1話:異世界への落下
夕日に照らされた舗装路に、一人の少年が歩いていた。
やや幼さの残る顔立ちだが、何やら神妙な面持ちで考え事をしている。
その少年の名は三島聡哉。聡哉は今、通っている中学校から帰宅している最中だった。しかし、彼が考えていたのは学校の事ではない。
今日は、半年ほど前に息を引き取った母の誕生日だったのだ。
聡哉の父は一年ほど前に交通事故で亡くなっている。母は元より病弱で、余命もおそらくあと一年前後だろうと既に告げられていた。
それでもその宣告をされたのは母が亡くなる数ヶ月前のこと。きっと今年の誕生日までは生きていてくれるだろう。
そう思っていた最中、突如訪れた母の死は、既に父を失い悲しみに暮れていた聡哉の心を粉々に砕け散らせ、絶望に追いやるには十分すぎる衝撃だった。
しかし、聡哉の心はその衝撃に耐えきった。彼がなんとか希望を繋げたのは、最後に残された唯一の家族である姉が自分の心の支えになってくれたからに他ならない。
聡哉は歩みを進めつつ、過去の日々へ思いを馳せてゆく。
両親の残してくれた遺産は、当面は暮らしの心配をしなくてもいい程の額だった。そのため、肉体的な健康を気にする必要はあまりない。むしろ気にかけるべきは、精神面の健康だった。
中学生の少年が、この若さで両親を失ったのである。彼自身、死のうと思ったことは一度や二度ではない。そんな時、いつも聡哉を救ってくれたのが姉だった。
決して自分の前で愚痴や泣き言を吐かず、いつも明るく振る舞い、自分を勇気づけてくれた姉。そのまばゆい笑顔に何度生きる気力をもらったことか。聡哉にとって、姉は太陽にも等しい存在だった。
そんな姉も、やはり今日は少なからず落ち込んでいるらしい。
本来なら、今日は母を少しでも喜ばせるために盛大な誕生会を開くはずだった日だ。母の死を思い出さずにはいられないだろう。もはや言葉に出さずとも、姉も聡哉も互いの悲しみは容易に察しがつく。
それでも姉は、今朝も明るい笑顔で自分を見送ってくれた。その笑顔を見るだけで、聡哉の抉られた傷は再び癒えてゆく。彼は心の底から感謝しながらも、姉に辛い思いをさせてしまっていることを申し訳なく思っていた。
昔から、姉には迷惑ばかりかけている。いつか、自分も姉を支えられるようにならなければ。そんな考えに至ったとき、既に自宅は目の前にあった。
「ただいまー」
玄関を開ける。いつもなら、姉が明るい笑顔で出迎えてくれるところだ。しかし、今日はまだ姉が帰宅していないらしく、誰の姿も見えない。
ひとまずリビングに入る。かつて、両親が生きていた頃には、テーブルの上や床などに常に何か物が散らかっており、よく母に叱られたものだが、今は片づけなければならない物などどこにも見当たらなかった。母がこのリビングを見たら、果たしてどう思うのだろうか。
部屋を見回すが、やはり姉の姿はなかった。
姉が居なくてはすることもない。退屈しのぎに、聡哉はテレビを点ける。
『次のニュースです。中学生の少年が一人失踪した事件について、専門家はここ数年の間に急増している行方不明者との共通点を……』
流れて来るニュースも面白いものではない。仕方なく、聡哉は最近読んでいる本を手に取り、読書を始めた。本を読むのはあまり好きではないが、ニュースとCMを延々眺めているよりはマシだ。
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聡哉が本を読み終えた頃には、すでに窓の外は真っ暗だった。しかし、未だに姉は帰って来ない。
流石にこんな時間まで帰ってこないのはおかしい。姉に何かあったのだろうか。
不安になって玄関に向かった聡哉は、あることに気づいた。
姉の靴が、すべて揃っている。つまり、姉は外に居るのではなく、この家に居るはずなのだ。
心臓が早鐘を打つ。どうして帰ってきた時に気づけなかったのか。自責の念を抱きながら、聡哉は階段を駆け上がる。
二階にある、姉の部屋の前に立つ。ドアは閉まっていた。
「姉さん!? 居ないの!?」
ドアを激しくノックしながら、聡哉は問いかける。返事はない。ドアを開け、部屋に入る。
その時、聡哉は言い知れぬ不安感に襲われた。姉が居なかったから、という訳ではない。理由は分からないが、この部屋に入ったとき、周囲の温度が一気に下がったかのような錯覚を覚えたのだ。
聡哉の目にまず飛び込んできたのは、美しく輝く満月だった。ドアを開けるとちょうど窓が見えるようになっており、部屋全体の清楚な雰囲気も相まって、まるでおとぎ話のワンシーンのような光景だ。きっと姉がこの景色を絵に描いたら、さぞや良い絵になることだろう。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。聡哉は部屋を調べるが、手掛かりになりそうなものは見つからない。ドアを閉め、壁や床まで徹底的に調べ上げるが、やはり何も見つからなかった。
携帯電話は見つからなかったが、そうなるとどこかに外出しているのだろうか。しかし、姉が靴を履き間違えるとは思えない。
ひとまず姉に電話をかけようと思い、聡哉はドアを開け、廊下に出た。
――はずだった。
ドアを開け、一歩踏み出した聡哉は、何故かそのまま足を踏み外し、真っ逆さまに落ちていた。
突然の出来事で頭が真っ白になっていた聡哉が、ようやくほんの僅かな理性を取り戻す。周りを見回すが、何も見えない。わかったのは、この完全な暗闇の中、ただ自分が落ちているということだけだった。
この途方もなく非現実的な現実を理解しようと、聡哉は必死で頭を働かせる。すると、不意に目の前に一筋の光が見えた。
その光は瞬く間に大きくなり、聡哉を包み込む。目がくらみ、意識がもうろうとする。
明滅する視界の中、聡哉はその光の中心に、確かに姉の姿を見た。
「ね、姉さん!? くっ、今、そこに……!」
聡哉が精一杯伸ばした手は、むなしく空を切った。姉の姿がぼやけていく。聡哉は尚も姉に手を伸ばすが、どれだけもがいても聡哉の手は姉に届かない。
自分の力が足りなかったのだろうか。自分にもっと力があれば、姉に手が届いたのだろうか。消えゆく意識の中で、彼はただ、己の非力を悔やんだ。
そして、ついに姉の姿が完全に掻き消えたと同時に、聡哉の意識は完全にブラックアウトした。
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