……」
人気のないエリアを超えた先に河がある。その河にかかる鉄橋を、影猫は渡る。鉄橋には電灯がいくつか設置されていて、その足元に相変わらず小さな黒い影が出来て、モヤが残され、その影とモヤは鉄橋を渡り切り、さらに人気のない町へと入る。灯る電灯の本数は本当にわずかになる。
けれど諦めず、僕は目を凝らし、影猫の後と残されたモヤを追う。
言うことを聞かなくなっていた足はどうにか元に戻った。
けれど肝心の影猫がどこにいるのか分かりづらくてなかなか影猫の近くまで辿りつけない。
ようやく見つけたと思って駆けてもその時には既にそこにはいない。
月明かりと電灯だけが頼りの漆黒に近い闇の中をとにかく駆け回り、全神経を目に集中させて、影猫とモヤの痕跡を追い続ける。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
電灯の光がどれほどありがたいか身に染みて感じられる。
光の傍にあるものは意識せずとも頭が記憶していく。ボックスのガラスが割られた公衆電話、ゴミ置き場と化した駐車場、立ち退きの終わった集合住宅、重機が墓標のように立ち並ぶ資材置き場……目を皿にして走り回る内にこのゴーストタウンの大まかな地図のようなものが出来た。でも影猫には追いつけない。
「いた」と思っても、また追いつく前に、どこか先へ行ってしまう。匂いのようにモヤという痕跡を残してくれるのだけが不幸中の幸いだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
寒さの極まった暗闇を散々走り回り、とうとう僕は小高い丘の上に立った。
丘に登る途中に立っている電灯の下を歩く影猫とモヤを見たからきっと上まで猫は登ったに違いないと思ってきたけれど、
来たら来たで厄介な風景が目の前に広がっていた。
丘の上には病院らしき建物があった。
病院の敷地を示すように金網のフェンスが設けられている。そしてフェンスの中には真冬なのに夏草がぼうぼうと生えている。無論明かりはどこにもない。さっきの蛍火も、やっぱり見えない。
「?」
いや、明かりはなくはなかった。雲のせいで陰ったり顔を覗かせたりする月の光と、病院の中に見える非常灯の緑の光。それにもう一つ。病院の敷地に足を踏み入れるために人が通る正門の前に立つ電灯。
「ツバメヅカ、ビョウイン……」
正門らしき門前まで移動した僕は、建物の名前を表札で確認する。緑青に覆われところどころ亀裂の走るそれには「燕塚病院」と書かれていた。
「ツバメヅカ……ツバメヅカ……」
これからどうするか、心当たりのない病院の名前を繰り返し口にしながら考える。
影猫は、まさかこの病院の中に入った?
猫がわざわざこんな気味の悪いところに来て、しかも病院の中に入る?
なんで?
どうしてそんなことをする?
いや、そもそもここは猫のたまり場かなんかで、入っても猫しかいないんじゃないか……違う。
違う。
そうじゃない。
あれは猫じゃない。猫のようなシルエットを持つ“影”だ。
あくまで影だ。
影が一人で歩くなんておとぎ話じゃないんだから、そもそもあり得ない。
そんなあり得ないような、普通じゃないことが起きている。普通じゃないことが夜の街で始まって、今ここまで僕を導いてきた。
「ツバメヅカ……ツバメヅカ……」
ならきっと、この中には何かがあるんだろう。普通じゃない何かが。
「ツバメヅカ……ツバメヅカ……」
普通じゃない何か。例えば、さっきの猫みたいな影。そして……中西。
「ツバメヅカ……ツバメヅカ……」
思い返してみれば、中西の様子は普通じゃなかった。
その中西と束の間だけど同じような匂いを放っていた影猫がここまでわざわざ来るということは、きっと、何かがある。
「入る、か。どうせ人はいないだろうし」
スマホでも心霊写真がメモリー一杯に撮れそうなほど気味の悪い廃墟同然の病院に、僕は足を踏み入れることにした。
廃墟かもしれないと思ったが、入ってみて確信した。この病院はどこからどう見ても完璧な廃墟だった。
「だよな」
歩きながら一つずつ確認する。倒された棚。散乱するガラス片。砕けたタイル。赤黒く汚れた壁。脚が折れて朽ちたソファー。車輪のもげた車椅子。荊で引き裂かれたようにずたずたになったカーテン。
「……こわ」
口にしてみればいくらか恐怖が薄れるかもしれない。そう思って怖いとつぶやいてみたけれど、怖さは全然薄れない。窓から射しこむ月明かりと緑色に光る非常灯の明かりだけが、院内の様子を僕の網膜に伝える。
キー……。
壊れていない車椅子がある。
それが、誰も触れていないのに通路の奥へ向かって一台ゆっくり動いている。それに気づいた時はさすがに凍り付いた。死ぬほど怖くなった。
キー……。
ガタン。
こちらに背を向けていた車椅子は闇に消えていき、何かにぶつかるような音を立てて、止まる。しばらくすると、また車いすは戻ってくる。椅子の向きは変わり、こっちを向いていた。
絶対に誰かいる――!
そうとしか思えなかった。じゃあ、でもいったい誰がいる?こんなところで、誰が何をしている?
猫じゃなくて不良のたまり場?
だったらもっと周囲を明るくして、ついでに騒ぐなり歌うなり酒を飲むなりして盛り上がっていてもいいだろう。あっ、ひょっとすると車椅子が走っていった向こうは火とかが焚かれていて、明るいんじゃないか?
キー……。
こっちに向かってきた車椅子は廊下の端まで来ると、左右の車輪を逆に回転させて、勝手に方向転換する。また、僕に車椅子は背を向ける。背中を冷たい汗が伝う。
「落ち着け……落ち着け」
そんなことはきっとないと僕の頭が僕を諭す。
ここは絶対におかしい。
やばい。ここは危険だ。
ここにいても自分の人生に役立つことなんて何もない。
だから早くここから出ろ。
僕の頭は僕にそう告げている。
「落ち着け……」
どうしてそもそも僕はここに来たんだっけ。
なんでだ?なんでだ!
「ツバメヅカ……ツバメヅカ……」
猫だ。
そう、影みたいな変な猫の、そう、猫の影だ。それを追ってきたんだ。……追ったその先に中西もいるかもしれないって、そう思ったから。
「そうだ……ツバメヅカ……何言ってんだ。病院の名前なんてどうだっていい。中西だ……中西」
この先に中西が、いるかもしれない。もちろんいない可能性の方がはるかに高いけれど、いるかもしれない。いる気が……する!
タッ。
凍り付いていた僕はようやく一歩を踏み出す。物音を立てないよう、つまりなるべく散乱したガラス片やコンクリート片を踏まないよう気を付けて、車椅子が行ったり来たりする廊下に僕は足を踏み入れた。
キー……。
「……」
車椅子のすぐ後ろを歩く。車椅子はそんなことどうでもいいのかそれとも何か企んでいるのか。僕が現れてもさっきまでと同じ速度、同じ様子で走り続けている。けれど車椅子はやがて障害物の前でガタンとぶつかる。それは火災が起きた時のために設けられた防火シャッターだった。シャッターの真ん中に小さな扉はついているけれど、それを開けて通り抜けることは、脚のない車椅子にはできない相談らしかった。そこで車椅子はシャッターにぶつかると、あきらめたかのようにバックして、右と左の車輪の回転を逆にして方向転換し、また元来た道を引き返していく。僕は壁際に避け、車椅子が自分を通り過ぎるのを見送る。
何が起きてもおかしくないような状況に身を置いているせいで頭が少し変になったのかもしれないけれど、誰も座っていない車椅子に道を譲る自分が妙に滑稽に思えた。
「はは……」
けれどそのおかげで少し落ち着いた。防火シャッターに取り付けられている小さな扉は人の手であけることができた。
明けた先にはやはり闇が続いている。
僕は扉の先にそっと入っていく。
続く廊下もやはり割れた窓ガラスの破片が散乱していた。
引き裂かれたような白いカーテンが風もないのに生き物のようになびき、窓の内側に入ってきている。
「……あ」
蛍だ、と叫びそうになった。
ガラス片の上を、影猫を追ってきた時に見たような小さな蛍火が数えるほどだけど、足元を飛んでいる。いや、飛んでいた。蛍火たちはあっという間にいなくなってしまった。
「なんだろう、この病院……なんだっけ……っと、やばっ」
声が人知れず漏れていたことに気付き、慌てて口をふさぐ。
黙らなければいけない理由はないけれど、とにかく慌てて黙った。
また黙し、なるべく物音を立てないように歩き出す。
「……」
その時から、なぜか恐怖よりも焦りが僕の中に顔を出し始めた。何かに対してひどい苛立ちを覚えた。たぶん何かを思い出したいのに思い出せなくて苛立っている。けれどそれが何なのかやっぱり思い出せない。それで苛立っている。分からない。
「ふう」
落ち着け。余計なことは考えるな。今は、中西を探しに、僕は歩いている。そうだ。中西のことだけを考えろ。後はそう、余裕があるなら恐がっとけばいい。
「ふう~」
苛立つな。落ち着け……
「!」
物音が聞こえた。
今度はさっきの車椅子みたいな、規則的な音じゃない。そもそも質が違う。誰かが、動き回っているような音だ。
「……」
息をひそめる。
止まぬ足音らしき音で体が再び凍り付く。
今度こそ、誰かに遭遇する!?
誰にしても、こんなところで動き回っている奴なんて、僕を含めてまともじゃない。
中西がいるとすれば、中西はこんなところで何をしている?
動き回っている?
何のために?
こんな不気味な所で動き回って、何をしている?何を求めている?
半開きになった両開きの扉の隙間から覗き見る。
……。
……人が、いる。
人が、……あれはたぶん、人だ。
タッ。タンッ。
タンッ! タンッ。
踊っている。暗闇の中で、踊っている。
タンッ。 タタンッ!
「?」
足が……足に、火がついている。足跡が、赤く燃えている。
タタッ
タタッ タタッ。
ん?
燃えているんじゃない、のか?赤い煙が上がって、それが光って見える……?足から煙が出て……なんだ?
タターンッ。
要するに人がいる。その人は踊っている。
踊っているその人の足元からは赤い光が出ていて、その光が足跡のように、人が去った後、その場に残る。そのせいで、暗闇のはずの部屋がわずかに足元から赤く光っている。光が湯気のように立ち上って空間を底から灯している。まるで写真暗室をひっくり返して、赤い照明を限りなく落としたかのように。
「ちょっといいかな」
「!!!」
「いきなり言うのも何だけど、アレの邪魔をしたら君は死んじゃう。だから今すぐこの場から帰ろ」
突如、背後から女の子のささやく声に、口から心臓が飛び出しそうになる。あまりの驚きに何もできなかった。
「音を立てないで。声を出さないで。動かないで。そのままで話を聞いて」
けれど背後の声は僕の心境などお構いなしに続く。鳥肌が立つ。手に汗が浮く。
「アレは、君の見ていいものじゃない。もう、君の関わっていいものじゃない。だから今すぐここから消える。私と一緒にこの場から消える。いいよね?」
いいよねって……選択の余地があるのか?
「イエスかノーで答えて」
「……」
何を言えばいいのか困ったその時だった。
「……?」
匂いが、した。
「どうしたの?」
幽霊とか怪奇現象をテレビで見るとき、何が怖いか。
たぶん効果音や演出しか画面を見つめている方に伝わらないからだろう。もし傍にいるオバケに匂いがあったとしたら、その怖さはだいぶ紛れる気がする。腐臭がすれば嫌悪感が恐怖を幾分ぼかすだろうし、香水や油の匂いがすれば、人間としての生活感が恐怖をあるいは包んでくれるかもしれない。
要するに匂いだ。また僕を、匂いが包んだ。
けれど中西に香っていたあの匂いじゃない。もっと、人間臭い、そう、普通の女の子の匂いだ。けれどその普通の匂いに、僕の頭の中の「何か」が鋭く反応する。反応したのは良いけれど、太陽の光みたいに「何か」は僕が直視することを許さない。ただ火花のように僕の頭の中で弾けては、消えていく。
匂い……僕はこの匂いを知っている。
タンッ。
ドシュッ!!
「!?」
紫色の激しい光が突然、部屋の中に飛び込む。
流星のように飛び込んだそれは、足から赤い光を出して踊っていた誰かにぶつかった。
紫光に衝突されたその人は倒れるのを防いだ。けれどその体は紫に燃え始める。
部屋がもっと明るくなる。
「はじまっちゃった。しょうがない」
紫に燃え始める人の顔が見える。
踊り手の正体がまぎれもなく中西由美であることに気付いたとき、声を上げそうになる。
ガシッ!
そしてその瞬間、僕の後ろから手が伸びて、それが僕の首根っこを掴み、僕を部屋の入口から引きずり離した。
ガシャンッ!!
「うあああっ!?」
背中の方で窓ガラスが割れるような音がして、僕は窓の外に背中から飛び出していく。
もちろん自分の意思じゃない。
着陸後、切り離されていないパラシュートがまだ背中にくっついていて
それが突如風をいっぱいに孕み思い切り後ろに引っ張るような感じだった。
「よいしょっと」
ポスッ!
学校で習った柔道の受け身を取らないと!
走馬灯の代わりにそれを思い出して、必死に背中を丸めて両手で地面をはたこうと準備していた僕の肩と尻に何かがぶつかる。
「や。大丈夫だった?」
「はあ、はあ、はあ」
目の前に、人の顔がある。それでようやく事情が分かる。僕は、女の子の腕にお姫様抱っこされているらしい。
「手荒な真似してごめん」
「…………荻原?」
月明かりで青白く光っているけれど、僕を抱きかかえるその子が荻原時雨だということに僕は気づく。
荻原時雨。
私ね、今朝猫の手を食べてきたの――。
朝っぱらから突拍子もない作り話をいきなりしてクラスを今日も驚かせていた、あの、荻原。
クラスのほぼ中心にいる存在。誰からも好かれる、明るい奴。
「何してんだよ、こんなところで」
「君こそ、どうしてこんなところにいるのさ?」
ニコニコ笑みを浮かべながら荻原は僕を降ろす。
ガッ!
「あうっ!?」
直後、延髄に衝撃が走る。
脳が揺れる。電気を流されたかのように全身がしびれる。
まともに立っていられなくなって僕は地面膝をつく。
僕の意識を奪うためだろうか。
荻原がチョップしたことを遅れて理解する。それにしても、チョップしただけで、人はこんな状態に、なるのか?
「何、するんだ……」
訳が分からないことばかりだ。それが悔しい。気を失いたくない。体をひねり、尻もちをつく。体育座りを崩したような姿勢になった。けれど気を失って倒れるのだけは、何とか耐えた。荻原が何のつもりでこんなことをしてきたのか知らないけれど、こんなところで気を失ってたまるか。しばらくすれば、きっと、きっと、意識は回復する!
「突然だけど、ごめん。少し眠ってて。面倒な連中がたくさんいるみたいだから」
「はあ、はあ、はあ」
荻原の虹彩が、息が詰まるほどの紫の輝きを放っている。その瞳で病院の敷地全体をなめるように見まわしていた。
「う~ん……早くあっちは終わらせてこっちを手伝ってくれたりすると助かるんだけど……」
ドゴ―――ンッ!!
意識が朦朧としているせいか、どれだけ地面が揺れ、どれだけ巨大な音が轟こうと、別に驚きも何もなかった。
二メートルくらい離れて十六インチのテレビを見ているくらいの感覚しか、今の僕には働いていない。
些末なことは気づかないかもしれないけれど、その分おおよその事は見える気がする。
「ケホッ、ケホッ……大丈夫?」
窓枠のはまっていた壁を砕いて誰かが飛び出してくる。
荻原の目の前でそれは湯気みたいな、けれど紫色の煙をあげて止まる。荻原は手で煙を払いつつ、せき込みながら煙の塊に平然と声を掛ける。まるでこの程度のこと、驚くに値しないとでもいうような感じで。
「普通の菌屍ではなさそうだ。いや、むしろそれ以上の存在である気がした」
煙が収まる。凍るような夜気の中に残ったのは銀髪の、おそらく人間だった。
「同業者ってこと?」
立ち上がる銀髪の羽織るブレザーコートに憑いた土埃を荻原はパッパと左手で払いながら話しかける。
「いや、それとは少し違う。が、しかし菌屍とは明らかに異質の強さを備えている」
「「お姉さま」とは関係ないと?」
「分からない。彼女も一枚噛んでいる気はする。この状況を見ればそう判断せざる得まい」
銀髪は周囲の闇を見回してそう言う。そして自分が飛び出してきた暗い穴を向く。
「こちらに手を回す余裕はなさそうですな」
「そっちは、頼む」
銀髪の土埃を払った後、荻原は自分の手についた誇りをパンパンと払い、下唇をわずかに前に出して、息を顔に吹き上げる。シャンパン色の髪がちょっとだけなびく。指をパキパキならす。両手を離した時には、その右手に乗馬用のステッキのような棒が握られていた。まるで最初からそこにあったかのように、あるいは人知れず手のひらから生えたかのように、それはごく自然に荻原の手に握られていた。
「そんで?この子はどうするのさ?」
「すぐにでも逃がしてやりたかったが、難しそうだ。守りつつ戦うしかあるまい」
「へいへい、分かりましたよ」
青く光る瞳がまたこっちを見る。瞳が青光りしていることとステッキを握っていることを除けばどこにでもいそうな学生服姿の女子高生はニコリと僕を見てほほ笑む。
ササッ。 カサカサッ。
草が踏まれ、何かに擦れる音がする。
「エビュアッ!ティアイゴウフォッ!」
銀髪が飛び出してきた穴から聞こえる意味不明の叫び声。
「菌屍は任せたぞ」
「あいあい」
この会話の直後、二人が僕の目の前から消える。
遅れて小さく風が巻き起こる。凍てつくような夜の寒さを全身で感じながら意識の回復を待つ僕は、二人の軌跡を必死に探した。
けれど二人とも、どこにもいなかった。
ただ何か金属と金属がぶつかるような音と、骨の折れるような鈍い音、それから変な笑い声だけが周囲に響いていた。
笑い声はあの二人の声とは明らかに違う。そして笑い声は長く続かない。発せられたと思った次の瞬間には、もう同じ笑い声はしない。
それと異なるのは、
「アヴァルゾヌェ!!タレス!ニマジヌタ!」
銀髪が飛び出してきた穴の奥の中から響く怒声だった。何を言っているのか相変わらず不明だった。
けれど女が叫ぶようなこの声だけは絶えることがなかった。そして金属音は主にこっちの穴から響いていた。
たぶん、銀髪は穴に戻って、穴の中にいる何かと争っているんじゃないか。
「な……かにし」
穴の中で銀髪と交戦している可能性が一番高いのはおそらく中西だ。
「なか……にし」
中西じゃないことを祈る。祈るしか今は方法がない。
声の感じからして中西とは違うと思うけれど、こんな叫び声と普段の声じゃ、本人かどうか確認しようがない。
やっぱり中西なのかもしれない……。
「ない……そんなことない……」
だいぶ意識は回復して恐怖が少しずつ蘇ってきている。でも相変わらず体は思うように動かない。
動くのは寒さに震える顎くらいだ。歯がガタガタなる。まるで冷凍庫の中で氷漬けになってしまったかのように、体は動かない。くそっ!こんな時に!
ザサッ!
尻餅をつく僕の目の前に、誰かが立っている。見上げると、
「ケハ」
ボロボロの衣服を纏うそれは、口を開いて笑みをつくっていた。
目は、なかった。タールのような、原油のような黒い液体が眼球のない眼窩から溢れ、顔を伝い、僕の顔に滴り落ちる。その「雫」のあまりの冷たさに一瞬何もかも考えられなくなる。意識が一気に覚醒する。
「うああああああ!」
怖さのあまり、思わず叫んでしまう。そんなこと知ったことじゃないと言わんばかりに、黒い液体をこぼす化け物は両手を合わせて振り上げる。両手の先は目からこぼれるのと同じような液にまみれている。その拳で、殴り殺すつもりか!?
「?」
握り合わせた拳と、化け物の眼窩の黒い液体の表面が橙に光る。違う。何か強烈な光に照らされて表面が橙に光って見えただけらしい。
ゴアアッ!!
「うわ!?」
すさまじい熱を体の前面で感じた。すぐさま僕の体は後ろに吹き飛ばされる。
無理やり後転させられて体を草の上に起こした時には、僕の目の前にいたはずの化け物は火だるまになっている。必死に火を払おうともがいている。
カシャッ。
だけどカメラのシャッターを切るような音が鋭く響いた瞬間、その場で動かなくなった。時が止まっていないことは体を焦がす炎の動きが教えてくれる。
サ~……
たちまち化け物の体が燃えたまま崩れていく。代わりにそこに立っていたのは荻原だった。
ステッキの柄を右手に握っている。けれどステッキは、もうステッキと呼べる形をしていない。
ステッキの先は、まっすぐで細長い刃物の形をしている。ひょっとしたら最初から持っていたステッキは、一種の仕込み杖みたいなものだったのか?
そんな物騒なものどうして荻原が持っているんだ?
フッ。
すぐさま荻原は消える。あまりに速く動くせいで、今本当に荻原がそこにいたのか確信が持てなくなる。
あるいは全部夢なんじゃないか。本気でそう思いたくなる。けれどそうは思えない。顔の一点を中心に体中が冷たい。
顔の一点?思い出して僕は自分の顔に付着した黒い液体を袖で拭い取る。
不思議とそれだけで体の中の温度があがるような感じがした。
夢にしては、あまりに細かい。
現実にしては、あまりにふざけている。
「はあ、はあ……」
夢か現か考えても始まらない。そう諦め、深く呼吸をしつつ、事態の把握に努める。
化け物の燃える残骸が風に乗って周囲に散っていく。辺りはライトアップしたかのように明るくなる。
よく見ればあちこちで火だるまが出来て、それらが動きを止め、崩れ、舞い散っていた。
オレンジの闇と化したその中を、様々なシルエットが行き交う。けれどその主たちを目で追うことはやはりできない。
誰一人立ち止まらず、蠅のように動き続けている。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
その速さに絶望し、目を瞑る。
事態を把握したくても把握できない。となると何かを考えたくなる。
けれど何から考えていいのか分からない。何が起きているのか。今目の前にいたのは何だったのか。化け物なのか。
それとも人なのか。化け物だとして、荻原は化け物に何をしたのか。まさか斬って燃やしたのか。
どうなっているのか。これから僕はどうしたらいいのか。分からない。分からない。どうしよう。
何から解決していけばいい?
どの情報から処理していけばいい?
聞こえたこと?
見えたこと?
感じたこと?
どれを当てにして行動すればいい?
どうしよう。どうしたらいい!?
ズド―――ンッ!!
両手で顔を覆っている最中に轟音を耳にする。驚いて音のした方に目を向ける。病院の壁に再び大穴があけられている。混乱する僕の頭をさらに混乱させる事態が次々と展開していく。
「!」
けれど一瞬、僕の思考は全て停止する。
心の底からその光景に凍り付いた。
「中西!!」
壁が突き破られて生じたコンクリートの残骸の上に残ったのは、傷だらけの中西だった。
学生服のあちこちから、生木でも燃やしたかのような灰色の煙が細くたなびいている。
長い黒髪は乱れ、顔中汗と血と泥にまみれ、白目をむいて動かない。オレンジの闇はその一切をありのままに照らし出していた。
立ち上がって走り出そうとした。その時、
「エルディ!ヘローズァ!」
建物の中からしか聞こえなかった謎の声と共に銀髪男が転がるようにして、今できたばかりの穴から出て来る。
「ふんっ!」
銀髪男は一緒に出てきた何者かが振り回す斧を、両手に握る小さな刃物で受け止める。
それはフォールディングナイフのような形だった。
ガキンッ!!
斧の刃先を片方のナイフの刃先で受け止めるや否やもう片方の腕を引く。
そして相手の腹部にすさまじい速さの拳と蹴りを連続して見舞う。
ガガガガガガガガガガッ!
高速で突き入れられた打撃のせいで相手は斧を手にしたまま後ろに弾き飛ぶ。
ダッ!
ボシュンッ!!
けれどそのまま地面に叩きつけられる前に空中で一回転し、体勢を立て直し、空を蹴って銀髪男に迫る。
ズドンッ!
よく見れば“相手”は中西と同じく、うちの学校の女子の制服を着ていた。ただし、
不揃いの短髪の下、角が両眼窩から生え伸びている。
手に握っているとばかり思っていた二つの斧は、よく見れば腕の先と一体化していた。
どう見ても普通じゃない。
どう考えても普通じゃない。
文字通り「化け物」だった。
それを相手に、銀髪男は小さなナイフ二本を器用に使い戦っている。
刺したり斬ったりするためではなく、相手の斧を止めるためだけにナイフを使用している。
彼の方がどちらかと言えばやや有利に見えた。
「!?」
はっとする。そんなこと考えている場合じゃない。
中西!
中西は?大丈夫か!?
中西の元に走り出す。
けれど走り出した瞬間、すぐそばでまたさっきのオレンジ色の光と熱が発生する。砲弾が傍で落ちたかのように爆風が起こり、僕は横に吹き飛ばされてしまう。
「く……そ……」
シャッターのような鋭い音が聞こえ、まもなく周囲の明るさが元に戻る。
オレンジの闇。
明るくなるのは構わない。
どこに何があるのかはっきりするのはむしろありがたい。
けれど今は、邪魔だ。
光があがるのと同時に吹き飛ばされて、中西の傍に行けないじゃないか。
「は……かは……はぁ……」
吹き飛ばされたとき思い切り背中を地面に打ち付けたせいで呼吸がうまく、できない。
苦しいのを我慢しながら、ゆっくりと起き上がる。
起き上がって、中西を確認する。
白目をむいたまま、中西が瓦礫の上に立っている。
斧女と銀髪男がそのそばで戦っている。
中西?
ビクンッ!
中西が突然、体を大きく震わせる。
直後、痙攣のように体を小刻みに振るわせ始めた。
体をねじりつつ、胸をかきむしるようなしぐさを見せたかと思うと、ピタリと止まる。
白目をむいたままの中西はそして、歩き出す。
背を少しだけ丸めたまま、中西はフラフラと建物の中に消えていく。
後を追いたい!
だれど銀髪男と斧女の戦闘が僕と建物の間を邪魔して、とても近づけるような状況じゃない。
「!」
中西が建物に入ってすぐのことだった。
斧女の動きが突如ピタリと止まる。まるで電池の切れた玩具のように。
ザシュンッ!!
ドンッ!
動きを止めた斧女の両腕を銀髪男が素早くナイフだけで切断し、蹴り飛ばす。
斧腕を失った斧女はそのまま建物の闇にすっ飛んで消える。
穴の中までは炎の光は届かず、相変わらず何がどうなっているのかは分からなかった。
「ふう」
ナイフを持っていた銀髪男は軽く息を吐き、斧女が消えた方を見ている。
その間も、骨の折れる音や化け物の笑い声があちこちで響く。
けれど爆風もシャッターを切る音もさっき以降はしていない。
ひょっとしたら、あれらは僕を牽制するためのものだったのかもしれない。
そんな気がする。荻原か他の誰かが僕に動くなって言っているのか。
……ちくしょう。
ボッ!!
「!?」
突然、病院から赤い光が上がる。窓という窓、穴という穴から深紅の光が噴き出し闇を貫く。周囲の一切がまばゆく照らし出される。一体何だって言うんだ?
赤い光が徐々に弱まり、やがて斧女がたった今押し込まれた穴を残して再び黒に染まる。……斧女のいるはずの闇の奥は未だ赤い。
穴全体が赤い光に澱んでいる。
「私ノ夢ハ、震エテ巡ル」
穴の中から、聞き覚えのある声がする。声に合わせて、赤い光が……出てくる。
「中、西」
その姿に思わず僕は声を漏らした。中西だった。傷だらけになった全身の輪郭を、赤い光が周囲からその存在のみを切り取るかのように包んでいる。
目から赤い光があふれている。巨人の手が背中に生えたかと思うような、二枚の奇怪な赤光の翼が背にくっついている。
そして彼女の腕には、今銀髪男に両腕を切り落とされ蹴り飛ばされた斧女が抱えられていた。ちょうどついさっき荻原に僕が抱えられたように。
「コンナ所デ途切レハシナイ」
中西はそう言い、歯をむき出しにして笑う。背中で広がる光翼が中西とその腕に抱かれた斧女を包み込む。シェルターのようになる。あるいはつぼみのように。
「邪魔者ハ全員死ンデシマエ」
赤い「蕾」の周りに黒い雷が音を立てて走り始める。絶対に、近づいていい雰囲気じゃない。銀髪男もそれを感じているのかどうか。彼はナイフを握り直し身構えたまま、その場を動こうとしない。
バチバチバチヂヂヂヂヂ……チチ…… フア。
黒雷が止む。「蕾」が、翼のシェルターが開く。
ブワンッ!!
中がどうなっているのかを確認する前に、中から何かが猛烈な速度で飛び出し、銀髪男に襲いかかる。
シュパンッ!
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!
銀髪男と衝突した赤い光の正体は斧女の「腕」だった。
赤い光が腕の切断面から燃えるように立ち上り、それが伸びたり縮んだりして銀髪男のナイフとぶつかり合う。
ナイフは「腕」の炎を受けて赤熱しつつも攻撃を受け止め、敵の隙を逃さず「腕」を斬る。
斬られた斧女の「腕」は再び炎を吐きだし、斧頭と刃先の形をとる。何事もなかったかのようにそのまま戦闘が再開する。
斧女に殴られた大地や草は激しく燃え上がり、肉が焦げるような悪臭を放ち、赤く黒ずむ。
出来上がったばかりのクレーターの中には黒いタールのような液体がたまっていく。まるで地下から湧き上がってきて……
ガシッ!
「!?」
斧女と銀髪男の狂った戦いに夢中になっていた。
だからいきなり首を掴まれて、何が起きているのか一瞬分からなかった。
「ケハ」
首を掴む腕は紙のように白く細い。その先には黒髪。中西だった。
「中……西……」
首を掴まれ苦しくて物が言えないわけじゃない。
ただ、その「目」を見て、骨が凍るような恐怖を覚えて、最初、物が言えなかった。
見開いた眼窩には、目がなかった。
代わりに斧女が作っていくクレーターに満ちる黒い液体のようなドロドロが眼窩から溢れて、白い顔を垂れ流れていた。
口からも、鼻からも、耳からも。靴は長靴を履いたかのように液体に包まれていた。
そして長靴から神経のような筋が伸びて脚に絡みついたかのように、彼女の脛、膝、腿を黒く細い線が無数に走っている。
「ぐ……う……」
咽喉奥で呻きつつ、首にまかれた手を振りほどこうと必死に力を入れる。けれど中西の握力は尋常じゃなかった。
もうだめだ。
これだとマジで、死ぬかもしれない。
まさか、自分が中西に絞め殺されるなんて、考えてもみなかった。
ゴシュッ!
ドロドロを垂れ流して笑う中西の右胸に、銀線が突如刺さる。斧女が放射し続ける赤光を受けて妖しく光るそれが刃だと気づいたときには、中西の手の力が消えていた。
ドサ。
中西と一緒に、僕は横に倒れる。倒れた場所は中西が垂れ流していた黒い液体で水たまりのようになっていて、僕の右半身は黒い液体にまみれた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
「アボァ!デストムッ!!!」
斧女の「腕」が爆音をあげると同時に宙で巨大化する。まるで蝶の翅のようになった。
今までと同じようにかわそうとしていた銀髪男が「腕」の巨光にまきこまれてそのまま落下する。
動かない。
着地後こっちへ駆けてくる斧女を追いかける気配は微塵もない。
こっちへ?
「う、うわああああっ!」
身がすくむ。
恐怖と絶望のあまり目を閉じる。
瞼の裏が徐々に赤くなるのを感じる!
斧女との距離が徐々に縮まっている!
全身が熱い!
間違いなく、殺される!
ドンッ!
斧女の赤い光が僕にぶつかった?……いや、そんな気がした。
そう、そんな気がしただけだった。
「はあ、はあ、はあ……」
熱さは突如去り、瞼の裏は急に暗さを取り戻す。目を開く。
「あれ?」
そこには斧女の影も形もなかった。
周囲には鼻の曲がるような腐臭だけが残る。
荒々しい窪みにあふれていた黒いドロドロはゆっくりと地中に浸み込んでその量を減らしていた。
「フェナカイト!しっかりしてっ!」
遠くで声がする。その声を聞きながら、僕は僕の傍にいるはずの人を探す。けれど、僕の隣に倒れたはずの中西はいない。
中西に突き刺さった刃物もない。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
そもそも、斧女は僕を殺さなかった。
どうして?
たぶん、僕を殺すよりもっと優先すべきことがあったからだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
もしかして斧女が中西を連れて行った?
でも何のために?
知り合い?
じゃあいったい、斧女って誰なんだ?
「フェナカイト……うっ、ううっ……」
大地の腐臭が止まない闇夜に、嗚咽が響く。
誰の嗚咽?
……。
そうか……この声は、荻原か。
そうだ。
そう言えばあいつ、ここにいたんだ。
でもどうしてだろう。どうしてこんなところにいるんだ?
それに、ただ“いた”わけじゃない。
何か……“この場”になじんでた。
この場。
殺したり、燃えたり、殴ったり、蹴飛ばしたり、斬りおとしたりしたり、飛び跳ねたりして、この場所になじんでた。まるでそんなの日常の延長に過ぎないかのように。
「……はは」
これって、ひょっとして夢か?
そうだ。きっと、これは夢だ。
こんなこと、そもそもあるはずない。
手首に斧頭を生やした女子高生や、ナイフでそいつと争う銀髪や、あんな爆発、ドロドロにまみれた中西……現実のはずなんてない。
ザッ。
「はは……」
そして夢の最後、中西が僕の首を絞め、そして彼女の胸に刃物が刺さった。
あの刃物、確か少し前に見たな……ああ、柄が、あれだ。
荻原が持っていたステッキにそっくりだった。
そうか。じゃあ荻原が投げたんだ。きっとそうだ。
あれ、本当にソードステッキだったんだな。
冗談抜きで、本物だったのか。……それで、中西の胸に命中した。
それで、あの角の生えた、斧女が、えっと、あの時にはもう「斧」っていう規模じゃなかった。
いや、正直よく覚えていない。
じゃあとにかく“角女”だ。
角はずっと最初から生えていたんだから角女だ。
とにかく角女が怒って……そうだ、あれは荻原のソードステッキが中西に刺さったのを見て逆上したんだ。そうだ。きっとそうだ。
理由は知らないが角女は怒って僕の方に走ってきて、中西を連れてどこかへ行った。
そうだろう、荻原?
どうなんだ?
「?」
思えば思われる、じゃないけれど、その荻原がこっちを見ていた。
何をそんなにまじまじと見てるんだ?
僕の顔、そんなに変か?
……あれ、そう言えば、なんでこんなことを僕は考え始めたんだっけ?
さっき、喉を潰されそうになったから?
違う。なんだっけ?
えっと、夢だ。とにかくこれは夢で……あ~訳が分からない。
とにかく、疲れた。
なあ、荻原。こっちまで来たんだから、そんな突っ立っていないで、何か言ってくれよ。
お前本当に朝猫の手食べてきたの?
冗談だよな?
本当だったら、ドン引きするよ、みんな。
「はは……」
どうしよう。
何から聞けばいいんだろう。
あれ、目の色が青くなくなっている。
ピカピカ光ってきれいだったのに。
「フェナカイト……。あなたの意思を尊重する。この子は私が守るよ」
やっとしゃがんだ。
また抱っこされるのか?
そう言えばさっき抱っこされたな。ああ、それは勘弁だ。
この年でそれはちょっと恥ずかしい。
立場が逆なら歓迎しなくもないけど。
「……影なる傲慢に未来を与うなかれ。
燃尽されんとする夢を打壊する翼矢に、生きた音を捧げよ。不動のごとき無為に……」
キキ……キーン……ジ。
「!」
頭に微かな痛みを感じる。
?
ん?ちょっと待てよ。
荻原?
荻原時雨?
そんな奴、去年までクラスにいたっけ?
いた……ような気がする。
そうか、ほかのクラスだ。きっと。
「鞘となりし翅に汝の骨を仕舞う。汝の皮膚と汝の肉は天井より堕ちし刃に刻まれ、故に魂を透かさん」
ジ……ザザッ。
??
荻原?
時雨?
そもそも、それって、誰だ?
クラスメイト?
同級生?
いや、昨日までだって、クラスにそんな奴いたか?
ちょっと、待って。あれ?
???
ここは、どこだ?
何だ?
何が、起きてる?
なんで僕は地面に座っている?
ついでになんで体が動かない?
なんで?
なんで?なんで?
なんで?なんで?なんで?
なんで?なんで?なんで?なんで?
「轍の続きし先の墓に血の真珠よ、滴れ。絶望の夕暮れに愛の果てし冬の風が吹きすさぶ。手摺に持たれ、一切はその記憶を失う」
????
?????
????
……ビシッ!
痛い。目が痛い。
痛い。痛い。痛い。何か、痛い。
目が痛い。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
なんで痛い?
猫?
黒い、影?
猫の影?
「はあ、はあ、はあ……」
痛い。目が痛い。
何だ?
蛍?蛍火?
光?
痛い。目が痛い。
荻原?猫?影?
「ここでの一切は忘れて。お休み」
痛みが噴き出る。目が、痛い。
「そしてさようなら。古き友よ」
目が……イタ、イ……
祈りの果て 呪いの果て(一)
「サカタ教授?」
「え?」
「どうなされたんですか?」
「どうなされたって?あっ、いえ……なんでもないですよ」
自分の研究室に所属する学生に声を掛けられて我に返る。
他の学生もみな私の方を見ている。
しまった。
どうやらまた、考え事に没頭していたらしい。
「すみません。え~、それでどこまで私は話しましたっけ?」
少しずれ落ちた眼鏡をかけなおして学生に質問する。
「ノーガクゴリュウについて、今お話しされていたんですよ。
それで「ここまでの話で質問はないか」と言って黙られたんです」
「能楽五流……ああ、そうですか。そうでしたね。すみません。では続けましょう。
次は、狂言についてです。
狂言というのは言ってみれば風刺的な喜劇で、
鬼山伏物、聟女物、大名物、小名物、脇狂言などに分類され……」
日本芸術についてヨーロッパ人に講義をしながら、私の思考はまた、とある舞踏譜に飛ぶ。それはもともと音楽家だった男によって描かれたという。
「室町時代の口語でそれらは語られ……」
音楽家の名はフェナカイト。
舞踏譜を描いた音楽家は人間としての死を迎えた後、別の「形」、
つまり魔法使いとしてこの世に留まり、望む者に望む力を与えて代償を支払わせるという興味深い余生を送っているらしい。
そして私は魔法使いとして復活したフェナカイトの用いている「舞踏譜」という一種の禁術の研究を行っている。
が、進展はさほどない。研究し始めてどれほどの歳月が流れただろう?
トイレで手を洗う際、鏡を覗きこむたびに皺の増えた自分の顔を見てため息をつく。
フェナカイトに会ったら舞踏譜を知りたいので長生きさせてくださいと言って舞踏譜を借りたいものだ。
ふふ、落語ではないのだから、そうはいくまい。
「教授。先ほど話されていたノウについて少し質問があるのですけれど、よろしいですか?」
あの禁術のシステムを説明できる方程式は何なのだろう?
「能についてですか?どうぞ」
アスラファトの収束関数?ラストロッドの囚陣方程式?
違う。
どちらも今まで百回以上は検証したはずだ。
できない。どいつもこいつもあの魔法系統を満足に説明しきれない。
何なのだ、あれは?どうやってあの音楽家は構築したのだ?
「四番目能とおっしゃられた狂物について、教授はお話しなさらなかったと思いますが?」
まだ目を通していない理論はあったか?
そんなはずはない。いや、待てよ……ミッケルの鏡鳴理論はどうだ?
最近修正発表されたらしいが。そう言えばクロノイオンの分子制御をやっている研究者がいたはずだ。
誰だったか。
ああ、あの喧しい女研究者だ。
五月蠅いが頭の切れる……あいつは最近論文を追加発表したらしいな。
気になるからもう一度検証してみるか……
「四番目能を?本当ですか。それは失礼しました」
カーンッ、カーンッ、
カーンッ、カーンッ……。
「おや、時計の鐘が鳴ってしまいましたね。もうこんな時間ですか。申し訳ありませんフェビエンヌさん。質問は次のゼミでお答えします」
早く帰れ。
「教授、今日はどうもありがどうございました」
早く帰れ。
礼は結構。こっちは君たちの学費で飯を食っている。
「教授、先週出されたレポートの提出期限の事で相談があるのですが」
早く帰れ。期限が守れないなら留年してしまえ。
「教授、お先に失礼します」
早く帰れ。飛んで帰れ。
「論文のテーマに近松門左衛門の世話物を取り上げようと……」
早く帰れ。だったらそのテーマにそって論文を書けばいい。いちいち断るな。
「教授、舞台上のシテとワキの立ち位置で聞きたいことが」
早く帰れ。自分で図書館を使って調べろ。他人の書いた論文を読め。大学生だろう。
「申し訳ありません。私はこれから人と会う約束がありまして、みなさんの質問に答えている暇がちょっとないのです」
「分かりました。それでは教授、お先に失礼します」
「はい。みなさんさようなら」
学生を研究室から追い出す。私は早速自分の部屋に戻り、部屋のカギを閉める。これで誰も入ってこられないだろう。ついでに窓の特殊ブラインドもおろし、外からの光と音が一切入らないようにする。今日は職員会議も先約もないから電話がかかってくる確率は低いとは思うが、万一に備えて電話線も抜く。
研究の邪魔をされるのはまっぴらだ。
「ふう~」
腕時計を見る。
六時を指している。午後六時だ。まったく。
いくら世間に溶け込んで生活する必要があるとはいえ、子ども相手のこの職は正直私としてはつらい。
研究にいそしむ時間が本当に取れない。
まあ、ベビーシッターをやっている同業者もいると聞けば、まだ私はマシなのかもしれない。
赤ん坊が泣きだしたら私は迷わずそこから立ち去ってしまうだろうから。
「泣く子と魔法協会には勝てないよ~っと……さて」
本棚から一冊本を取り出し、机の上に置いて開く。
学生がネットにアクセスするように、私もこうして“ネット”にアクセスする。
もちろんミッケルとクロノイオンが目当てだ。
「命ずる。光糸を咥えし黒き翼の主、鴉よ。
汝の糸を薄闇に沈む我が脳髄に結べ」
いつも通り、開いた本の上に青い魔方陣が浮き、いつも通り青い光が陣の中心から魚が泳ぐようにして飛び出してくる。
それが空中の一カ所に集まり、ソフトボール大の球形を作る。
「よっこいしょ」
電気ポットに入っているお湯でインスタントコーヒーを作り、砂糖とミルクをたっぷり入れ、机に戻る。腕時計を腕から外し、引き出しに入れる。安い回転いすに腰を降ろす頃には、球体の周りに二つの円盤が回っている。リンクが出来る状態になったことを知らせる合図だ。
「どれどれ、今日中に理解できるかな」
コーヒーを啜りながら、ミッケルとクロノイオンについて私は調べ始めた。
何度かトイレに立ち、何度かコーヒーを淹れ、何度もアクセスを繰り返し、論文に目を通し、自分でも検証を試みる。
「……艫綱を解かれた燈火よ、黙劇は終わった。時の凝りを今ここで解消する」
青い球を消す。本を閉じて“ネット”を終える。とりあえず一息つく。
インスタントコーヒーを飲みに私はまた席を立つ。
ところがインスタントコーヒーは既になかった。
そんなはずはない。
なぜなら朝買ったばかりだ。全部飲んでしまったというのか?
もうそんなに時間が経った?
しかもミルクも砂糖もないのはなぜだ?
悪魔の仕業か?
引き出しから腕時計を取り出し、時間を確認する。
七時を指している。待てよ?学生を研究室から追っ払ったのが六時だったはずだ。
まだ一時間しか経って……
「ひょっとして」
やってしまったか、と思いブラインドをおそるおそる開ける。
「うおっ」
朝日がまぶしく差し込んでくる。
どうやら想像通り、私は半日近くの間にコーヒーとミルクと砂糖を全部胃の腑に取り込んでしまったらしい。悪魔の正体は私だったか。
「は~、参ったな」
ミッケルの鏡鳴理論でもやはりフェナカイトの魔法系統は説明が十分につかない。そのことについては分かった。
無論ミッケルもあの禁術の仕組みを説明するために理論を拵えたわけではない。応用できるかと期待していた私が甘かっただけだ。
だからしょうがない。クロノイオンの分子制御については、あれはちょっと違う。
正しい、正しくないどうこうの問題ではないと悟った。畑違いだった。
「はあ~」
結局昨日までとたいして変わらない。そしてまたあの学生たちを相手に半日を私は過ごさなくてはならない。
死ぬほど眠くなってきた私は眼鏡を外し、顔を両手で何度もこする。
「まるで拷問だ」
ぼやきながら、時間を知らせる嫌な奴を私は腕に巻き直し、最重要任務であるコーヒーと砂糖とミルクの買い出しに外出し、その後、午前九時から始まる授業に備えて朝食を摂った。
「!」
教室に入った瞬間だった。かすかだが違和感を覚える。
「ミニレポート用紙を配るので、学籍番号と名前と所属を書いて、授業後、この教壇にレポートを提出してから帰ってください」
六十人前後が収まる教室で私はA6サイズの再生紙を配りながら、気配の原因を探る。
ちなみに私は他の熱心な教授連中とは違い、面倒くさいレポートを学生に対して滅多に出さない。理由はただ一つ、彼らの不出来なレポートに煩わされる時間が嫌だったからだ。そのおかげで私の授業は人気があった。そして授業を受けた学生たちの書いた大量のミニレポートを「採点」するのは私の研究室の学生たちの仕事だった。研究室の学生たちはこの「労働」の中で卒業論文のテーマや論文に必要なアイデアをちゃっかり手に入れ、あるいは盗用しているらしいが、そんなことは私にとってどうでもいいことだった。
「……」
いた。さっそく一人、妖しい人物を発見する。
それは暗い褐色の、タートルネックのセーターを着た女だった。首からは安物を装う“仕込み”のついたアクセサリーがぶら下がっている。おそらく教室内を覆う魔の気配はあの首飾りから出ているんだろう。
同業者の匂いがプンプンする。
どういうつもりだ?
何しに来たのだ?
というよりそもそも誰だ?
見覚えのない顔だ。
「紙は各自いきわたりましたか?それでは授業を始めます」
タートルネックのセーター。
真っ青のジーンズ。
ブロンドで内向きのセミロング。
その魔法使いが一体自分に何のようかと思いながら、
私は念のためポケットの中の私の“仕込み”がいざという時に反応するかをポケットに手を突っ込みながらチェックしつつ、
東洋の文明を上辺でしか知らない学生たちのために仏教史を講義し始めた。
授業は何事もなく終わった。
学生たちの四分の一は居眠りをして授業など聞いていなかったが、
今日の私にとってはそれよりもセミロングが何を企んでいるかの方が重要だったのでさして気に留めなかった。
「次回は道元の拓いた曹洞宗と彼の著作『正法眼蔵』について講義します。
じゃあ、板書した課題について答えてから、その下に授業の感想とコメントを記入して前に出してください」
終業を知らせる鐘が鳴る頃には、ほぼすべての生徒がミニレポートを提出して去って行った。
「こんにちは」
ただ一人を除いて。
「こんにちは」
私とセミロングしか今、教室にはいない。そしてセミロングがこっちにやってきた。私は「こんにちは」と答えつつ、両手をポケットに突っ込む。
「警戒しないでください。サカタ教授。それともレグラス・エア・フォトンと呼びましょうか?」
「……」
作家が本名の代わりに筆名を使うように、我々魔法使いも魔を扱う者としての言霊を隠して、世間では世間に通用するような名前を用いて生きている。
私の場合は生まれが日本であるから、父の苗字と授けられた名を使い、世間では「坂田耕平」と名乗っている。いや、この考え方は少々妙だな。
そもそも私の苗字は坂田で名は耕平だ。だが魔道の探究者となってからレグラス・エア・フォトンという名を協会から頂戴した。けれど世間で生きる上ではサカタコウヘイで通している。それだけのことだ。
だが問題はそんなことではない。問題は同業者が今目の前で「自分は同業者です」と宣言してきたということだ。しかも自分の名は名乗りもせず。……やりあう気か?本気で?
「申し遅れました。私はロー・アトロポス・クロスカラ。後で協会の方で照合していただいて結構です。先ほどのご無礼はお許しください」
そう言ってセミロングは首飾りに手を振れる。魔の気配が一気に消える。セミロングはそのまま首飾りを外し、ポケットにしまう。
「それで、どのようなご用件で」
まだ相手が何者かなど分からない。信用できない。警戒は怠れない。
「あなたはフェナカイト研究の第一人者でいらっしゃいますよね」
「……まあ、第一人者かどうかはわかりませんが、研究をしていることは確かです」
「それでお話があって伺った。それだけです。
ですからポケットの中のスリングで私を殴ったりしないでください」
「……」
見破ってやがった。
“仕込み”を使う前に“仕込み”を見破られたのは初めてだ。こいつ……。
「……分かりました。立ち話もなんですから、研究室の方へどうぞ」
「ほほ。信用されていないようですね」
「そういうつもりで誘ったわけではありません。何せこのような話題は」
「ほほ。そうですね。そういうことにしておきます」
「ところでミニレポートは出しましたか?」
「まあ、ほほほ」
私の冗談に対し、幼さの残る顔でセミロングは口に手を当て、頬を緩ませる。油断か、余裕か。そしてその幼さの裏で、私の“仕込み”の正体まで見破っている。ますます何者なのか分からない。私は膝が震えるのを必死にこらえた。
私はセミロングを自分の研究室の部屋に通す。ここは言ってみれば私の“城”だ。ここでなら大抵の術は防げる。「武器」もある。五分五分とまで行くかどうかは分からないが、何とかなるだろう。
「それで、フェナカイトに関する話とは?」
私はセミロングを接客用のソファーに座らせ、私自身はいつもの椅子に座りつつ、要件を尋ねた。
「フェナカイトリストのことです」
「?」
「たぶん伝承についてはあなたの方が詳しいかと思いますが、彼は人間だったころ、王に追われ、そして殺されました。彼を追う兵隊はあらかじめ、フェナカイトを殺した証拠に彼の心臓を持ち帰るよう王に言われていましたが、哀れに思った兵隊は代わりにフェナカイトの両手を切り取って王の元へ持ち帰った、という話はご存じでしょうか」
「正確には王ではなく王妃だ。それから持ち帰るように言われていたのは王妃の息子だ」
「そうでしたか。私もあなたと同様、フェナカイト研究を行う者ですが、まだ研究を始めたばかりで詳しいことはよく知らなかったので、勉強になりました」
「……話を続けて下さい」
「はい。実は、その切り落とされたフェナカイトリスト、つまりフェナカイトの生前の“一部”というのものが、見つかりました」
「本当ですか!?」
「え……あの」
「失礼。つい取り乱してしまいました」
「いいえ。驚くのも無理はありません。発見者はあなたの目の前にいますから」
「!!」
「まだ、公表していません。公表すれば協会が即私から「手首」を取り上げるでしょう」
「やはり伝承通り手首の形をしていたのですか?」
その質問に対し、セミロングはコクリと頷いた。
「「手首」を協会に献上すれば私は褒賞を与えられ、でもそれで終わりです。「手首」の研究に携わろうとしても、まず絶対に無理です。まだ信頼がありませんから。ですがそれは不本意というものです」
「確かに、無論無理でしょうね。いや、あなただからというよりも、協会の幹部クラスの人間でないとすぐには。無論私でも難しいと思います。下手をすれば三十年は公開されないでしょう」
「それで、どうしたらいいものか、フェナカイト研究の第一人者であるあなたの元へ相談に伺いました」
「……」
「サカタ教授?」
「あなたが、研究したらいい」
「え?」
「発見者はあなただ。だったら協会に教えず、あなたがこっそり研究すればいい。不義と言われようと何だろうと真実を突きとめるのが研究者。違いますか?」
もちろんこんな台詞を正気で言えるはずなんてない。しどろもどろするセミロングの様子から私はセミロングがどういう反応に出るかなど予測できていた。この娘は潜在的な力はあるが、それだけだ。研究者としてはまだ半人前だ。
「研究」が競争だということを心の底から分かっていない。
分かっていたら聖遺物以上の発見をわざわざ同業者に漏らしたりなんか絶対にしない。
「ですが、その……やはり私が所持するよりも、私よりフェナカイトにお詳しいあなたが所持し、調べた方がより早く、そしてより正確に、解明が行われるような気がします」
「あなたは研究者でしょう?そんな心意気でどうするんですか?」
本当は喉から手が出るほど欲しかった。が、その気持ちを押さえつけ、私は膝を激しく震わせながら必死に芝居を続けた。
「すいません」
「まあ、いいです。お譲りしていただけるなら、私としてはこれ以上の喜びはありません」
「そうですか?」
セミロングが目をキラキラと輝かせてこっちを見ている。馬鹿な奴だ。
「ええ。確かに私の方が少しフェナカイトに関しては明るいかもしれません。ですからそのフェナカイトリスト、引き受けましょう」
「ありがとうございます。本当に申し訳ありません。正直私には荷の重いことでしたので、内心ホッとしました」
「ははは。ところで、フェナカイトリストはどこで発見したのですか?」
「とある貴族の屋敷を調査している際に、ミイラ状態になった“手首”の治められた木筐を見つけました」
「ふむ。それで、貴族の名は何と言うのですか?」
私は震える手でメモを取りながら、叫びだしたい衝動を必死にこらえた。
僥倖!
まさに僥倖!
これで私の研究は飛躍的に進展するはずだ。
何せ本人の体の一部が手に入るのだ。
しかも生前の一部だ!
あの音楽家がいかにして人間から禁術も扱えるような怪物に変身したのか、これで分かるに違いない。
私はセミロングにフェナカイトリストの保管する貸金庫の住所と暗証番号を聞き、ついでに暗証番号を読み込むための電子キーを受け取った。
その後セミロングは私の部屋から去って行った。
「うはははははははは!やった!やったぞ!!」
セミロングがいなくなった後、まだ何もやってはいないのに私はそんなことを叫びながら部屋の中を一人、踊りまわっていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
一年経った。
あのセミロングと出会って別れてから一年経ち、私は今プラハの夜の街を走っている。
つまり逃げ回っている。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
思い返せばあれから私の人生は劇的なものに変質した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
セミロングから話を聞いたあの後、私は貸金庫に赴き、電子キーを入れ暗証番号を入力し、魔法使いのミイラ化した両手首を手にした。そこまでは別に問題はなかった。
けれど研究はなかなか進まなかった。
いや、まったく進まなかったわけではない。
その辺に転がっている同業者からみれば驚くような術をいくつか体得することには成功した。けれどそれで満足できるなら、最初からフェナカイト研究など行ったりはしない。
あの魔法使いは魂を代償にさえすれば踊りを踊るだけで大抵の願いを叶えさせることができる。魔法の心得も何もない素人で、だ。
それはこの世の摂理そのものへの干渉を意味する。
そんなことが許されるなんて、怪物も甚だしい。
私のその域に達したい。しかし、いまだに届かない。これが、私の現状だ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
そんな矢先のことだった。
「見ぃつけた」
「くそっ!」
“死神”が甦ったのは。
ブオンッ!!
「総身を経巡る不滅の烈火よ!我が手に集え!鏃の如く飛びて敵を滅せよ!」
頭を叩き割ろうとする「死神」の拳を躱し、身をひるがえして両手を伸ばし、私は術を発動する。この一年の間に身につけた新技だ。豪壮な青緑の稲妻は触れさえすれば感電と発火をもたらす。触れさえすれば。
バチヂッ!
バチバチバチバチッ!!
「はあっ、はあっ、はあっ……!?」
「遅すぎて眠い」
マナカと呼ばれる「死神」が、今から七年前、ヨーロッパ全土を震撼させた。「死神」の正体を暴き、始末したのは私が追い求める伝説、つまりフェナカイトだった。
フェナカイトはマナカという日本人留学生が魔のウィルスをばらまいていることをいち早く突きとめ、そして殺したという。協会には少なくともそういう報告があがっていた。
けれど肝心の「死神」の死体は協会の元に届かなかった。「跡形もなく消し去った」というのがフェナカイトの報告だったらしい。
ブオンッ!
「死神」の蹴りが赤黒い光を帯びて襲い掛かる。術を発動するために伸ばしていた腕でそれを止めた瞬間、左腕の尺骨に鈍い音が走る。激痛が走る。折れたらしい。
「ぐあっ!ぬううっ!!」
バチバチバチバチバチバチバチッ!!
ボアッ!!!
「くたばれっ!!」
「……」
私の稲妻に触れ発火した「死神」が火だるまになる。別段苦しそうな様子を見せることもなく、「死神」はそのままその場から去る。
たぶん、撃退した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
「跡形もなく消し去った」はずの「死神」がこうして目の前に現れては、私に襲いかかる。理由は分からない。とにかく「死神」が復活したらしいと協会から通告を受けてまもなく、私は「死神」からたびたび襲撃を受けるようになった。私としては協会に助けを求めたいけれど、私には身辺を調べられたくない事情というものがある。無論フェナカイトリストだ。
「……」
やはり、フェナカイトリストを「死神」は追っているのだろうか。
その可能性は否定できない。
何せあの手を入手してから「死神」は私を襲うようになったのだから。
元々私が「死神」に恨まれたり狙われたりする理由はないはずだ。
となるとフェナカイトリストと「死神」の間に関係があると考えるのがやはり、普通だろう。
「フェナカイトに、会いに行くしかないか」
スイスでせっかく手に入れた大学教授という職を捨て、生きるのに毎日必死になっている私は常にそのことを考えていた。
そう、人間をやめ、人形のような入れ物に魂を宿して甦ったと聞くフェナカイトに直を訪ねるのだ。
そして尋ねようと思っている。
フェナカイト自身とあの「死神」にどういう関係があるのかを。
「果たして、答えてくれるだろうか」
そもそも会えるかどうか。
会えたとして答えてくれるだろうか。
答えてくれたとして……「手首」のことは最後まで黙っていよう。
どうしても話さなければならない状況に追い詰められるか、あるいは「手首」を「死神」が探しているのならば潔く手放そう。
死ぬほどに惜しいが、やはり命には代えられない
……などと自分に都合のいいように事態が進展してくれることを考えつつ、私は周囲の警戒を続ける。
油断している隙に、炎に巻かれて一旦いなくなったはずの「死神」がまた現れるかもしれないから。
「とりあえず、話をしてみるか」
このままでは拉致が明かない。
倒したと思っても「死神」は現れる。
つまり私一人の力では「死神」を斃すことはできない。
決心のついた私は「死神」に居場所の割れた職場の大学でも自宅でもない、魔法研究のための隠れ家に赴き、急ぎ旅支度をした。
フェナカイトに会うということは、恐ろしいことに海を渡ることを意味する。
フェナカイトはなぜか「死神」殺害後、海を渡り極東の島国、つまり私の生まれ故郷と同じ日本に住み着いた。
理由は本人以外誰も知らない。
「海……か」
海水は我々のような存在にとっては非常に危険だ。
触れると力を奪われる。潮風すら危ない。
ましては海に落ちたらそのまま精神が壊れる。
自殺志願者の同業者でもない限り海水浴へはまず行かない。
行けばそのまま病院に搬送され、二度と自分の足で立って出てこられなくなるだろう。
フェナカイトリストとトラベルケースを持ち、私は極東の島国に渡る。
私の故郷に帰る。
飛び出してから何年経つか知れない。
二十年は少なくとも経っている。もっともそんなことは今どうでもいいことだ。
問題は飛行機が落ちないという保証などないこと、ファーストクラスのコーヒーが苦過ぎること、
機内に「死神」がいるかもしれないということ、そしてフェナカイトが日本のどこにいるか誰にもわからないということだった。
「神よ、どうか我を守りたまえ」
思いつく限りの神に向かって私は祈った。
思えば祈ったのは魔法使いになろうと思って故郷を飛び出した時以来だ。
魔法使いのせいに情けない。
魔法使いは祈る存在ではなく呪う存在だ。
故に祈りの果てに何かを見ることはない。
我々は呪いの果てに真理を見る……と言われている。
長時間のフライトの末、無事飛行機は日本に着陸する。
二十数年ぶりに見た故郷は見違えるほど進歩していた。
しかし今はそんな感慨にふけっている場合じゃない。
さっそく私は“ネット”で、この国で働いている同業者の知人に連絡を取った。
彼は協会の支部で働いていたが、私が入国したことは当分本部には伏せておいてもらおう。
協会支部で働いている知人も、フェナカイトの居場所については知るところがなかった。
「誰も知らないよ。
居場所を知っていたら本国から部隊を送り込んで是が非でも強制送還する」と改めて言われるハメになった。
まあそうだろう。
「死神」について嘘の報告を入れた罪は重い。
といってもあの当時、「死神」の傍に近づける人類なんてフェナカイト以外にいなかったと思うが、
そんなことを斟酌してくれるような組織ではないな、協会は。
私は次に情報屋を当たった。
どこの業界でもこういう者はいる。
けれど情報屋もまたフェナカイトの居場所までは分からなかった。
参った。
本当に参った。
そうやって日を送るうちに有り金も徐々に少なくなりつつあった。
こうなったら働きながら自分の足で探し回るしかないか。
「あら」
「あっ、あなたは……」
入国して一週間ほど経った日のこと。私は喫茶店で企業の求人情報を読んでいた。そこへ、あの一年前に出会ったセミロングに再開した。
「どうしたのですか、こんな所で」
「あ、それは、その……」
思えばそれは私の台詞だった。なぜこの小娘はこんなところにいる?
「私は避難してきました。協会から敵前逃亡って言われればそれまでですけれど」
セミロングは避難という言葉を使った。
「避難?」
「ええ、知っていると思いますが、今あちらは荒れていますから」
「死神」のことか。
「そうですね。いや、ほんとにもう酷いです。死ぬほど酷いですよ」
私は自分でも驚くほど感情を込めて伝えた。
「よくご存じのようですね」
「まあ、そうですね」
この苦労はお前になど絶対に分からないだろうがな。
「ところで、研究の方はどうですか?」
セミロングはここで、我々の間では当然持ちあがるはずの話題について触れてきた。
「いえ、ですから研究どころではないんですよ。あの怪物がヨーロッパを跋扈するせいで」
「そうですか、それは大変でしたね。あっ、ということはあなたも海を越えて避難してきたということですか?」
そう言えば私は私がここに来た理由をセミロングに話していなかった。
「敵前逃亡と言えば確かに私も敵前逃亡ですね。けれど目的は避難とは別にあります」
「まあ。一体何でしょう、それは」
「フェナカイトに会いたい」
「え?
会いたいって、会ってどうなされるおつもりですか?」
「実はここだけの話ですが……」
私は「死神」が自分を執拗に追ってくることをセミロングに話して聞かせた。セミロングは真剣な表情で私の話に耳を傾けていた。
「ひょっとすると、フェナカイトはマナカを殺さずどこかに封印したのではないでしょうか?」
私が話し終わった時、セミロングが言った。
「封印?」
「ええ。理由は分からないですけれど、それで誰かが封印を解いた。本人か、外部の者か。もしくは勝手に封印が解けた。とにかく、それでマナカが活動を再開した。マナカはもともと人だったはずです。それがあれほどの力を持っているということは、中に何かが宿っていると考えて間違いないと思います。そしてそれはおそらく、フェナカイトと関係の深い何かではないでしょうか?」
「……だから「手首」を追ってくる、と?」
「そうだとすれば合点がいきませんか?手首は当のフェナカイトが人間だった頃を象徴する最後の肉片。その気配を何かしらの方法で辿って、マナカに宿る「何か」が追いかけてくる。目的は、フェナカイトへの復讐ですか?」
「なぜそこまでわかるんです?」
「いえ、目的が復讐かどうかと、私があなたに尋ねたんですが」
「ああ、それは失礼しました」
セミロングは一年会わない間に随分鋭くなったなと私はすっかり感心して聞き入っていた。
「で、フェナカイトの居場所なんですが、心当たりはありませんか?」
「私に、ですか?残念ですけれどちょっと」
「そうか……そうですよね」
当たり前だと思い、黙った。そのうちに腹が減ってきたので、私とセミロングは喫茶店を出てレストランに入り直した。面白い考察を聞かせてくれたお礼と思い、私はセミロングにハンバーグをごちそうした。和風デミグラスハンバーグとかいう怪しげなメニューを彼女は注文し、私も彼女の意見を尊重しそれと同じメニューを頼んだ。初めて食べたが、意外にうまかった。
「ところで、質問があるのですが、いいですか」
「なんです?」
私の分のロールパンまで食べたセミロングが食後のコーヒーを啜りながら、尋ねてきた。
「そもそもなんでフェナカイトはこの国に来たんですか?」
「なんでって、え~……」
いきなり聞かれても困る。
「この国にいることはみな知っているのでしょう?」
「まあ、入国記録を見れば分かるでしょうからね」
「とにかく、フェナカイトは「死神」を止めた後、突然この国に足を運んだわけですよね。
どうしてなんでしょう」
「……」
私にとってもそれは長年の謎だった。
なぜあの魔法使いはわざわざこの国を選んだ?
偶然?
そんなことがあり得るか?
何か理由があるはずだ。
何だろう。なぜあの魔法使いは……
「そういえば、マナカというのは、日本人の留学生ではありませんでしたか?」
コーヒーを飲み終えたセミロングはふと、つぶやいた。
言われて、その事実を思い出した。
「死神」はもともと日本人留学生だった。それで、日本に?ではなぜ「死神」の出身地に行く必要がある?
「何か、マナカの生まれた場所に気がかりなことがあったのではないでしょうか?
それで……」
「……なるほど」
マナカについて調べたことなどついぞなかった。そんなのは協会が管理することだと私は最初から頭の中で線引きしてしまっていた。
どうして気づかなかったのだ。
あの「死神」を調べることはフェナカイトの秘密を知ることにつながるかもしれないということに。
「ありがとう!フェナカイトの居場所を見つけられるかもしれません!」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、ひょっとしたらかもしれませんけれど、あるいは見つかるかもしれません!」
歩むべき道に迷う人間の前に降臨した天使を見たような気分を味わいつつ、私は感謝の意を伝えた。
「ぜひ居所を教えてもらえませんか」
「えっ、突然どうしたんですか?」
「もしもの時、訪ねられればと思いまして」
「……“アドレス”でしたらお教えできますけれど、居場所までは」
「ああ……すいません。そうですね」
魔法使いが他の魔法使いに自分の隠れ家を示すのは危険だ。
私は大学の研究室という偽の居場所に関してはセミロングを案内したが、本当の隠れ家、つまり魔法の研究施設までは無論教えていない。
それは知られないようにするのが魔法使いの常識だ。
このセミロングはそのことを言いたいらしい。
思えば愚かな質問をした。少々取り乱したようだ。
「ハンバーグ、ご馳走様でした」
「いいえ、私の方こそ色々とヒントのようなものを頂けて……本当に助かりました」
「これから先大変だと思いますけれど、頑張ってください」
「ええ。やれるだけはやってみます」
私はいざという時“ネット”でセミロングと会話できるよう、彼女の“アドレス”だけ聞き、別れた。
私は“ネット”や情報屋を利用し、「死神」について可能な限り調べた。
本名、金井愛歌。
フランスにある某大学医学部在籍中、行方不明となる。
友人らしい友人はほとんどいない。
研究一筋。
ただし何の研究をしていたのかは事件を起こす以前から記録が抹消されていて不明。
家族は日本にいて、「死神」を含め、四人家族。
そして弟がいる。
弟は奇病に悩まされていたが、今は健康。
一節によれば、姉の愛歌が開発した未認証の薬を摂取したせいとか……。
「姉は弟のために研究……か?」
弟の名前は智宏というらしい。
両親と今も暮らしている。私は智宏とその両親の暮らす街へ行くことにした。
最初情報屋に聞いたときは耳を疑った。
「なんということだ」
ため息をつくほかない。つらくて涙が出る。
「参ったな」
最悪の事態はまもなく起きた。驚くべきことに、「死神」は海を渡って日本に来た。
しかも私と同じ街に向かっているらしかった。いや、当然と言えば当然か。私はフェナカイトリストを持っている。だからきっと私を追ってきたのだ。当たり前と言えば全て当たり前だ。
そして私はフェナカイトリストをできるなら手放したくない。
この宝を手放すのは本当に生死の瀬戸際になったときだけだ。
それまでは絶対に手放せない。
けれどまさか本当に、あの海を越えて「死神」……金井愛歌が現れるとは思わなかった。
参った。
しかも今度は完全に様子がおかしい。
おかしいというよりも、本性を現したと言った方がいいかもしれない。
確かに「死神」は私に牙をむいている。
けれど直接襲ってこない。
そのかわり、下僕を次々に送ってくる。
七年前ヨーロッパ中で産生されたのと同じタイプの黒き下僕を。
「はあ~」
黒い液体を全身から垂れ流すゾンビのような「愛歌の下僕」を三匹退治した後、私はため息をついた。
金井智宏はすぐに見つかった。
彼は高校生をやっていた。毎日をただ何となく送っている感じだった。
まあそれはいい。大抵の人間はあんなものだ。
自分の生に締切りがあるという事実を直視せず、毎日をただ漫然と生きる。
もっとも、そんなことはどうでもいい。
問題は金井智宏の身辺をいくら探ってもフェナカイトが見つからないということだ。
もちろん街中を探し回った。
運の悪いことにこの街に情報屋はおらず、したがって同業者関連の情報は一切なかった。
ひょっとしたらフェナカイトはそのことも計算に入れてこの街に住んでいるのかもしれない。
そう思い直し、私は我慢して街中をしらみつぶしに探し回った。
けれどこのローラー作戦は時間と手間がかかる。
そしてそうこうするうちにとうとう、「死神」が現れた。
こんなときに!そう思うとつらくて涙が出る。
いくらこっちが力を隠しても向こうは平気で私の居場所を察知する。
おそらくフェナカイトリストが出す力を感知できるのだろう。
本当に困った。
どうしよう。
どうするべきだ?
やはり手放すしかないのか?
……。
「う~む」
とりあえず手放せばいい。一旦手放すのだ。
「では誰に手放す?」
死神に?金井智宏に?
「あるいは」
捨てる?ではどこへ?
……。
落ち着け。慎重になれ。
「……あ」
そのときセミロングが脳裏に浮かんだ。
そうだ。あのセミロングに返すかもしくは預かってもらうことで、一旦手放そう。
「いやいや……それは、無理だな」
フェナカイトリストを愛歌が追ってきていると推測したのはそもそもセミロングだった。
「死神」に追われると分かっていてリストを受け取ってくれるほどあの同業者が馬鹿なはずはない。
「参った……」
困り果てた私は結局、ダメもとで、“ネット”を使いセミロングの「アドレス」にアクセスした。
預かってもらえないか、もしくは気配を悟られないような魔法を知らないか、その辺のことを相談しようと思った。
ところがこの時、話を切り出す前にセミロングから意外なことを聞かされた。
フェナカイトの居場所が分かりました――。
最初、「は?」と思った。
けれど詳しく聞いたところ、セミロングは私と同じように愛歌について調べ、私と同じように弟智宏の身辺を探っていたらしい。
「まさかこの街にいるのか」と尋ねると、セミロングは「愛歌がいる街に入るような危険な真似はしない」と否定した。
当たり前といえば当たり前のことだった。虎児を得るつもりもないのに虎穴に入る馬鹿はいない。
一通り話を聞き終えた私はフェナカイトの居場所を尋ねた。
しかし彼女は“ネット”でそれは言えないと言い、聞きたいなら直接会って口頭で伝えるしかないと告げてきた。
確かに“ネット”で言葉を発すれば情報が漏洩し同業者に知られる可能性が出て来る。ないとは言えない。
漏洩が起きれば混乱が生じる。
それに対処するのは私にしてもセミロングにしてもフェナカイトにしても恐ろしく面倒だ。
言えないのは道理だと思い、直接会って場所を聞くことにした。
このときフェナカイトリストのことは伏せておいた。
向こうも聞いてはこなかった。
フェナカイトにもうじき会える。ならば「死神」に少しくらい追い回されても、我慢しよう。
あと少しなのだ。あと少しで、身の振り方を決められる。
後日、街から私は一旦離れ、セミロングの指定した場所に訪れた。
そこは建設途中に放置されたホテルだった。
電気がないため夜は真っ暗で、ジメジメし、黴臭く、泥臭く、アンモニア臭い。
とにかく長居して気持ちのいい場所ではなかった。
それにもかかわらず猫が何匹か住み着いているらしい。
うなったり威嚇したりする声が時々聞こえた。
「お久しぶりです」
午前二時。
私はその廃墟同然のホテルでセミロングと再会した。
「こんばんは」
「こんな所を指定してしまって、どうもすいませんでした」
「いいえ。気にしないでください。ここなら確かに、誰に見つかる心配もなさそうです」
「ええ。そう言えば聞きませんでしたが、「手首」はどうなさったんですか」
セミロングは眉を顰めて尋ねてきた。持っていると言えば、怒るだろうか。
「もしかして、今、持っていらっしゃるのですか?」
「警戒する気持ちはよく分かります。けれど心配はありません。万一愛歌が現れたら私がオトリになります。あなたは全力で逃げてください。愛歌が操る化け物たちならたとえ追いかけてきたとしても、あなたなら造作ないでしょう。とにかく狙いは「手首」を持つ私です。心配いりません」
「……わかりました。それじゃ」
セミロングは眉間にしわを寄せつつ、懐中電灯の光を一旦消して、懐に手を入れる。
パンッ!
「?」
ふと、視界が振動する。
何が起きたのか分か……らず、懐中電灯で前……方を照らす。
小さく煙が上がっている。
煙……は小……さな穴か……ら出ている。
穴は、セミロングの手が握る黒……光りの筒から、出てい……る。
銃……?
ドサッ。
からだ……いた……い……
あ、たまあ……な、あな?
あく……いて……
「ご苦労様でした。リストは返してもらいますね」
どうい……う、こと……
「これであなたはもう用済みです。お疲れ様でした」
まて……まっ……て……
「おやすみなさい」
カチャ。
バババパパパパパパンッ!!!
あく、ま……め。
(続)